13.5話 楽園に落ちる影
誰も入ってくるなと使用人たちに命じ、ユーディニアは一人、広い寝台に突っ伏してすすり泣いていた。
夫に捨てられたと知ったその日からどんどん荒れていった母、アメイリアの顔がよぎる。優しい笑顔を見せることもなくなり、ごわついた髪と虚ろな目、こけた頬が目立つ顔が最後に見た彼女だ。美しかった様子を取り戻すことなく、娘の名前を呼ぶこともしないままある日、自らこの世に別れを告げてしまった。
父がなぜ妻子を置いて出て行ったのか、今のユーディニアに確かめる術は残っていない。あくまでも公国の頂点にいるのは妻のアメイリアで、自分はその夫でしかない、そんな現実が嫌だったのではないか。あるいは若い少女に好意をもたれ、彼女を守れるのは自分しかいないと錯覚したのか。
(次はあなたがこの楽園を治める人になるのよ)
まだ何もかもが壊れる前に、アメイリアがかけてくれた言葉――母は賢い女性だった。この公国を楽園と呼び、訪れる人々が笑顔で過ごすことを自分の糧としていた。周りの貴族も民も皆、母を慕っているのだということが小さいユーディニアにも分かるほどで、母の姿はずっとユーディニアの憧れだった。
アメイリアが気を病み伏せている時から、次の公位をまだ幼いユーディニアに継がせるのは不適当なのではないかという声も上がっていたが、ユーディニアはそれを振り切り女公として立った。少しでも隙を見せればその弱みにつけ入られるだろうと思い親しい者にも厳しく接し、心が折れそうになる度に優しかった頃の母の姿を思い出し、楽園を守る者としてずっと歩んできた。
――これほど頑張っているのに、なぜ欲しいものは手に入らないのか。
ただ愛して欲しいだけ、自分を捨てないでずっと傍にいてくれる存在が欲しいだけなのに。
望むものを得られる者と得られない者に、一体何の差があるというのか。
コンコンと、寝室の部屋の扉を叩く音がする。誰も入ってくるなと言ったのに。ユーディニアが無視してその場から動かないでいると、扉が開けられた。
「すまねえが邪魔するぞ」
リカードの声だ。枕の上に顔を伏せたままのユーディニアの元へやって来て、寝台の端にそっと腰かける。
「悪いな、淑女の寝室に勝手に入ってきちまって」
「……一人にしてと言ったはずよ」
「そうもいかねえんだよなぁ。お前は公国の天辺にいるんだから。お前を通さなきゃ進められないことがたくさんある」
ユーディニアの沈んだ様子など目に入っていないかのように、リカードは話し続ける。
「明日、『天球劇場』でやる見世物の件なんだが……」
「あなたに任せるわ。好きにしなさい」
執務に向き合う気には到底なれず、ユーディニアは投げやりに言った。
リカードは優秀だ。ユーディニアの指示がなくとも上手くやってくれる。一定の信用を置ける人物だ。少なくともカルロよりは。
「……あっそ。じゃあ俺の方でやっておく。邪魔して悪かったな」
リカードは素直に従い、さっさと部屋を出て行った。再び静寂が訪れた。
***
ユーディニアの寝室を出たリカードのもとへ、さっと一人の男が歩み寄る。
「リカード様」
「『準備』はそのまま続けろ。女王様から言質はとった。『好きにしろ』ってな」
「承知致しました」
部下の男が頭を下げ、音もなく去っていく。
リカードは口の端を吊り上げた。首尾は上々、このままやれば、自分にとってもユーディニアにとっても、公国にとっても良い結果をもたらせる。
「リカード」
次に現れたのは、ニコラ・アルヴェニとエリッサ・シェーデン。婚約者同士でリカードともユーディニアとも古くからの付き合いだが、今はすっかり二人揃ってユーディニアの腰巾着だ。
「ユーディニアは大丈夫なの?」
「今は入らねえ方がいいぜ。大層ご立腹だからな。カルロが相当なヘマをやらかしたせいで」
戸惑った様子で、ニコラとエリッサが顔を見合わせる。
「ま、安心しろよ。そのうちお前ら二人とも、あの女王様の顔色伺いから脱却させてやる」
「何だよ、それってどういう」
「おーっと、悪いが俺も忙しいんでね。やることが山積みときたもんだ。今はここまでにさせてくれ」
つかつかと去っていくリカードの後ろ姿を、ニコラとエリッサはその場に立ち尽くして見送った。その姿が見えなくなったところで、エリッサが口を開く。
「……ニコラ、何だかすごく悪い予感がするの」
「ああ。俺もそう思う。あいつ、何を考えて……」
リカードは間違いなく何かを企んでいる。楽園と呼ばれる公国のすべてを、根本から覆すような何か――そしてその計画の犠牲になるのは、間違いなくユーディニアだ。