レストラン・ディマンシュ(1)
ウェディングショー当日。受付時間の一時間前から多くのカップルが集まっていた。ショーは午後二時から始まり、午前中は最終リハーサルが行われた。
私はテーブルのセッティングの最終確認をしながら、そのリハーサルを見学していた。
スタイルのいいモデルさんが純白のウェディングドレスを着て歩く姿は本当にきれいだった。とてもシンプルなデザインでも豪華に見えた。
ドレスが終わると白無垢となる。最近の和装は角隠しや綿帽子ではなく、シンプルに髪の毛をまとめて花を飾る人も多い。着物は着たいけれど、あの髪型をすることに抵抗がある人も多いからだ。
そのためショーでも、角隠しや綿帽子などの定番の和装と、ここ最近の人気の和装の両方をモデルさんには着てもらっている。
そのリハーサルを佐々木さんは相変わらず無表情で見ていた。会場の隅で、壁に寄り掛かり腕を組む姿は、いかにもデザイナーという感じがした。
午前に準備が終わり、休憩時間に更衣室に行き、服を着替えた。
レストラン担当とブライダル担当の制服は少しデザインが違う。ブラウスの上に着ているベストが、レストランは背中全体が黒と濃いグレーのボーダーで、ブライダルは前も後ろも同じ黒だ。前から見れば同じだけど、後ろが少し違うのだ。
今日だけ支給されたベストに腕を通す。この行動だけで気合いが入った。
フェアの会場へ戻ろうとしたとき、鞄からスマホのマナー音が聞こえた。スマホを手に取り、画面を見ると涼太からだった。
「もしもし、どうしたの?」
「あ、姉ちゃん。実はさ、家の鍵を曲げちゃって使えないんだ。今、ホテルのロビーに居るんだけど、家の鍵貸してくれない? 忙しいなら、この辺で時間つぶして、姉ちゃんの仕事が落ち着くころにまた来るし」
時計を見ると私の会場入りの時間まで、あと十分ある。これなら鍵くらいは渡せるだろう。
「今、時間あるから。そのままロビーに居て」
「ありがとう」
電話を切り、キーホルダーから実家の鍵を外した。そして早歩きでロビーへ向かった。
ロビーに行くと、涼太が柱の近くに立っていた。
「涼太、はい鍵」
「悪い、姉ちゃん」
涼太は鍵を受け取ると自分のキーホルダーに付けた。それには微妙なS字カーブを描いている鍵もあった。一体なにをして鍵が曲がったんだろう。
「いいよ、別に。ねえ、また身長伸びた?」
「ああ、三センチくらいだよ」
弟の涼太は二十歳を過ぎても背が伸びている。おかげで身長は一八一センチが一八四センチになっていた。全く羨ましい限りだ。私は高校三年で成長が止まってしまったのに。
「仕事中、ごめんな。今日のお礼に家で晩飯作るけど」
「本当? じゃあ今日は実家に帰る。パスタが食べたい」
「了解。じゃあな」
「うん」
一応、涼太を見送ろうと自動ドアの方へ歩いていると、誰かが私の腕を掴んだ。振り向くと加絵がいた。そして隣にいる涼太の腕を佐々木さんが掴んでいる。
「君、杉山さんの知り合い?」
佐々木さんの聞かれた涼太は戸惑いながら「弟です」と答えた。
「こらから二時間くらい予定空いてる?」
「はい、今日の講義は午前で終わったので」
この一言で佐々木さんは「杉山さんと弟さん、ちょっとこっちに来てくれないかな」と言って、私たちを第二試着室へ連れて行った。
本来ならこの試着室は、ここで結婚式を挙げようと考えているお客様が使う場所。第一試着室より少し狭く、ブライダルフェア中は、ここがデザイナーさんの控え室になっている。
加絵は「マネージャーに宏実を少し借りるって言っておくから」と言って、部屋を出ていった。なんでこうなっているのか、さっぱりわからない。
涼太は居心地悪そうに座っている。
「突然すみません。僕は佐々木と言います」
佐々木さんは律義に涼太に名刺を渡した。うちの弟に名刺なんて渡さなくても、と思わず言いそうになった。
「ありがとうございます。姉がいつもお世話になっております。弟の杉山涼太です」
「涼太君、モデルをやってくれないかな?」
涼太よりも先に私が「えっ」と反応してしまった。
「杉山さん、涼太君、突然驚かせてしまって申し訳ない。このホテルでウェディングフェアをやっていて、そのフェアでウェディングドレスのファッションショーがあるんだ。実は今日出る予定だったモデルが一人、つい1時間半前に倒れてしまって病院へ運ばれたんだ。ただの盲腸で命に別状はなくてよかったんだけど。急なことで代理のモデルが見つからなくて」
裏では随分大変なことになっていたんだと思いながら、佐々木さんの話を聞いていた。
「それで、そのモデルの代わりに涼太君がやってくれないかな。君、身長一八〇センチ以上あるよね」
「はい、一八四です」
「どうかな。もちろん謝礼は支払わせていただきます」
「そう言われても、僕はただの大学生ですし、プロのモデルさんに混ざるなんて無理です」
この切羽詰まった状況で、はいそうですかと話が終わるはずもない。佐々木さんは涼太への説得を続けた。
「そう思うのは当たり前だよ。僕だって、もし今のような頼み事を言われたら、涼太君と同じように言うと思う。それも承知の上で頼んでいるんだ」
涼太は佐々木さんの顔をじっと見ながら話を聞いていた。涼太は自分から進んで人前に出るようなタイプではない。ただ委員や部長といった立場で、文化祭や体育祭を仕切ることはする。責任感が強いためきっちりこなす。
「涼太君、学生時代にはいろいろなことを体験した方がいい。興味があることはもちろんのことだけれど、興味がないことを敢えてやってみるのもいいよ。それでやっぱり向いていないと確信を持つことも大事だし。今日の経験が別の形で役立つこともきっとあるから」
涼太は少し目線を落として、考えているようだった。そして佐々木さんに視線を合わせた。この瞬間、涼太がなんと答えるか想像ができた。
「わかりました。そのモデルさんの代役お受けします。その代り、一つ僕のお願いを聞いてください」
「ちょっと、涼太」
さすがにこれは予想外だった。止めようとすると、佐々木さんは私の顔を見て「大丈夫ですから」と言った。私は大人しく黙った。
「あの、僕は将来、建築の道に進もうと思っているんです。大学も建築学部に通っています。お時間のあるときで構いません。デザインに関しての話を聞きたいんです。服と建物では違うかもしれませんが、デザインをどうやって生み出すのか、自分のアイディアを増やしていくコツとかを聞きたいです。今、建築関係に就職した先輩方にもいろいろ話を聞いているんですけど、全く違ったジャンルで仕事をするデザイナーさんの話も聞いてみたいんです。でも、そういう伝手がなくて。お願いします」
「そういうことなら喜んで。さっき渡した名刺、ちょっと貸してくれるかな」
涼太はテーブルの端の方に置いていた名刺を両手で佐々木さんに渡した。
佐々木さんは名刺の裏に電話番号を書き込んだ。
「これ僕のプライベート用の番号だからいつでも電話して。留守電になってしまうことも多いけど、メッセージさえ残してくれれば、必ず連絡するから」
「はい、ありがとうございます」
「涼太君は二十歳超えているのかな?」
「はい、今年で二一です」
「杉山さん」
突然、佐々木さんがこっちを見たのでびっくりした。
「涼太君は成人していますが、涼太君のモデルの件、保護者としてご理解いただけますか?」
「はい。弟が自分自身で決めたことですから。今日一日、弟のことをよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、ご無理の上で代役を引き受けてくださいありがとうございます」
お互いにお礼を交わし、涼太は佐々木さんと一緒に男子更衣室へと向かった。
私も急いで会場へ向かい、宴会・パーティー部門のマネージャーである山崎さんに声を掛けた。
「入るのが遅くなってしまい申し訳ありません」
「大丈夫よ、お客様が受け付けを終えて、テーブルに着いたくらいだから。ドリンクのサービスにすぐ入って」
「はい」
山崎さんの立っているすぐ横のテーブルに積まれているトレンチを片手で持った。
会場の半分くらいが埋まっている。お客様が荷物を置いて、落ち着いた頃合いを見計らい、テーブルを回った。
ワンドリンク無料と次からのオーダーは有料になることを説明し、オーダーを受ける。受けたオーダーを自分でセットして、お客様の所へ再び向かう。
ドリンクが行き届いたころで、照明が落とされた。トレンチを持ったまま壁の方に寄った。
舞台では今回のウェディングショーの説明や諸注意を言っていた。
舞台を眺めつつ、お客様の方へ意識を向けていると、肩を軽く叩かれた。
「杉山さん、弟さんがモデルの代役務めるんでしょ? ドリンクのサービスも終わっているし、このあと有料でドリンクを頼む人も少ないと思うから、もう少し見やすい所に移動していいわよ」
山崎さんは耳元で、そう囁いた。
「ですが、私はヘルプで来ていますし」
「いいから。手が必要になったら、すぐに声を掛けるから」
山崎さんの強い押しに負けて、私はお客様から目の付かないステージ横にあるパーテーションの陰から眺めた。
今年、流行のデザインが三パターン続き、そして装飾の少ないシンプルなドレスを着たモデルさんが出てきた。その隣に居たのが白いタキシードを着た涼太だった。
ワックスで随分おしゃれな髪形になっていた。背筋を伸ばして歩くように言われたのだろう。糸で釣られているようだった。顔はぎりぎり笑顔って感じだった。背が高いおかげで、女性のモデルさんとのバランスはよかった。
涼太もあと十年くらいしたら、あんな感じで結婚式挙げるんだな。私はそのとき泣くのだろうか。そのときになってみないとわからないけれど、今は軽く笑いたい。うちの弟には白のタキシードは似合わない。涼太が結婚する時には、絶対にそれを教えてあげよう。
涼太はぎこちないながらも代役をまっとうして舞台から消えた。次に出てきたプロの男性モデルを見て思った。自然な体の動きってそうだよな。涼太は少し性能のいいロボットだった。あとでからかってやろう。そんなことを思いながら持ち場へ戻った。
ウェディングショー初日、どうなるかと思ったけど無事に終わってよかった。会場の後片づけを終えると、今日の仕事は終わり。
更衣室で着替えて、涼太に連絡をしようとスマホを見ると、すでに涼太からメールが来ていた。
《ロビーで待ってるから》
メールの受信時間は今から三十分前。そんなに待たせていないようで安心した。急いでロビーに行くと、髪型だけ妙におしゃれな涼太がソファに座っていた。
「お待たせ。それからお疲れ様です」
建築関係の雑誌を見ている涼太の隣に座った。
「姉ちゃんもお疲れ様」
涼太は鞄に雑誌をしまって時計を見た。
「ウェディングショーって結構長い時間やるんだな。俺、三十分くらいで終わるのかと思ってた」
「そんな短時間じゃ、ドレスも和装も紹介できないでしょ。どう、初のモデルは?」
「二度とやりたくない。俺はモデルって器ではない」
「よーくわかってるじゃない。もし、俺モデルになるって言ったら、姉弟の縁切ろうと思っていたわよ」
涼太の髪を雑に撫でて、いつもの髪型に戻してやった。
「やめろよ。じゃあ、帰るか。帰りスーパーに寄るから」
「わかった」
ソファから立ち上がったとき、後ろから「杉山さん、涼太君」と呼ばれた。
佐々木さんは私たちの所へ小走りで駆け寄ってくる。
「よかった、二人ともまだ帰っていなくて。もしよければ、三人でご飯食べに行きませんか? 今日のお礼をしたいんです」
「いえ、そんな。お礼だなんて」
涼太がモデルの代役を引き受けただけであって、私はなにもしていない。それに私はここのホテルスタッフだから、なにかあればそれに対応するのは当たり前のこと。
「僕はたいしたことはしていなし、謝礼だってちゃんと頂いていますから」
「まあ、そうだけど。せっかくだし、ね?」
涼太と顔を見合わせた。別に佐々木さんとの食事が嫌ではないし、涼太も佐々木さんといろいろ話したいだろうし、行ってもいいかなと思った。
「あ、ごめん。俺の携帯が。ちょっと失礼します」と言って、涼太はロビーの外へ出ていった。
「あの、さっきは弟がすみませんでした」
「なんのことですか?」
「モデルの代役を引き受けることに対して、交換条件を付けるような真似をしてしまい、本当にすみません」
私が頭を下げると佐々木さんが少し焦り始めた。
「そんなこと気にしないでください。僕はうれしかったです。デザインに対して、あんなに熱心な学生がいることに。そのお役に僕が立てるならとても嬉しいです」
「そう言っていただけると助かります。本当にありがとうございます」
佐々木さんは小さく微笑んでいた。仕事とプライベートの落差がありすぎるでしょ。涼太を説得するときは、今と変わらなかったけれど、ドレスの見ているときの顔はそれなりに迫力があった。
「すみません、お待たせしました」
電話を終えた涼太がロビーに戻ってきた。
「あの、食事のことなんですけど、大学の先輩が研究データの集計を手伝ってほしいって言われて、今から先輩の家に行くことになっちゃたんですよ」
「それなら仕方ない。今度、デザインの話をじっくりしながら食事でもしよう」
「はい、是非。あの、これ僕の番号です」
涼太は小さなメモを佐々木さんに渡した。佐々木さんはそれを自分のカードケースにしまい「電話待っているよ」と言った。涼太は嬉しそうに「はい」と返事をしていた。
「姉ちゃん、ごめん。夕飯の約束」
「いいよ、今度で。ほら、早く行きなさい。先輩が困ってるんでしょ」
「うん。じゃあ、これで失礼します」
涼太は自動ドアを通り抜け、駅の方向へと走って行った。
「せっかくですから二人で行きませんか?」と、佐々木さんは涼太が見えなくなると私に言った。
「そうですね」
佐々木さんと肩を並べてホテルを出た。空はきれいなオレンジ色だった。
「五月に入ってから、日が長くなってきましよね」
私は高層ビル群の合間から、広いとは言えない空を見上げて言った。
「そうですね。この空みたいな濃いオレンジっていいですよね。仕事柄、淡い色を使うことが多くて、時々、濃い色の服をデザインしてみたくなるんですよ」
「そうですよね。ウェディングドレスだと白かパステルカラーですよね」
少し上の方に視線を置きながら歩いた。空の色を少しでも見ることができるように。
「夕飯どこで食べましょうか?」
「あの僕がよく行くお店でもいいですか。ここから二駅先にあるんです」
「佐々木さんのお勧めですか? 行きたいです」
「そんなに期待しないでください。特別高級なお店でもないんで。どこにでもある普通のお店ですよ」
「でも美味しいんですよね?」
「それは保証します」
「なら、やっぱり期待します」
久しぶりに話す佐々木さんは、前の時のような佐々木さんらしい口調ではなく、真面目な敬語だった。ちょっとした知り合い、仕事での知り合い、そんな私たちは少し会わないだけで元に戻ってしまう。そのことを少しだけ寂しく感じた。
佐々木さんの案内に従って、電車に乗り駅から少し歩いていくと、タイル張りのビルの前に来た。ビルとビルの間に佇むビル。両隣のビルと似たり寄ったりのどこにでもあるビル。いわゆる雑居ビルだろう。
「ここの地下です。少し足元が暗いんで気を付けてください」
佐々木さんが先に階段を下りて行った。私は手すりに掴まって、足元に注意しながらゆっくり下りた。