報告
「王国どうこうの話どころではなくなったというわけだ。なんせ、火がついたのは自分の家も同じ。他人事にまでかまけている余裕はなくなった」
「それは…………そうだろうな」
「城も割合静かになった。鼠ともども出て行った雀が戻ってこないうちに、俺も家の掃除に取りかかる必要がある」
極上の衣装に身を包んだ男が、摘まんだまま弄んでいた乾酪を口に放り込む。
三ヵ月前、両殿下のお披露目の席で起きた騒動で、ある一つの事柄が貴族たちの間を駆け抜けた。
すなわち――――離婚に関する新たな見解。
波紋は即座に広がった。
各々の家でくすぶっていた離縁問題に火がついたのだ。
当然のなりゆきといえる。問題を抱えていない家などどこにもなく、また、婚姻がその一つであることなど珍しくもないのだから。
――――そもそもの話として。
貴族における結婚とは、家と家との契約に他ならない。婚姻を、利害関係の構築手段や取引材料として、家々は相手を見繕い、双方が利益を見出だしてようやく仮契約まで話が進む。
次いで、腹の探り合いを終え、お互いの最終確認が済めば、ここでようやく婚約発表に至る。祝いの準備も必要だが、ここからは余程のことがない限り白紙にはしないぞという宣言なのだから、慎重を期すのは当然のことだ。
そして最後、婚姻が成れば、二人は一生を添い遂げる。我らが主の御前における神聖な契約は、同じ主の定めた罪をおいて他に断ち切れようはずもない。実情としても、家の体面と利益がかかっている以上は、例え本人たちが抵抗しようとも家が強いる。本人の意志が介在する余地など、あり得はしない。
寝物語に母親が読み聞かせる幸せな結婚生活などまず望めはしない。
現実の契約に縛られて、若者は悲嘆に暮れ、あるいは己の無力を噛み締めるのみ。
古来より、婚姻とはそういうものだったのだ。少なくとも、貴族の家に生まれついたからには。
――――それが、覆った。
――――夫と妻の同意があれば、離縁が叶う。少なくとも、神はお許しになられる――――
真実の仔細はともあれ、その小火は、トレキア家の顛末とともに社交界を駆け抜けて――――後悔や嫌悪という名の油と出会ったことで、盛大に燃え上がっている。
方々で起こる離婚騒動。
容易く揺れ動く社交界。
これが、王国の今に他ならない。
想像通りに事が運んだ結果を振り返ってか、男は笑みを浮かべてグラスに残る葡萄酒を舐めている。
「……随分と恨まれとるぞ」
「火消しが終わって、それでどれだけの家財が残る? 家屋は、人が住める有り様か?」
父が父なら子も子だと、呆れの混じったため息しか出てこない。
もっとも、目の前に座る本人は強く否定するだろうが。
騒動が落ち着いても、元より内輪揉め。最初から徒労でしかない。得るものなど何もなく、騒動で家名には瑕疵が残り、損耗した貴族家は力が弱まる。最悪の場合、家を二分しての争いや、他家の干渉で家が引き裂かれる可能性もある。
弱体化したならば、どうとでもできる。逆らう力を失くした貴族たちを、飼い殺しにしてやるもよし、時期を待って取り潰すもよし。
ただし、自らが二の舞になることは避けねばなるまいが…………仕掛けておいて慢心に足元を掬われる段階は、はたして過ぎたろうか。
さんざん煮え湯を飲まされてきたのはわかるが、それでは民草が苦しむことになろう。…………いや、結局は悪辣な貴族を成敗せねば元は断てんが…………なあ。
「この機会、大貴族は見逃しとらんぞ」
「それも、ここで網を張っていればいい。…………聖堂の神官が、随分と忙しそうにしている」
なるほどな、と老骨は頷いた。
余裕の根拠はそこか。
確かに、三ヵ月前の話は瞬く間に広がった。
しかし、噂話というものは尾ひれがつくもの。
伝聞が続けば内容は欠け、しかし生じた隙間は、各々の想像や希望が独りでに埋め合わせ、やがては歪に膨れ上がっていく。
トレキア男爵家の離縁が成り、なおかつ何事もなく済んだのは、男爵家にとっては偶然がもたらした幸運でしかない。
――――枢機卿が、手を回した。
――――司教が、思惑に沿って動いた。
――――国王が、利益を見出だして協力した。
利益を見て取った枢機卿が娘を遣わし、老獪な司教が必要に応じて聖書を解釈し、先を読んだ国王がトレキア家の離婚を認可した結果なのだ。
振り返って、王国を席巻する離縁騒動はどうか。
最初の発起人は必要ない。事を起こすのは自らなのだから。
国王の認可も、あれば心強い後ろ楯にはなろうが、よしんば無くとも離縁は可能。
むしろ、王都の貴族たちを除外すれば、離縁で面子を潰される大貴族に睨まれないかの方が心配事かもしれん。
だが、聖書の解釈をしてみせた神官。あれほどの者はそうそう見つかるまい。
聖書の解釈など、誰にでもできることではないのだから。
まして、あの場には聖国の使者もいた。
それを相手にして、逆に丸め込めるだけの弁舌を弄せる者となれば、ああした経験豊富な神官でなければ不可能だろう。
あるいは、貴族でなければ、地方の神官でもなんとかなるやもしれん。
だが、その土地の領主を勤める者たちを相手にするとなると、逆にその土地に住まう神官なればこそ、手に負えなくなる。
同様の離婚話だけに絞って伝聞を真似て沙汰を下すならともかく、地方に埋もれる程度の神官であれば、“公正な”裁きを下すには神学の勉強不足が露呈しかねない。
貴族ともなれば、より詳細な話を拾ってきた上で、沙汰に異を唱える者も少なくはあるまい。下手をすれば、辻褄合わせの綻びが元で逆恨みを買いかねん。
そんな厄介事を御するとなれば、それはもう言い出したあの老司教をおいて他にない。
そうして王城付司教座聖堂に貴族たちが通い詰めている…………というのが、今の実情というわけだ。
国王にしてみれば、自分の庭を彷徨く貴族たちを観察しておけば、どこの誰にどんな紐がついたかはある程度推察できる。
人を踊らせる大貴族すら、今に限って言えば、多数の貴族に手を出しているために、動きや意図が透けて見えることになるのだ。
……朱に交われば赤くなる、か。
――――硬い音が響いたのは、その時だった。
「ん? 客か?」
「予定はないが…………」
「…………さて、そろそろ儂も帰る頃合いか」
「入れ」
動きを問う視線に、老爺は葡萄酒の残りを呷る。
だが、立ち上がりはしない。
「失礼します」
入ってきたのは、二人。
一人は、中年の男。
雑に伸ばして手入れもろくにされてない暗色の髪に、無精髭。その長身痩躯は、魔導師のローブの下によれよれのシャツを着込み、傷んだレザーパンツと底の削れたロングブーツを穿いている。
しかし、だらしない身なりに反して、立ち姿には妙に隙が乏しい。ゆったりした服の下は、鍛えられていると見た。
見覚えがある。新しく配属された副魔導師長。名は……確か、ロドニー・ラムレイだったか。
……? もう一人は、若いな。
魔導師のローブに似た、しかし多少質の低いものを着込んだ青年。特に目を引く目鼻立ちというわけでもなく、かといって立ち振る舞いにも推し量れるものはないように見える。
いかにも不慣れだと言わんばかりにガチガチに緊張している様子からして、貴族階級とはいえ、公の場に馴染みのないあたりの家の出だろう。
…………ふむ。何かあるな。
国王自ら捻じ込んだ魔導師が、見習いをつれてきたという事実。
――――思い出すのは、ヴィンセント王子だ。
孫娘伝いに聞く話が多いということもあるが、思い当たる節はそれしかない。魔導師長を摘まみ出すには役者が足りないのだから。
「……夜分に申し訳ございません。ですが、火急の報告に参りました」
入室した魔導師が膝をつき、しかしそれ以上は続けない。
「……儂も聞いていいか?」
「帰るんじゃなかったのか。……孫娘が待っているぞ」
「ヴィンセント王子の話じゃないか?」
「…………」
対面に座る男は素知らぬ顔で沈黙を保ち。
魔導師は伏して身動ぎすらなく。
――――しかし、魔導師の後ろで跪いていた見習いは、小さく震えた。
……当たりか。…………一波乱、あるか。
どうしてもと言われれば大人しく引き上げるつもりだが、元々指南役を任される予定だった身としては、首を突っ込みたくもなる。
無論、貴族として身の振り方を考える材料にするつもりはあるが、
……そろそろ引退したいが、セリーナはいつ結婚できるか……。
まさか拾い物に懐くとは思わなんだが、本人なりに楽しくやっとるしな。
箔付けがてらヴィンセント王子に仕えている以上、老婆心ではあるがこっそり伝えてやろうとも思う。
騎士団長らしく厳つい顔だが、こう見えて後進の世話を焼くのも好きなのだ。
当主として利益のない話を許すわけにはいかないが、しかし個人的にはやりたい放題好き勝手すればいい。若者の情熱が暴走した結果を尻拭いするのは年寄りの醍醐味だろうて。
……儂も散々やんちゃしまくったしな……!
遠く過ぎ去った輝かしき日々を思い出す楽しみは今少し先の隠居後に取っておくとして、今は息子の話と察した国王がどうするかに注意を戻した。
「……続けろ」
国王の考えでも利害は一致したらしい。
言葉を聞いて、老騎士は元の椅子に腰を落ち着けた。
上物の葡萄酒が繊細なグラスの中で踊る。
……この銘柄は儂も気に入っとるからな。
豊潤で奥深い香りが特徴のヴェルディッティだが、如何せん旧マルゼール王国領が戦禍の只中にあるせいで値段も跳ね上がったし流通量も落ちた。
……後生大事に仕舞い込んどるよりは、勤労に粉骨砕身してきた老爺に振る舞ってしまえばいいじゃろ。罰も当たらんぞ?
一瞥した国王は、しかし何も言わずに報告を急かした。
「……ヴィンセント殿下につきまして、急ぎご報告に参りました。やはり、魔力量に大きな隔たりがございます」
隔たり。
……魔導師長に手が届くか?
「測定値の報告では一三八二でしたが、それでは説明がつかない量を扱っておられました。詳細については、直接担当させていただいている魔導師見習い、ノリー・チャドウィックよりご説明差し上げます」
身を低くしたまま下がった魔導師に押されて、おっかなびっくりといった様子で青年が前に出る。
「ほら、これで納得したろ。さっさと上奏しろ」
「は、はい……」
青褪めた横顔だけで吐きそうなくらいの緊張感が滲んで見える。
予想だにしないしない人生だろう。
しがない子爵家出の魔導師見習いでありながら、王子の指南どころか国王の私室で謁見する羽目に陥っているのだから。
「……ノリー・チャドウィック。落ち着いてからでいい。報告を始めてくれ」
伏した青年が震えた声で口火を切るまで、しばしの時間を要した。
「っ……わ、私が測定値に違和感を懐いた切欠は、殿下に魔力を掴んでいただくところで躓いた時でした」
魔道具を用いても、何かが削れる感覚を訴えない。
他の魔道具を試し、薬にも頼り、呪いを疑うことさえしたが、それでもなお魔力を感じ取られることはなかった。
手を尽くして、最後の手段と、魔力の枯渇を引き起こすことにした。
「体調を崩したと聞いたのは、そういうことだったか」
「……っ! も、申し訳ございません……!!」
「いい。続けろ」
そして、ようやく魔力の感覚を掴まれた殿下が、初めて【水流】の魔術を使われた。
「そして殿下は、大量の水を集められたのです」
人一人を呑み込んで余りある程に莫大な量の水。
「その時、疑念は確信に変わりました。魔術を用いる場合、特別に魔力を込めなければ、発動に用いられる量は、おおよそその総量の五〇分の一程度とされております。多少の変化はありますが、それでも扱いやすい量は変わりありません」
頷ける話だ。
座学の内容は遠い記憶だが、長年を騎士として過ごしてきた実感として、その説明は矛盾しない。
「そして、一の魔力を用いて出せる水の量も決まっております」
生業として魔術を扱う者なら、周知の事実だ。
そして戦を生業とする者も同様に知悉している事柄となる。糧秣と並んで水の確保は将校の頭を悩ませるものの一つであればこそ、実戦経験のある魔術師は死活問題としてそれを理解している。
「以上を踏まえて申し上げれば…………私見ですが、お使いになられた魔力は――――」
――――――――――――――――一〇〇前後でした。
その一言は、老骨をしてその身を震わせるに値した。
……何というか、色々不味いだろう。
推察される総魔力量にして、五〇〇〇〇前後。
王位をして、長子相続を覆すに足る。
現在の均衡が崩れる。
血に宿る潤沢な魔力を狙う者はヴィンセント王子を守り、対してレオンハルト王子を王太子として担ぎ上げようとしてきた者達は捨て身で殺しにかかる。
王国に亀裂が走る幻影が、近衛騎士の長の視界を確かに過った。
「――――その話、何故今まで伏せていた?」
不意に隣から漏れた、刺すような冷気。
脂汗が噴き出す感触に震え、しかし老骨は、自らの主に先んじて口を開く。
侍従長か、国王秘書官か、せめて近衛騎士団長の他に頭を使うのが大好きな酔狂共の一人でもいればよかったが、席を外している以上は仕方ない。不在を嘆くのは後にして、今ここにおいては、肩書きのある老爺が汚れ役を引き受けねばなるまい。
部下を叱責する必要はあるにしろ、感情を昂らせた今のフェルディナンドでは、怒りに任せた詰問になるのが目に見えている。
……青さも抜けたかと思ったが、忘れ形見だけは折り合いがつかんか。
死んでも旦那を振り回す女じゃなあ、と旧友の娘の儚げな姿を思い起こしながら、顔は欠片も揺るがず若者を睨む。
「答えろ、魔導師見習い」
腰に伸びかけた手を抑え、代わりに魔力で以て刺し貫く。
得物は外しているが、言い訳如何によっては叩き切る――――そう理解させるための、意思表示だ。
「…………………………………………」
はく、はく、と。
上げられた顔はこれ以上ないほど血の気が引き、屍蝋のごとく白い。
呼吸すら忘れて唇を戦慄かせる様に、言い訳を舌に乗せるほどの余裕があるようには見えぬ。
「…………だれ、に」
「……何?」
「っ…………誰に、申し上げれば、よかったというのですか……?」
果たして。
漏れた声色には、抑え切れない怒りが滲んでいた。
「誰が、私を見ていたと、言うんですか。先生は、雑務ばかり。同じ、見習いだって、押し付けてきて。不足だと、詰られ。…………後始末が、僕の責任? …………どうして、僕だけ、教われないんですか……?! っ…………誰も、頼れなんかしなかった! ヴィンセント様だけが!! 殿下だけっ……………………だけが、僕に、機会を……下さって……!」
「わかってる…………もう、十分だ。不遇な中で、お前は十分よくやったよ。な? そのぶん、おれが教えてやっから、そのくらいで落ち着いとけ。今は、陛下の御前だ。な?」
吐露し尽くせない思いを両の目から零す青年の肩を、ロドニー・ラムレイが労わるように叩く。
……恩、か。
成程、これだけ時間が経ってようやく露見したのは、そういうわけか。
マクダーモットの倅が、あー………………隠居だ、隠居に追い込んだ男だけとは断定できないにしろ、それでも噂の一つも流れて来やしなかった。
火消しに回ってる奴がいるかもしれねえが、何が何でも排除する程悪辣な罵詈雑言は…………いや、だが、離婚騒動で逆恨みを買ってるから、紛れてる可能性もあるか……。
とにかくだ。腹の内に抱えてたんだろう。
それを、てめえの都合で詰問しなきゃならねってんだから、本当に嫌な役回りだ。苦労した若者を、それでも疑わなきゃいけねえってか。……やり切れねえが、やるしかねえな……。
黙して腰を下ろし、瞑目する。…………込み上げる苦みに、蓋をするように。
「……では、次だ。誰に話した」
「……他に話した相手は、ヴィンセント殿下にお仕えしている、クリスという指南役の軍人のみです」
吐き出すものを吐き出し終えて、半ばやけっぱちに見えなくもない目が、老騎士をまっすぐに見返した。
「…………」
………………………………儂、聞いてないんじゃけど?




