赤の食卓
エビが好きな人はエビが食べられなくなる可能性がある描写があります。腐肉食動物という言葉でなんとなく予想がつく場合は閲覧をご遠慮ください。
「こちらの食事には手を付けないように」
淡い色のシャツにネイビーのエプロン。料理好きなセレブ──とでもいうような出で立ちの、銀髪の青年が声をかけてくる。
分かった、と応じてコウは青年の手元を見た。その手には美味しそうで大きなロブスターが乗った皿。オーブンで焼いたのだろうなとコウはその香ばしい香りに期待を高めてしまう。ついて早々豪華なもてなしだ。
「ルー、重くないか、それ。手伝うぞ」
「お気遣いなく。着いて早々のお疲れの人にそんなことはさせませんよ。旅路はどうでした?」
「特に問題なかった。いつもどおりだな」
「それは何より」
殻が赤く色づいたロブスターのグリルはかけられたチーズが程よく焦げていて、熱々のチーズがぷつぷつと音を立てて弾けていた。
テーブルの上のブルーグリーンのガラスボウルには新鮮な野菜と茹でたロブスターがゴロゴロと入ったサラダ。その前にロブスターのグリルをおいて、ルーは厚手のミトンを外す。ミトンを外してから、すでに席について食事をしていたシレーヌに声をかけた。
「あまり急いで食べることもないですよ」
先に席についていた女性、シレーヌがうなずく。その小さな口でむぐむぐと食べているのはロブスターロールだ。溢れんばかりにソースもロブスターも挟んであるから、シレーヌが齧り付くたびに今にも零れ落ちそうだった。
美味そうなもの食べてるなあ、と笑ったコウに「君のはこっち」とルーが別の皿を取り出してくる。
「こっちは僕らのです。君のはこっち」
「ルー、これ全部お前が作ったのか?」
「ええ。いい気分転換になりましたよ」
ひどく冷めるのが嫌だったので先に食べさせてしまったんですが、とシレーヌを見たルーに「全然構わない」とコウは首を振った。温かいほうが美味しいものは温かいうちに食べるのが良いだろうし、そもそもロブスターを調理したのはルーだ。感謝こそすれ文句などは出てこない。
「僕らのと君のとで少しメニューは違いますが、詳しい理由については後で話します。今ここで簡潔に言うなら〝取り違えないため〟です。もし僕らの食べているものが食べたかった場合、後で必ず作ります。ですから、今出ているものに関しては絶対に口にしないように」
絶対に、と念を押したルーの側ではシレーヌが美味しそうにサラダを食べている。グリルには全く目を向けていないようだったが、これはシレーヌが猫舌だからだろうか。彼女の好物がサーモンなのは知っていたが、もしかするとロブスターなんかも好きなのかもしれないな、とコウはシレーヌを眺める。どう見ても美味しそうに食事をしている。しかし、それにしてはルーの発言は端々に引っかかりがあった。
「危険なものでも食べてるのか?」
「危険性は全くありませんよ。正しくさばきましたから。とはいえ気にする方は気にしますからね。それだけのことです。さ、どうぞ」
コウの前に置かれたのはロブスターのステーキ、ロブスターが入ったスープ、それからロブスターは入っていないサラダ。君はライスが好きでしょう、とコウの前にもう一つロブスターピラフの入った器をおいて、ルーはシレーヌの隣の席へついた。テーブルの上は料理でいっぱいだ。どこを見てもロブスターの赤がある。
「ものすごいご馳走って感じだな。ロブスターの大群がそのへんを歩きでもしたのか」
「面白いことをおっしゃいますね、元海洋生物研究者さん。この甲殻類は普段は海底にいるのではありませんでしたか」
「だよな。だからよく分からないんだよ。こんなにロブスターだらけの食卓ってそうそうお目にかかれないだろ」
「シレーヌが取ってきたんですよ」
「ああ、そういう……」
目の前が海だしな、とコウは納得した。
〝仕事〟のためにシレーヌとルーの二人が滞在しているコテージ。リゾート地に建っているだけあってオシャレな外観だ。白い壁に煉瓦のオレンジ、どこで写真をとっても旅行雑誌の表紙になりそうな塩梅で。
目の前にプライベートビーチが広がるコテージをシレーヌは気に入ったらしい。
コウの携帯端末には、数日前から仕事の進捗とともにビーチベッドに転がってドリンクを飲むシレーヌの写真や、砂浜を歩くシレーヌの写真なんかがルーから送られてきていた。少しでも気分転換になっているならいいか、とコウはスープを飲む。ロブスターの味が濃くて美味しかった。ルーが用意したのだろうか、派手なエメラルド色のスープボウルは赤みの強いオレンジ色のスープにもよく合って、リゾート気分を盛り上げる。
テーブルにつく者たちの行儀がいいのを知っているからだろう、真っ白いテーブルクロスがかけられていた。ガラスの器はどれもカラフルなもので、青や緑色で統一されている。海を思わせる色だ。
ランチョンマットは3人それぞれ別の色だが、そのどれもがプロヴァンス風のデザインがされていて美しい。テーブルには赤い花瓶に収められた黄色い花。白いテーブルに散らばる色とりどりの原色は普段ならやりすぎなのかもしれないが、海辺のリゾートなら話は別だ。
テーブルウェアにまで存分に気を配るところがルーらしく、コウは感嘆のため息をつく。
「旅行してる気分になっちまうな、天気もいいし」
「結構なことですよ。ゆっくりくつろいでいけばいい。わざわざ君までこっちに寄越さずとも良かったのに」
「結構手こずってるって聞いたぞ」
「手段を選ぶとそうなるんですよ。選ばなければどうとでも。とはいえほとんど片付きました」
いっそもうちょっと引きずって、休暇気分を満喫してから帰りましょうか、と笑うルーは白ワインを飲んで上機嫌だ。シレーヌが口にしていなかったグリルを切り分けて、「もうそろそろ食べても熱くないと思うよ」とシレーヌに差し出している。甲斐甲斐しいがいつもの光景だ。ありがとうとシレーヌも微笑みを見せた。
「仕事の話をしてもいいか? あんまり馴染みがないタイプの話だったからさ」
「内容の確認かな。僕もシレーヌも気にしませんから、したいぶんだけどうぞ」
ルーがグリルを一口食べる。求めていた出来だったのだろう。満足そうにうなずいてコウヘちらりと目線をよこした。話してくれ、の合図だ。
「赤帽子……レッドキャップだよな、今回の〝怪異〟は。こんなところにも出るのか?」
コウの疑問にルーはええ、と頷いた。
「元々、凄惨な殺しの場や流血沙汰のあった場には出ると言われている〝怪異〟ですからね。このあたりは海上戦があったとも聞いていますし、〝怪異〟が存在できる条件としても無理はない」
「へえ……。廃墟とかに出るって話は? 元々はイギリスの悪い妖精だろ。こんな陽気な海沿いに出てくるってのが正直いまだにピンとこない」
「海上戦云々で沈んだ船が廃墟の役目を果たすのではないですか。現に襲われた民間人の大半がダイバーで、海中で襲われています。──君たちだって国境を超えてあちこちへ渡り歩くんです、人間が出来るなら妖精もしますよ。泳いで渡ってきたのかもしれないし」
海に潜るなんていうのは理解できませんがね。そう肩をすくめながら話すルーが水場を嫌っているのを思い出し、ダイビングって結構面白いけどな、とコウは苦笑いした。
「まあでも、船が沈んでるなら納得だな」
「何が?」
「ロブスター」
これ本当に美味いよ、とコウはルーを褒めた。バターソースがかけられているロブスターのステーキは、火が通り過ぎるということもなくちょうどいい塩梅だ。噛みしめればぷりぷりと繊維が弾け、ロブスターの甘みと風味が口いっぱいに広がる。バターのコクがどこか淡白なロブスターの味わいにぴたりとはまって、いい調和を生み出していた。スパイスもちょうどいい。味付けが濃いものを好むコウのためにルーが工夫したのだろう。
ルーは少し照れくさそうに笑って、「作ったかいがありますね」と白ワインをひとくち。
「それで、どうしてロブスターがいるのに納得するんです?」
「船が沈んでるとそこに生き物が集まるんだよ。エビとかの甲殻類ならそこに隠れて捕食者の目から逃れたりもできるだろ。魚もたくさん住んでるだろうし、餌にも事欠かない」
「なるほどねえ。……それはちょうどいい」
「その船には魚介類の他にもレッドキャップが潜んでいるってオチになりそうだが。……シレーヌ、これ取ってきたときに出くわしたりしなかったか。大丈夫だったか?」
心配したコウにシレーヌはこくこくとうなずいた。食べていたサラダを急いで飲み込もうとしたシレーヌに「ゆっくりでいい」と笑う。口の中にものが入っているときはルーもシレーヌも絶対に喋らないから、コウはシレーヌがサラダを飲み込むまで返事を待った。
「ええと、怪我などはしませんでした。お気遣いありがとうございます」
「ってことは出くわした?」
シレーヌは頷く。心配そうな顔つきになったコウに「大丈夫ですよ」とシレーヌは微笑み、ルーも頷いた。
水の中で彼女に勝る〝怪異〟はそうはいませんよ、とルーは笑い「見事なものでした」と真顔になる。
「一度に六匹も捕まえてくるなんて。おかげでさばくのに難儀しましたよ」
「レッドキャップの話だよな?」
「……ええ、もちろん」
ルーが妙な間をもたせたことにコウは気付いたが、何となく指摘するのをやめておいた。必要なことならきちんと説明するのがルーだからだ。
「シレーヌが相手を捕まえてきてどうこうってのは珍しい気もするけど、そうなるとやっぱり……。手こずったって聞いてたのは本当だったんだな」
普段なら説得して終わらせるのに、とコウはシレーヌを見る。〝怪異〟に対するシレーヌの説得を何回も見たことがあるコウとしては、シレーヌが〝怪異〟を捕まえてきたというのを珍しく思ってしまう。
ルーは〝怪異〟に対して物理的な解決法を採用しがちで、いわゆる暴力での解決になることも少なくはなかった。
ところが、ルーと双子であるシレーヌはそういった手段は避ける傾向にある。話してお互いの落とし所を見つけるのがシレーヌの〝解決法〟らしかった。同じ双子でも違うところはあるんだなと妙に感心したのをコウはよく覚えている。
シレーヌの優雅な指先は金色のフォークにかかったまま、普段は温厚な彼女が悩ましげに眉を寄せた。
「ええ。話を聞いてくれず、話してもいただけず。ゆえに解決法も導き出せず。わたしも最初は話し合いで解決しようとしたのです。少なくとも、出会い頭のダイバーを斬りつけるなという方向で説得を試みたのですが……無理でした。人を襲うのがレッドキャップなのだとおっしゃって」
難しい顔をしながらシレーヌはロブスターのグリルを口に運んだ。モグモグと咀嚼して飲み込む。一つの料理に付き一匹のロブスター、というような量の多さだが、ルーもシレーヌも着々と量を減らしている。これを全部シレーヌがとってきたというのだから驚きだ。
シレーヌがロブスターを九匹持って歩いているところを想像して、コウは半笑いしてしまった。それをキッチンで黙々と捌くルーもなかなかシュールな気がする。
「沈んだ船には六匹のレッドキャップがいました。みな血に飢えていて……。例えばここの海はダイバーに有名なダイビングスポットなのですが」
あなたのおっしゃるとおりに沈んた船に魚がたくさん住み着いていました、とシレーヌはコウを見る。
「ここしばらく、ダイバーが怪我をする〝事故〟が相次いでいるのです。指や体の一部を傷つけられたり、あるいは落とされたりというような〝事故〟。最初はサメの仕業だろうと思われていたようなのですけれど」
「サメか」
「〝海の中で流血沙汰になるような襲われ方〟をしたのであれば、それは大型の肉食魚の仕業──つまり〝サメの仕業〟という解釈をされるのも不思議でありません。けれど──」
サメは切りつけたりしないものです、とシレーヌの言葉をルーが引き取る。シレーヌはゆっくりうなずいてロブスターロールの最後のひとくちを口に収めた。
「サメのことなら研究者として彼らを調べていた君のほうが僕らより詳しいでしょう。けれど、君ほどサメに詳しくなくとも〝切りつけられて落とされた指〟と〝食いちぎられてなくした指〟の違いくらいはわかる」
「切りつけられて……ああ、レッドキャップだからか。斧とかで人を襲うんだったよな」
「ええ。彼らは何らかの刃物、武器を持って人を襲います。武器による怪我は傷口を見ればすぐ分かるものでしょう。地元住民たちはダイバーが病院に搬送されるのを見ただけですから〝サメの仕業だ〟と解釈したようですが、実際に治療する医者には奇妙なことに見えたようですね」
サメの仕業とは明らかに違うのですから、とルーがため息をつく。
「〝サメの仕業ではない〟、だが〝明らかに水中で襲われた〟。そして〝何かで体の一部を切り落とされた〟。状況の不可解さからおそらく〝怪異〟だろう、という話になって──シレーヌが呼ばれました」
〝怪異〟の存在が疑われる海の中を無事に調査できるとしたら確かにシレーヌしか適任がいないな、とコウは納得した。なにしろ現存する〝怪異〟のひとつであり、海につきものの〝人魚〟だからだ。普段はこうして人の姿をとって尾びれの代わりに足を生やしているものの、彼女はいつでも本来の姿に戻ることができる。
「全く卑怯ですよ。僕らが……シレーヌが行かなかったら〝海洋生物研究者〟だった君を調査に行かせるというんですから。君が海洋生物に詳しかろうが、ダイビングの免許をもっていようが、僕ら〝怪異〟の管理者だろうが。生身の人間をそんな危険な場所にわざわざ派遣する神経が分からない。あれは僕らに対する脅しでした」
「……それはなんというか……。申し訳ない」
「君が謝ることじゃない。そんな場所に人間を泳がせるな、派遣するな、解決させようとするな、という話です」
「危険だよなあ。サメ一匹ならまだどうにかなるかもしれないが。レッドキャップ六匹はズタズタになる未来しか見えないな」
「君ねえ……。そういう甘い態度だから上にいいように使われるんです。サメ一匹でも君は断るべきですよ。そもそも海でのこんなことは生身の人間にやらせる仕事じゃない。君たち人間は陸で暮らす生き物なんだから」
至極もっともなことで怒るルーに「お前って優しいよな」とコウが呟けば「倫理観が真っ当なだけです」とルーは心底呆れた顔でコウを見る。
「これを優しいと言うなら、君が生きてきたこれまでを僕は疑ってしまうね。不当な扱い方をされたなら怒りなさい。殴られたなら殴り返せ。奪われたら奪い返せ。それで良いんですよ」
いつの間にか皿にあったものをすべて平らげていたルーは、食べ終えた皿をさっさと片付けていく。「皿洗いは俺がやるから洗わなくていいぞ」と声をかけたコウに「それでは、お言葉に甘えて」とルーは小さく笑った。流石に今日は色々と作ってしまったから、と肩をすくめる。疲れているのだろうなとコウは察した。自分だけで食べる料理はともかく、人に出す料理を作るというのは神経を使うものだから。
「僕らは君のそういうところが好きですよ。対等に、誠実にあろうとしてくれる。今日、この場において君はゲストです。それなのに──移動で疲れているのに皿洗いを申し出てくれる。僕が皿洗いを面倒に思っているのを知っているからでしょう?」
料理を作ってもらったからこれくらいは、と考えての行動ですよね、とルーはコウをみた。真っ直ぐな眼差しはどこか優しげだ。普段の冷たい表情よりもずっと親しみやすい。
「君は誠実です。だから僕らも誠実を返します。誠実な君が不誠実な目にあっているなら、僕もシレーヌも怒ります。それだけの話です」
「確かに作ってもらったから……って、そう考えたけどさ。……そんな大袈裟なもんか? 当たり前だろ、これくらいはさ」
シレーヌがロブスターをとってきて、ルーが料理を作ったなら片付けは俺だろ。と首を傾げたコウに「それを自然に出来るのがあなたのすてきなところです」とシレーヌが美しく笑う。
シレーヌも出されたものは食べ終わっていて、グラスに入ったジュースを飲んでいるところだった。馴染みのあるこの甘い香りは、シレーヌが好む桃のジュースだろう。ルーのように酒を好まない代わりに果実飲料を好むのがシレーヌだった。
「そんなふうに言われることってなかなかないから慣れないな」
お前たちに言われると照れくさいよ、とコウははにかむ。普通ならぼかして伝えるようなことも、ルーやシレーヌは真っ直ぐ伝えてくる。嬉しいことだが、なれていないコウにとっては同時に照れくさくもなるのだった。
ふふ、とシレーヌもルーも笑う。こういったときの微笑みは双子らしく、そっくりだ。
「──じゃあ、僕もシレーヌも〝食べた〟ことだし。君とメニューを違えた理由を話しましょうか。シレーヌ、もう話しても大丈夫?」
「ええ。もう大丈夫。〝食べ物〟は〝食べられてこそ〟ですから。食べられてしまえば、食べ物であることは覆せませんもの」
「君がそう言うなら安心だね」
ルーは落ち着き払って食後の珈琲を嗜んでいた。シレーヌはにこにことしている。やっぱりなにかあったんだな、そしてこれはいわば〝答え合わせ〟のようなものなんだな──とコウは察して、思わず手元の料理の数々を見てしまう。美味しさのあまりいつの間にかピラフは食べきっていたし、スープもサラダもとっくになくなっている。ステーキだけがあと数切れ残って、鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てていた。
***
いつの間にか日はもう落ちていて、あたりは薄紅の空気に満ちている。星がポツポツと浮いてきた空を見上げ、ルーがテーブルの上のキャンドルに火をともした。ぼんやりとした光がどこか落ち着く。デザートのネーブルとピーチのゼリーを食べながら、コウはシレーヌの話に耳を傾けていた。
グラスに収まったオレンジのような、ピンク色のような、甘い色のゼリーをキャンドルの光が宝石のようにきらめかせている。
「不思議を適切に思議したのなら、それは不思議ではなくなります」
純然たる自然現象に不可視の存在を見てしまうのが人間という生き物です、とシレーヌはいう。シレーヌがこう語るのをコウは幾度となく耳にしていた。
シレーヌいわく、〝怪異〟とは人が生み出したものだという。極めて物理的な〝現象〟をロマンチックに再解釈したものが〝怪異〟である、と。
薄紅色の空気はあっという間に夜の色に塗り替わってしまった。静かな波音とシレーヌの話す声が混じって、海が喋っているような感覚に陥る。やわらかく、落ち着いた声はキャンドルの灯りに似合いのものだ。
「本来、暗闇には何もいません。海に人魚はいませんし、月に吠えるのは人狼ではありません」
夜道に音があったとしても、それは何らかの自然的なものでしょう、とシレーヌはいう。木々のざわめき、川のせせらぎ、あるいは知らずのうち蹴飛ばしてしまった石のはねる音。船が沈むのは操舵者や環境由来の不幸が重なったものであり、人魚が人を惑わせたわけではない、と。もちろん月に吠えているのは狼であり人ではないとシレーヌは言い添えた。
怪異を適切に〝解析〟して〝分解〟してしまえば、そこにあるのはありふれた〝現象〟だけで、怪異の潜む余地はないのだとシレーヌが語るのをコウは聞いていた。
怪異であるシレーヌが自分の存在そのものを否定するようなことを言うのはこれが初めてというわけではないが、毎回妙な気持ちになる。本当に〝怪異〟というものがいなかったとして、それならば今コウの目の前で話しているこの生き物は一体何だというのか、と。
「けれど、人は暗闇の恐怖に怪異を見出しました。船が難破するのは人魚のせいであると〝発見〟し、月に吠えて人を襲うのは人狼だと〝発見〟してしまいました」
これはある種の発明です、とシレーヌは微笑む。
「真の意味で理解のできない未知。これは人の精神を苛みます。未知には〝対応策〟がありません。『全くの未知』、これの中身が何なのか知らなければ対策は立てられません。対応策がないというのは、途方も無い不安です。真っ暗な夜、ランタンもなしに歩くようなもの。手も目も届かぬ自分の背を、どうやって守るというのでしょう?」
だからこそ発見したのです、と青い瞳の人魚は笑う。その瞳をぼんやりと、キャンドルの灯りが照らしていた。
「〝それが何なのか〟。これが分かれば対策も立てられようというもの。人はやっとランタンを手にしました。解釈という名の灯りです。それが背を照らすことはなくとも。──恐怖を払拭するという過程において、その対策の正誤はさほど重要ではありません。問題は、〝対応策があるかどうか〟、そしてこれを〝成したかどうか〟」
その〝対応策〟が実際には間違っていたとしても、その行動を取るだけで恐怖は和らぐものなのです、とシレーヌは言う。
「精神的な安らぎのため、全く効かない薬を手にする人を見たことはありませんか? 現代的な言いかたをするのなら、わたしの言いたいことはほぼこれに当てはまります」
レッドキャップもそうです、とシレーヌは物憂げにまつ毛を伏せた。長いまつげは揺れるキャンドルの灯りをうけて、その先がきらきらと星のように光っている。
「おそらくは……彼らの〝発端〟は、山賊や野盗の類であったはず。武器を持ち襲ってくるというのはそういうことでしょう。廃墟に潜むのも、凄惨な殺しの現場にいるのも、そういった者が潜むのに都合が良いからです」
「ああ、そうか。戦場になった場所とか廃墟とか、普通なら近づきたくないもんな。脛に傷がある奴らはそういうところに隠れてたのか」
適切に解釈し、分解したのならそうであるはずです、とシレーヌはうなずいた。
「けれど、レッドキャップは生まれました。では、どんな恐怖が人々にレッドキャップを生み出させたのでしょう? 何が怖かったのでしょう」
シレーヌは一旦言葉を切った。ルーは目を伏せてその話を聞いている。シレーヌが話しているとき、ルーは大抵こうしてシレーヌの声に耳を澄ませていた。考え方は違ったとしても、シレーヌが話し終わるまでは聞くのがルーだ。だからこそシレーヌも適当なところでこうして言葉を切っている。お互いに〝話せる〟ように。
「──〝理由なく襲われる〟こと。それそのものが恐怖です。その恐怖への〝解釈〟が欲しくて生まれたのがレッドキャップではないかとわたしは考えました」
ルーが何も口にしないのを見てとり、シレーヌは続きを話し出す。
人間が相手なら、言葉が通じてほしいと思うものでしょうと珊瑚の色をした唇が柔らかく動いた。
「襲ってくる相手には道理も言葉も通じません。説得も無駄です。相手はあなたを襲いたいと思って襲ってきているのですから。既に確定した行動理由を捻じ曲げるのは大変難しいことです。成せないことです。けれどそれはあまりに怖い現実です。──相手が人間ではなく、獣であればまだ〝理由なく襲われること〟に諦めもつきましょう。お互いに違う尺度で生きているのですから。けれど、襲ってくるのが同じ人間というのは──見たくない現実で、現象です。ですから、〝言葉も道理も通じない〟という理由の証明のために、悪い妖精、という解釈をしたのです。妖精相手なら〝人間の道理も言葉も通じない〟と言われても信じる他ありませんもの」
想像できたものはいずれ創造されます、と話すシレーヌの銀髪を潮風が絡めて吹き抜けていく。月明かりに照らされてきらきらと光る髪は、人のものとは思えないほど美しかった。きらめく魚の鱗のような、みずみずしい輝きだ。煩わしいとでも言うように細い指が舞う髪をおさえる。それすらどこか現実離れした綺麗さがあり、コウは一瞬何もかもを忘れた。
こういうときにシレーヌやルーが〝怪異〟であることをコウは強く感じてしまう。こんな風に絶対的に美しく在ることなど、人にはできないのだから。
「かくして、あなた方人間の想像力はレッドキャップという〝怪異〟を創造してしまった。暗闇に見た幻影は、人の想像力というランタンの灯りを元に実体を得てしまったのです」
キャンドルのぼんやりした光は、シレーヌの顔の輪郭と夜の闇との境界線を曖昧にしていた。ちらちらと揺れる火が白い顔をやわらかに浮かび上がらせている。
遠回しかつ芝居がかった口調だが、シレーヌがこうして話すのをコウは気に入っていた。理解するのに時間はかかるが、この芝居めいた話し方は浮世離れしたこのいきものにぴったりだと思っていたからだ。
話の内容を頭の中でコウが反芻するのを感じ取ったのだろう。ルーがさらりとまとめを口にする。
「ほかの〝怪異〟にも言えることですよ。かなり強烈な思い込みと言っても良いのかな。実態の状態に関わらず、解釈だけが強烈に作用するというような、そういう状態」
君が見ている僕達だってそういうものですよ、とルーがシレーヌそっくりの顔で笑った。もしかしたら、ただの人間かもしれないでしょう、と人離れした美貌が耳に心地よい声で話す。
「人とは思えないような……人離れした点が僕らにあったとするでしょう? それを〝どうしてなのか〟と考察し、理由を創造したとき。君はそれを根拠として、僕らを〝怪異〟だと解釈しているかもしれない、ということですよ。このとき、内容の真偽は問われません。君がみたものが君にとっての〝真実〟なのですから」
「そういう……そういうことか。先入観とかで相手の中身を決めつけてしまうってこと……だよな?」
「早い話がそうですね。そして僕ら〝怪異〟はそれを利用して存在している」
〝解釈〟は〝真実〟ではないんですよ、とルーはいう。解釈によって成り立つのは物事の外側だけなのだと。そしてその外側を自由に形作り、〝真実〟だと錯覚させるのが怪異であるのだと。
「とはいえ、〝解釈〟だけでいかようにも存在を形作れるということは、それを逆手に取れば〝観測者〟……つまりは解釈する側のほうで好きなように塗り替えられるのが〝怪異〟の哀れなところでもあります」
それがあるからこそシレーヌが対処できるわけですが、とルーはコーヒーを口にした。
「前置きは長くなりましたが、まずはそういう理屈であると理解していただけたらと思います」
ここまで大丈夫でしょうか、とシレーヌは海を閉じ込めた瞳でコウの目を真っ直ぐに見る。
「思い込みのせいで〝無い〟ものでも〝在る〟ように見えるって話で大丈夫か?」
「君は話が早くて助かりますね」
それです、とルーがうなずく。シレーヌもニコニコしていたから問題ないのだろう。
レッドキャップか、とコウは天を仰いだ。これだけ月の明るく気分の良くなる夜だというのに、海に潜ったらそんなものがいるのだという。信じたくない気持ちは確かにあるし、そんなものに出くわしたくはないという気持ちも大きかった。そしてそれこそが〝恐怖〟なのだと思い出す。
「シレーヌ、お前は〝ある〟ことを〝ない〟ことにするんだよな、確か」
「ええ。そういったことも可能です」
「……ってことは、レッドキャップを〝なかったことにした〟んだよな?」
「この場所においてのレッドキャップという意味でしたら、確かにそうしました」
説得は無理だったって言ってたもんな、と確認したコウにシレーヌはうなずく。温情なんか見せるからここまで長引いたんですよ、とシレーヌをちらりと見たルーだが、ルーに任せたら早々に八つ裂きのレッドキャップがぷかぷかと海に浮いていたに違いない。
存在そのものの在り方を覆すシレーヌと物理的に存在を消してしまうルーと、どちらがマシなのだろうか。コウにも幾度も考える機会はあったが、未だに答えは出せていない。出せるものでもないのかもしれない。
「ただ──少し語弊があるかもしれません。完全な意味で〝なかったこと〟にはしていないのです。わたしがするのは〝再解釈〟。流石に存在をなかったことにする……この世から全て消す、は色々と都合が悪いので」
「都合が悪い?」
首を傾げたコウにルーが頷く。
「コウ、君は前に僕達に〝ある種の生き物が完全に消えたら、生態系が壊れる〟と話していたでしょう。あれに近いです」
「ああ、なるほど。怪異にもそういうのがあるのか」
「ええ。あるんですよ。君たちの言う〝外来種の侵略〟のようなことを引き起こすこともあります。今回はそれにも近かったのかな」
君が言ったとおり、そもそも海にレッドキャップはいないものなんですよ、とルーはため息をつく。今回は本当に複雑でしたと続けた。
「普段そこにいないはずのものが増え続けた場合、後々厄介なことになるのはご存知でしょう? その環境だけに生きるものを後からやってきた生き物が食い荒らした結果、環境が壊れて本来の状態を維持できなくなる、というやつですよ。これは僕ら怪異にとっても人間にとっても良くないですね。特にここはダイバーも数多くいますから、レッドキャップはすぐに〝定着〟してしまう。この場所への〝解釈〟が塗り替わってしまう。居心地のいいリゾート地から、不可思議現象の起こる不気味な海へと変わってしまう」
目撃者が多くなればなるほど、〝概念〟として存在する〝怪異〟は存在基盤を強固にします──とルーは話した。そしてそれが〝定着〟なのだと。
一人二人が「化け物に襲われた」と言うくらいであれば周りも笑い飛ばすかもしれないが、それが十人、二十人になってくると信憑性が増してきてしまうのだと。その結果、本来いるはずのない〝怪異〟が定着してしまい、面倒なことになるのだそうだ。
「影響は場所だけにはとどまりません」
イギリスの人気のない廃墟で存在してきたはずの悪い妖精が、リゾート地の沈没船に現れるとなれば──それは〝レッドキャップ〟そのものへの解釈も変わってくるだろう。それによってこの地に元々あったはずの伝承や何もかもの〝解釈〟が塗り替わってしまった場合、もう元の状態には戻らないとシレーヌはいう。
「レッドキャップが〝レッドキャップ〟でなくなる可能性だってあります。海の中では血染めの帽子なんて存在できませんもの」
「赤帽子ってのはそうか、血で染まった帽子ってことだったな。……そうなるとどうなるんだ?」
「どう〝成る〟のか、誰にもわかりません。全く新しい怪異として存在を改めるのか、それとも未定義の〝何か〟として存在するのか。後者である場合は誰かが〝怪異〟としての解釈をしなければ未定義のまま、ただ〝恐怖〟の現象だけを抱いて海に潜むこととなるでしょう」
定義されていない恐怖は〝対応〟ができません、とシレーヌはコウをみる。さっきの話に戻るわけか、とコウはうなずいた。恐怖に対応すべく〝怪異〟という解釈が生まれたのだとシレーヌが先程話していた。
怪異としての解釈が定まらない、つまりそれは、打つ手なしに人間が不可思議な現象の犠牲になるということなのだろう。
「複雑だなあ」
「いちばん簡単なのはレッドキャップという概念そのものをこの世から完全に消すことですが、それはバランスから見ても難しいのです。この海のレッドキャップだけでなく、本来の……イギリスなどの廃墟で人を襲う悪い妖精まで消えてしまいますから」
かといって今この海にいるものだけを全て消滅させたとしても、とシレーヌは難しそうな顔をする。
「一度〝怪異〟が入り込んだところに別の怪異が入り込まないとも限りません。『何か不思議なことは起こったが、レッドキャップの仕業ではないらしい』……。そうなると『別の怪異ではないか』という話も持ち上がるでしょう」
ですがそれでは対象が入れ替わっただけの堂々巡りです、とシレーヌは淡々と話す。
「必要なのは〝現象〟を保ったまま〝無害〟に近づけること。そうすれば別の怪異が入り込むこともある程度防げます。物理的な説明を打ち立てておけば──人間が納得する極めて物理的な説明を作っておけば──〝怪異の仕業〟というような解釈のしようがないので」
「悪い、もうちょっと噛み砕いて説明してもらえるか? 現象を保ったまま無害にするっていうのはどういう……?」
いまいちピンとこないんだよ、と申し訳無さそうな顔をしたコウにシレーヌは「抽象的すぎたかもしれません」と唇をきゅっと結んだ。まぶたを閉じて考え込む素振りを見せる。何かを詳しく話そうとするときのシレーヌの癖だった。むむむ、と小さく唸って珊瑚色の唇をふたたび開く。
「今回の〝現象〟は、〝武器で人が襲われて体の一部を失ったり、怪我をしたこと〟です」
「で、それがレッドキャップの仕業なんだよな?」
「はい」
「その〝現象〟を保ったまま無害にする……がわからないんだ。怪我をするっていう現象を保ったまま〝無害〟にできるものなのか?」
コウの疑問に「ああ、なるほど」とシレーヌがうなずく。
「ここでの〝無害にする〟は、〝怪異の仕業ではないことにする〟、くらいの理解でいてください。ええと……わたしたちにとっては当たり前の、全く無害な行いでも、あなた方人間にとっては有害になることもあるでしょう? 人魚が歌を歌うのは当たり前のことでも、人にとってはそれが有害になるというような……」
シレーヌは一度言葉を切った。時折コウの方を見て、唇を小さく開いたり閉じたりさせている。伝わる言葉を探しているのだろう。話そうとして留まろうとするような、慎重な動きだった。
「……人魚に歌われて船を沈められるのは、人間にとって恐ろしいことに感じられると思います。ですが、船が沈むという現象そのものが単なる座礁や……〝人が対処できる範囲〟の原因において起こるものなら、恐ろしさの方向が変わりますよね。実際に対策出来るものになってきます。本質的な意味では対処不可の〝怪異〟から、本質的な意味で対処可能な〝自然的現象〟に変わる。思議不可能なものから思議可能なものになります」
「そういうことか。じゃあ〝レッドキャップという怪異の仕業〟を、〝人間が理解できる範囲の現象にする〟みたいなことか?」
「ああ、伝わってよかったです。ありがとうございます」
ほっとした顔のシレーヌに「説明させて悪いな」とコウは苦笑いした。一回で理解できるような頭だったら良かったんだけどさ、と続けたのにシレーヌは首を振った。「そもそもがものすごく分かりにくいことですから」と。
「ぱっと見て〝それが何なのか〟分かるなら──解釈を容易に行えるものなら──そこに怪異は存在しませんもの。理解可能な暗闇に想像力のランタンは要りません。理解不能な〝それが何なのか〟を分解し、理解可能な範囲に再構築します、と説明しても、わかる人のほうが少ないのです」
「コウ、僕もさほど分かってはいませんよ。シレーヌのその感覚が少し特殊なんです。何もかもに疑問を持ち、解釈を重ねる人格は少数派ですから」
「少数派……。それを言ったらおしまいな気はするけどな。確かにそんなに見かけない感じはあるよ」
「〝なんとなく分かればいいや〟ではなく〝本質まで理解したい〟と考察を重ねる者はどうしたって稀になりますからね。わかる人間は多かれ少なかれ〝こっち側〟ですし。不思議に興味を持ちそれを分解して自分のものにしようっていう……まあ、研究者とかがそれでしょうね」
「……なるほどなあ。〝変わってるやつ〟を分解して再解釈するとそういう言い方になるのか」
「ひねくれないで下さいよ、コウ」
くすくす笑ったルーは「さあ、続きを」とシレーヌに促す。シレーヌは微笑んで「海という場所で助かりました」と細い指で白いテーブルクロスをなぞる。手の動きから察するにおそらく生き物か何かを描いているのだろうとコウは判じた。
「最初はサメとして概念の書き換えを行おうと思っていました。そのほうが人も納得するでしょう? けれど、先程申し上げた通りサメでは都合が悪い。〝武器か何かで傷つけられた〟という部分において、サメは適用外なのです。彼らには手がありません」
「そうだな」
確かにな、と頷くコウに「それにサメのほうがレッドキャップより大きかったので」とシレーヌはうっすら微笑んだ。
「加えて、サメは赤くありません」
シレーヌの細い指がするすると何かをテーブルクロスに描いている。その指先を見守りながら、コウは「まさか」と口にした。
「……シレーヌ、お前」
「〝武器〟は〝鋏〟と解釈しました」
カラン、と何かが軽い音を立てた。ゼリーを食べ終わったあとのグラスの中にいつの間にかロブスターの頭が入っている。赤褐色の、まるで血が酸化したあとのような色だ。未加熱のロブスターの殻は真っ赤ではないことをコウは思い出す。
「赤帽子……」
「頭まで赤くて助かりました。説得を試みながら何度も海に潜りましたが、このあたりの海域のロブスターは青や白っぽい体色でもなくこちらの色が主流のようです」
からん、からん、と軽い音を立てて、合計六つのロブスターの頭がグラスの中に落ちていく。シレーヌが投げ入れたわけでもルーが入れたわけでもない。ただ、急にそこに存在し始めたのだ。
まともにグラスに収まったのは半分だけで、残りの三つは白いテーブルクロスに転がった。血のような赤い液が点々とシミを作る。ロブスターの血液は確か青かったはず、とコウは記憶を手繰る。それだって体液中に含まれるヘモシアニンと酸素が結びついているときの話であって、水揚げされて呼吸ができなくなり満足に酸素を取り込めなくなってからは徐々に無色透明になるはずだ。つまり、これは。
一瞬、キャンドルの灯がゆれて消えた。潮風がオレンジ色の光をさらっていったのだ。灯が消える直前、テーブルの上には老人の頭が六つ乗っていた。長く伸び絡んだ髪にむき出しの鋭く黄色っぽい歯。その顔はよく見えない。コウは息を呑んだ。
暗闇にシレーヌとルーの青い瞳が浮かんでいる。どちらがどちらのものかなんて分かりそうもなかった。同じくらいに美しく、そして妖しいものだ。
「灯りのない暗闇のなんと恐ろしいものでしょう」
シレーヌの声だった。
月明かりだけが頼りの薄暗闇に細い手が伸び、キャンドルのあたりをさらりと撫ぜる。次の瞬間には新たなオレンジの光が三人を暖かく照らし出した。
「灯りがありさえすれば、怖いものなんてなくなってしまう」
テーブルの上にはゼリーが入っていた青いグラスがあるのみで、そこにはロブスターの頭も老人の頭も在りはしない。真っ赤なシミもすっかり消え失せていた。
シレーヌもルーもただ美しく微笑んでいて、先程見たそれが真実だったのかどうなのか、コウには分からない。
「ご安心を、コウ。君が暗闇に何を見たのか僕らは知りませんが、君が食べたロブスターはお店に並んでいたものですから」
こればかりは〝真実〟ですよ、とルーが微笑んだ。
***
「俺は別にお前たちと同じものでも構わなかったぞ」
「何の話……ああ、ロブスターですか」
買い物をするルーの荷物持ちに、と市場を覗きにきたコウは、店先に並ぶカゴに大きなロブスターを見つけてつい呟いてしまう。
昨夜は不可思議なディナーを終えて皿洗いをし、その後コウはすぐ寝てしまった。ソファで寝ていたから体はバキバキだが、移動中の疲れは取れた気がする。
「君、今日は魚介類の気分ですか? 貝とか。豚肉とか鶏肉とかの肉料理でも構いませんよ。好きでしょう?」
「鶏か。ジャークとかうまいよな」
ロブスターの入った籠より少し離れたところに置いてある黄色いケースの中には貝がみっちりと収まっている。でも貝もいいよな、と相槌をコウが打てば二人に気づいた店主の女性がニコニコと笑って話しかけてきた。
「今日のおすすめはこの大きなロブスターだよ。何だかわかんないけどね、昨日からよくとれるんだ!」
「ロブスターですか?」
よそ行きの笑顔を引っ張り出して愛想よくルーが話に応じる。珍しいなとコウはルーをまじまじと見てしまった。
「こんなに大きいサイズはなかなかお目にかかれないんだけどねえ。取りに行った漁師たちもみんな驚いてたよ。〝あっちから来る〟ってね。逃げないもんだからよくとれるのよ」
「あっちから来る?」
それは不思議ですね、とルーが驚いたふりをしてみせるのをコウはなんとも言えない気持ちで聞いていた。
元々が人を襲う怪異なのだ。それをシレーヌが再解釈して〝塗り替えた〟。誰にどう解釈されたのかなど怪異でなくとも開示されるまで気付けないだろう。なら、自分がどう〝解釈〟されたのかなんて気にもせずに今までと同じように振る舞っても理解できる。襲いに行ったはずが捕まって食われるわけだ。
ルーは「いいロブスターですね」と褒める。それからちらりとコウをみて、丁寧に断りを入れた。
「すみません、マダム。僕らは昨日美味しいロブスターを食べたばかりでして」
「あらそう? じゃあこっちの貝をオススメ。新鮮だからサラダとかに入れてもいいの。生で食べると甘くて美味しいんだから」
「ふむ」
なるほど、とルーは女性が冷蔵ケースから取り出してきたパックを眺める。じゃあそれにしますとあっさりと決めて、ルーはさっさと店を離れた。
「このあたりは魚を売っている店が少なくて、何なんだろうなと思っているんですよ。どこにいっても貝類か甲殻類。魚はあっても塩漬けのタラ。不思議なところですね。それも明日で終わりますが」
「この辺の海は……たしかに魚を食べる文化はなかったのかもな。シガテラ毒じゃないのか。生物濃縮。食中毒だよ。怪異だったロブスターを食べるより確実に問題あるぜ。レッドキャップを食べたほうがマシだな」
「……君、そういうの気にしないんですか? 不気味だなとか」
「まあそんなには。そもそも甲殻類は腐肉食動物だしさ」
はあ、とルーが生返事をする。腐肉食動物ってなんですか、と青い目が不思議そうに見てきた。簡単に言うと死んだ生き物を食べる生き物、みたいな感じだなあとコウは応じる。
「普通のエビだって何食ってるかわからないからな。海で死んだ人間を食べててもおかしくない。人を食ったエビを食ったらそれは間接的に人を食ったことになるのか? って考える場合もあるだろ。それを考えたら人を襲うだけの怪異を食べるほうがマシ、みたいな解釈もアリなんじゃないか」
「君って結構図太いですよね?」
うわ、と真顔になったルーに「気の持ちようだ」とコウは軽く返す。
「人を食ったエビを食べたとして、エビを食ったととらえるか、人を食ったととらえるか。そんなのは解釈次第だろ」
「ごもっともですが。もう少し繊細なのかとばかり」
「エビでもロブスターでも美味ければそれで構わんさ」
何も知らなきゃレッドキャップを食ってるとは思わないしな、と結ぶコウに「やっぱりこっち側ですよ、君は」とルーは肩をすくめた。