懊悩
燕謡月 二三日
今日も朝から雨が続いていた。止む気配はない。実りが悪くならなければいいのだが。
領内に一三匹もの濡れ鼠が紛れ込んでいた。一人は騎士崩れ、かつての兄弟子イーライ。困窮したのか。昔の貸しの取り立てでもしようと思い立ったのか。どうせ碌でもないことだろう。名前を聞いた時、そう思ったのは確かだ。それでも、かつてより少しでもマシになっていれば。今思えば、下らない気まぐれを起こして、会うだけでも会ってやろうと屋敷に入れたこと自体が、そもそもの過ちだった。せめて門前払いしておけば、この戸惑いも何もかも、先延ばしにできたのだろうか。
古い話だ。正騎士に任じられた頃の話。妻と出会い、見初め、ひたむきに口説いて射止めたあの頃。幸せだった。さっさと騎士にしてやると、師匠はもとより先輩までが仕事を押しつけてきた。訓練と称して何度叩きのめされたことか。それでも、手を伸ばせば届くところに幸せがあった。希望に満ちた未来が見えていた。神のお導きのままに、万事がうまくいっていた。明るい明日を目の前にして、どうして若者が幸運以外のものを頭に思い浮かべようか。
そう、疑うことなどあり得なかった。実家の用意してくれた武具。正騎士の叙勲に鎧は欠かせない。しかし、従騎士程度の給金では、用意するのに何年かかっただろうか。マルチダが義父母を説き伏せてくれたとはいえ、領地を継ぐ一人娘の夫となるならば、正騎士の身分は欠かせなかった。さもなくば、横槍を入れられて潰されていただろう。だが、マルチダを待たせてしまっては同じ結末が待っていたに違いなかった。実家から話があったのはそんな時だった。「実は、お前のために貯めていたんだ」。そう言われて、どうして疑うことができようか。涙して喜び、神と父母に感謝を捧げる以外のことをどうして考えようか。
杞憂だろうと、腸まで腐り果てた、兄弟子だった破落戸の嘘だろうと、私は信じている。………………だがどうしても一抹の不安が拭えない。
こうして領地の一切を差配する身になって、ようやくわかったことだ。当時の実家に、そのような余裕があったのだろうか。王家の御料林の一つを管理する立場にあって、確かにいくつかの特権を与えられてはいた。そのおかげで、食卓には時折肉が並んだし、薪にも防寒着にも困らない程度には暮らしていけた。だが、ああ、決して、生活に余裕があるわけではなかっただろう。兄の、ローリー子爵家の未来の当主の結婚のために貯金はしていただろうが、それほど余裕がないことは父母の悩ましげな顔を見ていれば容易に理解できた。「お前にはあまり援助してやれなくてすまないな」。父が申し訳なさそうにこぼしたあの言葉が、その時の表情が、はたして息子に期待をさせないための演技だったとでも? 否定できるものを探して記憶を遡るほどに疑念が膨れ上がってしまうのは何故だ……。
ああ、それにしても、あの男のもたらしたものが仮に真実だったとしたら。なんと恐ろしいことをさせてしまったのだろう。どれだけの苦悩を背負わせてしまったのだろう。あるいは、悪魔の囁きにつけ入る隙を見せてしまうほどに素晴らしい縁だったのだろうか。
(何かを書き始めて塗り潰した跡)………………ああ、多少吐き出したことで少しは楽になった。楽に、なった。であれば、次は手を打たねば。何をすべきか、どういう行動をとるべきか、それがいかなる影響を及ぼすのか。まずは考えねば。私はトレキア男爵なのだから、まずなによりも家のために。そして私を選んでくれた妻の帰るべき場所を守るためにも、子どもたちのためにも。ああ、それにしても、どうすればいいのだ……。
献羊月 一〇日
いつになく暑い夏だ。昼頃は風通しを良くしても温い風が吹き込んでくる。穀物の収穫量に影響しなければいいが……。
鼠どもが、その浅ましい性根を晒し始めた。職を求めるようなことをほざきながら、夜遅くまで騒いで、役に立とうという気概の欠片すらない時点で見限ってはいたが。ああ、それにしても腹が立つ! 領民に暴行を加えおって! そっ首刎ねてやろうか!
……考えなしの穀潰しどもめ。やはり、私が直接王都に出向かねばならん。真偽の程はもとより、方々にどれほど話が伝わっているのかも探りを入れねば。誰の差し金なのかも。イーライの脅しにつき合ってはいられん。虚偽ならばとって返して叩っ斬る。そして真実だというなら、いよいよもって、悠長に構えている余裕はない。
それにしても、妻の帰りが遅い。迎えにやった者たちも誰一人として帰ってこない。暴漢に襲われたとでも? 全員が? 妄想じみた考えだ。それならばまだ何らかの――――まさか、いや、あり得ん。あり得ない。イーライごときが、手を回しているはずがない。ああ、馬鹿な考えだ。それほどの力があるなら、私のところで問題を起こすよりもっと多くのことができるはずだ。……だが、立ち寄ってみるべきだろう。王都に向かう道すがら、青い髪の品の良い婦人を見かけはしなかったかと、噂を探すくらいはできる。娘を心配している義父母のためにも。
家を空ける用意もだいたい終わった。他の問題がなければ、後はあの破落戸どもをどうするかだな……。全く以て忌々しい。
錦陵月 一八日
相変わらず例年より気温が高い。念のためと外套を持って来たものの、おそらく荷物の肥やしだろう。トートンの賑わいも相変わらずのようだ。デジレ伯もかつての義父と同じ悩みを抱えているだろうに、あまつさえ近衛騎士団長としての責務もこなしてこれとは。流石伯爵と言ったところか。脱帽せざるを得ない。機会があれば是非とも話を伺いたいものだ……。
定宿に妻が訪れた様子はなかった。だが、どうにか足跡を見つけることはできた。青髪の貴婦人然とした女性が、暴漢に追われているのを見たという者がいた。おそらく、いや、間違いなくマルチダだ。肝を冷やしたが、大事に至ってはいないらしい。若い男共々追い詰められはしたものの、船乗りらしき者が追い払ったとか。若い男というなら、向かわせたナットに相違ない。合流していたのだ。だが、不安が拭い切れないのも事実。助けられたなら、連絡の一つも寄越さないのは何故だ。船乗りが攫ったのか? 別の不都合が降りかかったとでもいうのか? あるいは、悪い噂を耳にして、王都に戻ることを急いだのか? いや、それにしても便りの一つもあって然るべきだ。なら、見限ったとでもいうのか? …………ないはずだ。私も子どもたちも義父母も見捨てるなど。いかんな。妻を疑うなど、愚か者のすることだ。悪い想像ばかりしてしまう。やめよう。今日は早めに床に就く。明日も早いのだから。だが、ここを発つ前に、義父母に一報を入れておかねばな……。
風切月 二日
随分と過ごしやすくなってきた。生憎の雨ではあったが、そう経たずに止んだ。だが、鉛色の空の方がましだと言えるだろうか。暗澹たる空模様は嫌な気分になる……。
碌でもない。嘘だと言ってほしかった。そうすれば、あの害悪を憚ることなく処分できるというのに。
今日、実家に足を運んだ。糸が張りつめていたような空気だった――――既に、緊張は限界を越えて決壊していたのだ。久しぶりの生家は、記憶とは程遠い異常な雰囲気にあった。使用人は減り、手が回らなくなった屋敷も庭も荒れ、そして住人たちは例外なく、鬱屈とした空気が纏わりついていた。この時点で、私は既に暗澹たる気分に陥った。
父は勤めで不在だった。その事を残念に思う一方で、私は確かに安堵していた。まだ仕事場に行くことはできているのだと。口さがない奴らが大っぴらに噂し、ローリー子爵家はただ沙汰を待つばかりの罪人の如き手遅れの状況にあるのではという、最悪の予想は外れていてくれたのだから。…………あるいは単に、最悪の状況を最も理解しているだろう父から、直接話を聞く機会が先延ばしにされたことを喜んでいただけなのかもしれないが。
母は見る影もなく痩せていた。肌は白いを通り越して血の気が失せ、目の下には濃い隈が浮き出ていた。両目は忙しなく周囲を彷徨い、使用人が立てる物音にすら過敏に反応する。問いかけるまでもなく、何かに怯え続けた結果として、やつれ果てていた。
そして本題を切り出した途端に話ができなくなった。こう書くのは憚られるが……正直な印象を、誤解を恐れずに残すとするならば…………彼女は、心を病んでいた。内側の軋みを、声にして吐き出すことで、どうにか正気を保とうとしている、そんな様子に見えた。あの人でなしの言葉が嘘ではないと、追い詰められるだけの理由が存在しているのだと、確信してしまった瞬間だった。
これ以上の話は聞けないと、寝室に連れていかれる老いた母を見送って、そこで様子を見にきた姉と目が合った。見違えるほどに疲れの浮かんだ顔で笑おうとして、しかし失敗した彼女から、推測とあまり解離のない事実を聞かされた。
その後、改めて父から話を聞いた。初めて御料林で死骸を拾った時のこと。それ以来苦しくなる度に、しかし怪しまれないように、密猟に手を染めたこと。今回も毛皮を売りに行かせたこと。使用人が戻ってこず、捕り物の噂が聞こえ、その数日後に、御料林長官が訪問してきたこと。帳簿と使用人と商人を捕まえたことを話した上で、黙っていてほしければと脅されたこと。金品を求められ、未だに密猟を続けてしまっていること。他にも、金品の代わりにあれこれと指示され、紹介状もその時に書いたこと。かつての恰幅の良かった父は、見る影もなかった。目は落ち窪み頬はこけていた。心労と諦念に塗れた眼差しはひどく深く暗く、まるで奥を見透かせない洞穴か、底の見えない奈落を覗き込んでいるような気がして、どうしても目を合わせられなかった。家を出た私まで巻き込んでしまって申し訳ないと、顔を覆って譫言のように繰り返す老爺を、どうしてこれ以上責められようか。
部屋を出たところで兄に掴まった。やつれた住人たちの主に相応しく肉が削げた顔は、しかし両の眼だけが炯々と燻っていた。立ち話程度の時間だけで、何度私のせいだと詰られただろうか。代替わりして、諌めるどころか率先して密売に手を染めていたのはこの男だというのに。私がきっかけだと罵り喚く前に、自らで以て過ちを埋め合わせる方が先ではないのか。あまりに無責任な物言いに反論してしまった点では、確かに私にも落ち度はあろう。だが、あの男は駄目だ。当主の器ではなかったのだ。血走らせた目を落ち着きなく動かしていたというのに、俄かに私を捉えた。我を失ったかのような、子どもの口喧嘩にも劣る浅ましい暴言妄言の数々。聞きつけて止めに入ろうとした家族にさえ敵意を向けて、こんな時だというのに、何故不和を招くようなことができるのだ? …………やめよう。これ以上思い出すことはない。酒精に溺れている余裕はないのだから。まだ、まだ何か手があるはずなのだ、ローリー子爵家は既に手遅れだとしても、我がトレキア男爵家だけは救う手立てが……きっと何か手段が……………………。
明日もまた早い。せめて、糸を引く人物なりその思惑なりの一端でも掴めれば……。
風切月 一九日
王都の民も、祝い事の空気を敏感に感じ取っているらしい。大通りの喧騒はこの屋敷まで届いてくる。ここのところ眠りの浅い私にとっては、どうにも耳障りだが。
商人については、結局、有力な手がかりを掴むことはできなかった。出身もわからなければ、買い叩いた毛皮をどこに運んでいたのかも定かではない。そのどちらかでもわかれば、血縁から関係のありそうな土地を辿るなり、毛皮で私腹を肥やした黒幕の手掛かりを得るなりできたものを。身柄は御料管理局が押さえたらしいが、それも果たしていつまで生きているのか……。
他方、イーライについては情報が得られた。奴はランパード男爵領、その陪臣家の出身者――――すなわち、王国南西部派閥の関係者だ。だが特段の力もない男爵家、領地貴族とはいえ、遠く隔たったトレキアにこのような謀り事を行う余力などあるまい。となれば、やはり裏で糸を引いているのは、あの家を置いて他にない。それだけなら確信はなかったが、搾り取ってくれた情報屋も姿を見かけなくなった。うまくやったかしくじったかは知らないが、他の情報屋があれほど言い渋ったのを鑑みるに、おそらくは後者だろう。そして知己の騎士たちも、示し合わせたように沈黙していた。それだけの影響力があることを鑑みても、やはりあの家しかあるまい。しかし、それほどに力を入れているとなると、逃がしてもらえそうにはない。動機は……まさか、娘のミリアリアではあるまい。王女殿下に気に入られた小娘程度で、家を潰すような真似など。となれば、マルチダが乳母を務めていたかどうかか。……やめよう。どうしようもない過去にまで、あれこれ煩わされても仕方がない。
問題はだ。他の策を講じているかどうかといったところか。破落戸どもは排除して構わないとわかった以上、即刻指示を出しておかねば。領地も離れている以上、流通に支障はないはず。特別な官職もないのだから、口利きに困るぐらいか。やはり、最大の問題は実家ということか…………本当に狙いがトレキア男爵家であるのならば、この私がいる以上、どう足掻いたところでトレキア男爵家まで潰しにかかるはずだ。だが、どうすれば……。
風切月 二一日
よい天気だ。ここ数日は、両殿下のお披露目にも望ましい穏やかな陽気が続いている。下手人に二度も勝手は許さぬと、陛下も意気込んでおられるらしい。当然のことだ。私の娘が死の淵を彷徨ったのはわずか半年ばかり前のことに過ぎない。狙われたのは殿下だろうに、何故ミリアリアが。妻も随分と堪えていた。私は傍にいてやることしかできなかった。聖国の賓客が居合わせた縁で手厚い治療を受けられたとはいえ、そうでなかったなら娘は、妻は……。
いや、これ以上は書くまい。忘れることなどできないとはいえ、過去のことではある。何よりも、妻と無事再会できたことを喜ぶべきだ。この時にあって、唯一と言っていい朗報なのだから。
やはり、トートンの港で船を降りた直後に暴漢に襲われていたらしい。危ういところで助けに入ったのは、屋敷まで送り届けてくれた商会の取締役だという大柄な男だった。貴族家の者を襲うなどという愚行を犯した屑共は事を為せず、居合わせた彼らに助けられた。領地の噂を聞きつけて戻ろうとした妻を諌めてくれたのも彼らなら、王都までの護衛を買って出てくれたのも彼らだというのだから、その点については深い感謝の念を覚える。披露宴を見越して、妻のドレスの手配も終えてくれたのだから、最低限目端が利くらしい。
だが、彼らが本当に商人だというのならば、その気前の良さが腑に落ちない。いったい何の得があって丁重にもてなしたというのか。王国北東部で商いを志すならば、領地貴族と懇意にしておくのも頷けるが、ならば何故この機会に、通行証なり免税なりを求めなかった? あるいは、こちらの実情に通じているとでも? そうは思いたくないが、それならば何も求めてこなかったこととも辻褄が合う。誰しも沈みゆく船には乗りたくないものだ。……乳母を務めていた妻に恩を売ることで、多少なりとも殿下の覚えをよくしたいとでも? あるいはリリアーナ殿下の方か? 娘のミリアリアをいたく気に入っていらっしゃるとは聞くが…………その程度で両殿下の歓心を買おうとも、今はどうにもなるまい。
何にせよ、心配事の一つとはいえ、解決したのは事実だ。願わくば、この調子で万事うまくいってくれればよいのだが……。
風切月 二二日
本当に、心の底から驚嘆する。今でも手が震えている。とんでもない筋書きを考えたものだ。上の人間を連れてくると言っていた昨日の大男の言葉は本当のことだった! ああ、しかし、内容はここには書くまい。用心に用心を重ねて、誰が覗き見るとも知れないのだから。だが私と妻の頭には、考え得る限りの筋書きをしかと刻み込んだ。失敗は許されないが、しかし緊張以上の興奮を覚えるのはいつ以来だろうか。こんなことを年若い娘が組み立ててみせたというのだから、まったく才能というのは恐ろしく、そして老いというものは始末に負えない。
それにしても、一方で背筋の泡立つような感覚が拭えない。生臭い神官共の国に、あれだけの才知と力を持つ者がいるとは。果たして、今の王国に比肩し得る神童がいるものか。味方でよかったと思うが、しかし敵に回して牙を剥かれた時、あれほどの辣腕を相手にいったいどれだけの貴族が渡り合えるだろうか。幼く善良な性根が垣間見えた今はともかく、大人になって老獪さを身に着けてしまえば、いよいよ手が付けられないに違いない。――――いや、誓って、敵対するつもりなど毛頭ないのだが。
ともあれ、そんな者が殿下に肩入れしているということは……もしかすると、我々とは違う何かを、殿下から感じ取っているのだろうか。妻から聞く限り、善良で心優しい御方ということだが…………。いや、今は深く考えても致し方ない。まずは明日を乗り越えて、全てを滞りなく終えてからだ。聖賢の導きがあらんことを。




