18 出会いと別れ2
ヴィンセント6歳。初夏。
ヴィンセント視点
後日――――マルチダにそう言われて、渋々約束した、その当日。
部屋の上座にいる僕の向かいに、マルチダがいる。
それとは別に、見覚えのない女の人が一人。
(この人、なんでここにいるんだろう)
マルチダが帰るなんていうミアの冗談を否定して、それで終わりのはず。だから、他の人がいる理由なんてない。
そんなことを思いながらじっと見つめていると、整った顔がにこりと笑みを浮かべる。
「ヴィンセント様。本日は貴重なお時間を割いていただき真に感謝いたします」
何の関係もない人がいるからだろうか、マルチダはかしこまった態度で話を切り出した。
「本題に入らせていただく前に、まずはこちらの女性を紹介させていただきたく存じます」
――――リタ・マクダーモット伯爵夫人。
辛うじて名前は拾えたけれど、それだけ。紹介された女性の話がマルチダの口からつらつらと流れ出てくる。でもその内容は、耳に触れては空気に溶けるように消えていくばかり。僕の頭には少しも入ってこない。
……ねえ。
ねえ、マルチダ。
そんなことが聞きたいんじゃないよ。
どうしてこの前の問いの答えを言ってくれないの?
なんで、目を合わせてくれないの?
ねえ。
ねえっ。
「マルチダぁ……」
耐えられずに漏らした声は、僕自身びっくりするくらいに湿り気を帯びていた。
「…………ヴィン、セント様?」
「どうして……? どうしてっ、ずっと、ここにいるって、言ってくれないのっ?」
ミアの言ったことを笑って否定してよ。
ずっと一緒にいるって。
本当に、それだけでいいのに。
「……殿下。トレキア夫人は――――」
「――――マクダーモット伯爵夫人。ご迷惑をおかけしました。……私から、申し上げます」
なのに。
眉根を寄せて口を開いた女性を制して、マルチダは、ゆるゆると首を振ると、まるで自分を落ち着けるように一度瞑目して、それから、僕の目をまっすぐに見据えた。
あたかも、僕に大事な話を切り出す時のように。
「……ヴィンセント様は、本当に立派に成長なさいました」
「マルチダ……?」
「お隠れになられたエミリー様に託されただけの私が、こうして何事もなく乳母としての役目を果たせましたのも、ひとえにヴィンセント様がなさった努力の賜物にございます」
やめてよ。
なんでそんなこと言い始めるの?
「しかしながら、これから王族としての更なるご成長を望まれるヴィンセント様に相応しい所作を説明させていただくには、卑しくも男爵夫人である私では不適当にございます」
本当に、不安になるくらい真剣な表情で。
「待って、待ってよ……ねえ、マルチダっ、マルチダまでミアみたいにいなくなったりしないって、そう、言ってよっ?」
「――――――殿下。私に、乳母の務めを終え、殿下の元を辞去するお許しをいただきたく存じます」
言葉は、追い縋るように吐露した僕を振り払おうとするかのように鋭くて。
思わず凍りついた僕を置き去りにするように、マルチダが早口に言葉を継ぐ。
「そしてこれからは、こちらのマクダーモット伯爵夫人が、私に代わり教育係として殿下にお仕えいたします」
「……改めまして、紹介に預かりました、リタ・マクダーモットと申します」
「――やだ! やだっ、やだっ、やだっ!」
耳慣れない声に意識を引き戻された瞬間、僕は目を瞑り耳を塞いで、必死に頭を振って声を追い払った。
(嫌だ……!!)
マルチダがいなくなるのも。
知らない人にマルチダの居場所を奪われるのも。
もう嫌だ。
ただでさえミアがいなくなって、身体の一部を奪われたようなどうしようもない気持ちに襲われるのに。
これ以上誰かがいなくなるなんて嫌だ。
「――セント様! ヴィンセント様! 辛くともお聞き下さい!」
「嫌だ! マルチダがいなくなるなんて絶対許すもんかっ!!」
(なんでそんな顔するのっ。泣きたいのは、苦しいのは僕の方なのに!)
耳から手を引き剥がして僕を叱りつけるマルチダの強張った顔を睨みつける。
「乳母なんて関係ないッ! 教育係も知らないッ! だって、っ、だってマルチダは、僕のおか――」
パシン
「………………………………………………あ、ぇ……?」
頬を、打たれた。
何かが弾けるような音がどこか遠いものに感じられて、でも思い出したようにじんじんと熱を訴え始める頬が、わずかに脇へ逸れた視界が、マルチダに頬を打たれたのは他でもない僕だと突きつける。
(……なん、で?)
なんでなんでなんでなんでっ? なんでマルチダが僕の頬を打つの!? そんなに僕といたくないの!?
「……どうぞ、王族の頬を打った愚か者など許されませんよう」
――――――心が、溢れた。
「……ぅ、あぁああああああああっ!! いやだいやだいやだ! もうじらな゛い! どっがいっぢゃえ゛っ! まるぢだなんか、っ、ぎらいだああああああああ――――――――!!!!!」
「殿下――」
さも心配そうな顔で呼び止める知らない女性も。
僕を拒絶するように頭を下げたまま微動だにしないマルチダの頭も。
すべて視界の外へ追いやって、僕は部屋の外へと飛び出した。




