03 王国近代史
大きく分けて、王国は五つの地域から構成される。
一つは、中央部。
北をカルミア湾、東をテアリー河とその源流、そして南と西を山脈に囲まれた土地。
あるいは、王都を中心とする、スレイスロード王家の影響が強い土地。王家直轄領がやや斜めに南北を走り、東には二伯二子五男、西には二子三男がそれぞれ土地を治めている。
一つは、北東部。
北を北限山脈、東と南を山脈、そして西をテアリー河とカルミア湾に接する土地。シアーノス辺境伯家を筆頭に、一伯三子一一男の貴族家が領地を治める場所。
ちなみに僕のお祖父様は、カルミア湾と北限山脈に接するブレットノア子爵家の当主を務めている。
一つは、南東部。
北は山脈を挟んで北東部と接する。東端から南端にかけては、東の一部をレックラント皇国と接し、そして南の大半は銀嶺を挟んでバルビエ大公国との国境が走る。西側の境は、プレンヌ湖と赤土山脈が隔てている。
この一帯を支配する大貴族はアルルス侯爵家で、その傘下で二つの子爵家と一九の男爵家が地域を統治している。
ソウスケの地元のヒノ辺境伯家があるのもこの地域だけど、多くの場合は別に扱って六つの地域とすることが多いと教わった。
一つは、南西部。
北はランパディア山脈、東はブレンヌ湖と赤土山脈、南端はアーセンティア貴族連盟との国境を銀嶺が隔て、西に豊かな恵みをもたらすバーズリー湾が広がる。
ブレンヌ湖から山々の狭隘な隙間を抜けた水が西へ流れ、ブレンヌ河の流域に広がる平野と河口に面した港町を支配する者こそは旧き家柄のミフィーユ侯爵家。さらに一伯三子九男の貴族家が、周囲を取り巻くように土地と領民を支配している。
王国の中でもとりわけ旧く歴史ある地域であり、温暖で豊かな自然がもたらす恵みを受けて繁栄を続ける地域だと聞いた。
「――――ふむ、よろしい。最低限は理解されているようでなによりだ」
二、三の質問を重ねた後、教壇に立つ壮年の男性は、満足そうに髭を撫でた。
「近代史の概説から始めると申し上げたが、具体的には一〇〇年前から始める。王家ではちょうど五代前の代替わりが行われた年だ」
ソウスケに誘われるまま、早速王都の邸宅を訪問する――――というわけにはいかなかった。
もちろん、予定の擦り合わせがある。ソウスケの方も準備が必要だと言っていたし、護衛の騎士を全員連れて行くわけでもないから、誰が一緒に来るかという話もある。その辺りは、リタとソウスケとで話をすると言っていたから、僕としては話がまとまるまで待つくらいしかない。
そしてそれとは別に、三ヵ月もの謹慎は、決して小さくない遅れをもたらした。
その一つがこの、王国史の講義の始まり。予定が崩れた埋め合わせとばかり、午前中の予定が二週間以上先までみっちり埋まっている。
だから、少なくとも遅れを取り戻すまでは、王宮の外に出るどころじゃない。
「後の“血剣王”と言えば聞き覚えはあるかね?」
心当たりはない。
王様につけるには血腥い異名に顔をしかめてしまいながらも、素直に首を振って見せると、講師は気にしたふうもなく一つ頷いた。
「王の中でも指折りの戦巧者であり、近衛騎士団長を自ら務めるほどの武人であり、そして言葉を憚らずに言えば、大の貴族嫌いでもあった」
……? どういうこと?
貴族嫌い、という言葉が引っかかった。
――――そもそも、騎士は貴族だ。
それは単に、一代限りの名誉貴族というだけではない。
騎士とされる条件の一つとして、魔術の行使が数えられる。そして魔術を使うには、当然それを支える魔力量が不可欠となる。
だから、貴族と平民とでは魔力量に差がある以上、昔からずっと、騎士は貴族階級の出身者がほとんどのはずなのだ。
少なくとも僕は、そう聞いた。
「いい疑問だが、それはこれからの講義を理解すれば自ずと知れることだ。――――さて、“血剣王”がいかなる人物だったかはこのくらいの理解で十分として、次に、かの王の時代背景に移ろう」
講師は備えつけられた黒板に向き合って、白墨を手に取った。
「憎き連盟の狼どもが戦を仕掛けてきたのは今から二六〇年前が最後であった。当時としても、最後の戦が起きて既に一五〇年以上は経過していたわけだ。小競り合いはあったにせよ、当時の王国は、概ね平和な時代だったことには違いない。戦を知る人間は既に息絶えて久しく、少なく見積もっても数回の世代交代があった。そして幸か不幸か、流行り病があったとの記録も見つかってはいない。世代を経る毎に子を産み育て、またその子が銘々次の世代を育む、そういう時代であった」
カツカツと、軽快なリズムが刻まれていく。
描かれた二つの○が横線で繋がれ、その下にまたいくつもの○が描き加えられる。そして線が繋がり、また○が付け加えられる。
数の増え方を想像させるように、総数三〇を越える○が、何段にも描き並べられた。
「だが一方で領地が増えたわけではなかった。治める土地は昔と変わらず、しかし養うべき家族は多くなる。仕事を割り当てるにしても、働き口には限度がある。となれば、職にあぶれた残りの者たちは、領地の外へ出て仕事を探す他ない。そう考えた人々は地方都市へ、そしてやがては王都へ集まっていく」
黒板上に描かれた簡易な地図の各地から、王都へ向けて無数の矢印が引かれる。
「貴族の出身者だ、何の職でもいいというわけにはいかない。下手な仕事につけば家名だけでなく己が名誉にも傷がつく。そうなれば、いざという時に実家を頼ることすらできなくなる。多くがそう考えた結果、王宮は、仕官を求める貴族階級の出身者が連日通い詰めていたというわけだ。
だがしかしだ。辺境も王都も違いはない。王都住まいの貴族家からも同じように人が溢れ、些末な官職でさえ先を争うように埋まっていったことだろう。それでも皆が一様に仕官先を探していた。身分を偽って仕事を請け負い、あるいは実家の仕送りを頼りとしながら、いつ空くともしれない官職をひたすら待ち侘びていたというわけだ。
……この先がわかるかね?」
(……?)
何かを求めるような視線に、こてりと首を傾げながら考えてみる。
人が増えて、けれども働く場所がない。
だから、王都に人が集まった。
だけどそれは王都も同じで、仕官先はない。
仕送り……というのはよくわからないけれど、とにかく、彼らは待つしかなかった。
話の内容はわかった。
けれど、じゃあその先は? と尋ねられても、待つしかないのなら、待つだけだろうとしか思えない。
「……さて、よく想像してみたまえ。
稼ぎは増えず、さりとて余裕があるわけでもない。それ故に、職を求めて家族の何人かが家を出て行ねばならなくなったのだ。だが蓋を開けてみれば、出て行った者たちは働き先がないと言って仕送りを求めるばかり。余裕がないというのに、出て行って仕事もないままの者たちにまで金を与え続けることはできるかね?」
理解を促すための、噛んで含めるような口調。
淡々と語られる内容が、ちょっとずつ頭に染み込んできて。
「…………仕送りっていうお金を、与えなくなったってこと?」
「ふむ。…………今まで手に入っていた金が、突然手に入らなくなったとしたら?」
「それは…………きっと、どうしてって思うはず」
「尋ねても返事はない。そして手持ちの金は心許ない。他にあるのは着ている服くらいのものだ。それとて寒さを凌ぐには不足する。その日の食事も買えず、雨風を凌ぐ家もなく、他に頼れる者もいない。…………どう感じるかね?」
もし仮に。
僕は今、着ている服だけしかなくて。
お城に入れなくなったとして。
ミアや、学友の皆や、リタや、騎士や女官や、先生たちに会うこともできないとしたら。
独りぼっちになったとしたら。
「…………寂しい」
「ふ。――――いや、失礼」
堪え切れずといったふうに零れた吐息を、しかし講師はすぐに表情を引き締め直して打ち消す。
「ああ、確かに寂しいことだろう。突然そんな状況に追いやられたとしたら、さぞ不安だろう。苦しいだろう。そして、自分を見捨てた家族を、いったいどう思う?」
「…………」
「怒りが湧くとは思わんかね?
――――なぜ、困っているのに助けてはくれないのか。
――――なぜ、見捨てられたのが自分だったのか」
答えに窮した僕に、講師は、噛んで含めるような口調で、結論を告げる。
納得いかんかね? と問う視線に、結局僕は、あいまいな表情で頷くしかなかった。
困っているのに、助けてくれない――――そんなことが、あるのだろうか。
一緒に過ごす家族なのに、大切に思う相手なのに。
どうして、見捨てるなんて。
どうして、怒るなんて。
そんな、悲しいことになるんだろう。
「…………………………ふむ。…………想像するに難いかもしれんが、ヴィンセント王子も、あるいはわかる時がくるやもしれんな。――――さて、話を戻す」
沈黙する僕を観察していた壮年の講師は、ややあって、再び口を開く。
「当時の王都には、貴族家の末席に名を連ねた人間が、職を得られぬまま屯していたのだ。
そしてかの王は、そんな彼らに目をつけた。魔力を持ち、ある程度の教養があり、かつ後がない者たち――――騎士の素養を持ち、しかし見捨てられた者たちが、“血剣王”の時代に王都へ集っていたのだ」
目をつける。
嫌なものを含んだ響きに、思わず眉をひそめて、けれども講師は特段気にしたふうもなく滔々と講義を続けていく。
「さて、話は立ち戻って“血剣王”の御代だ。貴族嫌いについては話したが、しかし詳しい経緯は残念ながら残されていない。粛清を生き延びた貴族が手記に至るまで焼いたか、あるいは血腥い時代を嫌った者達が一纏めにしてどこかへ押し込めたのか…………しかし、講義には関係のない話であった」
じっと話を聞く僕の反応が思わしくなかったのか、講師は軽く肩を竦めるような仕草をして逸れた話を元に戻す。
「一説に拠れば、彼の王の貴族嫌いは、貴族への不信感を植えつけられたためとも、軟弱な父への反発から騎士の在り方に傾倒したためとも言われている。
何にせよはっきりしているのは、貴族達の反発を食らって王家の力が翳っていた時代であり、貴族達の専横は甚だしく、そして在りし日の王子は選り好みした騎士を侍らせて武芸と魔術に没頭していたということだけだ。……王子を政治に関わらせまいとしたのか、あるいは騎士達がその才能を惜しんだか。…………はてさて、今代は当時の再来なのか……」
「……?」
「――――ンンッ」
誰に語って聞かせる気もなさそうにふと漏らした言葉は、けれどその先を尋ねる前に、講釈の続きに流されていく。
「ともあれ、目論見とは裏腹に類稀な実力と騎士達の信望を手にした王子は、程なく優柔不断な先の王の跡を継いだ。
しかし若き王は、最初の内こそ貴族達を恣にさせていた。言われるまま定期的に宴を開き、あるいは舞踏会に足を運び、茶会にさえ腰を上げた。そして気紛れに拾い集めた“民草”を集めては、騎士の真似事をさせて遊んでいたのだ。王は最初こそ陰で笑われていたという。先代に似て、とても扱いやすい王だと。――――――――だが、それも始めの数年だった」
散々愚か者を演じたと語った口が閉じて、大きな間が空く。
ひどく凪いだ青灰色の眼が、理解を推し量るように僕を見つめていて。
朧げに見えてくるこの後の話の流れに、僕は自然と唾を呑み込んだ。




