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王国の君  作者: てんまゆい
二章 外へ
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01 明けて

 ぺちぺち。

 ぺちぺち。


「……ぅ、う……」


 ぴたぴたと頬を叩く感触に、溶けていた意識が浮かび上がる。


「……ん」


 …………眠い……。


「……んっ、ん、ぁう……わかった……わかったから……」


 細く弾力のある“手”が、執拗にぺちぺちと頬を打つ。

 再び沈みかけた意識をスィラに引き戻された僕は、眠気の沼から渋々身体を起こした。


「…………んー………………」


 …………んー。


「……おはよースィラ」


 なかなか寝付けなくて、結局夜更かししてしまった。


 膝の上でぽよんと弾む透明な身体を持ち上げて、もにゃもにゃと顔を拭う。

 ひんやりぷるんでもちもちなボディーは、まるで冷水に顔をマッサージされているみたいで気持ちいい。


 スィラに顔を洗ってもらうのは、ここ三ヵ月の間に根付いた習慣だ。

 最初は、謹慎を申し付けられた日の明くる朝。やる気が出なくてベッドの上でぼんやりと呆けたままだった僕を見かねたスィラに、顔をもみくちゃにされた時。

 その時は驚きで目が覚めたけれど、今はもう慣れた。それに、自分で顔を洗うより簡単で気持ちがいいから、腕の中に抱えた後はスィラのやりたいように任せている。


「ありがと。……ぁふ」


 眠気と一緒に余分な水気も取り去ってくれたスィラを褒めるように一撫で。誇らしげにぷるんと揺れる丸い身体を膝の上から退けて、ベッドから出る。

 寝台脇の机に置かれた呼び鈴を一振り。

 水差しで喉を潤している間に部屋に入ってきた女官に着替えさせてもらった後は、姿見の前に座る。


「失礼します」


 後ろに立って一言断った女官が、するりと櫛を通し始めた。

 真夜中の夜空のような色の髪は長く伸びて、今や背中の中ほどまで届くくらい。普段はともかく、鍛錬の時には多少邪魔になる。

 切って短くしようとも考えたのだけれど、皆から猛反対に遭って、結局は諦めた。……そんな綺麗な御髪を短くしてしまわれるなどあり得ません! どうしてもと仰るなら私たちに罰をお与えくださいませ! とまで言われたら、流石にそこまでの強い気持ちなんてなかった僕には意見を貫き通すこともできなくて。

 その後も、一括りにしようと提案して反対されたり、纏め上げようとして失敗したりと紆余曲折あったのだけれど…………結局、身体を動かす時だけという条件で、後ろでくくる形に落ち着いた。

 だから、今まで通りに寝起きの乱れを直すために女官に梳いてもらっていたのだけれど、今日からはさらにもう一手間加わる。

 梳かれてさらさらになった髪が、続けて女官の手で束ねられていく。


「……あ」

「少しきついですか?」

「ううん。……ちょっと、びっくりしただけ」


 頭の後ろで一括りにするのは初めてだけれど、頭が引き締められたような感じがして、気分がちょっとすっきりする。

 綺麗に整えられた髪を留めるのは薄青の髪紐。

 三ヵ月前にミアがプレゼントしてくれた髪紐は、ミアの髪色と同じ薄い青と金の糸でもって、丁寧に編み上げられている。


(…………)


 幼なじみの贈り物から、ベッドサイドテーブルの上に視線を移す。

 オリヴァーがくれた置時計。

 レイモンドがくれた銀飾り。

 ロニーがくれた馬のミニチュア。

 ソウスケのくれた杖。

 ローランドがくれた僕の肖像画の二枚目は…………ドレスで装った一枚目を思い出すからあんまり見ないとして。

 ベッドサイドのテーブルに集めて置いたそれらを見る度に、皆のことを思い出した。

 じっと閉じこもっているしかないとはいえ、会いたくても会えないのは、とても寂しかった。

 …………忘れられちゃうんじゃないかって、心配になるくらいに。


「できましたよヴィンセント様」

「――――うんっ」


 でも、それも昨日までのこと。

 僕をここに閉じ込めておく理由は何一つなくなった。


「いってくるね!」

「いってらっしゃいませヴィンセント様」


 待ちに待った日の早朝、僕は軽い足取りで部屋を飛び出した。




†   †   †   †   †




 ――――――今日は祷朗月(とうろうづき)の一三日。

 ミアに連れ出され、先生が見守る中で踊ったあの日から、ちょうど三ヵ月が過ぎた。


 あの日、踊り疲れて輪を離れた僕たちは、お祭りの終わりを待つ間もなく先生に抱え上げられた。

 そのまま貴族街の門のところまで運ばれて、待っていたのはセリーナ先生とアル。目を剥く祖父と慌てふためく孫娘。想像しなかった事態に言葉も出ない二人をひとしきり笑った先生から引き渡されて、今度は難しい顔をしたアルに連れられて王宮に戻った。

 その後はもう、蜂の巣をつついたような大騒ぎ。王子殿下(ぼく)が見つかったと安堵の吐息を漏らす皆に囲まれながら小離宮に戻って…………リタに、こんこんと叱られた。

 そして、翌日届けられた書簡を通じて、罰として、謹慎三ヵ月を陛下から賜った。


 ――――長かった。

 本当に……本当に、長かった。

 小離宮からの外出は禁止。誰かと会うのも禁止。美味しいものも禁止なら、お祝いもお祭りも禁止。アレも駄目ならコレも駄目と言わんばかりのダメダメ尽くし。…………悪いことなんてしていないのに、僕のせいで新年祭を自粛することになった皆には、本当に悪いことをしてしまったと反省した。


 ともあれ、僕にとっては、急にできてしまった空き時間。鍛錬も講義も何もない、冬の始めの長い長い三ヵ月。本当に、暇を持て余してしまうところだった――――のだけれども、ただでは転ばないのが先生の先生らしいところ。

 先生がベランダに投げ込んだ謹慎中の鍛錬内容とか、今まで勉強してきた内容を書き留めたものだとか、小離宮にあった少し昔の書物とか、とにかくそういうものが無かったら、本当に何もやることがなくて頭がどうにかなっていたかもしれない。


「……ふふふふ。えへへへへ♪」


 でも! それも昨日までのこと!

 今朝からは自由! やることがなくて暇を持て余すのも、離宮に引きこもって息が詰まるような日々を過ごすのも、繰り返しに退屈してもやもやした感情を溜め込むのも、皆と会えないなんて制限も、全部終わり!!


 小さく揺れて止まった馬車の扉が開けられるのももどかしく、開いた隙間から早々にぴょんと飛び降りて、地下の演習場に急ぐ。

 演習場に辿り着いて、けれども出入口のところで、すぐに足が止まってしまった。


「…………」


 いつもと同じ、がらんとした大広間。

 記憶の通りの訓練場で、けれど妙に味気ない、色のない場所。

 魔力の灯りに隅々まで照らし出されて、四角く広々とした空間に、妙な寂しさが漂っていて。

 浮ついた気分が、溶けて吸い取られていくような気がした。


「……ん。スィラ」


 けれど、頬をくすぐる透明な手に、沈みかけていた気持ちがちょっとだけ引き上げられる。


「ありがとう」


 皆がいないのは当然。そのためにいつもよりずっと早く起きたのだから。

 三ヵ月は長かった。

 けれどその三ヵ月は、きっと、皆にとっても短い時間じゃなかったはず。

 剣の扱いや魔術の扱いだって、食い下がれないどころか、もしかすると相手にならないくらい引き離されたかもしれない。

 だから、どうしようもないことだとしても、三ヵ月も鍛錬ができなかったと思ってしまうと、僕は少しでも早く身体を動かして、勘を取り戻したかった。


「……頑張らなくっちゃ」


 まるで心配してくれているみたいに襟から顔を覗かせたスィラを軽く撫でて、僕は走り込みから始めることにした。




†   †   †   †   †




 上げて、下ろす。

 振って、戻す。

 前へ出て、元へ退く。


「――――っ」


 三ヵ月の空白がもたらした贅肉――――思う以上に劣化した剣の技量を、基本の型から始めて、ああでもないこうでもないと少しずつ削ぎ落している途中。

 ――――それが来た。


 二つ。

 先んじて走る何かは、感じ取れた時にはもう、躱せない距離にあって。

 動揺に引き摺られながら、乱れたままの意識で何とか身体を捻じって、けれど肩に中った。


「――――?」


 なのに、覚悟していた衝撃はなくて。

 強張った身体が、つかの間、疑問に絡め取られる。

 ……きっとあれは、魔力の感覚だった。

 なら、水か氷の礫が飛んできたのだろうと、そう思って、衝撃を覚悟したのだけれど、それがない。


 ……どうして?


(――――っ、まだ!)


 頭の中に湧き出した疑問を後回しにして、全身に意識を漲らせる。違和感に構うより先に、背後から迫る二つ目に対処しないといけない。

 正体はおそらく、矢だ。

 数は一矢。

 制御を取り戻した魔力感知で追える速度で宙を走るそれは、わずかながらに空気を引き裂く。

 他の場所なら聞き漏らすかもしれないその音は、けれども耳に痛いくらいの静寂に満ちた訓練場では、とてもよく感じ取れた。


 だから僕がやることは簡単。

 胸の中央を目がけてまっすぐに突き進む矢の軌道から、たった一歩ずれるだけ。


「――――っ!?」


 振り向かずに小さく避けて、けれど続く一撃は、意思があるかのように弧を描いた。


(風もないのに、この訓練場でどうして――――)


 疑問は、経験が解きほぐす。


(――――ホークの“追尾する矢”!)


 軌道が曲がる矢だ。

 記憶の底に埋もれかけた過去の鍛錬が脳裏を掠める。

 矢を真正面から見る訓練をしたのは、いつだっただろうか。最初の一回だけは、射掛けられることで目を慣らして、それから後は盾を構えながら射られることに慣れて、その後は、避けたり、木剣で払ったりを繰り返した。

 勿論、防ぎ損ねることだってあったけれど、でもそういう時は、急に矢が曲がったものだった。そして決まって、妙に疲れた顔で額の汗を拭ったホークが「あー、今日はもう仕舞いだな」と言ってしゃがみ込むと、訓練は終わりになったのだ。


 だからきっと、これはホークの矢だ。

 つるりとした頭に団子鼻、奇妙な顔にへらっとした笑みやしかめっ面を浮かべた、抜群な射手の一撃。


(それを、今回は僕に向かって曲げてきた)


 おまけに、奇襲だから、難易度は結構高いはず。


 ……訓練が一歩進んだと、そう喜べばいいのだろうか。


 胸に湧き上がる思いとは別に、納得がいけば、余計な考え事に手足を絡め取られることなんてない。

 魔力感知を頼りに、肩を指して飛来する矢を、振り向きざまに木剣で叩き落とす。

 床を跳ねたのは――――先端を、金属の鏃の代わりに布で包んだ矢。

 万一当たったとしても大きな怪我をしないようにしてある。

 もしもの時までの気遣いを理解して、ほっと胸を撫で下ろす。


 だから、確かな隙が生まれた。


「――――隙アリぃーっす!!」


 追撃がきた。

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