やきとり・串揚げ専門店『串兵衛』(1)
「空いたお皿、お下げします」
トレンチの上に、空になった食器類を重ねながらテーブルを回った。
佐々木さんと食事の約束をしたのは先週だ。こうやって仕事をしていると、あっという間に明日が食事の日になってしまった。
食器を下げていると、小さな声で「あー」と言う声が聞こえた。
「杉山」
「はい」
「三番テーブルのお客様におしぼり持って行って。お子さんがジュースを零したみたいだから」
隣に来た近藤さんのトレンチには、私が回収した食器よりも多く載っている。腕力があるってうらやましいと思う。
「わかりました」
食器を回収用の棚に置き、新しいトレンチの上におしぼり三本とペーパーナプキンを多めに載せて、三番テーブルへ向かった。
「お客様、よろしければこちらをお使い下さい」
「ありがとうございます」
オレンジジュースはテーブルの上で収まっていて、お客様の服にはかかっていなかった。
ジュースまみれになってしまった、フォークやスプーンを回収して、テーブルをフキンで拭いた。使用済みのおしぼりやペーパーナプキンも回収し、テーブルが元通り戻った。
「すみませんでした」
お母さんは、お子さんの手を拭きながら言った。
「お気になさらないでください。新しいジュースをお持ちしますか?」
「はい。オレンジジュースをお願いします」
「かしこまりました」
私がテーブルを離れようとしたとき、お子さんが小さな声で「ごめんなさい」と言った。
私は目線の高さを合わせるために、体を少し前屈みにした。
「大丈夫だよ」
そう言うと「うん」と言って、笑ってくれた。
あとでオレンジジュースを持っていくと「ありがとう」とお子さんに言われた。
仕事が終わり、駅へ向って歩いていると、後ろから近藤さんがやってきた。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
「杉山って、子ども好きなの?」
「まあ、好きですね」
「そっか」
「急にどうしたんですか?」
「いや、ジュースを零した子どもの対応しているとき、子どもにいい笑顔を向けていたから」
「ああ。誰でも小さい子に微笑まれたら、微笑み返しますよね。連鎖反応みたいに」
近藤さんは「そうだな」と言って黙った。
言葉に対して、ぽんぽん言葉を素早く返してくるタイプの近藤さんが、今日は言葉数が少ない。
「近藤さん、体調でも悪いんですか?」
「いや、疲れてはいるけど、普通に元気だよ」
「なら、いいです。いつもより静かなので心配しました」
「静かって、俺、普段そんなにうるさいか?」
「うるさいなんて言ってませんよ。ただ、いつもより言葉数が少ないな、と思っただけですよ」
「ああ、びっくりした」と近藤さんは独り言のように言った。
近藤さんは駅近くのコンビニの前で立ち止まった。
「なあ、中華まん食べたくないか?」
「もう、十一時過ぎてるんですよ。こんな時間に食べたら太りますよ」
「中華まんくらいで太ったりしないよ。奢ってやる」
私の返事もなにも聞かずに、佐々木さんはコンビニへと足を踏み入れた。
一目散でレジにいる店員さんに「中華まん二つ」と頼み、レジを済ませて戻ってきた。その一部始終を私はコンビニの外から眺めていた。
「ほれ」
小さな紙袋に入った中華まんを手渡され、どうしよかと思ったけれど、素直に受け取った。
「いただきます」
「おう、食え」
紙袋を剥ぎ、中華まんを半分出した。夜風に乗って美味しい匂いが鼻をくすぐった。その匂いにやられて、中華まんにかぶりついた。
「うーん、美味しい」
「だろ。ここのコンビニの中華まん、すごく旨いんだ。こういうのってさ、一人で食べて歩くより、誰かと一緒の方が旨いだろ。だから杉山を巻き添えにした」
「そうですね。いい巻き添え、ありがとうございます」
中華まんは駅に着くころにはなくなった。
「じゃあ、お疲れ」と言って、構内のエスカレータへと行こうとする近藤さんを引きとめた。
「ちょっと待っててください」
近くにあった自動販売機で缶コーヒーを二つ買い、一つを近藤さんに渡した。
「どうぞ。中華まんのお礼です。少し時間たったら、喉が渇くと思いますから」
「おう、遠慮なくいただくよ。ありがとう。じゃあな」
「はい。お疲れさまです」
近藤さんは缶コーヒーを振りながらエスカレータに乗った。
私からすると近藤さんは謎の人だ。仕事もできるし、先輩として尊敬している。でも、言動が謎なんだ。
私の言うことに過剰に反応する。一瞬、失礼なことを言ってしまったのかなと思うけれど、近藤さんを見るとそうではないんだな、と思って安心する。
水曜日、休み。木曜日、シフト午後から。私にとって最高の休み方だ。だって、深酒をしなければ、飲んでも問題ない日。これは堪らなく嬉しい。
待ち合わせ場所である駅へ行くと、そこには佐々木さんが立っていた。
夕方と言うには少し早めの時間で人が多かった。それでも背の高い佐々木さんを簡単に見つけることができた。
佐々木さんも休みのようで、服装がいつもよりカジュアルだった。仕事で見掛けたときは、シンプルなジャケットに少しデザインの効いたニットやシャツをきている。今日はジーンズにポロシャツだった。
「お待たせしました」
「行こうか」
メールでやり取りしながら決めたお店へ向かう。せっかくの休みだから、がっつり食べたいという佐々木さんの希望でやきとりと串揚げの専門店になった。
「はい。佐々木さんも今日は休みなんですか?」
「うん、デザ休」
「デザキュウ?」
「あー、普通の有休消化日のこと。うちの会社では、月に一度は有休を取るように言われているんだ。そうしないと、みんな職場に籠って、根詰めてデザインしちゃうからね。だからいいデザインを生むための休暇ってことで、デザイナーは有休じゃなくてデザイン休暇、略してデザ休って、勝手に言っているんだ」
「へえ、そんな大事な休日に私と食事でいいんですか?」
「問題ないよ。午前中はいろいろとお店に入ってリサーチもできたからね」
寝坊をして掃除らしきものをしてから、ここへ来た私の休みと大違いだ。
「杉山さんも今日は休みだったんでしょ?」
「はい」
「午前中はなにしてたの?」
聞かないで、自分の休日の駄目さ加減を身に沁みているところなのに。
「普通です。掃除をしたり、洗濯したり」
「へえ、そういう休日も大事だよね」
「ですね」
佐々木さんに微妙なフォローをされてしまった。
ゆっくり歩いていると、佐々木さんが「あっ」と言った。
「ここのお店、入ってもいいかな」
佐々木さんの目線の先には、アンティーク家具のお店があった。
「いいですよ」
「ありがとう。お腹空いてない? 大丈夫?」
「まだ、夕飯には少し早いですし、私もここのお店に入ってみたいです」
「じゃあ、入ろう」
中に入ると、バラのいい香りがした。たぶんどこかでアロマを焚いているのだろう。
天井にはガラスビーズやレースの付いた小さめのシャンデリアがいくつも吊るされている。本棚や机。イスにはバラやユリの彫刻が施されているものもあった。
女性なら一度は憧れるような可愛い家具がいっぱいある。
「杉山さん、こういうデザインのもの好き?」
「好きです。絵本の中のお姫様がこんな家具に包まれて生活しているのを見て、子どものころ、すごく憧れました」
佐々木さんは立ち止まると、ランプシェードのデザインをじっくりと見つめた。
そのランプはアイボリーの地に、小さなバラの模様が散りばめられている。淵には数種類のレースがあしらってあった。ライトを点けるためチェーンの先には丸いガラスビーズが付いて、それがライトに反射してすごくきれいだった。
「このランプすごくかわいいですね。ランプシェードがドレスのスカート部分みたいですね」
「そうだよね、そう思うよね。こういうふうに違う素材のレースを重ねるっていうのもいいよね」
このランプは佐々木さんのイマジネーションを刺激したらしい。
私は、お店の奥にある雑貨コーナーへ行った。
テーブルや壁にはポストカードやメモ帳が飾られている。どれも花柄を使っていた。それぞれ少しずつ違う花柄で、柄の違いを見ているだけでも楽しかった。
テーブルの横にある本棚には、ボールペンやシャープペンシル、万年筆などの筆記具が並んでいる。
かわいい。そう思って手に取ったボールペンは、白いボディに黄色の花弁が散りばめられている。クリップの部分とノック部分はシルバーで、シンプルで長く使えそうなデザインだった。
値段もそんなに高くないし、仕事用で買おうかな。今使っているボールペン、インクがそろそろなくなりそうなんだよね。
「それ、買うの」
「うわ!」
突然、後ろのから声を掛けられてびっくりした。
振り向くと「ごめん、驚かせちゃった」と笑う佐々木さんがいた。
「大丈夫です。あ、これ買ってきます」
佐々木さんの横を通り抜けて、レジで精算を済ませた。
「佐々木さん、そろそろ行きますか? それともまだ見ますか?」
「いや、いいアイディアが浮かんだから、大丈夫。ご飯行こうか」
「はい」
スーツ姿の人が多い中、私たちの服装は少し浮いていた。
就職したての頃は平日が休日のため、お店に入っても、街中を歩いても、謎の後ろめたさがあった。それも半年くらい経つとなにも気にならなくなった。
「ここだよね、串兵衛」
大きな看板に太筆で書かれた『串兵衛』の文字が目に入った。その文字の上に、小さく『やきとり・串揚げ専門店』と書かれている。
中に入ると店員さんに案内されて、壁にテーブルがぴったりくっつけてある席に座った。
「端っこの席でよかったね」
「ですね。さて、なにを頼みましょうか?」
立て掛けてあったメニューを手に取り、佐々木さんと一緒に眺めた。
「串料理にはビールが一番ですよね」
「うん、生ビールしかないね」
佐々木さんは「たくさんあるな。手羽先、タレか塩か」とぶつぶつ言っていた。
「とりあえず、やきとりの盛り合わせと串揚げの盛り合わせを頼んで、それから追加していきませんか?」
「そうだね、そうしよう」
店員さんに注文をし、メニューを元に戻した。
「ごめん、ちょっと悪いんだけど料理が来るまでの間、仕事してもいいかな?」
「どうぞ。でも、こんな騒がしい中でできるんですか?」
「いや、仕事って言うほど仕事でもないから。さっき浮かんだアイディアを少し形にしてメモって置くだけだから」
そう言うと佐々木さんは鞄からA5サイズのスケッチブックと鉛筆を出した。
佐々木さんは、迷いもなくスケッチブックに筆を滑らす。たった数秒で、装飾のないドレスを着た女性が現れる。そして鉛筆が動くたびに、ドレスに装飾が施され、可愛らしいドレスへと変化していく。
デザインを考えている表情は、あのブライダルフェアのときと同じ表情だった。鋭い目付きに対して、スケッチブックに広がる世界はどこまでも甘い世界だった。
上の方の空いているスペースには、きれいな文字でなにかをメモしている。そして反対側の空いているスペースにはヴェールやアクセサリーなどの小物を描き始めた。
絵心のない私には、スケッチブックの上で起こることが異世界のことように見えて、視線を外すことができなかった。
一番下に今日の日付を書くと、急にスケッチブックから顔を上げた。
「さっき行ったお店の名前わかるかな?」
「あっ、レシートがあるんでわかりますよ」
お財布からレシートを出して、佐々木さんに手渡した。
それを見ながら佐々木さんは店名と電話番語をメモっていた。
「あの、もしあのお店が気になるなら、QRコードでスマホに登録しておいたらどうですか?」
「そっか」
佐々木さんはレシートに付いているQRコードをスマホで読み取って、データを登録した。
「これ、ありがとう」
レシートを受け取り、お財布へしまった。
佐々木さんはスケッチブックに、また鉛筆を滑らした。すると私が今日買ったボールペンが現れた。
「え?」
思わず声を上げた私のほうを見て、鉛筆でボールペンを指して「これ?」と聞いてきた。
「はい」
「これを書いた日のことを思い出すためのメモ。それでも思い出せないときは、杉山さんに聞くから覚えておいてね」
「えー、私、記憶力あまりよくないんですけど」
佐々木さんは笑いながらスケッチブックをしまった。
「もう、お仕事はいいんですか」
「うん。ごめんね、暇だったでしょ」
「いいえ。楽しかったです」
「楽しい?」
「私、絵を描くのが下手で、真っ白な紙の上に現れる絵を見ているのが不思議な感じでした」
「下手って言っても、軽くイラストなんか書くだろう?」
「いや、私が描いたネコを涼太にはタヌキと言われました」
「へえ、今度なにか描いてみてよ。あ、今描いて」
佐々木さんはまた鞄からスケッチブックを出した。
「ちょっと待ってください。それは大事なデザイン帳でしょ。私のどうでもいい絵を描いちゃ駄目です」
「これはただのメモ帳だから。最後のページを使えばいいし」
「いやいやいやいや、それはちょっと」
差し出されるスケッチブックをグッと佐々木さんの方へ押し返した。それに反するように、佐々木さんも押し返してくる。