10 絶対に見つかってはいけない昼下がり
レイモンドがきた。
その言葉を頭が呑み込むまで数拍。
「お兄さま、今日って何かあったの? んー、でもいっか。予備は何着でもあるし、お兄さまもレイモンドも大して背格好は変わらないし、着替えさせてこっちに通して」
「ダメええええええええええええ――――――!!」
制止の叫びに、リリアーナ様も女官もびくっと動きを止める。
でもダメなものはダメなのだ。
リリアーナ様のお遊びを深読みして罠に嵌った点についてはもう諦めた。さすがに洋裾の下まで覗き込もうとしたのは心の底からびっくりしたけれど、今更残念な異母妹の奇行にいちいち動じる僕じゃない。…………それはそれとして、今日の真実は一生胸に仕舞っておこう。知られたらとてもいけないことになる気がするから。
ミアに見られただけでも顔から火が出そうなくらい恥ずかしいのに、似合う似合うと褒めちぎられるから余計に心に刺さった。
女官の皆が交代でこちらを覗いては何かを確認し終えたように深く頷いて帰っていくのも、まるで僕の女装を自らの目で確認したかっただけみたいで深く考えたら心が折れそうになる。
だから、小離宮に今いる皆に見られてしまうのは仕方ないと割り切って、ひらひらしてるくせにやたら重たい盛装もリリアーナ様が帰ったら即刻破って脱ぎ捨ててしまえばいいのだと自分を慰めていたのに。
これ以上目撃者が増えるなんて、そんなの耐えられない。
レイモンドが女装を披露して僕と同じ辱めを受けようが受けまいが、そんなことはどうだっていいのだ。
「え、あー…………わかったけど、うんっと、今ので、どこにいるか聞こえちゃったんじゃないかなー……?」
「……!?」
おずおずとした指摘にハッとして魔力を広げてみれば――――確かに、こっちに近づいてきてる…………!
「どどどどどうどうどうしようどうしたらねえどうしていいのっ?!!??」
「――――にい。落ち着いて」
ぎゅっ、と。
胸の内を埋め尽くしてなおせり上がる動揺が、ミアに頭を搔き擁かれて、ふっと薄らぐ。
「隠れてやり過ごせばいいんだよ。――ね?」
「……! …………う、うん……」
落ち着いた言動に凛々しい格好も相俟って、瞬きするミアに物凄い頼りがいを感じてしまった。
…………男の子としてどうなの、と自己嫌悪に陥りそう。胸がどきどきしているだけに、なんか余計にミアの好きな物語のお姫様みたいで…………あれ、なんだか泣きたくなってきた……。
「レイモンドは今どこ?」
「……い、今応接間から出てきて、裏庭の出入り口に向かってきてる……」
「じゃあかくれんぼね! わたしもやるわっ! ――――ナバル! 貴方は茂みの奥に隠れてるのよ!」
「やっぱそうなるだか……」
目を爛々と輝かせ始めたお転婆姫に対して、よく訓練された護衛騎士はもはや口答えすらしない。踵を返すと、その巨体を隠せる場所を探して茂みの向こうへ歩いて行く。きっと茂みの奥深くで膝を抱えて項垂れるのだろう。
「さあっ、行くわよ!」
目的を忘れていないか心配になる大興奮ぶりで駆け出していくリリアーナ様を追って、精神的損傷から立ち直れていない僕の手を掴んだミアが凛々しく走り始める。
「にい、大丈夫? ごめんね、私が気づいて阻止できたらよかったんだけど……」
「だ、大丈夫だから……」
「うん。でも、走るのも辛いなら早めに言ってね」
「う、うん――――それは、絶対大丈夫だから!」
「そう?」
目を瞬かせるミアには悪いけれど、走るのも辛いなんてことには絶対ならない。
体力には自信があるとかいう以前に、今のミアにお姫様抱っこでもされたら大事な何かにとどめを刺される予感がしてならないのだ。
足にまとわりつく洋裾に悪戦苦闘しながら、魔力を広げてレイモンドの位置を探り直す。
……今は裏庭のお茶会会場にいるみたい。
記憶が正しければ机のある辺りを、誰かを引き連れながらうろうろしている。
……せっかく来てくれたレイモンドには悪いけれど、このまま諦めて帰ってくれないだろうか。
「どうかしら。わたしだったら絶対何か楽しいことしてる! って思って隅から隅まで探し回るわ」
「はた迷惑な……次から放置しておいていいよね?」
「お兄さまー。どうしたらミアちゃんが優しくなるのー……?」
元から可愛くて優しいミアしか知らないのだから、どうしたらも何もない。
「あっ。動き出した……!」
「えっ。――ほら、やっぱわかってるじゃないの。挑戦状を叩きつけられたら乗るのがオトコってもんでしょ!」
やたら勇ましいことを言いながら内容は遊ぶことしかない残念な異母妹を急かして、こちらに近づいてくるレイモンドから距離を離すように小離宮の中へ戻る。
「お嬢様方……?」「え、あ?」「もしかして」「あの艶やかな夜のような御髪は」
(ううううううううううう…………!!!!!)
我慢。我慢。我慢。
自分から皆に姿を見せて回っているような錯覚に囚われつつ、台所から奥へ奥へと先を急ぐ。
「皆、かくれんぼだから! 内緒ねー!」
通用口から姿を見せた僕たちに目を白黒させていた使用人たちも、リリアーナ様が言い含めるや否や苦笑とともに頷いて返してくれた。
……残念極まりない信用が今だけは悔しくも頼もしい。
「次はどっち!?」
「ええと、右!」
おのれ。レイモンドのくせに、こんな時だけ的確に通ったルートを選んでくるなんて……!
間の悪さに舌打ちしそうになる自分を内心で窘めつつ、焦りを思い出し始めた思考を駆って逃げ道を目まぐるしく選び抜いていく。
不安定な足元。
足運びを阻害する洋裾。
いつもより気をつけていたつもりで――――でも、いつもと違うことを、僕は実感していても十全に理解できてはいなかった。
「――――あうっ!?」
脚が掬い上げられる感触。
力に逆らわずに回ったからこそ、絹を裂く音は免れたものの。
「あちゃー、引っかかっちゃった?」
「にい。ちょっとじっとしてて」
戻ってきてひょこっと覗き込んだリリアーナ様がしょうがないとばかりに頭を掻いてミアを見る。
体勢を崩しかけた僕を抱き留めたミアはといえば、真剣な表情で布地に食い込んだ邪魔物を外しにかかった。
情けなさに込み上げてくるものを、それでも堪えられたのは偶然でしかない。
「外れた。ほら、にい! 行こう!」
「うん――――えっ、あっ、待って、こっちは」
咄嗟に引き返しかけたところで、レイモンドの位置を確認してしまった足がだんっと音を立てて停まる。
「あ……こっちって客間だっけ?」
「奥は衣裳部屋で行き止まり」
「――――あ。でも、窓があるじゃん!」
「後でその発想の出処を聞くからね」
「えっ。…………ア、ハイ…………」
袋小路に追い詰められた閉塞感を、お姫様にあるまじき発想で以てリリアーナ様が打破してみせる。
そのまま扉を開け放ちながら奥へ奥へと逃げ込んで、
……高い。
久しぶりにまともに目にした窓枠に、足が止まった。
小さくはない窓枠だ。むしろ、衣裳部屋という点を考慮するなら大きい方とさえ思える。大きさにしたって、僕らの身体なら通れないことはない。
――ただし、それも普通の衣装を纏っているのならの話だけれど。
「どうしたの!? 行かないなら先行くよ?!」
立ち止まって思案を始めた僕の脇をすり抜けて、一国の御姫様がひらりと身を躍らせて姿を消す。……手慣れ過ぎている。
「にい。私が抱えてみて……」
どう考えても盛装の洋裾が邪魔になる。出っ張りに引っかかりそうなところとか特に。
でもでも、そもそも逃げ回っている理由は、他ならぬこの姿を見られたくないからだ。僕が逃げられないなんて、話にならない。
「どうしたのー……! 早くしないとくるよー……!?」
潜めた声が窓枠の向こうから前進を促す。
「……ありがと、ミア」
「じゃあ」
「でも、隠れてみる」
居並ぶ衣装戸棚は、来客のない今に限って言えば空の籠になる。
ここまで来てみれば、順当に考えて窓から逃げたと考えるのが妥当なはずなのだ。余程慎重な性格でもない限り丹念に検分することはないはずで、レイモンドなら地団太を踏んで頭を掻きながら居間に戻るか帰るかする可能性が高い。
「じゃあ、くれぐれも物音を立てないように気をつけて」
「うん」
内側から閉めることを想定していない扉の隙間からそれだけ言い残して、薄明かり諸共ミアの姿が扉の向こうに消える。すぐに窓枠を潜っていく物音がして、足音が離れていった。
「……」
口元を押さえて、じっと息を潜める。
どれくらいそうしていればいいのかなんてわからない。早過ぎたらレイモンドに鉢合わせしてしまうし、かといってミアが扉を開けるまでこんなところでじっとしているのも窮屈だし。
「……窓? 窓から逃げたっていうのかい? 一体全体、なんだっていうんだ? そうまでして僕に見つかりたくないものでもあったっていうのかね?」
けれどもそんな心配は無用だった。
うーむ、と頻りに首を捻る様子が目を閉じていても容易に思い浮かぶくらいの声で、レイモンドが独り言をこぼしていた。
「……わからん! とにかく、外に回るしかないか!」
そして軽快な拍子で足音が遠退いていく。
「………………ふー」
こぼれたため息は、静かな衣装戸棚の中だと想像以上に大きく聞こえた。
ああ言って足音が遠退いていった以上、レイモンドは外に回って痕跡を探すかそれとも追うこと自体を諦めるのだろうと思われる。
そして実際に、魔力の動きで追いかけていたレイモンドが小離宮の外に出たところで、意を決して僕は衣装戸棚を押し開いた。
音もなく開いた扉からできるだけ静かに外に出て、そのままそっと扉を閉める。
……暑い……。
嫌な汗もあるけれど、冬物の洋裾だけあって首元までしっかりと覆うタイプだからか、衣装戸棚のような空気が動かない場所では思いの外暑く感じられた。
「……あ。ちょうどいいところに」
首筋や鎖骨までもぴったりと覆うせいで隙間を広げて風を通すこともできないともどかしさを感じていたのだけれど、解決手段はきちんと衣装に用意されていた。
小脇に垂らしていた扇子を広げてぱたぱたと扇ぎながら、心地よい涼しさを楽しみつついつもより踵の高い靴でそろーっと外へ通じる扉を通り過ぎていく。
……さて、窓の外へと逃れたミアとリリアーナ様は今頃どうしているのか――――
「――――え」
「――――ぁ」
金髪の少年が、曲がり角から現れた。




