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王国の君  作者: てんまゆい
一章 揺り篭の君
41/96

26 王城聖堂

ヴィンセント6歳。秋。


ヴィンセント視点。

 魔力を動かせない――――その原因はいろいろある。

 いつだったか、ノリー先生が説明してくれたように、魔力を意識したこともなく生活していれば、魔力を感じないから動かそうとすることはないし、反対に、王族や上級貴族であれば、魔力量が多すぎるために消費が微々たるものになり、結果として魔力が消費される感覚がわからないということになる。

 勿論その逆として、魔力がゼロに近い人はほぼほぼ魔力がないから、動かすもの自体がないということもある。

 ………………非常に鈍感、ということも、前例がないわけではない。


 そしてそれらに並ぶ可能性の一つとして、呪詛による魔力の封印も挙げられる。


 【デネッサの暗き蛇】――――それがミアにかけられていた呪詛の正体だったと判明した後、僕も同様の呪詛がないかは確認されたし、ないとのお墨付きも、もらってはいた。

 それでも、別の――――特に見つかりにくいように作られた呪詛ならば、そして体調には何ら影響しない類の呪詛であれば、今まで見つからなかったということもある。

 あるいは、あの後、ほとぼりが冷めてから魔術講義が始まるまでの間に、新しく呪詛をかけられていたという可能性も、否定はできない。


 そんな説明を、ノリー先生と、クリス先生の同僚のセリーナ先生から受けた後。


 ――――僕は、聖堂へ出向くことになった。


「どうぞこちらへ」


 ――――聖ウォルター大聖堂。

 建国王の御名を冠するこの聖堂は王城の西隣に位置し、王国における祝祭の舞台としても使われる。

 真っ白な大理石を切り出して造られた三階建ての上には緑青の屋根が伸び、さらにそれを越えて複数の尖塔が鈍色の雲を突かんばかりに聳え立つ。

 精緻な装飾の施された壁と色鮮やかなステンドグラスが交互に並ぶ側面を右手に通り過ぎて、祈りを捧げる建国王の像の横を抜ける。緩やかに続く階段を上り、三聖賢が見守る正面広場を通り抜け、僕は聖堂の正面扉を潜った。


 厳かな空気。

 嵐の前の静けさにも似た、独特な静謐さを漂わせる中を導かれるままに歩いた先、ステンドグラスを透かして光が差し込む内陣で、佇む神官たちに囲まれるようにして、装飾の施された椅子が一つ。


「……っ……」


 椅子というには余分なものが付いていて物々しさを醸すそれに、思わず足が止まった。


「どうぞこちらへ」


 説明は、あった。

 特に悪質な呪詛となれば、解こうとすれば被術者を暴れさせるものもあると。解呪の妨害だけでなく、自らを傷つける恐れがあるから、それを防ぐ目的もあっての拘束具だとも。


 マルツィオ司教の笑みを信じて、その椅子に腰を下ろす。近寄った神官たちの手で、腕や足に分厚い鉄の輪が嵌められた。

 ひやりとした感触はなくて、代わりに手首に感じるのは、みっちり詰まった綿の感触。


「ヴィンセント殿下、それでは始めさせていただきます」


 ご自分を強くお持ちください――――その一言に頷くと、マルツィオ司教が後ろに下がり、息を吸い込んだ。


 …………す、と。


 ゆったりとした声が響く。静かな立ち上り。それはすぐに、朗々として威厳のある、しかし重苦しくはない低音に変わる。

 その声に従うようにして、他の声が歌い始める。あたかも伴奏のような、異なるリズムと響きを帯びた声。時に高く、時に低く。小さく抑えられたかと思えば、段々と高まり、遂には主旋律をも追い越しそうなくらいに勢いを増していく。

 紡がれた糸が、縒り合わされ織り上げられていく様子を見ているような、そんな複雑で精緻な響きの中で――――ふと、小さな光が生まれた。

 クライマックスに向けて逸るように勢いを増す声に沿って、胸の前の輝きが脈打つように力強さを増していく。

 いつの間にか辺りは仄かな明るさの中にあって――――――予感とともに迎えたクライマックスで、光は弾けた。




†   †   †   †   †




「改めて、安心致しました」

「ありがとうございました」


 コトリ、とわずかな音とともに置かれたソーサーからカップを持ち上げて紅茶に口をつける。


 ……あ。おいしい。


 マルツィオ司教が手ずから淹れてくれたものだけれど、リタや女官が淹れるものと遜色ない。


 ――――ここは“天の子らの家”。

 聖堂近くに建てられたこの建物は、王城に勤める神官たちの生活の場となっている。

 解呪の儀式の後。マルツィオ様にお茶に誘われた僕は、その二階の応接室にいた。


「お口に合いましたか」


 先程の聖堂では確かに上に立つ者に相応しい威厳があったのに、今、目の前で口元を緩めている老境の神官は、身なりのいい好々爺にしか見えない。


「それはそうと殿下……いかがでしたか?」

「それは……その……」

「……そうでしたか。御力になれず申し訳ありませぬ」


 思い出すように自分の内を探ろうとしたのがあまりにわかりやすかったのか、それとも咄嗟に返事が返せなかったからか。


「い、いいえっ、そんな、それは、僕が、僕がもっと……その……しっかりしていれば……」


 わざわざそうしてくれたのだと、今の問いでようやくわかった。

 ――――呪詛を確かめるだけならあれほどの用意は要らないとリタは訝しんでいたし、前に呪詛の確認を受けた時だって、ああも仰々しいものではなかった。

 マルツィオ司教は、呪詛の判別とその対処だけじゃなく、可能ならばと魔力を多めに使う儀式を行うことで、魔力を感じ取れやしないかと骨を折ってくれたのだ。


 それに応えることができなかったことが、胸にちくりと刺さる。


「殿下」

「は――――はいっ」


 先程の沈痛な面持ちとは雰囲気の違う声。ただそれだけの一声が、無力感に沈みかけていた僕の顔を持ち上げるくらいに力強かった。


「朝、目を覚まして、小さく祈る。今日も生かされていることに、天の慈悲に感謝を捧げる」

「え…………は、はい……?」


 不意に始められた言葉に訝しさを覚えながらも、揺らがない佇まいに、自然と引きつけられる口調に、耳が言葉を追い始める。


「身なりを整え、朝の祈りを捧げる。掃除を行い、それから朝食をいただく。理解を深めるべく聖典を紐解き、傷病に苦しむ者があれば聖譜を唱え、迷える者があれば耳を傾け助けの手を差し伸べる。身を清め、祈り、天が与えたもうた一日に感謝を捧げ、そして眠りにつく。……これが修道士たちの一日でございます」


 淡々と述べられる内容は、何ということはない、修道士の日常の話らしい。

 けれど、大したことでもないはずの話に不思議と引き込まれてしまうのは、マルツィオ司教が口にしているからだろうか。


「今はこうして王国にて、迷える者たちに手を貸し、また天の恵みを分かち合うべく微力を尽くしておりますが、天の道を志した時には、私もまた、道を歩み始めたばかりの若者でございました」

「若者……ですか?」

「ええ。殿下よりもう少し年上の、そう、ちょうどナルディーニ嬢の歳の頃でございましたか」


 細められた目が映すのは老司教の若かりし頃なのだろう。クラウディアさんの年の頃、という例えに大人びた少年を思い描いて、オリヴァーが浮かぶ。

 落ち着いていて頼りになる少年。……うん、成長すれば今のマルツィオ司教のような、立派な人物になりそうな少年だ。


「年相応よりは賢くはあったと自負しておりますが、しかし立派な悪童でございました」

「えっ?」


 あく、どう?


「多少の知恵はありましたが、人に教えるでもなく、それどころか自らに及ばぬ者たちと嘲笑っておったのです。嘲笑われた彼らが腹を立て悪童を毛嫌いするのは当然でしたが、悪童はそれを不快に思って悪戯を仕掛けるようになりました」


 賢いという言葉にも当てはまっていたイメージが、悪童という言葉で滲むように掻き消える。戸惑いながらまじまじと見つめてしまった神父の顔は穏やかな微笑から変わることなく、そんな面影なんて少しも見当たらない。


「さて、内容は省きますが、ある時のこと。その悪童は、悪戯を仕出かした罰として、当時過ごしていた修道院から、遠く離れた別の修道院へ赴くことになりました。そこは大変厳しいことで知られる修道院でしたが、その悪童は何度叱られようとも懲りませぬ。誰彼構わず悪戯を仕掛け、倉庫に眠る葡萄酒を浴びるように飲んで暴れ、修道院長の部屋に仕舞われた革袋から小銭をくすねては近くの町で遊び呆ける始末。町の悪童たちとつるみ、やがて貧しい彼らのためにと、得意の悪戯で腹の足しになるものを手に入れてやるようになったのも自然の成り行きでした」


 語る口調は穏やかなのに、ところどころで出てくる想像もつかないくらいの“悪い行い”に、妙などきどきを覚えて唾を呑む。


「そしてある時、とうとう修道士に見つかってしまい、修道院長の前に連れていかれたのです。

 肉を叩くための棒を振り上げる者。

 畑を耕すための農具を構える者。

 どこからか持ってきた石を握りしめる者。

 縛られて転がるしかない悪童たちを憎々しげに見下ろして、腹の足しとして不当に売り物を奪われた者たちは、仕出かしたことの償いをさせるべきだと口々に訴えました」

「それで……どうなったの?」

「厳しい顔で沈黙を保ち続けていた修道院長は、しかし彼らを宥めて帰らせたのです。私が罰を与えよう――――そう告げて」


 ……大の大人でさえ涙を流すような罰を与えると評判の、とても恐ろしい方でした。


 ひどく淡々と紡がれる声の空恐ろしさにふるりと震えて、それでも続きを気にして逸る気持ちが前へと身を乗り出させる。


「這いずりながら、悪童は声を張り上げました。私が悪いのだと。この者たちがやったことは全て自分が教えたことなのだと。だから、責めるなら私だけにしてほしい、と。……他の悪童たちも、同じことを口にしました」


 ……院長は、彼らを笑いました。


「『お前たちを連れ帰る。寝床も、衣服も、食事も今まで通り与えてやろう。』

 そして悪童たちは、修道院にて過ごすこととなりました。……罰などなかった。そう思って胸を撫で下ろした悪童たちは、愚かだったのです」


 約束通り、全てが与えられました。

 寝床は、悪童に与えられた、粗末な寝台が一つきり。

 衣服は、悪童が所持していた見習い服が、幾着か。

 食事は、かつて悪童に分け与えられた通りに、三食。


 全てが、()まで(・・)通りに(・・・)与えられました。


「寝床は狭くとも、身を寄せ合えば以前よりは温かくなりました。

 衣服は粗末だとしても、悪童たちに行き渡るほどの数を持て余していたため、全員が新しい衣を得ました。

 ……しかし、食事だけはとても足りませんでした。

 悪童たちは怒り狂いました。

 騙したのだと。

 天に仕えるべき者たちが、悪童たちに嘘を吐いたのだと」


 しかしそれは偽りなく、今まで通り――――今まで受け取っていたもののみが、両の指の数ほどいる悪童たちに分け与えられた全てでした。


「そのような答えに納得するはずもありません。耐え難い空腹に襲われた悪童は、同じ苦しみを抱える者たちを引き連れて食糧を奪おうと倉庫に向かい、しかしその扉に触れることすらできず、空しく立ち去るより他にありませんでした」


 それはそれは、恐ろしい罰が続きました。


「悪童たちはわずかな食事を奪い合いました。お互いを敵と思い、わずかに一人が満たされるだけしかない食事を分け合うでもなく、傷つけ、傷つけられ、出し抜き、出し抜かれて、少しでも己の飢えを満たしてやろうと争うのです。それでも満たされぬ飢えに苛まれ、お互いを罵り合いもしました。敷地に植わった雑草さえも齧りました。あまりの空腹に耐えかねて、誰かの足が肉に見えて噛みつくこともありました。……しかしやがては、それさえできなくなってゆきました。痛みとしか思えないような飢えに蝕まれ、手足は己を支える力すらも失い、ただただ屍のように、じっと息を潜めて、次の食事を待ち侘び続ける……」


 そのような折、食事が運ばれてくるには早い時刻に、ふと、扉が開きました。


「悪童たちは薄く目を開けました。ああ、次の食事は少し早く運ばれてきたのだろう。食べずにいるわけにはいかない。さあ動け、這ってでもありつかなくては、と」


 しかし違ったのです。




「『――――――今の姿を見よ!』」




「っ!?」

「『お前たちは、悪鬼そのものだ! そのような者たちに誰が施そうというのか!』」


 突然の迫力ある声。

 仰け反って跳ねるようにソファーに身を沈めたまま固まる僕の前で、カップに新しく湯気を立てる液体が注がれる。


「どうぞ」


 ………………なに、いまの。


 びっくりして強張った身体を動かし、湯気を立てるカップを恐々と手に取り、いつの間にか渇きを覚えていた喉を少しずつ潤していく。

 ……傾けたカップの縁から、恐る恐る覗き込んでみると、目の前の老爺は、いたずらが成功したような顔でにんまりと口の端を歪めていた。


「ま、マルツィオ様っ」

「ははは、申し訳ありません。さて、話を戻しましょうか」


 いたずらな笑みを嘘のように引っ込めて、穏やかな微笑を貼りつけた老爺が元の口調に戻る。


「修道院へと連れてこられる前、彼らは確かに、自らの罪を認めて仲間を庇い立てていたはずでした。だというのに、彼らは飢えに苛まれていたとはいえ、庇い立てていたはずの仲間と食糧を奪い合うなどという悪鬼のごとき所業に手を染めてしまった。あまつさえ、それを指摘されるまで気づいてすらいなかったのです」


 “求める者に与えよ”。


 その言葉と共に、這う力すら失い震えるしかなかった悪童たちに麦粥を与えて、院長は去りました。


「差し迫った飢えを脱して、彼らは口々に院長を罵りました。自分たちは求めたというのに、今の今まで与えることもしなかったではないか、と。

 ……ところが、悪童のみは項垂れました。それは、嘗て、教えを読み解くことに遅れていた者たちをばかにしていた自らが、教えに記されている通りの愚か者であったことに気づけばこそ」


 悪童は、未だ鉛のように重く感じる身体を起こし、器を集めた後に洗って返しました。


「そして次の日、一人の腹を満たすほどの麦粥が盛られた器が、一つは悪童に、一つは周りの者たちに与えられました。

 彼らはまたしても罵りました。たったこれだけなのかと。両の手にある指ほどの人数がいるというのに、再び飢えに苦しめというのかと」


 悪童は器を皆に回して粥を分け与え、その残りを平らげた後、前日と同じように器を扱いました。


「それから五日が過ぎ、皆、少しずつ動けるようになりました。

 悪童は粥を受け取りに行き、三つの器を受け取って、皆と分け合いました。

 あくる日は、悪童は彼らに身を清めるように言うと、彼らの衣を洗いました。

 またあくる日は、彼らに食事を受け取りに行くように言うと、与えられていた部屋を片付けました。

 ……そうしているうちに、また一人、また一人と、彼らの中から悪童に手を貸す者が増えてゆき、皆が悪童とともに働く頃には、両の手にある指の数を越える彼らの前に、全員が満たされるだけの日々の糧が用意されるようになったのです」


 良い結末に胸を撫で下ろして、無意識に吐息がこぼれる。


「ははは、興味深く御耳を傾けていただけたのであれば幸いにございます」


 朗らかに笑う老司教は、しかし、と前置きして、


「これは失敗談なのです。

 …………悪童は悩みました。もっとうまくやれなかったのか。知っていたのだから、もっと早く気づくことはできなかったのか。あの時はとても悔やみました。

 …………また、心を入れ替えて後も、しばらくはなかなか受け入れられませんでした。殊勝な態度は何か企んでいるからではないのか。回心したことなどすぐに忘れ、悪戯を始めるのではないか。今更改心したところで、過去の過ちがなかったことになるとでも思っているのか」


 彼らの言葉は今でも覚えています――――そう語る神父の目は、しかし暗さも淀みもない。


「“戒めよ。自らを低くせよ。罪は心の内より迷い出て、自らの口より世に放たれる”。

 …………何度も心が挫けそうになりましたが、それでも聖なる御言葉に間違いはないと、そう自らに言い聞かせて、これまで邁進して参りました。気づけば年を取り、また司教位を賜って、畏れ多くもこうして殿下とお話する栄誉に浴しております」


 さらば、この老爺の招きに応じていただいたお礼として、この老輩の知恵を披露いたしましょう。


「御自ら戒められることはこの上なく良きことですが、“自らを低くする”ことと“自らを卑しむ”ことは似て非なるもの。その区別は、時としてこの老爺にとってさえ難しくなる。ですから、俯かれる時はどうぞ次の言葉を支えとして顔をお上げ下さい」


 ――――未熟な我が身を省みて、己を責める日もあるやもしれませぬ。されど、次に活かすべきを学ばれたのであれば、後ろを振り返り続けて囚われるのではなく、学びを活かすべき明日にこそ御目を向けられますよう。


 ――――殿下を責める、心無い声に出くわすこともあるやもしれませぬ。されど、思い起こしていただきたい。殿下をお支えする者もいるということを。貴方様の成功を祈り、また幸せを願う者のことを。殿下の笑顔を望み、喜びの一端でも分かち合えればと思う彼らの心を、どうぞ素直に受け入れられますよう。


 静謐な響き。

 その静謐さは、かつて隣で祈るマルチダに、何を祈っているのか聞いた時の空気にも似ていて。


 ――――ぽた、と音がした。


「……あ、れ? …………え? ……えっ? ……これ、なん、で? え、と、ごめ……、なさいっ……。僕は、そんな、つもりじゃ、なくて……っ」

「よいのですよ。無理に止めずとも、流れるのならば流れるままで。この老爺の言葉が殿下の御心を打ったと思えば、それはよい土産話になりこそすれ、恥じることではございませぬ」


 膝を打つ感触。

 気づけば雫が頬を伝い落ちていて。

 拭っても、拭っても、後から後から、止め処なくこぼれ落ちてしまう。


「ははは、これは、いささか効き目が強かったかもしれませんな」


 部屋は、いつの間にか、雲間から差し込む光に照らされていた。

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