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王国の君  作者: てんまゆい
二章 外へ
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07 乗馬

 祷朗月とうろうづきの三〇日。

 年の初めの月の、その終わりの日。

 遅れを取り戻すべく詰め込まれた講義をなんとかやっつけた、そんなあくる日の午後。

 心にのしかかる疲労感はあるけれど、やるべき事をやり遂げた清々しさは今日の快晴のように朗らかな心地よさで満たしてくれる。


「改めて、アタシが乗馬の方も見ていくからよろしく」


 分厚い唇を動かして宣言する大男に頷いて返すと、彼は満足そうな表情で厩舎の中へ手招きする。


「……ぅ?」


 微かな、けれども鼻につく臭い。

 土と、藁と、排泄物の臭いだというのは、ブルーノが教えてくれた。


「厩舎の辺りに近づくのは初めて? ……ま、アタシも花の匂いの方が好きだわ~」


 眉根を顰めて立ち止まってしまった僕に、けれど軽く茶化しただけで騎士は先を行く。――――なんてことないわよ、とその大きな背中が告げていた。


 王城の東西に二つ。

 今回の行き先は、そのうちの西にある王族専用の厩舎。

 漆喰の白壁は見る者の目を楽しませるように色とりどりのタイルが貼られ、青い屋根を被った二階部分には一定間隔でいくつもの窓が連なっている。

 時折馬のいななきが漏れる二階建ての手前で手持ち無沙汰にしていた使用人たちが、僕たちを見つけて小走りで近づいてきた。


「ようこそいらっしゃいました。私めは第一御者の――――」


 壮年を過ぎて頭に白いものが混じり始めた頃合いの男性と、それより幾分か若めの男の二人。


「伝えた通り、前半は慣らしよ。乗ってもらって、できれば歩かせるくらいまでね」

「はい、準備はできておりますので。さあ殿下、どうぞこちらへ」


 そうして、貼り付けたような笑顔を浮かべる大人に誘われるままに厩舎の中へ。

 居並ぶように並んだ仕切りをいくつか横切った先、案内された場所には一頭の白馬。

 なだらかな曲線を描く真っ白な体躯。すらりとした面立ち。さらさらの鬣。絵に描いたように優美な雰囲気で佇む白馬には見覚えがある。

 つまりは、誕生日のお祝いにロニーから贈られたあの白馬に違いはなく。

 白く煙る睫毛の向こうで、円らな暗色の瞳が穏やかに瞬いていた。


「不思議ですね。よく落ち着いてる」

「うむ。おそらく自らの主じゃと認識しておるんじゃ。王族ともなれば、特別な資質をお持ちなのも当然よ」


 ティオラ。

 後日、“流星(meteor)”にちなんで名を付けて。

 けれどもそのままになっていた白いプレゼントは、見知らぬはずの僕を前にして、いななきもせず、けれどもじっと僕を見つめているような気がした。


「さあ殿下、どうぞお近くに。馬というのは人より大きな動物ではありますが、このように気性の穏やかな生き物です。そっとお近づきになられて、どうぞ触れてやって下さいませ」


 横に渡された鉄の棒の向こう、その時を待っていたかのように大人しく佇む真っ白な頬にそっと触れる。

 白馬(ティオラ)は、くすぐったそうに小さく身を捩って、けれども驚いて離した僕の手を追うように、そっと横顔を寄せてきた。


「……つやつや……」

「ええ、馬ほど手触りのいい生き物はいないかもしれません。ご遠慮なさらず、首の辺りも撫でてやってくださいませ。鼻先はとてもやわらかなものですから、そちらもご興味がございましたら、併せてこのように」


 慣れた手つきで、ともすれば多少無遠慮にも思える手つきで、御者を務めていると挨拶した使用人が撫でやる様子に、おっかなびっくりと伸ばしていた手先を、思い切ってぺたりと触れて撫でてやる。


 ……温かい。


 手触りの良さの次に感じたのは、じんわりと伝わる熱と波動。内側から湧き上がるように伝わる振動が大きな身体の奥底にあって、それでも命が持つ確かな熱と力強さを手に返してきた。


 そうして、穏やかに受け入れてくれるティオラを撫でて、林檎を与えて、刷子(ブラシ)で梳って。

 勧められるままに触れあって、心の向くままに身を寄せて、そうして慣れた心が緊張を解いた頃合いで、様子を見守っていた騎士が踵鉄(そこがね)を鳴らして身動ぎした。


「じゃ、そろそろ背中に乗ってみましょ」

「え? ――――わ、わっ」

「そう動揺しないの。この子もびっくりするから、ほら、慌てないで身体を預けてなさい」


 断りもなく両脇に差し入れられた手が事も無げに僕の身体を持ち上げる。

 心の準備もできずに慌てふためいた僕につられたかのように、それまで穏やかに佇んでいた白馬はいななきを漏らして身動ぎして。

 けれども見守っていた世話係の人たちが動くより先に、騎士は僕を片腕に抱え直して馬を宥めてしまった。


「南西部出身の騎士よ? とんだじゃじゃ馬だって、アタシにかかれば皆カワイ子ちゃんよ」


 不意打ちで「ウフン♪」と投げられたウインクに、うろり、と視線が泳ぐ。「失礼しちゃうわ!」と不機嫌な声を漏らしながら、それでも騎士は丁寧な手つきでティオラの背へと僕を預けた。


「ほら、大丈夫よ。こんな狭いところじゃ満足に動けやしないし、何が起こってもアタシがどうとでもしたげるから、もう、男は度胸! しゃんと背筋伸ばして座ってなさい!」

「あ、あ、わ、えっ――――っ!? う、っく…………! けほ、は、はい……っ!」


 落ち着かなげに足踏みを始めたティオラ。

 重かったかなとか、降りた方がいいのかなとか、そんな気がかりを無用のものとばかり、分厚い手のひらがばしん――――というかむしろずしん、と背中を叩いた。

 思わず伸びた背筋をそのまま伸ばして座っているうちに、ティオラが今の状態に慣れてきたのか、あるいは傍らに立つ騎士によってか、そわそわとした様子も鎮まってきた。


「じゃあこのまま乗ってなさい。姿勢だけ気を付けて、後はこの子の動きに合わせて鞍の上で上下に揺れていればいいから」


 落ち着いてきた状況にほっと息を突きかけた矢先の一言。ぎょっとする間もなく柵が開いて、騎士が手綱を引く直前に慌てて両膝で鞍を抱え込む。放り投げられた言葉を頼りに、ゆっくりした歩調に合わせて突き上がる衝撃を、太ももの筋肉を張って受け止めて、上下の動きに沿って身体を揺らす。


「浮かない顔してどうしたの? 視点が高くて怖くなった?」

「…………」

「あら、違う? そこがダメって人もいるけど、あっさり越えられるならいいことじゃないの」


 ……先生に投げ飛ばされたりイーズに浮かされたりしてるし……。

 不意に高いところにいる状況っていうのは、怖いとはいえ、慣れているといえば慣れているのだ。


 じゃあ何? と訝しがる視線の居心地悪さに落ち着かなくて、迷い込んだような気持ちの断片が舌に乗って転がり出た。


「………………うまく、できないから……」


 手綱は引かれるまま。

 歩く速度はとってもゆっくり。

 今もちらちらとこちらの様子を窺っているのは、何も手綱を握る騎士だけじゃない。後ろにいる使用人の二人も、万が一がないように落ち着きがない様子でついてきている。


「…………何言ってるの。誰もが通る道じゃないの」

「っ。…………だけど、僕の馬なのに…………上手に乗れてない」

「冗談。今日が実質最初の顔合わせでしょ? まして触るのも乗るのも今日が初めて。ならこうして乗れてるだけ上出来よ。手ぇ抜いてたらとっくに足が持たなくなってるわよ」


 呆れたようなため息を漏らして、騎士が片眉を吊り上げる。


「アタシが何年馬に乗ってきたと思ってるの? もう三〇年以上よ? 七つになったばかりの殿下の四倍以上よ、四倍以上! ――――今アタシをオッサンって思わなかった?」

「えっ、やっ、え、そんなこと……ない、です」

「…………まあいいわ」


 自分から年齢がわかるような話をしておいて、どうして睨まれなきゃならないんだろう。

 でも必死にこくこく頷いておいた。だって怖いから。


「馬の牡牝どころか性格やその日の調子だって一目見たらだいたいわかるわよ。後ろの二人なんてそれこそ馬に人生費やしてきたんだから、機嫌の取り方なんてお茶の子さいさいよ。あそこが痒いとか、林檎が好物とか、頬を触られるとくすぐったそうに離れるけど実はちょっと甘えてるだとか、そういう機微を一つ一つ世話して痛い目見て覚えてきたわけ」


 もっともな言葉で、理解できる内容だと思う。かけてきた時間と経験が裏打ちするものなのだから、その努力が報われている結果として今があるのだから、できない自分に不満はあっても、騎士や御者がティオラのことを理解していることに不満はない。


「もっとこの子と仲良くなりたいなら、人間と同じように愛情持って接してあげなさい」

「人間と……同じように?」

「物の例えよ。相棒扱いってこと。嬉しいことをしてくれたら嬉しくなるし、楽しい時間を一緒に過ごせばまた一緒にいたいと思うでしょ」

「うん」

「だからこの子も同じ。餌をあげたり、刷子かけたり、乗って運動させてあげたり、この子が好きそうなこととか、やりたいこととか、そういうことに付き合ってあげて、少しずつ受け容れてもらうの。まだまだこれからなんだから、つまんないこと考えてないでやることやんなさい」


 ぱしっと背中に当てられた手のひらは大きくごつごつとしていて、それでも温かい。


 ……人だって馬だって、楽しいや嬉しいは同じなんだ。


 同じように触れて、同じように温かくて。

 その言葉は、胸にすとんと落ちた。


「……うん。わかった」

「ま、こんな説教染みた話は終わりよ。ヤダヤダ、年寄り臭いったらないわ。それより楽しいことでも考えましょ。っていうかまさに今、白馬の王子様よ? おまけに美少年なんだから、女の子にモテモテになるわよ。……あら、そう考えるといいわね、美少年のエスコートって役得じゃないの……」

「? もてもて?」

「もうっ、好きです~、お慕いしてます~って女の子が寄ってくるってことよ!」

「好き。……ミアのこと?」


 えへって頬を緩めて、ぎゅっと腕に抱きついてくる。僕のことを好きだって言うし、僕だってミアのことが大好きだ。

 あと、女の子っていうなら、異母妹のリリアーナ様も、ミアを真似てじゃれついてくることはある。事あるごとに遊びに来るし、表情がころころ変わるのは見ていて飽きない。好きかって聞かれたら、可愛い異母妹だもの。好きだ。


「何? ――ああ、乳母子のこと? なに、幼なじみとラブラブなわけ? いいわね、ちょっとどんなことしてるのかお姉さんに話してみなさいよ!」

「あっ、わ、わっ!」

「ほらほら、弛んでるわよ。その程度で動揺してたら相棒になっちゃくれないわよ」

「なになに、二人で何して遊んでるのー!」

「ちょ、待ってっ、ロニーも突っ込んできちゃだめええええええ!」


 騎士礼服の肘が無遠慮に脇腹を小突く。身を捩った僕につられて馬体を揺らしたティオラを器用に操る騎士に文句の一つでも言おうと口を開く僕の行く手には、騎馬を器用に操って近づいてくるロニーの姿があった。

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