祖父
サイラス・ブレットノア子爵視点
女官が開けた扉から姿を見せたのは小さな影。
対応のため立ち上がった儂が見守る中、彼は少々急ぎ足で部屋を横切り、奥のソファーに腰を下ろした。
「座ってください。お待たせしました、ブレットノア子爵」
「失礼します」
目上の者として正しくはあるものの精一杯背伸びした言葉遣いに微笑ましさを感じながら、努めて落ち着いた表情を続けて席に着く。
「……お茶のお代わりはどうですか?」
「お気遣い感謝いたします殿下」
ヴィンセントの前にカップを用意した女官が儂のカップも満たして下がる。
「……では、早速本日の要件を伺いましょう」
「……」
(……及第点か)
控える老婦人からも何もない。
硬い表情で座るヴィンセントにこれ以上の意地悪も酷かと、意識して厳めしくしていた表情を緩める。
「成長したな、ヴィンセント」
「……うんっ!」
褒められたと理解した瞬間、ヴィンセントの整った顔に満面の笑みが花開く。苦笑を堪えながら、儂は合図して手土産を用意させた。
「トレキア夫人、ミリアリア嬢も席に着いて食べてくれればよい」
「ありがとうございます、サイラス様」
「ありがとうございます」
礼を述べる母子に頷いて返した後、近くに控える老婦人に向き直る。
「感謝する、メリモント女史。貴女のお陰でヴィンセント様も立派に成長なされているようだ」
「勿体無いお言葉でございます子爵様。全てはヴィンセント様の努力の賜物かと」
「そう言ってくれるなら一祖父としても嬉しい限りだ。ところで、一緒にいかがかな?」
三人が口にしている菓子を勧めてみるものの、
「いえ、私の仕事はもう終えましたので、失礼いたします」
「……そうか」
団欒と考えて気を遣ってくれているのだろう。
後日改めて届ければよいと考え直し、老婦人が扉の向こうに消えるまで見送る。
――――今日訪ねた要件の一つは孫の成長を見ること。
トレキア夫人とメリモント女史の双方から真摯に学んでいると聞き、ならば実際に必要になる前にと、老婆心ながら臣下役で出向いたわけだが、
(年齢を考えれば卒のない対応か)
入室時の対応はよかった。
本来なら本題に入る前に世間話の一つでも入れることが多いが、今回は“全くの初対面である格下の貴族に対する対応”を試したのだからこれも省いた。問題はない。
この件は終いだ。
「……トレキア夫人。ミリアリア嬢も随分と変わられたようだ」
冷菓を食べ終えて二人の相手をしていた夫人に、タイミングを見計らって話を振る。
「そ、そうだとしたら、きっとヴィンセント様の努力するお姿を拝見したからでしょう」
(……これは、誤解させたか)
つかの間覗いた硬い表情から察するに、「ミリアリア嬢がやる気を見せているようだが、まさかヴィンセントに気があるわけではなかろうな?」という牽制に取られたらしい。
――――実際のところ、護衛や女官に聞いてミリアリア嬢がヴィンセントを好いていることは既に知っている。
動いたのはミリアリア嬢が先で、つられる形でヴィンセントが勉強に興味を持ったことも、夫人が宥め賺してなんであれ最低限身につけるようにしていることも、護衛や女官を通じて報告を受けているのだから。
「落ち着かれよ。殿下がやる気を出されたきっかけも、ミリアリア嬢についても、責めているわけではない、いや、それどころか感謝している」
「は、はあ……」
――――――儂が怒りを抱いているのは、父親に対してだ。
この離宮に何度か出向かれたというのは耳にしていた。
政務は多忙を極めるのだろうし、正妃の実家たるミフィーユ家の手前もある、そう多くの時間をかけてやることはできないが、父として愛情を注いでくださっているものだと思っていた。
だが――――それは愚かな想像だった。
「陛下は、離宮に足を踏み入れられたものの、一度も殿下にお会いしておりません」――――口にすることを何度も躊躇った女官がやっと言葉にした事実は、一時我を忘れさせた。
あり得ぬ。
嘘だと思いたかった。
あれほど愛し求めて止まなかったのだ。
ブレットノアの血を継ぐ唯一の子だと一度は拒絶した儂の元に、大切にすると、わざわざ出向いて誓ったのだぞ?
そんなはずがないと、そう自らに言い聞かせながら、三歳の誕生日を間近に控えたヴィンセントに会いに行った。
嘘ではなかった。
他の護衛や女官も、誰一人として否定しない。
――ちちうえ……? なあに、それ?
あの男の顔さえ知らない。
だがなにより悲しいことは――――ヴィンセントが、父親というものすら知らないことだ。
あの者は一度も会っていないどころか、父だと名乗ることも伝えることすらもしていない。
我が子ということすら認めていない。
――――散々待たされたあげく、ようやく面会が叶った儂の問いに返ってきたのは、「誓いは果たしている」の一言。
貴様が周囲の反対を押し切ってまで望んだエミリーが、我が愛娘が産んだ忘れ形見になぜ会いにさえ来ない!? 王族とはいえ父親だというのに! それも、貴様が唯一の親なのだぞッ!?
――――その時だ。
儂が誓ったのは。
この者は、ヴィンセントを守らない。
たった一人の子を差し出させた臣下を裏切る王になど、儂は仕えない。
儂がこの身を賭して全てを捧げるべき者は、ヴィンセントただ一人のみだ。
王でなくともよい、いや、むしろ憎き王族であることの方があるいはヴィンセントを不幸にするやもしれない。
ならば、儂がすべきことは、どう転ぼうがヴィンセントが生き残れるようにすること。
その結論に達した時は盛大に笑ったものだ。
――――――生きろと。
辿り着いた真実はエミリーの遺した言葉と同じ。
既に最も大切なことを述べていたのだから、儂の娘として誇らしく思う。
…………故に、感謝こそすれ、不快に思うことなどあり得ない。
幼くしてヴィンセントを慕い、その傍らに立たんと努力し才を示し始めた者が、我が孫の成長に寄与する人物が、ヴィンセントの力とならないはずがない。
多少過とうそれは若さ故のこと、転ばぬよう助けてやった上で思慮深さを身につけるよう言ってやればよい。
トレキア夫人が見る前で、ミリアリア嬢の頭を撫でる。
「ミリアリア嬢。これからもヴィンセント様を頼めるか?」
「? ……はいっ!」
「そうか。心から感謝する。何かあれば儂を頼るといい」
頭を撫でられてきょとんとした後、嬉しさと真剣さを綯い交ぜにした目で頷く彼女に偽りない協力を申し出て、儂は暫し団欒の一時を楽しんだ。