レストラン・ディマンシュ(2)
扉には木目のボードが掛けられていて、そこには『ディマンシュ』と書かれている。
中に入ると、ダウンライトで少し暗く、カウンターの後ろには初めて見るようなお酒が壁一面に並べられている。
佐々木さんはカウンターから少し離れたところにある、二人席用のテーブルに座った。私も佐々木さんの向かいのイスに座った。
「ここお酒の種類も豊富だし、料理も美味しいんだ」
佐々木さんはお店に入ったことで、仕事モードが抜けたらしい。私の知っている佐々木さんがそこに居た。さっき感じた、微妙な寂しさは一瞬で消えてしまった。
私のほうに向けられているメニューには、四、五ページに渡ってアルコールメニューが続いていた。
「本当にアルコールの種類が多いんですね」
「うん。あとノンアルコールも結構多いよ。ここ一ページが全部ノンアルコールなんだ。ここにあるノンアルコールカクテルは、ここのバーテーンダーが自分でレシピを作っているから、ここでしか飲めないんだよ」
「そうなんですか。明日、朝早いんでノンアルコールのカクテルにしたいんですけど、佐々木さんのお勧めはありますか?」
「僕のお勧めはライムシュガーかな。シュガーって付いているからすごく甘いイメージなんだけど、そんなことはなくてライムの酸味が効いていてさっぱりした味だよ」
「へえ、美味しそうですね。私、それにします。佐々木さんは?」
「僕も同じものにしようかな」
とりあえずライムシュガーとカナッペを頼んで、それをつまみながら他の料理を選ぶことにした。
「どんな料理があるのかと思ったら、普通の洋食屋さんなんですね」
「うん。ここのマスターはもともと有名フランス料理店のシェフだったんだけど、もっと気軽な料理を出す店をやりたくて、このお店を出したんだって」
そんな人が作っている料理なら美味しいに決まっている。
メニューに書かれているハンバーグステーキ、オムライス、シチュー、グラタン、パスタを目で追っていく。
「なんだか楽しそうだね」と言った佐々木さんは頬杖を付き、メニューを片手で押えながらこっちを見ている。
「楽しいというか、贅沢だなとは思っています」
「贅沢?」
「だって、美味しいものを食べながら、次食べるものを選ぶって贅沢だと思いません?」
「そうだね、贅沢だ。食べ物のことだけを考えられるなんて」
「でしょ。人って、食事していても仕事や明日のこととかを考えちゃいますからね」
クラッカーの上には、生ハムやトマト、ツナサラダやポテトサラダが乗っている。あまりに美味しくて、食べる手が止められない。
あ、そういえば今日の夕飯は涼太のパスタだったんだよね。なんかパスタが食べたい。メニューには五種類のパスタがあった。
「私、ほうれん草とエビのトマトクリームパスタがいいです」
「パスタか、いいね。僕もパスタにしようかな。僕はアスパラとトマトのジェノヴェーゼパスタにしよう」
追加オーダーを済ませると「杉山さんって、ボードゲーム好き?」と、佐々木さんが聞いてきた。
「子供のころはよく遊んでましたよ。それがなにか?」
佐々木さんは私が背を向けている方向を指さした。
「あそこの棚。結構、面白いものが置いてあるんだよ」
その棚に目を向けると、少し小ぶりな箱や小さな籠がいくつも置かれていた。
「ちょっと見に行こう」
佐々木さんが立ち上がり、その棚の方へと向かった。棚をしげしげと覗く佐々木さんの横に立ち、私も目の前にある箱を開けてみた。
「あ、ダイヤモンドゲーム」
「杉山さん、知ってるんだ、ダイヤモンドゲーム」
「はい。子供のころ、母や弟とよくやっていました」
佐々木さんは籠の中に入っている、トランプや花札を手に取った。
この棚には、昔ながらの電気を使わないゲームがたくさん置かれていた。
ルービックキューブ、オセロ、チェス、囲碁、将棋、知恵の輪、パズル。どれも本格的なものではないけれど、テーブルで広げて遊ぶにはちょうどいいサイズのものばかりだった。
「どれも懐かしいですね。子供のころ遊んだな。佐々木さんが持っている、そのゲームはなんですか?」
ボードに二等辺三角形の絵が描かれていて、赤と白の駒が横のケースに入っている。
「これはバックギャモンって言うんだよ。西洋のすごろくって感じかな。日本ではマイナーだけど、海外では有名なゲームだよ」
「へえ」
「ご飯が来るまで、どれかやる?」
これだけたくさんボードゲームを見ていたら、久しぶりやってみたくなった。
「はい。ダイヤモンドゲームがやりたいです」
「いいよ」と言って、佐々木さんはダイヤモンドゲームが入っている箱を持った。
来ているお客さんを見ると、一人で本を片手に囲碁や将棋をしている若い人がいたり、大学生くらいのカップルがババ抜きしていたり、ただ読書に勤しむ男性がいたり、それぞれの時間を楽しんでいるようだった。
私たちは残り半分になったカナッペをつまみながら、ダイヤモンドゲームを始めた。
ダイヤモンドゲームのルールは、メーカーや国によって少し変わる。それはどのゲームも一緒かもしれないけど。
ボードの上が六芒星の形が描かれていて、星の尖っている部分が赤、緑、黄色、赤、緑、黄色の順番で色分けされている。駒も赤、緑、黄色の三色。赤のエリアには赤の駒を置くという感じで駒を並べる。そして反対側にある同じ色のエリアに駒を全部移動させた者が勝つというゲームだ。
先攻が私で赤い駒、後攻が佐々木さんで緑の駒。もう十年以上はやっていないゲームであっても、始めると細かなルールがするっと頭の中に浮かぶ。
工事現場やガソリンスタンドに置いてあるコーンをものすごく小さくしたような形の駒を、指先でつまみながら地道に動かしていく。
ボードゲームというのは、相手の手を眺める時間が必然的に訪れる。この手が女の人生で最高の一瞬を彩るドレスを作るんだな、と思った。少し大きめの掌に細く長い指、その指先は流れるようになめらかに動く。
「杉山さん、真剣だね。もしかして、負けず嫌い?」
「そんなことないですよ」
この言葉に続く正しい文章は「あなたの手を凝視していました。ゲームの勝敗はどうでもいいです」しかない。そんなことは絶対に口に出すことはできない。
「今はこういうゲームで絶対に勝とうって気持ちはないです。でも子供のころは、涼太と遊ぶと勝ち負けでけんかになっていましたね。駒を投げ合って、最後は母に叱られるんです。二人揃ってふくれっ面で片づけをして、必ず駒が一つか、二つ見つからないんですよ。でも次の日には、必ず母がその駒を見つけてくれるんです。そんな母を魔法使いだって思ってました」
「昔から涼太君とは仲のいい姉弟だったんだね」
「まあ、そうですね。昔は生意気だったけれど、最近は小姑みたいに口うるさいです」
赤と緑の駒がボードの上で混ざりあっていた。まるで天気予報の降水確率を表す図のように見えてきた。
「このゲームってこんなに地道なゲームだったかな?」
「多分、2人でやっているからですよ。これが3人だったら、もう少し面白いと思うんですけど」
地道過ぎて勝ち負けの結果もでないまま、パスタが運ばれてきた。ゲームは箱の中に元通りにしまい、パスタに目を向けた。
「うわ、彩がきれい」
私が頼んだトマトクリームパスタにはトマトの赤、ピーマンの緑、パプリカの黄色が彩りよく並べられている。さっきまでやっていたダイヤモンドゲームのような色合いだった。
佐々木さんの方は鮮やかなグリーン色のパスタを囲うようにアスパラと細かく刻まれたトマトが乗っていた。
「佐々木さんのパスタも美味しそうですね」
「一口食べる?」と、取り皿を持った佐々木さんが言った。
「じゃあ、いただきます。佐々木さんも一口食べますか?」
「うん、僕もお言葉に甘えて」
佐々木さんから取り皿を受け取り、全神経を集中させて取り分けた。
お皿の周りがベタベタなんて絶対にだめだ。しかも白いお皿だし、トマト系のソースなんて飛び散らかしたら目立つ。
気合いを入れて分けただけあって、予想以上にきれいに取り分けることができた。
「どうぞ」と言って、お互いに持っていた取り皿を交換した。
取り皿に盛られているジェノヴェーゼパスタはすごくきれいだった。フォークできれいに巻いてあるパスタが二つあり、横にはアスパラとトマトが添えてあった。
これはすでにお店の盛り付けだよ。それに比べて私の方は適当に盛られているだけのパスタ。佐々木さんが手に持っている取り皿を見てへこんだ。
「うん、このトマトクリーム美味しいね。トマトの味が濃厚で、でもクリームの味も消えていない」
うん、どんなに盛り付けが微妙でもパスタの美味しさは変わらない。
私もジェノヴェーゼパスタを食べてみた。
「美味しいです。塩分が丁度よくて、爽やかな味です」
佐々木さんは取り分けたパスタを食べきると、自分のジェノヴェーゼパスタを食べ始めた。
私は小皿を一端置いて、佐々木さんが絶賛したトマトクリームパスタをフォークに巻きつけた。
普通のトマトソースよりクリームが混ざっているおかげでオレンジ色よりだった。ここに来るまでに見た、あの空のような色。それを口に入れると、まろやかな酸味が広がった。あの空をもし食べることができたのなら、きっとこんな味なんじゃないかなと思った。
「佐々木さんはここによく来るんですか?」
「そうだね、煮詰まったときによく来るんだ」
「煮詰まったときにですか?」
「そう。デザインを考えて、いいのができたと思っても、駄目出しされるときだってある。時には、過去に自分がデザインしたものと酷似しているのを、また作ろうとしてしまう時もある。そういうときにここへ来るんだ」
物を生み出すって大変なんだな、と思った。涼太が課題で図面を描いている姿を見て大変そうだと思ったけれど、仕事になればその苦労は桁違いだろう。
佐々木さんは、水を一口飲んで話を続けた。
「頭の中をデザイン以外のもので埋め尽くしたいんだ。職場はもちろんだけど、自分の部屋にも、デザインの資料やサンプルで溢れているから、そういうふうにはできないんだ。ここだと、美味しいご飯とゲームしかないからね。気分転換に知恵の輪や将棋の手を考えたりするんだ。そんなことをしているうちに、なにかが降ってくる。それをとにかく描いて、一晩寝かすんだ」
「なんで寝かすんですか?」
「学生のころなかった? 夜な夜な書いたラブレターが朝になると鳥肌が立つくらい寒く思うってやつ」
ここでありますと言いたいところだが私にはない。私はすべて直球でいく主義だから、ラブレターや甘いメールを書いたことも送ったこともない。
ただ、そんな類の話はよく聞くので「よくある話ですよね」と返した。
「デザインも一緒。勢いだけで作ったものなんて、あとで見ると荒削りでびっくりするんだ。だから、次の日に洗練されたものに変化させるんだ」
「それ、涼太にも話してあげてくれませんか?」
「ああ、そのつもりだよ。生みの苦しみをこれでもかって言うぐらい伝えるつもりだから」
そう言った佐々木さんはなんとも楽しそうな顔だった。
「なんだか腹黒い顔していますよ」
「そうかも。こういう話をして、涼太君はどんな反応をするんだろうなと思って。彼の性格だと真摯に受け止めて、それでも建築家って道に進むんだろうね」
「たぶんそうでしょうね。あの子、根性と忍耐力は家族の中で一番持っていますから」
佐々木さんは「へえ」と言って、残り少なくなったパスタを口へ運んだ。
食事が終わり、最後にコーヒーを飲みながら、もう一度ダイヤモンドゲームを始めた。
「せっかくゲームをするんだから、なにか賭けようか?」
駒を並べているとき、佐々木さんが言ってきた。
「なにを賭けるんですか?」
「そうだな、負けた方が勝った方の言うことを三つ聞く」
「えー、三つもですか? 多いですよ。普通、一つでしょ」
「一つなら賭けをしてもいいってことだよね?」
これは嵌められた。三つに文句を言ってしまったことで、賭けを承知したような感じになってしまった。佐々木さんって、案外、策士なのだろうか。
唖然としていると、佐々木さんが急に笑い出した。
「杉山さんって、本当にいい表情するよね。顔から心の声がダダ漏れだよ。しまったって感じが」
「ああ、もういいじゃないですか。負けた方が勝った方の言うことを一つ聞く。いいでしょう。やりましょう」
「交渉成立だね。では、勝負初め」
さっきのゲームで先攻だった私は後攻になり、佐々木さんが先に駒を動かした。
「杉山さん、すごく真剣だね。僕に叶えてもらいたい願い事でもあるの?」
「いいえ、とくにないです」
「じゃあ、なんでそんなに真剣なの?」
「一応、勝負なんで」
「それって、負けず嫌いじゃない? さっき、負けず嫌いじゃないって言っていたよね」
「それはただゲームをするときの話で、賭けがあるゲームなら負けたくないですよ」
「なるほど」
流れでこんな賭けをすることになったけれど、自分が勝ったときのことより負けたときのことを気にしている。
一体、なにを言われるのだろう。今日の食事代は私が奢るみたいなことだろうな。まだ月末ではないけど出費は抑えたい。
佐々木さんはどんどん駒を進めていき、あと二つの駒が移動すればいいだけ。私の方はあと五つも残っている。
ああ、負けだ。これ絶対に勝てない。デザインが浮かばないときにゲームをやっているだけあって強いんですけど。
佐々木さんが最後の駒を置いた瞬間「僕の勝ちだね」と言った。
「はい、負けました。なにをすればいいですか? ご主人様」
「自分から罰ゲーム増やしてない? ご主人様って。杉山さん、また僕と一緒にご飯を食べてください」
「え?」
「え、じゃなくて、はいでしょ」
「あ、はい」
佐々木さんは鞄からスマホを取り出した。
「ほら、杉山さんも」
「え?」
「連絡先がわからないと約束できないでしょ」
「そうですね」
私も鞄からスマホを取り出すと、佐々木さんはスマホを近づけてきた。お互いの電話番号とアドレスを赤外線で送信した。
「これでよし。それと、敬語使わなくていいよ」
「佐々木さん、願い事は一つだけですよ」
「これは願い事じゃないから。僕からの指令」
「指令、ですか?」
「そう。僕たち、いい友だちになれると思うんだ。こうやって食事して、くだらないこと話して、笑い合う。だから敬語は禁止」
なぜか、願い事を一つ叶え、指令も一つ聞くことになってしまった。いや、正確には願い事は二つだ。ご飯の約束と連絡先を教える。本当に負けた方が勝った方の言うことを三つ聞くになってしまった。
策士だ、佐々木さんは策士だ。私の中でどんどん佐々木さんのイメージが変わっていく。
「さて、そろそろ帰ろうか」
「はい」
佐々木さんはなにも言わずに伝票を持ってレジに行ってしまった。割り勘や個人会計にするといったことを全く言う隙がなかった。
お店を出たところで「あの、お金」と佐々木さんの背中に向かって言った。
「ああ、いいよ。今日は僕が誘ったんだし、お礼だからね」
「お礼が必要なこと、私はなにもしていませんよ」
「そうだったね。まあ、いいよ」
「いや、でも」
納得のいかない顔をしている私を置いて、佐々木さんは「いいから、いいから」と言いながら、どんどん駅の方向へ歩いて行ってしまう。
これ以上、お金のことを言うのも失礼だろうと思い「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」とお礼を言った。
「どういたしまして」
仕事帰りのサラリーマンがごった返すホームへ降り立ち、並んで電車を待った。
私と佐々木さんは最寄り駅が同じだった。
電車に乗ると、私をなるべく奥の方へ入れ、佐々木さんがぐっと押してくる人の盾になってくれた。おかげで私の周りには、ほんの気持ち余裕ができた。
「佐々木さん、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ」
「あの、ありがとうございます」
「うん」
あまりに佐々木さんと密接した状態で、それ以上なにかを話すことはできなかった。
窮屈な電車から解放されると、佐々木さんとの距離が通常に戻り落ち着いた。
改札を出ると、佐々木さんは「僕はこっちだから」と言って、バスターミナルの方を指差した。
「はい。今日はありがとうございました。次も楽しみにしています」
「うん、今度は杉山さんの行きたいお店に行こう」
「はい」
「あと僕の指令、忘れているよ」
あ、敬語だ。ずっと敬語だった。忘れてたと言うか、これが自然だった。
「気をつける。佐々木さん、お休みなさい」
私は指令通りに敬語をやめた。佐々木さんは笑いをこらえながら「ああ、お休みなさい」と言った。
私、また変な顔したんだ。
右手を軽く振った佐々木さんは、そのままバスターミナルへと歩いて行った。私もバスターミナルとは反対方向にある階段へと向かった。