11 初恋
みられた。
見られた。
見られた――――!
「――――――っ!!」
肌が燃え上がるような錯覚。
ぎゅっ、と身体が竦んで、胸が痛いくらいに縮み上がる。
ふらふらと、覚束ない足取りがたたらを踏むように二歩、三歩。
手にしていた扇子が視界を遮るように立ったのは、ひとえに偶然の賜物。
「ま、待ってくれ!」
「っ」
引き留めようとする衣擦れの音に、びくっと震えながら足が後ろへ伸びる。
けれど背中は、すぐに扉に打ちつけられた。
「すまない、その…………決して脅かすつもりじゃあなかったんだ。神に誓って、嘘じゃない」
「っ…………」
――――嘘だ。じゃあ何であんなにしつこく追いかけたの。
問いは、けれど緊張感に締め上げられた喉をひきつらせるだけで、吐息となって唇の隙間をすり抜けていく。
「だからその、ご令嬢。これ以上近寄って怖がらせるつもりはないから、どうか話だけでも聞いてはくれないかね……?」
…………ご令嬢?
聞き間違いかと、首を傾げたくなってしまった僕は、寸前で動きを堪えた。
……もしかして、誤解してる…………?
からかわれているかもしれない不安。
途中で露呈するかもしれない危険。
――――けれども、やり過ごせれば今以上に傷を広げることなく終わらせられる。
脳裏を掠める悪魔の囁きが、思考を緩く溶かして一か八かの危険な賭けへと僕を誘った。
「ありがとう。と、ところでその、なんと呼べばいいか悩んでいるんだが」
逡巡が招いた沈黙を肯定と受け取ったらしい。
ほっと胸を撫で下ろすと、今度は何かを期待するような眼差しで僕を見つめ始めた。
……え、名乗れっていうの?
「…………ジェーン……」
「そ、そうか…………ちなみに家名は…………いや、聞かなかったことにしてくれ」
少し高めの声で誰かさんと呟いただけの、淑女の礼も家名も何もない名乗り。
貴族としては余裕で落第点の、しかし苦肉の策としての名乗りは、どうにもレイモンドを気落ちさせてしまったらしい。
「…………レイモンドは、どうしてここに……?」
「ん? 何故僕がレイモンド・ヘーゼルダインだと……?」
「……」
やっちゃった……! と己の迂闊さを呪っても後の祭り。
名前を聞かれただけで、レイモンドの方は名乗ってもいない。なのに顔を見知っているという不思議。
「…………もしかして」
……ば、ばれた…………!
記憶と比べるように今一度僕の顔を凝視する少年から、サッと扇子を上げて顔を覆う。
けれどもそれは、空しい抵抗に過ぎないはずで――――。
「ヴィンセント殿下から僕のことを聞いているのかね?」
――――はず、だったのだけれど。
…………え。
聞いている? 僕から?
「――――は、はいっ……」
……本当に全然これっぽっちも気づいていないの? という疑念を胸の奥に捩じ込めて、食い気味にこくこくと頷いてみせる。
「そ、そうか! あ、いや、別に内容まではいい。おおよその察しはつくからな!」
途端に、少年の表情が上向いた。
……???
わからない。
さっきまで落ち込んでいるふうに見えたと思えば、急に上機嫌になったりして。
まるで“大仰なウォルカス”のようだけれども、でも話をしているだけでそんなに気持ちがころころ変わるものかな…………?
「…………その、そろそろ、よろしいでしょうか……?」
「ん? ……どこへ行こうというんだね。――あっ、いやっ、決して引き留めるつもりはないがだなっ、その…………そう! ジェーン嬢さえよければだが、僕が責任もって付き添おうじゃあないか!」
「……いえ。人を待たせておりますので、レイモンド様はお気になさらないで下さいませ」
「そ、そうか……」
「では、失礼致します」
取りつく隙を与えず会話を畳めたことに小さくため息を漏らしながら、ちょんと膝を曲げて礼を取るのも半ばにそそくさと脇をすり抜ける。
これ以上、危険なやり取りを続けていくのは怖かった。
「――――じぇ、ジェーン嬢!」
「っ」
脇を通り抜けた矢先の、追い縋るような声。
逃げるように振り切るべきだという囁きと、怪しまれないように最後まで淑女のフリを続けるべきだという意見とが、胸の中で激しくせめぎ合って、次の一歩を迷ってしまった。
「そ、そのだな、また会った時には、そ、その……………………また、話をしようじゃあないか」
「…………楽しみにしております」
これ以上は続けさせまいと、色好い返事を置き去りに、今度こそ僕は足早にその場を離れた。




