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居酒屋『びーだま』(1)

「寒い、美味しい、寒い、美味しい」

 体を小刻みに揺らしながら、手の中にある温かいお汁粉をひとりですする。傍から見たら絶対に不思議に見えるだろう。室内で飲めばいいのに、と。

 私はこれが好きなんだ。寒い冬空の下、冷気に当たりながら缶のお汁粉をすするのが。

 仕事の休憩時間、一階の非常階段の近くにある自動販売機の前で、至福の時間を堪能している。空を見上げると、灰色の厚い雲に覆われていた。そんな空を眺めていると、白いものがふわりと舞い降りてきた。

「雪?」

 手を前に出すと、冷たいものが手のひらにほろほろと乗っかる。

「二月だもんね。雪も降るか。寒いはずだわ」

 すぐにやんでしまいそうな雪を眺めていると、雪に交じって白いものが降ってきた。同じ白でもサイズが大きすぎる。ゆらゆらと漂うように落ちてくる。

 缶を近くのベンチに置き、その白いものを両手で掴んだ。目の前にあるものはウェディングヴェールだった。なんでこんなものが降ってくるのよ。とりあえずヴェールが地面に触れないように、両腕を視線より上に上げた。

 両手で掴んでいるせいで、どんなデザインかがよくわからないけれど、手触りが抜群なのはよくわかる。そして裾にはとても繊細なレースが付いていた。ヴィクトリア王朝を連想するようなレースの横を、雪が通り過ぎる。その情景は幻想的だった。

 これ、どうすればいいんだろう。ヴェールを掲げたまま突っ立っていると、突然ヴェールが後ろへと引っ張られた。あっという間にヴェールは私の手の中からなくなる。振り向くと、背の高い男性が立っていた。

「拾ってくださりありがとうございます」

「いえ」

 男性の腕には、ドレスカバーの掛った服が五、六着ほど重なっている。その上にヴェールを乗せた。ドレスカバーから見える服は、ほとんどが白いものばかり。たぶんブライダルの関係者なんだろう。

「急いで非常階段を駆け下りていたら、手元が滑って落としてしまって」

「そうですか」

 ヴェールから視線を上げると目が合った。

 きれいな目。少し明るめのブラウンの瞳だった。

 身長も高い。たぶん一八〇センチ前後。

 雪はさっきよりも強くなり、男性の黒髪には白い点が増えていく。

「あの髪の毛に雪が積もっていますよ」

 男性の髪を見ていた矢先に自分の髪を指摘されて、ドキッとしながら自分の頭を軽くはたいた。

「早く中に入ったほうがいいですよ。僕もこれで失礼します。ヴェール、ありがとうございました」

 男性はヴェールを押さえながら小走りに去って行った。

 時計を見るとあと十分で休憩が終わろうとしている。ベンチに置いたお汁粉を一気に飲み干して更衣室へ戻った。

 ロッカーからへアーゴムを出し、髪を束ねる。サイドをピンで留め、鏡で入念にチェックをする。そして羽織っていたカーディガンを脱いだ。

「あっ、杉山さん。今日のシフトは午後から?」

「そう。鈴木さんは上がり?」

「うん。今日、寒くない?」

「外、雪が降っているよ」

「うそ。どおりで寒いわけだわ」

 鈴木さんは私の一つ上、中途で入ってきた人。さっぱりした性格で人当たりもいい。シフトが一緒になることも多く、よく話もする。

「じゃあ、お先に。お疲れさまです」

「お疲れさまです」

 バックを持った鈴木さんは首をコキコキ鳴らしながら更衣室を出て行った。その背中に向かってもう一度『お疲れさまです』と念を送っておいた。

 さて、私も頑張りますか。軽く伸びをして、深呼吸をする。これが私の仕事スイッチの入れ方だ。

「いらっしゃいませ」

 通り過ぎるお客様に挨拶を交わしながら、バンケットルームに向かう。

 バンケットルームに入ると、キャプテンである町田さんがバイトの子たちに細かい説明をしていた。今は期間限定のディナービュッフェがある。普段はレストランの担当だが、人手が足りない時はビュッフェを手伝うこともる。

 町田さんバイトへの説明が終わり、ほかのスタッフが集まった。今日の注意点や変更点の説明を聞き、それぞれの仕事に取り掛かる。アルバイトの子たちはメモ帳をもう一度見直していた。

 その姿を見ていると、新人研修の頃を思い出す。覚えなくてはならないことが多くて、メモ帳はすぐに埋まってしまい、やっていけるのだろうかと不安になった。あれから三年が過ぎて、少しは余裕を持って接客ができるようになった。

 テーブルやイスのセッティングが完了し、次にカトラリーやナプキンをテーブルの上に置く。

 そして料理のセットをするのが一番大変だ。大皿に盛られている料理は重い。温かいものは熱い。そんなものを何種類も運ばなければならない。何食わぬ顔で運んでいても『転ぶな、手元注意、平行に』を呪文のように心の中で唱えている。

 すべての料理が運び終わり、最終チェックをし、準備完了となる。あとはお客様を迎え入れるだけだ。

 六時半になり、予約のお客様や宿泊のお客様、食事だけのお客様がちらほらと入ってきた。

 席まで案内されたお客様が料理を取りに行き戻ってくる。このタイミングに合わせて、トレンチ(料理を運ぶためのお盆のこと)の上に生ビール、ワイン、カラフルなカクテルを乗せる。ほどよい笑顔を浮かべながら、テーブルにアルコールを並べる。

 ドリンク関係の給仕を終える頃には、空のお皿の回収が待っている。それを繰り返しいると、料理の補充や空いたテーブルの片づけも同時進行となる。

 そして夕飯時となる八時少し前から人がどっと増える。そこからは仕事量も一気に増える。やっていることは同じなのに密度が変わる。それはどれだけ視野を広く取りながら仕事をしていくかが大事だ。そうしなければすべてのお客様にサービスを行き届かせることはできない。慣れていないバイトの子たちに、タイミングを見計らいながら、優先してもらうべきことを伝える。

 ビュッフェの最終入店時間は十時のため、九時を過ぎると少し落ち着く。入ってくるお客様よりも帰っていくお客様の方が多くなる。

 こうなると片づけがメインとなり、少し肩の力を抜くことができる。それでも食事中のお客様が最優先だ。人が減ると食器の片づける音が耳に付きやすくなる。不快にならないように気を付けながらお皿を回収する。

 すべてのお客様が帰ると、スタッフの顔に疲労の色がすっと現れる。疲れたな、と思う。それでも会場を見ればやることはたくさん残っている。ビュッフェコーナーの片づけ、グラス、お皿、カトラリーの回収、テーブルクロスを外し、テーブルをすべて拭く。明日の朝、使う予定のないテーブルやイスをしまって、やっと仕事が終わる。

 重くなった足を引きずりながら、更衣室に行き、素早く着替えた。

 明日は休み。今日は早く帰って、すぐに寝る。そして明日は朝寝坊だ。予定ともいえない予定を考えながらホテルを出た。雪はもう止んでいた。積もるような雪ではなかったから、路面は雨が降ったあと同じようにただ濡れていた。

 空を見上げたとき、ヴェールのことを思い出した。すると無性にお汁粉が飲みたくなった。遠回りになるのに、わざわざ非常階段近くの自動販売機にまで来てしまった。缶のお汁粉なんて、コンビニでも、駅の売店でも、どこの自動販売機でも売っているのに。小銭を入れながら、あの男性を思い出した。どこかでちょっとだけ期待していた、また会えるんじゃないかって。こんな時間に居るはずないのに。

「あっ、お汁粉売り切れだし」

 仕方なく、隣のコーンポタージュを押した。ゴトッという鈍い音を聞きながら、お釣りをお財布にしまった。自動販売機に手を突っ込み、缶を取り出す。なぜかお汁粉を持っていた。一瞬びっくりして、次にラッキーと思う。そのお汁粉をカイロ代わりにして手を温めた。なんとなく良いことが起こるかも。お汁粉を見ながら根拠のない予感に少しウキウキした。

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