32 ヴィンセントの長い長い一日
「……いいの?」
「ああ」
息を吐いて、吸って、吐いて。
練り上げた集中力を切っ先まで這わせて、振り上げる。
足は、しばらく怠っていた割にはきちんと動いてくれた。
地下の広大な訓練場に、木剣同士のぶつかる音が木霊する。
濃褐色の目に揺らいだ様子はなくて、逆に打ち込んだ僕の方が動揺しそうになった。
「――――っ」
気持ちの揺れに合わせて湧き上がる余計な考えに蓋をして、跳ね上がりつつある軌道を変える。
木剣の位置取り。腕の角度。足運び。
隙と思える場所に、可能な限り最適な向きと角度で、打ち込んでいく。
……余裕を見せて打ち込んでこないのなら、せめて大きく退かせる。
「――――チィッ」
そんなつもりで振り回して突き込んで、ようやくデイモンの木剣が振るわれた。
無理な体勢から捻って躱して、追撃がないことを確認して一呼吸。
(……よしっ)
狙いも、速度も、明らかに加減されていた。距離を取らせるための牽制の一撃だった。
それでも、先生の動きを見よう見まねでやってみた甲斐はあったらしい、と手応えを確かめる僕の前で、デイモンが改めて構えを取る。
「……なあ、ヴィンセント様」
――――手合わせでもしないか。
そう言って誘ってくれたデイモンと木剣を構えて相対してようやく、それが口実らしいと僕は悟った。
それでも、手合わせをしようと言ったことは嘘じゃない。現に、かけ声の一言もなく突き込まれた木剣は速い。反撃に出る余裕が見いだせないくらいには鋭い。
でも、捌くだけなら、何とでもなる。先生みたいに、力も技も大きく離れているわけじゃないし、ミアのような、流れるような連撃とも違って、攻撃の密度も捌けないほどじゃない。
下がって避けて、続く攻撃も身体を振って躱していく。馴染みの薄い剣筋に合わせて、大きな動きを小さくしていって、それでも躱し切れないものだけ、先んじて剣を差し込んで邪魔をする。
……やれる。
先生に散々ボコボコにされて痛い目を見てきた意味があった。
その成果に、興奮に、いつも以上に身体が動く。
「戦うのは楽しいか?」
「え? ――――っと!」
そんな高揚に水を差すように、落ち着いた声が問いを投げた。
……いや、違う。
冷たくない。
落ち着いてるんじゃなくて、感情を圧し固めたような、そんな声だ。
「護身術って言われて、クリスとかいう軍人に何度も何度も叩きのめされて、地べたに這い蹲って、それでも剣を握るのはなんでだ? 楽しいからか」
それとも、
「アンタは、軍人にでもなるつもりかよ」
「なに……、っ」
脈絡の無さそうな問いかけに困惑しながら、段々と勢いを増していく剣撃を弾いていく。
勢いはある。でも、荒い。避けることは難しくても、狙いは甘くなって、捌きやすくなった。
「軍人じゃないなら、なんだ。今打ち込んでるように、魔術の研究でもするのか。それとも、戦術講義と題して、延々ボードゲームを続ける、あの老いぼれのようにっ、遊んでばかりいるのかッ」
「…………っ」
なのに――――妙に、重い。
気圧される。
手に返る衝撃以上の感触に、剣を握る手が汗ばむ。
僕の緊張を嗅ぎ取ったように、腰の辺りが蠢き始めた。
「攻撃はからっきしだった。だが防御に徹しさえすれば、オレの攻撃だって凌げる。ああ、凄えよ。アンタより年上で、アンタより長い間剣を振ってきたオレから、身を守れるんだ。何の役に立つかもわからねえ歴史や文学や芸術まで勉強して、小うるさいマナーも覚えて、演奏だってダンスだってこなして、それでもこれだけの腕を身に着けたんだ。これが王族かよって思う。オレみたいな貴族の次男坊とは違う。アンタに仕えてあれこれ世話を焼く奴らがいることだって納得できる。――――――けどよ!」
「――――っつぅ……!?」
一際強く叩きつけられた剣を受け止め切れず、崩れる姿勢に合わせて後ろに下がる。
追撃がなかったことにほっとする。
腰からそろそろと根を伸ばすようにその身を這い上らせていたスィラが、ゆっくりとその身を退いていく感触を確認して、何もせず待っていてくれたデイモンに意識を戻す。
ただ、燃えるような感情に彩られた濃褐色の瞳が、答えに窮する僕を射抜いていた。
「アンタのそれは、王族の学ぶ剣だ。軍人の、敵を切り殺す剣じゃねえ」
「――――」
我知らず荒れていた呼吸を整える、そのリズムが崩れる。
「オレは、上に行きたい! オレより少し早く生まれただけの奴に、一番も、力も、当主の地位も、何もかもを掻っ攫われるなんて我慢ならねえ! オレは、アイツより上に行きたい! そのためにアンタに仕えてきた。アンタがやれということなら、なんだってやってやる。……だけど、アンタが動かなきゃ、どうしようもねえんだ」
激情に震えていた声が、不意に勢いを失う。
俯いて頭を振るデイモン。その顔は、地下の演習場を照らす灯りの下にもかかわらず影がかかって見えない。
だらりと剣を垂らしたその立ち姿も、新しい薪をくべられることもなく、ただ燃え尽きる時をを待つばかりの燃え滓を連想させた。
「なあ、ヴィンセント様。オレが仕える第二王子様。アンタ、何を目指してんだ? 着いてくオレは、どこへ行けばいい? アンタはオレを、どこへ連れて行ってくれるんだ? アンタは…………」
「………………僕、は……」
続いた問いの内容に不敬と窘めることも忘れて、僕はただ沈黙しているしかなかった。
行き先を見失ったような目が僕を見ているのに、目標も、助言も、何もあげられない。喉の奥に閊える感覚さえ感じない。
……だって。他ならぬ僕に、目標を指し示すべき答えがないから。
(僕は、どうなるの……?)
第二王子。
そう、僕の上には、王位継承権を持った兄がいる。このまま大きくなって、陛下が玉座を任せられるとしたら、きっと兄のレオンハルト様が王位につくのだろう。
それはわかる。
……じゃあ、僕は。
僕はその時、どうなるのだろう?
……わからない。
学ばなきゃいけないことがいっぱいあって、数え上げるなんてとてもできないくらい、できなくちゃいけないことがあるのに、その先のことなんて、まるで見てなかった。言われたままにしているんじゃなくて、僕が自分から選んで何かになるかなんて、考えたこともなかった。
だから、答えが出せない。続けられる言葉がないから、喉の奥に引っかかっるものすらない。
「……アンタは、オレをどうしたいんだ……」
「え?」
「……構えろよ。いくぞ」
年上の少年の睨みつけるような目が、どうしてか、僕より小さな子どものように見えた。
† † † † †
「…………え、と? ごめん、何て……?」
「いや、その、つまりだな。この後特に予定がないなら、ちょっと……あー、絵でも見ないか、と思ったんだが……どう、だね?」
自分から誘うのが気恥ずかしかったのだろうか。
頬を赤くしてそっぽを向いたレイモンドが、ちらちらと視線を寄越すのを感じながら、ぼんやりしていた頭の中をひっくり返す。
予定。
……この後は、特に何も――――あ。
「えーっとね、ありがとうレイモンド。でも、この後はちょっと図書室で調べものをしようかなって……」
「そ、そうか。ちなみに、何を調べるんだい?」
「え? ……も、紋章、かな」
「! いいなっ、いいじゃないか! うむ、ならば僕もそっちを手伝ってやろう!」
「え? でも、レイモンドは絵を見たいんじゃ――――」
「いや何、そんなものまたいつでも見られるじゃあないか! それより今は紋章だよ紋章! 僕も興味があったのさ! さあ行こうじゃないかね!」
「あっ、ちょっと、そんな押さなくたって」
断りの言葉を言いかけてから悪いことしたかなと言葉を濁してしまったのだけれど、気恥ずかしさをおして誘い直してくれた割には、レイモンドの顔にショックを受けたような様子もない。
……どゆこと? と首を傾げる僕を引っ張って立たせたレイモンドにぐいぐいと背中を押されるままに、食後のティータイムを後にして、王城の図書室へ。
「それで? 一体全体何でまた紋章を調べようというんだい?」
「え。……実はその、披露宴の前に、紋章を決めることになって」
言っていいのかな? と一瞬考えたけれども、一人で決めなくてはならないと言われた覚えもない。
先生も特に何も言わなかったし、いいよね。
「紋章を決める……? ――――ん!? ま、まさかそれは、自分の紋章というやつかねっ!?」
「え!? う、そ、そうだけど……!?」
宙を彷徨うようにくるっと一周したレイモンドの視線が僕に戻ってきたと思ったら、不意にがっちりと肩を掴んで詰め寄られた。
「それで今から図書室、ということは、あれかね!? もももしや、図案の参考にするとか……!?」
「う、うん」
「最高じゃあないか……!」
なにが最高なのかわからないけど、ぐっと拳を握り締めて興奮に震えるレイモンドが知らない人みたいでちょっと怖い。
「そっ、それで、このことは誰かに言ったのかね……?」
なぜか周囲を警戒するように声を潜め始めたレイモンドの意図がわからない。
でも楽しそうで、それならまあいいかな、とも思う。
「リタは知ってるけど……あ、じゃあ、せっかくだから皆にも――――」
「――――いやいやいや! それはイカン! 実によくないぞヴィンセント様!」
「えっ? でも、レイモンド一人より、皆にも手伝ってもらった方がいい考えが出ないかな?」
「いやいやいや、その、あれ、あれだ」
「?」
引き返しかけた瞬間に物凄い形相で回り込んでくるなんて、いったいどうしたんだろう。
「ほら、皆いなかっただろう!? ということは、都合がつかんのじゃあないかね!? うむ、きっとそうに違いないとも! ぼぼぼぼ僕がまさか紋章の図案にちょっとでも意見を反映させられたらいいだとか、決してそんなことは微塵たりとも考えてなどいないとも!」
「レイモンド……」
腑に落ちない慌てように引っかかりを覚えた僕が口を開くより先に、レイモンドがボロを出した。
(でも、そうか)
確かに、レイモンドの他には姿が見えなかった。なら、皆何かしらの用事がある可能性はある。
それに、後で顔を合わせた時にでも、改めて皆の意見を聞けばいい。
「なななななにかねっ?」
「……んーん、別に。じゃあ、いこっか」
「え――――あっ、お、ぅ、うむ!」
本音はともかく、一理ある意見に頷いて、視線を泳がせるレイモンドの手を引く。
……レイモンドといると、なんだかものすごく気が抜ける。
さっきまで思い悩んでいた僕が馬鹿みたいに思えて、ちょっとだけ頬が緩むのを感じながら、扉を開けてくれた騎士に微笑んで、図書室に足を踏み入れた。
中は、本のぎっしり詰まった棚が、人の通る隙間を残して整然と並んだ空間。ほんのり埃っぽくてちょっぴり黴臭いような、でもそれだけじゃなくて、どこか懐かしいような匂いの中を歩いて、奥へ奥へと進む。
「セロン先生」
「おや。これは殿下。ようこそお越し下さいました」
今日は受付の当番だったらしい。見知った顔を見て笑顔を浮かべた僕に、飴色の長机の向こうで蔵書の整理をしている初老の男性が、にっこりと微笑み返した。
「先日の講義について疑問点でもございましたか?」
「んーん。あのね、今日は、紋章の図案を考えるために来たの」
周辺国のざっくりとした講義はしばらく前のこと。
四大貴族の領地とその周囲については学び終わって、今はヒノの領地についての講義が終わる頃。そろそろ振り返りの試問があるけれど、今日はそのことじゃない。
「紋章の図案、ですか。かしこましました。いくつかお持ちしますので、奥でお待ちください」
「ありがとう」
呼び鈴と椅子を抱えて、図書室の一角に用意された閲覧席に向かうセロン先生の後を追う。
「あら? ヴィンセントお兄さま?」
「え……と、リリアーナ様?」
聞き覚えのある声に視線を向ければ、見覚えのある銀の髪の女の子。
「あっ、こういう時に奇遇ねって言うのね! 奇遇ねお兄さま、こんなところでどうしたの!」
「僕は調べもの。リリアーナ様は?」
「そうよ! ちょっと聞いてくださる!? あのね、魔導師がいじわるなのよ!」
――あ。しまった。
一通り話して満足するまで終わらないのはいつものことだけど、ここはお茶の席じゃなくて図書室。他の利用者がいるかもしれないし、そうじゃなくたって、セロン先生たち司書の耳に入ったら注意されるのは目に見えていると思う。
でも、鬱憤を思い出したリリアーナ様には些細なこと。
「わたしだって魔術を使えるようになったのに、水を出せて氷を作れたらもう十分って! 終わりってどういうことなの!? わたし、もう少し学びたいって言ったのよ!? レオンハルトお兄さまだって水を球にして飛ばしたり氷の礫を操ったりしてたってことくらい知ってるんだから! それなのにこれ以上は必要ないですって! このわたしが知りたいって言ってるのに、あいつらいったい何様よっ!!」
「え、えー……落ち着いて?」
「落ち着いていられるわけないじゃない! ヴィンセントお兄さまだって、同じこと言われたら絶対腹が立つでしょ!?」
「う、うん、そうだね……」
にぱっとお日さまみたいに笑っていた妹の顔が、ぷっくと膨れたと思ったら地団駄を踏んで捲し立て始めてしまった。
白いドレスの裾をばたばたさせるくらいだから本当に頭に来てるのはわかるのだけれど、ぷんすか怒るリリアーナ様をどう宥めたものだろう。
せめて場所だけでも移せないかな、と思案している僕の横を、見慣れた薄青が通り過ぎた。
「にぃ、任せて。……ほら、リリアーナ様、しー。お行儀が悪かったって告げ口されたら、図書室までうるさいのがついてくるようになるよ」
「えっ、それはヤだけど……ちょっとくらい目を瞑ってくれるでしょ?」
「いやはや、歳のせいか目が霞みますなあ」
「――っ……!」
視線を向けられたセロン先生が目を瞑ってみせたのに噴き出しそうになって、慌てて口元を押さえて俯く羽目になった。
「っていうかミアちゃん、ほんとに最近雑じゃない? わたし王女様だよ? ちょっとくらい――――じゃなくて、もう少しくらい丁寧に接してくれてもいいと思うんだけどなー?」
「はいはい、にぃは優しいから困った顔もしないで長ったらしい愚痴くらい聞いてくれるけど、困ってないわけじゃないから。いい加減にしないとウザがられるよ」
「そ、そんなことないもん! レオンハルトお兄さまと違ってそんなに意地悪じゃないし!」
そう否定しながらちらちらと僕の顔を盗み見るのはどうしてなのリリアーナ様。
っていうかミアもミアで何気にすごく酷いこと言ってない……? 僕が、愛想を尽かしてリリアーナ様のお話を聞かないなんて、そんなひどいこと、しないよ?
…………もしかして、ミアから見た僕ってそんなに嫌な奴だった……?
「リリアーナ様も、話を聞いてほしかっただけだよね……?」
「そ、そうよ! さすがお兄さまだわ! あっ……んふふふ……」
リリアーナ様に向けられた言葉で想定外に傷つきながら、優しいお兄ちゃんになろうと頭を撫でてあげる。
ミアもこうしてあげると落ち着いたし、その……僕も、先生に頭をくしゃくしゃーってされるのは、まあ、うん………………きらいじゃないし。――で、でも一番は、ふわふわつやつやの銀髪を撫でるのが気持ちいいからだしっ!
「……いい加減にしろよこのダメ王女」
「――ヒッ!」「え?」
「なあに? にぃ」
今、ミアの方から、妙に低い声が聞こえた……ような、気がする、んだけど、えっと……?
「ももももう十分よヴィンセントお兄さま!」
「そ、そう?」
涙目でしきりにミアの方を確認してるのは腑に落ちないけれど、本人がいいというならと、掴まれたままの手を頭から離す。……いや待って、もういいって言ったのに手首をがっちり掴んだままなのはどういうこと? あと、ミアから隠れようとして僕の陰に入り込もうとしてない?
「えーっと、それで、ミアはリリアーナ様のお手伝い?」
「そうだよ。魔術書を手分けして読んでたところ。にぃも調べもの?」
笑顔のはずなのに笑顔に見えない表情の王女付き女官見習いと、僕を盾にして逃げるようにぐるぐる回り始めたリリアーナ様。
二人を放っておいたらいつまで経ってもここから動けない気がして、立ち止まって待機したままのセロン先生を手振りで先に行かせながら、ミアの意識をこちらに引き寄せた。
「紋章の図案を決める参考になればと思って」
「紋章? ……にぃの?」
図案についてご希望がございましたら、予めご覧になられるのが望ましいでしょう――――そんな一言とともに草案を添えた手紙で予定を尋ねられたのが数日前。
「一生使う紋章かぁー……いいなー。わたしも欲しい」
「しばらく結婚しないの?」
「え? ……え!? わたしが!? どうして!? あ、でも、ミアちゃんと一緒ならそれも悪くな――」
「リリアーナ様だったら女性公爵とかになるけど、普通は家を興すとかしない限り、自分の紋章を持つ機会なんてないと思うけど……嫁がず、家に属さない手柄を立てて身を興す予定でもあるのかなあー? おかしいなー、そんな才能あるなら出してほしいなー?」
「あうあうあうっ、ミアちゃん頬引っ張らないで~」
新しく家なんて興す余裕あるかな? と首を傾げていたミアが、途中からどうしてしまったのか、笑顔に見えない笑顔でリリアーナ様の頬をいじり始める。
……なんでだろう。割と本気で摘ままれて引っ張られてるはずなのに、涙まで流して痛がってるようにしか見えないのに、どことなくリリアーナ様が喜んでるように見える……。
それはそれとして。
「すごい」
「えっ?」
「もしかして詳しいの?」
「え、そ、そう……?」
特に必要としていないリリアーナ様が紋章を作る時のことまで気にして調べてあるなんて、ミアは本当にきちんと仕事をしているんだなあと思う。
……僕なんて、作らなきゃいけないのに、話を持ってこられて、慌てて本を見に来たっていうのに。
「――――あ……」
手伝ってくれたら。そんな期待を胸に言葉を続けかけて、けれど、ミアにもやるべきことがあるのを思い出した喉が、間の抜けた声を漏らす。
「にぃ? えっと、手伝おうかっ?」
「でも、リリアーナ様の調べものもあるだろうし、大丈夫」
「――――え」
ミアの表情に罅が入った。
「――――レイモンド様!」
「んっ!? な、なにかね?」
邪魔してしまうくらいなら言わなきゃよかったな、と後悔し始めた僕が何か言うより先に、目まぐるしく視線を動かしたミアの両の眼球が、今まで静かにしていたレイモンドを射抜いた。
「魔術を習っていましたよね!?」
「ん、あ、ああ、ヴィンセント様と机を並べて講義を受けているが」
「もしよろしければリリアーナ様に手ほどきをお願いできますか!」
「ぼぼぼ僕がかねっ?!」
「お願いできますか!」
「べ、別に手ほどきするのは、か、構わないとも、うむ。だが、その、王女殿下も、あれだ、魔導師じゃないと納得いかなかったりするんじゃ、ないかね?」
妙だ。いつも自信満々なレイモンドらしくない。「ああいいとも、僕に任せたまえ! 大船に乗ったつもりで僕の指導を受けるといい!」とか言いそうなのに。
……レイモンドだから、大船じゃなくって、泥船かな。いや、それはひどいかな。
「え、ねえ、ミアちゃんもしかしてわたしのこと放り出し――――けほごほっ! なんでもないですはいっ! わたしからもお願いしていいかしらレイモンド様!?」
ばしんって音がリリアーナ様の背中から聞こえた気がするんだけど?
「い、いや、その、本当にそうしたいのかね――――いえっ、その、おつもりであらせられるのでございましょうかっ?」
そしてレイモンドも言葉遣いが妙なんだけど……もしかして、緊張してる?
(でも、無理もない……のかな)
いくら王子と接する機会があるとはいえ、まさか僕に接するように初対面の王女様に接するわけにもいかないと、硬くなってしまうというのはあるかもしれない。
「リリアーナ様も落ち着いて。レイモンド、レイモンドはどうしたい? リリアーナ様は教えてほしいって言って……」
………………言わされて?
……うん、まあ、いいかな。
「教えてほしいって言ってるけれど、無理にしなくてもいいよ?」
「――――むむむむ無理じゃあないとも! この僕が怖気づいているような言い方はよしてもらおうじゃあないか!」
あ、いつものレイモンドだ。
リリアーナ様も結構気さくな性格だし、レイモンドも、ひどく緊張さえしなければ、きっとうまく教えてくれるはず。
「決まりですね! ではよろしくお願いしますレイモンド様。リリアーナ様も頑張ってね? それじゃあ、にい、いこ!」
「え、あ、ちょ、時間稼ぎが……」
レイモンドが何か言っているような気がしたけれど、ミアに引っ張られて聞き逃してしまった。
「それで、どうしたのミア」
本棚の間をずんずんと進んでいくミアの腕を軽く引っ張る。
魔術を得てないミアが手伝うより、魔力を操ることにも四苦八苦している僕より、魔術を使いこなしているレイモンドが教えてあげるならそっちの方がきっといい。
それに、最近は朝に会うこともなくなっていて、だからミアも何かあるのかと思っていた。
だから、少し強めに腕を引っ張るミアに合わせて、何も言わずついてきたのだけれど、
「なに?」
「だから、何かあるのかなって……」
「えーと? …………にぃは……私といるの、いや?」
「そんなことないけど」
「けど……じゃあ、なに?」
振り向かず、足も止めずに進むミアの問いかけが妙に寂しげに聞こえて、だから僕は気持ちを口にする。
「えっと、その……けどじゃなくて、ミアと一緒にいたいよ」
「ずうっと?」
「う、うん」
「本当に、本当?」
「うん」
「本当の本当に、本当?」
「……本当に、本当」
「そっか…………じゃあ、楽しみにしてて」
「え? なにミア?」
「ううん、なんでもない! ほら、本も用意してあるみたいだよ」
歩く速度を上げたミアのお仕着せの裾が、軽やかに跳ねた。
「ヴィンセント様……とお嬢さんは、どうぞこちらにお掛け下さい。それで、こちらから順に、地域ごとに家々の紋章をまとめた図鑑、意匠別に意味の違いなどをまとめた本となります。少し離れて、紋章について簡単に歴史をまとめた本もご用意しました。興味がおありでしたら是非」
「ありがとう」
呼び鈴を置くとともに諸々を述べて「それでは失礼します」と去るセロン先生を見送って、僕たちは早速本に手を伸ばす。
まずは、貴族家の紋章がまとめられた本。僕が見るべきとしたら、それは同じ王家の紋章か、あるいは過去の公爵たちの紋章。
……僕の父や兄や、さらにその父や兄弟たちは、いったいどんなことに気持ちが向いていて、どんなことを考えて、どんなふうになりたくて、自分の紋章を決めたのだろうか。
同じ図案にしてはいけないというルールはあるけれど、それ以上に、どんなものに関心があって図案を選んだのかを、僕は知りたかった。
「王家の紋章……あった」
――――水面に翼を広げた鷲。
見覚えがあるのは、王国の旗で見慣れているからだろうか。水面を示す三重円と翼を広げた鷲がいるのは王家に共通で、紋章にある盾やその他の装飾の代わりとでもいうように、王国旗の場合は、鷲が五つ実の生る黄金の枝を掴んでいる。
“水天鷲”という、水面と鷲の組み合わせが二つの魔術を象徴し、果実を垂らした黄金の枝が五大貴族と繁栄を象徴するのだ――――と教わったのはいつだっただろうか。
今開いたページのあたりには、フェルディナンド陛下と兄王子のレオンハルト様の紋章が載っていて、同封されていた草案の空いた部分に、陛下は王冠を戴いた金獅子が、兄王子は盾の後ろで交差した剣がそれぞれ描かれていた。
3つを見比べてみてもそれ以外に大きな違いはない……こともない? 陛下の図案にだけ、下の方のリボンに何か文字が書いてある。えっと……“幸福を施すことこそ王の責務である”?
「あ。にぃ、見て。トレキア男爵家の紋章だって」
「え? どれ?」
トレキア男爵家の紋章――――つまり、ミアとマルチダの家の紋章だ。
盾の背後に鷲がいたり、盾や他の装飾があしらわれているのは王家の紋章と同じみたいだけれど、盾の中を上中下で三つに色分けしていて、王冠、魚、狼と槍がそれぞれに描かれてる。
「どういう意味があるんだろ……?」
「えっとね、王家に対する忠誠、豊富な魚をもたらす神の恵みに対する感謝、脅威を退ける鉄の加護、だって」
んっ?
「あー! なるほど!」
「きゃっ? もう、にぃ!」
「あ、ごめん、びっくりさせちゃった」
「もー……なにがなるほどだったの?」
「えっとね……」
地図が思い起こされて、ようやく意味がわかった。
オリヴァーの出身でもあるシアーノス辺境伯家は、スレイスフィールド王国北東部を取りまとめる大貴族で、その家を中心に、王国北東部の地図や、気候や、育てているものや、隣接するレックラント皇国との交流なんかについてもセロン先生から講義を受けた。
その中には、多少なりともシアーノス辺境伯家の周囲に領地を持つ貴族家の話もあって、なおかつ僕のお祖父様の治める領地でもあるブレットノア子爵領とも接していたトレキア男爵家の話は、ちょこちょこ出てきていた覚えがある。
建国王の時代からある古い古い家柄で、とある騎士の篤い忠誠心に対する褒賞として領地が与えられたというのが、家の興りだったはずだ。
最北端のブレットノア子爵領の北、常冬の土地の脅威を阻む北の果ての山々から流れ出る清流が、トレキアの西の領境となっていて、そこからは豊富な川魚が獲れるという。
他方、東部は、王国屈指の鉄山を抱える。多量に採掘される鉄鉱石と山林のもたらす木材を背景に、製鉄と鍛冶が行われているのだと。
忠誠と、魚と、脅威を払う武具。
「ふーん……」
「あれ? ……つまんなかった?」
「ん? んーん♪」
うんうんと相槌を打って僕の話に耳を傾けていた割にはあっさりした反応で、もしかしてあまり興味がなかったかなあと思ったのだけれど、楽しそうな雰囲気は嘘には見えない。
「じゃあ、にぃのお祖父様の領地は? これ、白い鹿と槍かな」
「三叉の銛なんだって。お祖父様の領地はね、西が海に面してるから、その漁で使う道具を指してて、あと、さっき言った北限山脈があるけど、その向こうから山を越えてくる堕魔がいるから、その備えの意味でも、槍として使えるものが描かれてるんだって言ってた」
「じゃあ、下のこれは? 黒っぽい地面から茎が伸びてるけど」
「泥炭地っていうものがあるんだって」
「泥炭地? ってなに?」
「えっ……泥がいっぱいあるって教えてくれたけど……なんだろう?」
確かに。泥炭地って、なんなんだろう。
「泥なんだ。じゃあ、いっぱいって? これくらい?」
「え、え、地図だとこれくらいだったけど……」
「両手くらい?」
ぐるーっと手を振って一角を示してみせるミアに、首を傾げて返す。
確か、セロン先生の見せてくれた地図だと、河より東側がだいたい泥炭地って言ってたような……?
王都だって、地図の上だと点でしかないから、じゃあ……じゃあ、なんて言えばいいんだろう?
「み、見渡す限り……?」
「この図書室より広いの?」
「王都より大きいと思う」
「王都より……ふふふふ」
「えへへへへ」
王都さえ実感がないのにもっと広い。想像もつかない広さを想像して二人で首を傾げて、不意にミアが笑い始めて、つられるように僕も笑みがこぼれた。
「そんなに広いなら、いつかにぃと見に行ってみたいなー?」
「え……」
王宮の敷地から出ることさえ許されていないのに、この王都はおろか、ずっとずっと北にあるお祖父様の領地に行くことができるのだろうか。
胸にわだかまったそんな疑問は、けれど薄く笑うミアを見て、押し込んだ。
「……じゃあ、いつか、行こう」
「え……本当、に?」
「本当の本当の、本当に」
「……」
きょとんとした表情が、僕の本気を理解するにつれてじわじわと赤みを帯びていく。同じような薄い笑みは、だけどさっきと違ってどきどきするくらい綺麗な笑みだと思う。
(……? どこかで……?)
同じような笑顔を、どこかで見た気が……?
「……期待、するからね?」
「――――う、うん。頑張る」
「にぃ? ……もしかして、違うこと考えてたでしょ」
「え!? いやっ、そんなことないよ!? ミアの笑顔が可愛かったから……えっと?」
「~~~~~~っ!」
――――たった一瞬だったのに、物凄く鋭い。
もの言いたげな、探るような険しい眼差しに冷や汗をかいていたのもつかの間のことで、不意にミアが顔を伏せてじたばたし始める。
「にぃ……っ! …………――もぅ……っ」
「……?」
一〇や二〇じゃきかないくらいに言いたいことがありそうな顔で睨んで、でも結局言うことはないらしい。
「――んっ」
「え?」
「や、く、そ、く!」
「あ、うん」
その代わりのように、そっぽを向いたまま腕だけを伸ばした幼なじみの手を取って、小指を絡める。
「色んなところに連れてって!」
「えっ? さっきと言ってるところが違――――」
「……嘘だったの?」
「う、ううん」
じとっとした目で僕を見つめるミアの視線に負けて、指切り。
できるかどうかはわからないけれど、できるようになればいい。そのための努力だって欠かさずやってるんだもの。
だから、いつか。
「……いつか、きっと」
「指切ったっ! ――――え? なに、にぃ?」
「ううん。約束だねって」
「――――あぁぁぁぁっ! ミアちゃん、お兄さまと何かしてる!? 約束!? 約束してたんでしょ! さっき約束って聞こえたもん!」
「うるさいのが戻ってきた……せっかくいい感じだったのに……」
「ミア……?」
王女様をうるさいの呼ばわりって、今のは僕もはっきり聞こえたからね? 僕もリリアーナ様も何も言わないけど、だめだからね?
「ミアちゃん約束ってなに!? お兄さまとなに約束したの!? わたしも約束したいっ! お兄さま、わたしにもミアちゃんとした約束して!」
「ハイハイ無理言っちゃだめだから」
「無理!? 無理ってなんでよ! ――――あれ? ミアちゃん、なんかいつもより可愛いような気が――――あいだだだだっ!? なんで!? 今のどうして!?」
「ハイハイ愛情愛情」
「え……♡ じゃ、じゃあ仕方ないかな……!」
……大丈夫だろうか、僕の妹は。
将来が少し、いやかなり心配になって目を逸らした先で、疲れた顔をしたレイモンドと目が合った。
† † † † †
夕暮れに色づき始めた空を弧を描いて舞った球体が、ぱしゃりと音を立てて水面に混ざる。
図書室で【水球】を発動したリリアーナ様の武勇伝も、これで証拠隠滅。
「お疲れ様」
「ああ……なんというか、本当に疲れたな」
ずっと維持してきた魔術を無事に水路に解き放って、ありありと解放感を滲ませるレイモンドは、そのまま手近なベンチに身を横たえた。
ちょっと迷って、僕もレイモンドの頭側の端っこにちょこんと腰を下ろす。
「……ごめんね」
「んむ? ………………まあ、なんだ。終わってみれば大したことじゃあなかったとも。むしろ、今日は、僕の進歩を目の当たりにできただろう?」
「?」
「【水球】を完璧に操ってみせたじゃあないかね……」
「――――あっ、うん! もちろん、凄かったよ?」
「だろうとも! あっはっはっは、もっと褒めてくれたっていいんだぞ!」
「え……じゃあ」
「おっ? え、あ……ま、まあっ、ヴィンセント様直々に頭を撫でてもらえるというのも、なかなか、うん、悪くないじゃあないかね……?」
動揺して思わず見開いた目をあちこち彷徨わせていたのも少しのことで、開き直って受けることに決めたらしい。
「だ、だがまあ、どうせなら、この硬いベンチの上じゃない方がよかったな! はっはっは、残念だ!」
「んー……?」
硬いベンチの上じゃないなら……?
……こういうこと?
「ん? なんだ、王子様直々のご褒美はもう終わりかね? ――――んぐっ? 急になんだねヴィンセント様」
「あ、そうそうそのまま首を持ち上げておいて。――――あ、もういいよ」
「何か知ら――んが…………え、え?」
「これでいい?」
にっと笑うと、レイモンドは固まってしまった。
信じられないことが起こったみたいな顔してどうしたんだろう。……右見て、左見て、もう一度僕を見て……目を閉じた。
……やっぱり、疲れてたんだ。
「……ふぅー……」
「お疲れ様」
「――――って待ちたまえ! これはまずい! ストップ、ストップだッ!」
「わっ!? ……え、なに……?」
膝の上からガバっと身を起こしたレイモンドと、危うく頭をぶつけるところだった。
「寝心地悪かった?」
「いや、そうじゃない! そうじゃなくてその…………気持ちよかったんだが……」
?
じゃあ、何がだめなの?
「とにかくだめだ! いいな!? 不敬すぎるというか、気持ちよすぎるというか、勘違いしそうというかだな………………――――つまり! よすぎてもいけないことがある! わかったかね!?」
「う、うん?」
「むぅ…………――――いや、いまさら惜しいなんて思ってないぞ!? ほんとだからな!?」
途中声が小さくてよくわからなかったけれど、とにかく顔が真っ赤になるくらい真剣に力説するだけの理由はあるんだろうと、こくこく頷いておく。
「なんだったか……ああ、とにかく、疲れたとはいえ、ヴィンセント様が気にするようなことじゃあないさ。僕は、君の臣下なのだからな。…………ちょっと……いささか、その、お転婆ではあったが、実に愛らしいお姫様ともお近づきになれたことだし……まあ、他にもいいことがあったといえばあったし……ごほん。ともあれ、役得というものだとも」
「……本当に?」
「なんだ、やけに気にするじゃあないかね?」
気にする。
……うん。僕は、気にしているみたいだ。
今朝のデイモンの訴えのように、僕がまだ知らない一面があると知った。
レイモンドだって、リリアーナ様の魔術指導を引き受ける時に自信満々に言うんじゃなくて、しどろもどろになってた。
もしかしたら、本当は、断りたい理由があったのかもしれない。
――――でも、僕はそれを知らない。だって、僕は、皆のことを見てなかったから。
知らないことだっていっぱいあるんだって、今日、気づいた。
だったら。
気づいたのなら、僕は、もっと皆のことを知らなきゃいけない。僕の傍にいる皆の事を、もっともっとわかってあげて、デイモンみたいな本当の気持ちを知りたい。
(だって、僕は友達なんだから)
だから、寝転がった姿勢で茶化すようにウインクしてみせたレイモンドに、僕は食い下がった。
「だって……レイモンドも、いつもらしくなかったから」
「? どこが?」
「いっつもおしゃべりなのに、今日は図書室でずっと黙ってたし……」
「待ちたまえ。僕は別に、場所を弁えずおしゃべりに興じているつもりはないぞ?」
「……急に話を振られて、しどろもどろになってたところとか?」
「――――ブフっ! い、いや、あれはだな……!?」
むー、と悩むように沈黙して、そのまま言葉を探しあぐねているように顔をしかめる。
続きを待つ間に、枯れ葉が舞い上がって、震えるくらい冷たい風が通り過ぎていった。
「…………そりゃあ、やっぱり王族だとも」
そして、ぽつりと。
レイモンドは、話し始めた。
「無礼があっちゃいけないっていうのは、多少なりとも気を付けてるものさ。…………僕だって、こう言えば楽しんでもらえるだろうかとか、今のは冗談で済まされなかったかもしれないとか、そんなふうに思うことだってある。他の、オリヴァーとかはもう少しいろいろ考えた上でそつなく言葉を選んでるんだろうが……ううむ、なんだ、こう改まって口にするとなると、なかなかどうして難しいことじゃないか」
言い淀んでいたレイモンドが、頭を掻いて起き上がった。
顔には、茶化すような笑み。
「だが、仕える王子様にそこまで心配してもらえるなら僕も捨てたものじゃあないな!」
「むっ」
「そういうことなら今後は心配をかけないように逐一口にしようじゃないか! やれおやつが美味しいだの、ボードゲームが楽しいだの、勉強がつまらんだの、こんな扱いあんまりじゃないかだのとね!」
「ばかにして……も、もう」
君のご主人様が頬を膨らませているっていうのに、どうしてそんなにいい笑顔なんだ。…………もうっ。
「なに、誰だって不満の一つや二つ持つものだとも。気に食わないことがあれば言い争って、それでもだめなら喧嘩して、それで別れる時もあれば、笑って仲直りすることもある。ヴィンセント様が何を気にしているのかは知らんがね、どうせそれぞれが好き勝手してるんだから、ヴィンセント様も好きにすればいいんじゃないのかね?」
「え……と?」
「大方、デイモンにでも、何か言われたんだろう?」
「えッ……そ、それは……」
「おや、当たりだったか。僕のカンも捨てたもんじゃあないな!」
「れ、レイモンドっ!」
どきっとして動揺してしまったことで、逆に何があったかバレたらしい。
いいようにされたことで、つい、大きな声を出してしまった僕に悪びれた様子もなく、レイモンドがケラケラと笑う。
「いやいや、ちゃんと理由だってあるとも。あいつはいつもこう、眉間にシワを寄せて人のことにばかり口出ししてるじゃないか」
「あ……あ、デイモンみたい」
こんな感じ、と手で作った表情はよく特徴を捉えてる。眉間の皺だけじゃなくて、不機嫌そうな瞼の具合とか、眉の傾き加減とか。
「それで、今朝ヴィンセント様と稽古をした後、珍しくナイーブな顔をしていたわけだ。となると、そこでなにかあったと思うだろう? それでもって、ヴィンセント様もカップ片手にぼんやりしてるとなれば、これはもう、二人っきりの時に何かあったと思わない方が不自然だとも。そうだろう?」
「う、うぐ」
ぐうの音も出ないほど辻褄の合う説明だった。
……れ、レイモンドのくせに~!
「さて、それじゃあそろそろ帰るとしようか」
「レイモンド? 帰るならお城の方じゃ」
「いやいや、こっちで合ってるのさ! さあ、あんまり長居してると風邪を引いてしまう。――――へっくし!」
ベンチから立ち上がったレイモンドが向かう先は、けれど帰ると言ったのに王宮の出口とは反対方向。
こんなふうにと示すみたいに、タイミングよく盛大なくしゃみをしたレイモンドに噴き出しそうになるのをこらえながら、僕の住む小離宮に向かうレイモンドの後を追いかける。
「時にヴィンセント様。数字の一〇〇まで数えられるかい?」
「む。……馬鹿にしてる?」
「いやいや、大事な確認だとも。だがその返事だと、余裕そうだね」
「分数小数の加減乗除くらいできるから!」
「そそそそそうかねっ?! それは、うん、実にいいことだな!?」
「……レイモンド?」
「ななななんでもないとも! 話を戻すぞ! さてヴィンセント様には一〇〇まで数えてもらいたい!」
「え……」
玄関扉の前で? 風邪ひくって言ってたの、レイモンドだよね?
「この通り! この通りだから! 騙されたと思って一度だけ!」
「えー……」
「なら五〇まででいいから! どうかお願いします!」
「わ、わかったっ、わかったから」
頷かなかったら足に縋りついてきそうな勢いだったのが、ちょっと怖かった。
おかしい。
何がレイモンドをそこまで駆り立てるんだろうか。
「そうか! じゃあちゃんと五〇数えるんだぞ!」
「え? えー!? レイモンド、え、入るの!? え、えー……えー……?」
いい笑顔を浮かべて小走りで小離宮の中に駆けこんでいったレイモンドの考えてることがわからない。
なんだろう。
…………えっ、まさか、気にしてないって言ってたけど、ほんとはリリアーナ様の相手が我慢ならないくらい大変だったとか…………?
…………ぶるりと震えた。
「……い、いーち、にーい、さーん……」
ともかく、約束した以上は数えないと。
好き勝手したらいいって言ったのはレイモンドだけど、さすがにあれだけ頼み込まれて聞かなかったことにするのは気が引ける。そして後でちゃんと謝ろう。っていうか労おう。リリアーナ様の相手をしてくれてありがとう、って。
寒さと寂しさと膨らむ不安に震えながら、早口に数えることしばらく。
「よんじゅきゅーごじゅぅ! は、入るからねっ?」
誰に伝えるわけでもなくこぼれた言葉を置いて、扉に手をかけた。
――――――パァンっ! パパパパン!
「「「「「お誕生日おめでとうございます、ヴィンセント様!」」」」」
「っ!? ……え……」
宙を舞う紙吹雪と紙テープ。
笑顔で出迎えた離宮の皆の顔。
玄関ホールのあちこちに隙間なく施された花や星や垂れ幕などの飾り。
……オタンジョウビ。
……お誕生日? ……僕の?
――――あっ。今日だ。
状況が段々と呑み込めてきて、皆の顔に何かを期待するような輝きが見えて、僕は恐る恐る口を開く。
「……え、と。……ありがとう?」
わぁっ! という歓声とともに、止まっていた時が動き出した。
「寒かったでしょう、さあ中へ」
「いや、すまなかった。うむ。五〇は長すぎたな」
「ほんとだよねー。レイモンドがモタモタしてなきゃ、二〇でもよかったくらいだったんだから」
「あっ、こら、ロニー! バラすんじゃない!」
「ゴチャゴチャ言ってねえで席に向かえよ。主役が気にして立ち止まっちまうだろ」
「そう言うデイモンだって後ろでコソコソして」
「してねえ。ソウスケ、アンタの勘違いだ」
「こんなお馬鹿さんたちは放っておいて、さあこちらですよぉ」
やいのやいのと騒ぐ皆に囲まれながら移動した先は居間。
玄関以上に飾り付けられた室内は、魔術の淡い明かりもそこら中に浮かべられていて、この場所が会場だと直感的にわかるくらいにキラキラしている。
コの字に配置されたテーブルにはまっさらなクロスが敷かれ、その上には、量も種類もたくさんの料理が運び込まれている。
そして、唯一テーブルがない面は、代わりにカーテンが開け放たれ窓が取り外されていて、こちらも明かりの浮かべられた庭が、一目で見渡せるようになっていた。庭の方でも、窓際を除いた場所には、料理や飲み物の置かれたテーブルがあちこちに用意されているようで、今は騎士や女官が談笑をやめて僕の方に視線を向けていた。きっと、あっちは庭にいる騎士や女官の皆に振る舞われる分なのだろう。
「えっと、どうしたのみんな?」
誕生日を祝ってくれている。それは理解できたし、ありがたいことだし、嬉しいと思う。
主役の席と思しき場所に手を引かれるまま座りながら、未だに混乱が覚めない。
祝ってくれてるのはわかってる。でも、こんなに大きく祝ってくれるような節目の年でもないのに、という疑問が解けない。
「私たち六人で――――」
「――――私もですよ?」
「あ、夫人、すみませんっ。……えっと、学友にお選びいただいた私たち六人と、新しく教育係を務められることになられたマクダーモット夫人の発案で、ヴィンセント様の誕生日をお祝いしたいと思ったんです」
……そういう、ことだったんだ。
一般に、誕生祝いは、節目の歳に限る。
神の手のうちと言われる時期を終える六歳。
成人として貴族がお披露目を迎える一五歳。
陛下のような特別な方でもない限りは、あるいは毎年のように祝うことにしているのでもなければ、普通はそうした節目に盛大なお祝いを行うのだ。
そして僕の場合、六歳のお披露目が祝いを兼ねた席だったのだけれど、でも、問題が多くて取り止めにせざるを得なかった。
「俺たちが仕え始めてから――――あっ……いえ、私たちでした」
「ううん、続けて」
「は、はい。えー……俺、たちが、ヴィンセント様にお仕えするようになったのは、今年の初夏の頃でした。俺たちにとっては、ヴィンセント様というこれ以上ない方の下で切磋琢磨できる機会をいただけた、幸運な年でした。でも、昼餐会で初めてお会いした時の、ヴィンセント様がふとした拍子に悲しそうな顔をされていたのを思い出して。ヴィンセント様にとっては、ミリアリアちゃんとか、トレキア夫人とか、別れることになった方もいましたし、披露宴だって結局延期になってしまって、辛いこともいっぱいあった年だとも思ったんです」
「うぁっ」
(うああああああああっ!!)
皆を見てなかったと自覚した今日に、半年くらい前の酷い自分のことを思い出させて追い打ちされるなんて…………!
羞恥心と後悔に打ちのめされそうになりながら、なんとか顔に伸びかけた手を膝の上に固定することに成功する。
でももう足にキてるよ! 逃げ出したくてブンブンしてるよ! だからこれ以上の追い打ちはやめてっ!
「そんな辛い記憶だけで終わってほしくない。……そう思って、俺たちは前の年以上のお祝いをしようと準備しました。だから、ヴィンセント様が楽しんで下さるように、精一杯皆で頑張ります!」
「……ありがとう。精一杯楽しむね」
ちょっと、取り繕っちゃったけれど。
……素直に、嬉しい。
――――六歳のお披露目。
暗殺未遂事件。
ミアは、死にかけて。
僕は、最低限の人数しかいない小離宮に閉じ込められて。
がらんとした室内で、じっと閉じこもっているしかなくて。
でも、中止になったお披露目の代わりにと、マルチダは笑顔で精いっぱい祝ってくれた。
回復したミアも一緒に、マルチダが焼いてくれた、ちょっぴり不格好なケーキを食べて、一日中遊んだ。
こじんまりとしていて、でも、今思い出しても、胸がじわっと温かくなる、そんな一日だった。
だから。
寂しさが端の方に滲んだ、小さな小さなお祝いを、もう一度やり直すようにと。
庭まで埋め尽くすようにテーブルを広げて、盛大に祝ってくれることが、だから、とっても嬉しい。
照れ臭そうに笑うソウスケが杯を掲げて、僕もリタもオリヴァーたちも、この場にいる騎士や女官の皆も合わせて杯を手に取る。
「――――それと、これは俺の思いですけど! 俺は、ヴィンセント様ともっと話したいです! いろんなことを知って、俺のことや、俺の故郷のことも、もっと知ってもらいたいです! だから、この誕生会がそのきっかけになってくれたらって、俺は思ってます! 皆さんもきっとそう思ってるって信じてます!」
「――――――」
「その成功も祈念して、乾杯っ!」
「「「「「乾杯っ!」」」」」
「かっ……乾杯」
ソウスケの、ちょっと気恥ずかしそうに早口で捲し立てた内容に、乾杯の声が、一拍遅れる。
僕が今日見つけたばかりの悩み事に、気づいてるわけじゃないと思う。
僕がやらなきゃならないと思っていることを、知ってるわけはないとも。
それでも、同じことを考えてくれる皆が傍にいる。
…………それは、とても素敵なことに思えた。
「あれー? ヴィンセント様、泣いてるの?」
「えっ、ううん、そんなことないよ?」
「そう? 残念だなー。涙が出るくらい感動してくれたかなーって思ったんだけどなー?」
「もちろん感動してるよ。皆もありがとう」
「うっ……そ、それならいいもんね」
どこか気まずげに視線を泳がせたロニーに、あれ? と首を傾げる。
乾杯の時は席に着いていたのに、目の前にきたのは……?
「あ、気づいた? ――――はい! お誕生日のヴィンセント様にプレゼント! おめでとー!」
にぱっと笑って後ろに隠していた手を突き出したロニー。
その手の上にあったのは、
「……お馬さん?」
ロニーの手に乗るくらいの木彫りの人形だと思われるそれは、目や鬣の一筋にいたるまで、丁寧に色を塗られた白馬。
「とみせかけて」
「え?」
目の前に差し出した木彫りの白馬を机の端に置いたロニーが、手振りで視線を誘導した先、窓の外。
ピンと立った耳。
ふわふわそうな鬣。
すらりと長い鼻面。
黒く円らな瞳。
手元にある人形そっくりの、いやそれ以上の白馬がいた。
「ヴィンセント様、プレゼントだよ!」
さっきまでいなかったはずの立派な体躯に口をぱくぱくさせる僕に、えへへと冗談めかしてロニーが笑う。
「あ……ありがとう」
「どういたしまして! 一緒に練習して、遠乗り行こうねー!」
なんとかそれだけを絞り出した僕の小指をさっと小指で絡めると、何か言う前に離れていく。
「次は私の番ですね。おめでとうございますヴィンセント様」
ロニーと立ち代わりに表れたのはオリヴァー。
……もしかすると、席の遠い人からプレゼントをくれるのかもしれない。
「ヴィンセント様へのプレゼントはこちらを用意させていただきました」
女官二人が持ってきたものが机の端に置かれ、オリヴァー自らの手で、掛け布が取り払われる。
「西の迷宮から発掘された時計です。……こうして螺子を巻くと針が動き出しますが、さらに一定の時刻がくると」
「わぁ……っ」
広場を模した台座の端に建つのは、異国の建築様式らしき宮殿。
その屋根に嵌め込むように取り付けられていた時計盤が一二時になった瞬間、煌びやかな音楽とともに宮殿の扉が開いて、中の人が踊り始めた。
天井の高い宮殿内、見慣れないけれどもひらひらとしていて華やかな衣装を身にまとった人形たちの舞踏。
名残惜しげな音楽とともに、終わりを告げて扉が閉じた瞬間に、ようやく僕は我に返って、にっこり笑っていたオリヴァーと目が合った。
「……今のようなからくりが、全部で一二種類あるそうです」
「――っ……! ………………あ、っ……あり、がとう……っ」
「ふふふ、お気に召していただけたようで嬉しい限りですね」
いやああああ――――――――――――っ! そんな微笑ましいものを見るような顔で僕を見ないでぇっ!!
悶え苦しみたい気持ちを必死に堪えてびくびく震える瀕死の僕の前に進み出たのは、ローランド。オリヴァーみたいな笑顔で僕を見る彼を見ていると、止めを刺しにきた刺客にしか見えない。
「お誕生日おめでとうございますヴィンセント様。ワタシからはこちらを献上致します」
ばさっと布が取り払われて、出てきたのは、
「え……と?」
ピアノを弾く少女を描いた絵だ。
薄く閉じられた目元。
すらりとした線を描く鼻筋。
淡く上気した頬の下には楽しげに緩んだ口元が弧を描く。
白い肌と対をなす暗く艶やかな髪が、背の中ほどまでを覆う。
喉元には丸く加工された紫水晶と思しき宝石が輝き、明るく淡い色合いのドレスが包む。
見たこともないはずのモチーフに、こんなことなら誘いに乗って王宮にある絵を観るのもよかったかもしれないと思いながら首を捻る。
どこかで見たような……でも、こんな絵に見覚えはないのに、どうして…………?
「……ん、んん?!」
「おや、レイモンド。気づきましたかぁ?」
「え!? い、いや、そんなわけないだろうっ?」
「レイモンド、おそらくその答えで合っているはずですよぉ?」
さあ回答をどうぞと薄く笑うローランドにつられて、皆の視線がレイモンドに集中する。
「え、はっ、いや待ちたまえ、僕の口から言わせるのかねっ?!」
しどろもどろになりながら方々に視線を彷徨わせて助けを求めていたレイモンドだったけど、皆の期待し急かす視線にようやく観念したのか、遠く傾いだ夕日に照らされ、微妙に赤く色づいた顔でぽつりと答えを口にした。
「……び、ヴィンセント様」
……。
…………。
………………。
……………………。
……………………は?
「――――ええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええっ??!?!」
嘘だ! 嘘だぁ! 髪の感じとか色とかそんな感じだけど、いやっ、ちが、違うよね!? だいたいドレス着たことなんて一度もないし! それにそんな、そんな女の子みたいな顔って……ええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ?
「丹精込めて描かせていただきましたぁ……♪」
「まさか、クレリー伯のご子息が手ずから?」「あのご年齢で……?」「本当だとしたら紛れもない才能だな」「殿下の麗しさと愛らしさをよくもあそこまで」「末恐ろしい才能だな」「それよりも、殿下のドレス姿が……」「ええ、違和感がないというか」「むしろ、しっくりきた感じよ」「わかるわ」「そういえばミアちゃんのドレス――――」「――――探してきます!」
待って。待って待って。驚くのは描き手の腕じゃないよ。ドレス着て似合うことでもないよ。っていうか何人か走り去って行ったのはまさかドレスを取りに行ったとかじゃないよねっ? ね!?
「だめっ! 皆見ちゃだめ! ローランドも隠して!」
「あ、ああああ……! 未熟な腕とはいえ、丹精込めてヴィンセント様を描かせていただいたものを、受け取ってはいただけないと仰るのですか……!」
「いやだ! 絶対受け取らないから! 僕じゃないから!」
「ああ……ワタシの愛を否定なさるなんて、なんとご無体な……!」
その場で泣き崩れてみせたって、だめなものはだめなんだから!
ふん! とそっぽを向いて、それでも覆いをかけられ運び出されていく絵をちらちらと目で追いかけ……ちょっと待って、そっちは物置がなかった?
「待って! 処分して! だって僕だっていうんでしょ!? 誰にも見せちゃだめなんだから! 庭に出して燃やすの!」
騒めきに部屋が揺れた。
「で、では! ヴィンセント様であると認めていただけるのですかっ!」
「ちがっ! そ、そうじゃなくて!!」
「違うと仰られるのであれば、私が引き取らせていただきます」
「リタぁっ!?」
背後で上がった裏切りの声に、拍手と歓声が上がった。
リタまで裏切るなんてどういうこと!? 皆もなんでそんなに喜ぶの! ローランドも苦しい顔して仕方なさそうに頷いてないで取り返そうよ! あっ、ちょっと絵をどこにやるつもりなの! ――――ちょっ、なんで皆して押し止めて、あ、絵が、絵がどこにいったかわからなくなるでしょ!?
「とにかくだめええええええええええええええええええええええええええええ!!」
「はあっ、はあっ、はあっ……」
体当たりで騎士たちの壁は越えられない。
身を守ってくれるスィラも、悪意も敵意もない女官の群れには何もしない。
今はただただ小さくて未熟な我が身が恨めしくて仕方がない。
(うらぎりものぉ……っ)
こぼれそうになる涙を必死に押し止めて睨んでも、彼らはサッと目を逸らしてそそくさと下がる。
それでも頑として隠した絵の在り処を言わない以上、僕一人で見つけ出すなんて夢のまた夢。
そっと涙を拭って、次の脅威に目を向けた。
「いや、そんな身構えなくともいいんじゃないかね……? ……あー、僕からは、これを差し上げようと思う。おめでとう、ヴィンセント様」
頬を引き攣らせたレイモンドがテーブルの上に置いたのは……長細い銀の……?
「これは僕のだが、機能は共通だ。ブレードが大小2つ、栓抜き、穴あけ、ピンセット、トゥースピック、はさみ、やすり、フック、鱗落とし、ノコギリ、スケール、ワイヤーカッター。あっ、後、君に贈る場合は飾りに模しちゃあいるが、リングもここにあるな」
「え、えー……と……?」
手のひらくらいのものをポケットから取り出したと思ったら、すいすいといろんなものを出しては仕舞うレイモンド。
「軍用のマルチツールをヴィンセント様に使いやすいようにデザインした奴さ。作った職人に話は通しておいたから、何かあれば修理や調整もできる。いつでも足を運ぶといいとも」
「……これ、だけ?」
「え? あ、う、む、まあ………………王子専用にしちゃあ、そりゃ、物足りない、かも、しれないな……」
「――――ありがとうレイモンド!」
思わずレイモンドの手を取った。
「えっ!? ちょ、抱きっ、おおおお落ち着きたまえよ!? というか今の流れで何故に感謝されてるんだね僕は!?」
心の底から安堵した。
あんなものが出てきた後だから身構えたけど、さっきみたいなとんでもないものが、二つも三つも出てくるわけないよね……あはは、安心したらちょっと涙が出てきちゃった。
「ごめんねいきなり」
「うううむ、なんだ、別に気にしていないとも」
「ありがとう。大事に使うね」
確かに、シンプルながら飾りとして身につけていてもおかしくないだけの外観に仕上げてあって、これなら礼服でも持ち歩けそうな気がする。
「……ヴィンセント様、失礼します」
「?」
受け取ったリタが何か思いついたような様子で――――え、あ、髪の毛触って、なに?
「ヴィンセント様、こちらに向いていただけますか……?」
「え……う、うん……」
再び生じ始めた周囲の騒めきに不吉なものを感じながらも、リタの方を向いて、
「あ、あ、あ……! 可愛らしいですよヴィンセント様!」
「…………」
「うぇっ!? ――――いや、僕は、そんなつもりで贈ったんじゃないぞッ!?」
喜ぶリタから視線を外して、虚ろな目でレイモンドを見るしかなかった。
惜しむ声に耳を塞いで、マルチツールを頭から外して、次はデイモン。
「……オレからは、これだ。ほら、次はテメエだソウスケ」
「説明くらい要るでしょうが」
「オヤジのごますりの助けなんざしたくねえ」
居心地悪そうな様子でぶっきらぼうに紙束を置いて下がりかけたデイモンを、後ろに控えていたソウスケが呆れた顔で宥める。
「これは……やはり、貴族街の屋敷でしたか」
広げて目を通したリタが納得した様子で呟く。
「デイモン、教えて」
貴族街がどこかは知らないけど、屋敷なんて持ってこれないものなら、僕が恥ずかしい思いをすることはないはず。
それにきっと、ちゃんと視線が合わなくてぶっきらぼうなのは、今朝のことを気にしてるんだと思うから。
「……第一王子より外れた場所で王宮からも遠いところにある」「デイモン」
「うん」
「……敷地と職人は確保したが、それだけだ。設計図も何も決まってねえ」「デーイーモーン」
「それで?」
「……それだけだ」
「デイモン! ヴィンセント様、ちょっとお待ちを!」
いよいよ踵を返したデイモンをソウスケが引っ張ってくるまで、二人の力比べを眺めながら料理を楽しむことしばらく。
「よくもまあっ、あそこまで、悪し様に、言えたな? 台本と、全然っ、違うだろ」
「うる、せえっ、そろそろ、諦めろっ、つってんだろーがっ」
「ヴィンセント様、そろそろ」
「あ、うん」
リタに言われて料理から意識を戻すと、お互い荒い息をついて睨み合うその向こうから、デイモンに騎士が近づいているところだった。
「ヴィンセント様が、待ってんだから、いい加減、観念しろっ」
「もう、終わったんだよ! いいから、次は、テメエが――――いげふっ!?」
あ、痛そう……わざわざ手甲嵌めた騎士にやらせなくても。
「お、おい、離せオッサン!」
「誰がオッサンだ! ほら、殿下がお前をお待ちなんだから、さっさと観念して行くぞ!」
「はー……疲れた」
「…………」
…………シャツの襟元を緩めて汗を拭うソウスケは、あんなに男らしくてカッコいい雰囲気があるのに……なんで僕は、女の子の恰好でピアノ弾いてる絵なの…………?
地味にダメージを負いながら、騎士に抱え上げられて連れてこられたデイモンに視線を戻す。
「ほら、しっかりやれ」
「いって。……もう言うことなんざねえっつうのに……」
バシンと背中を張られたデイモンと視線が合った瞬間を逃さず、じっと見つめた。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………っ」
「あっ。――――えへ、勝った!」
「――――っ!!」
視線が揺れた瞬間の勝利宣言にデイモンが目を剥いて、けれど何も言わずに黙りこくる。
「じゃあ、僕の勝ちだから、好きなこと言うね!」
「……王子様だろ。勝手にしろ……」
(――――むっ)
そんなこと言うなら……僕だってほんとに好き勝手言うんだから!
「デイモンて、いっつもカリカリしてるよね。皆に噛みつくみたいに怒ってる。僕にはそんなことないけど、でも黙ってただけだもんね?」
本当は言いたいことも不満もあるんだって、今朝わかったんだ。
「……だったら、何だってんだ」
だから、
「言いたいことがあるなら言うこと!」
「っ……」
デイモンの、言いたいことを溜め込んだような眼差しが僕を捉えて、デイモンの口の端が持ち上がる。
けれど、結局、視線も口角も下がってしまう。
――――まだだ。
(もう少しなのに……)
何か――――デイモンが思わず口を開きそうな――――そう、例えば、
「ソウスケやレイモンドよりカッコ悪いよ!」
「――――んだと! ソウスケはともかく、レイモンド以下だと! ふざ――――※△◇☆○×ッ!!」
「ランディ、そのまま押さえて、手は外してあげて」
「……なぜに僕だけが貶されなきゃならんのだね?」
取り押さえてくれた騎士には悪いけれど、もう少し手伝ってもらおう。
あとレイモンドごめん。
「今朝さんざん言いたい放題言ったんだから今更でしょ! それとも皆の前だと言えないっていうの? それこそ情けないよ! レイモンドだってさっき好き勝手言ってくれたんだから!」
「――――待ちたまえよ!? 僕ァそんな意味で言ったんじゃあないぞ!? ちょ、待って、ぎゃああああああああ腕が捻じり上げられたように痛い痛い痛い!?」
ほんとごめんねレイモンド。
「言いたいことがあるなら言ったらどうだ!」
「――――ンなにお望みならもう一度言ってやるよ! 軍人になるわけじゃねえのに剣を振って、魔導師になるわけでもないのに魔術に打ち込んで! 戦術論のボードゲームなんざいつまで続けるつもりだってんだ! これで第一王子に勝てると――――※☆●×○■△◇!!」
「おいッ、馬鹿、恐ろしいこと叫んでんじゃねえ! 殿下ももういい加減にして下さいよ……!」
肝が冷えたような顔をしているのが目の前の騎士だけじゃないのはわかってるけれど、ごめんもうちょっと!
「デイモンは何になるつもりなのかって聞いたよね」
怒りで顔を真っ赤にしてもがいていたデイモンが、その時得られなかった答えを期待して抵抗を緩める。
テーブルの向こうのデイモンを掴んで、至近距離で笑う。
でも残念。
「知らない! 考えたこともないのにわかんない!」
「ッ…………こ、このッ……!」
「友達だから好き勝手言ったって許すけど、その代わり僕だって好き勝手言うからね! いっつもしかめっ面ばっかりして、僕が喜ぶと思ってるの!? 言いたいことがあるなら言ったらいいでしょ! お兄さんに勝ちたいなら自分で挑んで勝てば!? 僕が何か目指したらいいものがあるなら教えてよ! デイモンがしてほしいことがあるなら言ってよ! もっともっとデイモンのことも教えてよ! あと、あと、えーと、笑え馬鹿ぁーっ!」
なんというか、すっきりした。
掴んだ腕を離して、席に腰を下ろ――――え? あれ、腕掴んで、え、なにその、狼が牙を剥いたような笑みは――――?
「はっはっはっは、これでも食らえ」
「ひッ――――ぎゃあああああいたたたたたたたたたたたたっ?!」
「これでチャラだ。――――だったら、オレはオレで、精々仕え甲斐のある主にしてやる――――あ、がッ……!?」
「も、申し訳ございませんヴィンセント様……! どうか、平にご容赦いただきたい……!」
い、いたい……いたいよう……言いたいことがあるなら言えって言ったけど、手まで出していいなんて言ってないのに……うぅぅぅぅ。
「そんにゃ、そんなこと言うなら、僕だって、たくさんたくさん扱き使ってやるんだからぁ……!」
「うるせー! あと言い忘れてたがな、誕生日祝ってやらぁ! ――――ッてぇーなァ! 何しやがるクソジジイ!」
「お前は言葉遣いを直せって言ってんだろうがバカ野郎!! あと俺はジジイじゃねえ!」
騎士から拳骨を食らってのたうち回るデイモンと謝罪しようとする騎士を、手振りで許して下がらせる。
……なかなかどうして、デイモンも僕たち以外の人とうまくやってたらしい。
そんなことも見てなかった自分にちょっと呆れて目を逸らしたら、待ち侘びて苦笑いを浮かべているソウスケと目が合った。
「お誕生日おめでとうございます……いえ、じゃあ俺もデイモンを見習って、おめでとう、ヴィンセント」
「えっと、ありがと」
(あ、そうだ)
せっかくだし、今言ってしまおう。
「ソウスケ、もう少しこっち」
「はい? え、なんですか?」
「ごめんね。ファーストネームがカガリだって思ってた。ちゃんと、ソウスケって呼ぶね」
寄ってくれたソウスケにそれだけ耳打ちして顔を離す。
まじまじと見られるのが恥ずかしくて、えへへと誤魔化し笑いをしてしまったらソウスケも笑ってくれた。
「じゃあ、俺もこれでチャラにしましょうか」
「い、いやだよ!? そんなところまでデイモンを見習わないでよ!?」
「冗談です」
これ見よがしに持ち上げた握り拳を下ろしたソウスケから、長細い包みが渡される。
「開けてみて下さい」
「うん。……え、重。……なにこれ」
…………身の丈を越える長さを考慮しても、鍛錬に使っている木剣よりずしりとくるこれは……剣?
そんな予想とともにするりと覆い布を取り払って、姿を現したのは長杖だった。
磨かれてつやつやとした質感の黒い柄がまっすぐに伸びる。弧を描く杖先に抱かれるように収められた銀細工、その中央に嵌められているのは握り拳ほどの大きさの猫目石。
「『眼の杖』……の、複製品です。贈り物の内容について、皆さんからご意見をいただいて、再現する品を決めるためにマクダーモット伯爵に協力をお願いし、騎士や女官の皆さんに素材の確保と加工について手配していただき、最後に俺が術式を担当しました。……俺たちの誰が欠けても作れなかっただろう、本物と遜色ない逸品だと自負してます」
「皆で……これを……?」
「はい」
ソウスケだけじゃなく、騎士や、女官や、後ろに控えてくれているリタも誇らしげに笑っていた。
「石の色は、ヴィンセント様の瞳に合わせて選ばせていただきました。そして肝心の杖の効果ですが、私の夫によれば、魔術の射程および範囲を拡げる能力があるそうです。もちろん、魔術の補助も、並の杖より優れています」
「……うん。皆、ありがとう。使いこなせるように頑張るね」
滑らかでいて重厚な質感を腕に感じながら、心の中に湧き起こる気持ちを少しだけ抑える。
……正直なところ、使ってみたい。
宝物庫に入っていたものを元にしているのなら、きっと、とても凄いものだ。
だけど、制御も覚束ない僕だと、大変なことになっちゃうかもしれない。せっかく皆が祝ってくれている席で、そんな悲しい思い出を加えるのは、絶対に嫌だ。
だから、頑張らなきゃ。
受け取ったものに、皆の気持ちに見合うくらいのことができるようになりたいから。
「皆……今日は本当にありがとう」
「――――その言葉は最後に取っておいてください。なにせ、お祝いはまだまだ始まったばかりですからね」
「えっ……」
一人ずつプレゼントを見せてくれた後、姿が見えなくなったのは気になってた。
「最初の出し物は私たちが。騎士や女官たちもこの後披露しますので、どうぞお楽しみに」
茶目っ気のある笑顔でウインクするオリヴァーの手にはヴィオラ。
同じように、ロニーの手にはヴァイオリン、ローランドの手にはフルート、デイモンの手にはコルネット、レイモンドの手にはタンバリン。そして運び込まれたティンパニの前にソウスケが立って。
――――軽快な滑り出し。
跳ねるようなリズム。軽やかなステップを思わせる曲調。うきうきとしたリズムに、騎士や女官たちが自然と手を叩き出す。
指揮者もいない六人だけの演奏で、楽器も僕たち子どもの身体の大きさに合わせた形。でも、そんなことなど歯牙にもかけないくらいに堂々としていて、楽しげな演奏が僕らの心を確かに弾ませて。
曲が終わりを迎えた瞬間、拍手と歓声が弾けた。
「ご清聴ありがとうございました」
息もぴったりに一礼して見せる奏者たちに割れんばかりの拍手と終わりを惜しむ声がかけられて、そして宴が熱を帯びていく。
楽器を片付けた後ろには最初の出し物。手に汗握る演武、着飾った女官たちの踊り、音楽の得意な有志による演奏、【凍結】の魔術を活かしたショー、果ては呑み比べや力比べまで。
笑って。
食べて。
飲んで。
踊って。
笑って。
くつろいだままで誰もが楽しそうに過ごすひと時は、永遠に続けと願うくらい幸せな輝きに満ちていて。
けれどそんな時間も、とっぷりと日が暮れて、出し物も終わりとなれば、名残惜しげな空気とともに終わりの気配を漂わせ始める。
「――――やあやあやあ、ヴィンセントくん。宴もたけなわだけれど、楽しんでるかい?」
だから。
弛緩しつつあった空気に紛れ込んだ闖入者にびくりと肩が跳ねた。
「……ミエロ、さん?」
「おやおやおや、名前を覚えておいてくれるなんて嬉しいねえ! どこかの王子様とは大違いだね、あはははは! おっと、こういうことを言うから嫌われちゃうのかな?」
白けた灰髪。アクアマリンの三白眼。凛々しい白皙、頬には涙とダイヤのマーク。おどけた仕草で手を振る長身を、奇抜なデザインの貴公子服が包む。
いつか見た、宮廷道化師と名乗る男が、今回は同じような意匠の道化服に身を包んだ者たちを引き連れて舞台に立っていた。
「さあ、王子様と仲間たちのトクベツな日だ。キミたちも存分に祝ってあげなよ」
「あいよー」「っははー!」「お祝いお祝い!」「今日こそ成功だー!」「やろ、やろ、やろ」
その一言で、今か今かと待ち構えるようにうずうずしていた道化師たちが散っていく。
手足の短い小人。両腕のない者。腕が地につくほど長い者。片目がない者。背中の曲がった者。そうかと思えば、オリヴァーたちと歳の変わらなそうな少年だったり、ミエロくらいの若い男や女だったり、はたまた騎士や女官より年上と見える者も少なからず混じっている。
姿形もバラバラなら披露してくれる芸も多種多様で、ボールに乗る者、複数で球を投げ渡し合う者たち、剣を飲んでみせる者、獣の鳴き声や小鳥のさえずりを真似る者、人形を踊らせる者、火の輪を潜ろうとする者、張った綱の上を渡ろうとする者などなどなど。声を張るのがうまい者もいれば、誰にも注目されないまま始めている者もいるし、成功して晴れやかな笑顔を浮かべる者いれば、失敗して恥ずかしそうに笑う者もいる。奇怪な衣装を除けば、共通しているのはその誰もが笑顔を浮かべて楽しませようとしていることくらい。
そんな彼らに対する皆の反応もいろいろで、突然の乱入におろおろと立ち往生する者、飛び入りの余興と受け入れる者、囃し立てる者、成功に拍手を送り失敗を笑う者、上手だの下手だの簡単だの難しいだの自分ならもっとうまくやれるだのと仲間内で言い合う者たちもいれば、なにやら神妙な顔をする者、静かに祈る者、困惑しながら見続ける者、呆れた顔で飲食に耽る者、苦々しげな顔でじっと見つめる者もいて、果てはまるで汚らわしいものを見るような眼差しを送る者もいる。
「どうだいヴィンセントくん。彼らの芸を楽しんでくれているかな?」
「――――ひゃっ? ……は、はい」
出し物会場の中央にいたはずなのに、いつの間に後ろに回られたのか。耳元で囁かれて背筋を泡立たせる僕を、長身の道化師が面白そうに眺めていた。
「お気に入りの芸があったらいつでも言ってくれるといい。いつでも披露しにくるよ。それと、質問やリクエストにも可能な限り応えているから、思いついたら何でも聞いておくれよ? 王子様からなら、皆張り切っちゃうだろうからねぇ」
火だるまになって転げ回っている一人にグラスの水を投げかけただけで火も火傷も消しつつ、自らも失敗をケラケラと笑う男が、歌うような口ぶりで宣伝する。
「え……と、じゃあ、一つ」
「おや? 早速のリクエストかい?」
「彼らは、どうして…………ああなんですか?」
「ん? ボクの愉快な仲間たち、この王宮で笑いと感動を振りまく道化師たちだよ? 日々可笑しさを頂戴しようという日々の研鑽の賜物さ。凄いだろう?」
「そうじゃなくて……」
――違う。
聞きたいことは、そうじゃない。
笑顔ではぐらかすこの道化師に、なんと言えば伝わるのだろう。
ほとんど同じ形なのに、どうしようもなく一部が欠けたり多かったりずれていると感じるのに、どうして誰も何もしてあげないんだろう。
「なんで、治してあげないんですか?」
「…………」
笑みが、少しも崩れない。
なのに、目の前で笑う道化師の何かが、変わったような気がした。
「……それは、難しいことを聞くなあ」
言葉を選ぶように間を置いて、灰髪の道化師が静かに口を開いた。
「治癒師たちの知恵と力を以てしても、どうしようもないことは存在するもの――――そう言っても、キミに限っては、答えにならないかな?」
わざとらしいくらいに少々大きかった声が、一転して潜められる。
「まず、言っておこう。他はともかく、キミなら、あれくらい造作もなく治してあげられるね」
「なら」
「――――ダメダメダメ、だめだよそんなワガママは。王子様でも、いやだからこそ、やっていいこととやっちゃいけないことの区別はつけなくちゃあね」
立ち上がりかけた僕の肩を押さえて、覗き込むように顔を近づけた道化師の表情が変わる。
それは、不出来な生徒を見下ろして答えに辿り着けるかどうかを面白がっているような笑いの顔。人を試すその表情は、
「さあ、親切な道化師が、イケナイ王子様にヒントをあげよう。勉強熱心で人の話に耳を傾ける王子様へのご褒美だ。骨休めを知らず、他人のことに心を砕いてしまう王子様への呪いの言葉だ。
――――仮にキミが治したとしよう
彼らの手足が人並みに動くようになったとしよう
頭はチクタク時計のように考えられるようになったとしようとも
さあ
さあ
さあ
どうなる? どうなる? 彼らは頸木を外れて――――どうなった?」
歌うようなリズムで、酔っぱらいのような浮ついたステップで、考える時間を与えるように道化師が距離を空ける。
――――ま、た、す、ぐ、に。
問いの答えがすり抜けていくような不安を見透かしたように、去ると見せかけておもむろに振り返った道化師が唇を動かした。
(……どういうこと?)
――――治ったなら、彼らがどうなるか……?
手を振って他の人に粉をかけて回り始めた長身を目で追いながら、奇妙な問いを頭の中で繰り返す。
治せると、あの道化師は言った。だから、治すまでのことは考えないでいいのだろう。治した代わりに何かを失うなんてこともないとも思う。
じゃあ、治した後に何かある……?
――――痩せ細った片足が、元の通りに歩けるまで回復したとして。
――――うまく動かせない腕が、指先まで思い通りに動くようになったとして。
――――目の前しか見えていない者が、周りにも注意を払えるようになったとして。
(……どうなる?)
……それは、幸せなことだと思う。
失ったものを取り戻せたとしたら、足りない部分を補えたとしたら、できないことをできることに変えられるなら――――今までよりもたくさんのことができるようになるのなら、素晴らしいことのはず。
(――なのに)
あの道化師は否定せず、しかし違うと笑っていた。
そんなことがあるのだろうか。
治さないままの方が、奪われたままの方が、失くしたままの方が、幸せだってことが。
………………………………………………わからない。
考えてみても、自分の考えを否定できない。
道化師の投じた問いかけが、その真意が、見透かせない。
「――――さあさあさあ、わからなかったかい?」
「っ」
思考に沈んでいた間に戻ってきていたのか。
謎かけの出題者が、三度後ろに立っていた。
「フフフ、そんな目でボクを見上げたって、答えはあげないよ?」
「っ!」
先生に解答をねだるように見上げているよ――?
そんなふうに指摘された気がして、気恥ずかしさに頬が熱くなる。
「答えはねぇ、考えて、悩んで、苦しんで、自らの手で選び取るものさ。だから、答えは教えない。だけどヒントはあげよう。スレイスオールの、この王都の全てに目を向けてごらん? 色々な声を聞いてごらん? きっとそこに、万金に勝る答えがあるだろうさ」
次の謎かけをお楽しみに。
大仰な仕草で一礼した道化師が、予備動作もなく宙を舞う。
「最後はこのボクが締め括らなきゃ終われないよねえ」
「やったー!」「ミエロ、ミエロ!」「お待ちかねのオオトリだぜ!」「楽しみだねー!」
舞台の中央に着地したと同時に、周囲の道化師たちがタイミングを合わせたように披露を終えて捌けていく。
一際強まる観客たちの好奇の視線をものともしないで堂々と立つミエロが指を鳴らす。何度も、何度も、リズムを取るように、何かを指揮するように。
「……風?」「きゃ、スカートが」「え、え、ちょっと」「落ち葉を捨て忘れたの!?」
最初はそよ風だったものが、程なく女官たちがスカートを押さえるくらいに強まって、庭中の落ち葉や枯れ葉を掻き集めてきたような量の赤黄茶色の渦がミエロを取り囲んでいく――――と、不意に風が止んだ。
白。
宙を舞うそれが、視界を遮るほどの羽根だと気づく頃、ミエロを覆い隠すほどたくさんの白鳩が中央に集まっていた。
山と群れた鳩が、上から上からその白い翼を薄闇の空にはためかせていく。
そこにミエロは――――いない。
鳩となってしまったというのか、周囲を見回しても長身の道化師はおらず、さりとて答えもないまま、最後の一羽までが上へ上へと羽ばたき舞い上がる。
空高く、闇夜に浮かぶ白い影が空一面に広がって、何重にもなる円を描いていく。
誰もが空を見上げて、しかし何も起こらない空白にこれで終わりかと、そんな余韻を漂わせ始めた頃、出し抜けに燃え上がる。
弾けるように燃え広がった空が、つかの間の眩さを取り戻して。
再び目を開けた時、あたり一面が煌めいていた。
まるで、冷たく凍った真冬の朝に見える、ダイヤモンドダストのような輝き。
まだ早いはずの幻想的な空の訪れに、誰のものともつかないため息が漏れていた。
「――――幼気な王子様に予言をあげよう」
「っ」
夜の空気に溶け込みそうな声。
「――――一つは、全てを置き去りにして、全てを手に入れる。
――――一つは、全てを手に入れ、しかし全てを失う。
――――一つは、全てを奪われ、全てを与える。
――――一つは、全てを従え、全てに尽くす。
ボクが見直したキミの未来。さあ、さあ、さあ、キミはどうするのかな」
誰もが輝きの降り積もる夜空に息を呑む中で、僕だけが、道化師の笑う顔を見ていた。




