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王国の君  作者: てんまゆい
一章 揺り篭の君
33/96

21 出会いと別れ5

ヴィンセント6歳 初夏


ヴィンセント視点

 こない。

 見ない。

 いない。

 乳母をやめると口にしたマルチダを、あの日から、一度も見かけない。

 その後ろ姿どころか、気配さえも、まるで最初からいなかったかのように。


 ――――朝、目が覚めて、違う声がして。

 ――――食事の席は、妙に静かで。

 ――――時折窘める声も、どこか控えめで。

 わずかに歪んだ扉のような、似せて作られた代用品のような、知らないうちに付いた傷痕のような、生活していくぶんには目を瞑ればいいだけの、些細な違い。

 そんな差異を感じる度、どうしようもなく胸の奥が軋む。

 気づけば、目が、手が、足が、ふとした拍子にマルチダを探して、あらぬ方へと彷徨う。


 そして今も。

 シーツにくるまって膝を抱え込んで、それでも耳だけが足音を探してる。調子が悪いって言った僕を心配してきてくれるかもしれない――――頭のどこかは、そんなはずないって、とっくに諦めてるのに。


(どうして)


 ……本当の本当に、このまま、戻ってこないんだろうか。


 それとも、「どっか行っちゃえ」って言ったから、どこかに行ってしまうんだろうか。


 …………じゃあ、僕が「戻ってきて」って言ったら……戻ってきてくれる?


(……そんなこと)


 あるはずない。

 きっと、戻ってきてはくれない。

 そう、そうだ。

 最初にあれだけ嫌だって言ったのに、耳まで塞いだ僕の手を無理矢理引き剥がして、最後には頬を打ったんだっ。


(謝るまで許すもんかっ)


 じたばたと暴れてしまいそうな足を強く抱き止めて、膝にぎゅっと顔を押しつける。


 気分がよくないって言ったからっていうのもあるけど、そんなことでこの感情を使い切ってしまいたくなくて、荒れ狂うものを胸の奥に押し込めて、じっとしていた。


 ……………………どれくらいそうしていただろう。


(……どうして……)


 残ったのは、不格好に冷えて固まった鉛の塊。

 無理に抑えつけたのがよくなかったみたいに、ぼこぼこした歪な表面から、冷え切らないまま篭ってしまった奥の熱が、じわじわと滲み出してくる。


(………………………………マルチダが、わるいの……?)


 王族に相応しい振る舞いを教えられないって……どうして?

 マルチダが勉強して、それから僕に教えちゃだめなの?

 卑しい男爵夫人って、どうして? なんでマルチダが卑しいの?

 わからない。

 ……わかんない。


(それとも、ぼくがわるい……?)


 僕が上手じゃないから?

 マルチダからうまく学べなかったから?

 夫人が教えてくれるって言ったのに拒んだから?

 …………もしかして、他にも悪いことしたのかな?

 マルチダが苦しくなるようなことしてたのかな?

 今みたいに、病気だって嘘をついたのがいけなかったのかなっ?

 側近になる皆と過ごすちょっとの時間だけでも楽しんでしまったから、マルチダのことを忘れてたからっ……?


(いなくならないといけないの……?)


 朝は起こしてくれて、ミアとも一緒にご飯を食べて、お昼寝の時は歌を歌ってくれて、夜はお話してくれて、眠るまで傍にいてくれて――――そんなふうに、今までみたいに、一緒にいてくれるだけでいい。

 そしたら、新しくきた夫人だってきっと受け入れるから。

 わがままも言わない、もっといい子になるから。

 お勉強も他のことも、たくさん頑張るから……っ。


「………………マルチダぁ……」




 ――――コンコン




「殿下。お加減はいかがでしょうか」


(――! ……っ)


 折よく響いたノックの音。

 会いにきてくれた、戻ってきてくれた――――控えめに扉を叩く音に膨らんだ期待は、胸の中であっけなく潰える。

 でも、夫人の声がするのは、当然と言えば当然のこと。

 だって、その居場所を、マルチダから引き継いだのだから。


「……っ」


 ただ、受け入れられないものは、受け入れられなくて。

 気づけば、僕は、目元を拭って取り戻した視界の中に、逃げる場所を探していて、


「殿下? ……失礼いたします」


 入ってくる――――。

 そう感じて、咄嗟にベッドから転がり落ちる。

 毛足の長い絨毯が僕を受け止めて、息を潜めた直後、扉が開く音がかすかに耳をなぞる。


「ヴィンセント殿下……?」


(どこか、どこか…………っ)


 よくよく考えるまでもなく、僕の方から夫人を避ける必要なんてない――――そんなことが頭から抜け落ちるくらいに動転した僕の目が、ベッドの隙間を見つける。

 ベッドの小さな死角から繋がった、ほとんど唯一の逃げ場。


「……っ」


(ここにっ……く、んっ……ぅ、ああああいたいいたいいたいっ! ……………………どうして……?)


 マナーの先生の授業が嫌になって、ミアと一緒に潜り込んで、マルチダに見つかって、あっけなく引っ張り出された。

 埃っぽい、けれど、確かに入り込めた、寝台の裏側。


 隙間に身体を捻じ込んで――――でも、入れない。

 今は、頭が、どうしてもつかえる。

 前は、入れたのに!


(――――今、は? 前は?)


 ――――隣にいたミアは、今はいない。

 ――――滑り込んだ隙間には、もう入れない。

 ――――小さかった僕らは、あの頃よりも大きくなった。


(――――――――)


 すとん、と。

 胸に落ちた。


 ――嫌だ。


 何もかもあの時とは違う。


 ――変わりたくない。


 僕は大きくなってしまった。


 ――認めたくない。


 僕を見つけてくれるのは、もう――――マルチダじゃないんだ。




 ――――ぷつっ、と。

 胸の奥から、音がした。




「…………っ、……ぅ、ぁあああっ、ああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ」


 込み上げるものをこらえようとして、でも、だめだった。


「うぅぅぅっ、ああああああああ…………!」


 くるしい。

 いたい。

 つらい。

 喉が、引き絞られる。

 胸が、捻じ切られそうだ。


 同じ景色ばかり続く場所で、辿っていた糸を見失ってしまったような。

 大切にしていたものがふと、指の隙間からすり抜けてしまったような。


「ヴィンセント殿下! どこかお加減が悪くなられたのですか? 殿下? 殿下……?」


 後から後から溢れるように湧き出る嗚咽に言葉を出せなくて、マクダーモット夫人の、初めて聞いた焦りの色が濃い声に、ただただ首を振る。


 匂いも、感触も、温もりも、やっぱりマルチダとはどこか違う。


 ………………………………でも。

 それでも、僕を抱き寄せ背中を撫でさする手つきは、どうしようもなくやわらかくて。


「どうっ、して……どうして、いなっ、いなく、なるのぉっ? ミアも、マルチダもっ、僕のところから、っ、いなぐ、っ、いなく、なってっ」


 だからだろうか。


「さみじっ、ぅ、さみしいよっ! ………………さみしい、のにっ」


 ぽろりと、こぼれてしまった。


「お願いじだのにっ、なんでっ? ぼぐの、ぼくの、ことっ、ぎらいになっだのがなぁっ?」


 頑張って、心の奥に押し込めてたのに。


「ぼくは、っ、どうすればよかったの……っ」


 泣いて、泣いて、泣いて。

 こんこんと湧き出す泉のように涙を流して。

 落ち着きかけてはぶり返したように何度もしゃくり上げて、ようやく落ち着いた頃。


「…………ヴィンセント様は寂しくお思いなのですね。もう会えないのではないかと」


 時折思い出したようにひくっとしゃくり上げる僕に、やわらかな声が降る。


「決してそんなことはありません。また、会えますよ」

「……ほんと、っ、に?」

「ええ。ブレットノア子爵も遠いところからヴィンセント様に会いにこられるでしょう?」


 それは……そうだ。

 会いたい時にいつでも会えるわけではないけれど……それでもお祖父様は、僕が会いたいと言ったら、できるだけ早く会いに来てくれる。


「決して、いなくなるわけではないのです。……ただ、今は、それぞれにやるべきことがあり、あるいはやりたいことがあるからこそ、ヴィンセント様がいらっしゃるこの場所から、ほんの少し離れてしまうだけ」


 穏やかな声に引き寄せられるように上を向いて、マクダーモット夫人と目が合う。


「……ヴィンセント様は、その妨げになられますか? それとも、その助けとなられますか?」


 それは……そんなの、決まってる。


「……助けに、なりたい」

「では、どうかトレキア夫人を、ミリアリア嬢を笑って送り出してあげてください。二人にとっては、それが何よりの応援となるでしょうから」


 やわらかな眼差しに、それでも僕は俯いて、


「そしてまた、笑顔で再会できるよう、傍にいる私や、ヴィンセント様の学友となられた方々をお頼り下さい。……今だけは、お辛い時には、私たちが、お支え致しますから」




(――――ぁ)




 マクダーモット夫人が続けた言葉に、息が詰まった。


「私たちなりにできることで、ヴィンセント様をお支えする機会を、私たちにいただけませんか?」


 そうだ。

 そうなんだ。

 知らない誰かに会うのなら、知っている誰かが去っていくことだってある。

 それが、マクダーモット夫人だったりオリヴァーたちだったり、マルチダだったりミアだったりするんだ。

 でも、僕は、いなくなることが――――ううん、どこか知らない遠くへ行ってしまって会えなくなると思って、そればかり考えてた。

 新しく会えたのに、まるで見てなくて…………ううん、僕は、ずっと、無視してたんだ……っ。

 それは、無視される方からすれば、きっと、とっても辛かっただろうに。

 ――――それでも、マクダーモット夫人は、僕の傍にいてくれたんだ……っ。


「……うん、うんっ、マクダーモット夫人、ごめん、ごめんなさい……っ。ぼくっ、僕は――」

「ヴィンセント様。泣いている時間はありませんよ。さあ、行きましょう」

「えっ……あ、え、えぇ……?」

「リタとお呼びください」


 抱え上げるように立たされて、滲みかけた涙も引っ込んでしまった僕にガウンを羽織らせながら、マクダーモット夫人――――ううん、リタが、にこりと笑う。


「さあ参りましょう。トレキア夫人を笑顔で見送りに」




†   †   †   †   †




 背中を見つけた時には叫んでいた。


「――――マルチダぁーっ!!」


 びた、と。

 マリオネットの操作を誤って止めてしまったような、それくらい不自然で、急な足の止まり方。


 そこは“ローレライの囁き”――――庭園にある池を挟んで二手に分かれた路の、合流地点。


「待ってっ、待ってマルチダ! 僕、僕ねっ、言いたい、ことがっ、あるのっ!」


 無理矢理動かしているようにぎこちない歩みを再開したマルチダが、今度こそ立ち止まる。

 沈みかけた西日に照らされ伸びた城の影がすぐそこに見える位置。


「……本当は、いかないでって言いたい」


 走って乱れた息を整えて、思いついた言葉を選ばないまま口に出す。


「リタと一緒に、僕の教育係でもなんでもして、一緒にいてほしいけど」


 伝えたいことを悩んでいたら、その背中が、王城の向こうに消えてしまいそうで。


「でも、でもね、マルチダだって、やらなきゃならないことや、やりたいことだってあるってわかったの……っ」


 だから、


「僕、だからっ、だからね、マルチダを……笑顔で、見送りに、っ……来たの」


 込み上げてきたものは押し込めて、マルチダをちゃんと見送りたい。

 だから、口の端を無理矢理にでも吊り上げて、笑みを作る。

 上擦りそうな喉も、意志の力で締めつけて。

 背中が滲んでも見えても、こぼれそうな何かだけはこぼさないように瞬きを堪えて。


「だから……っ……………………また、っ、またね、マルチダぁっ、っ、ぅ……く、ん、っ」


 ここから去っても、今は王宮の外に出られなくても、いつか、もっと大きくなった時は、マルチダに笑顔で会うために。


「必ず、会いにっ、行くからっ! ちゃんと、立派に……立派に、なるから! だから……それまで、っ、それまで、待ってて!!」

「………………………………っ…………今まで、お世話になりました」


 ぼんやりと煌めく視界の中で、一度だけ影が揺れて、そして再び靴音が遠ざかっていく。


 夜毎に語り聞かせてくれた物語。

 おいたをした僕を厳しく叱りつける声。

 遊んでいてもふと振り返ると見える笑み。

 温かく抱き締めてくれた両の腕、とくとくと落ち着いて響く胸の音。

 あったことを聞いてくれて、聞いたことは答えてくれて、頑張れば褒めてくれた。


 全部、全部、全部、全部、全部――――――――もう、遠ざかっていく。


「………………………………っ…………ふっ、く、ぅううううぅぅぅぅ…………っ」


 遠ざかる影が王城の影に呑み込まれた時、今にも動きそうな身体に力を込めた。


「っ、く…………う、っ」


 王城に接する位置にある王の広場を渡る間中、頬に何かが伝う感触がした。


「ぅ、ぁ……っ、…………ぁぁぁあ、ああああああああああああ!!」


 王の広場から、王城の扉のその向こうに姿が消えた時、リタに抱き締められて、力が抜ける身体から、思いが溢れた。


「……最後まで、立派に頑張られましたね」

「うぅぅぅぅ……うん、っ、うん…………!」


 でもそれは、嫌だったり、苦しかったりするものじゃなくて――――どこか温かくて清々しいような、心地のいいものに思えた。

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