14 見舞い
ヴィンセント6歳。春。
ヴィンセント視点。
デビュダントがあったはずの日から――――ミアが倒れた日から、今日で四日。
あの日以来、僕はずっと離宮で過ごしていた。
倒れたのは僕ではなかった。けれど、犯行は僕を狙ったものかもしれない以上、安全が確保されるまでは誰とも会ってはいけない――――そう、陛下の命令を伝えられて。
その間できたのはいつもの勉強と楽器の練習…………それと、離宮まで乗り込んできたクリス先生が、「室内訓練にちょうどいい」と言って時間も考えず木剣で殴りかかってきたくらいで、後は時間を持て余すばかり。先生の無茶苦茶な行動はともかく、他の事は、気づくとミアのことばかり考えてしまってまるで手につかなかった。
――――ミアは大丈夫かな。
――――もう目を覚ましたかな。
――――何か辛い思いをしていないかな。
心配で、心配で、心配で。
離宮から出られない僕と同じように、同じ感情が胸の内を満たしては溢れて。
それでも変わらず頭の中をぐるぐると回っていた気持ちは、いつしか別のものになっていた。
――――ミアが苦しんでいたのに、僕は何もできなかった。
――――あの時もっと何かができたはずなのに。
――――僕のそばにいたから、ミアはひどい目に遭ったんだ。
あの時はクラウディアさんが駆けつけてくれたから、マルツィオ様や他の神官も来てくれて、だからミアは助かった。
――――でも、じゃあ、ミアと僕しかいなかったら?
僕は、クラウディアさんがしてくれたように、ミアに何かをしてあげられた?
………………きっと、何もできなかった。
もしもの話だ。だから、仮にそうなっていたとしても、ミアがどうなっていたかなんてことはわからない。
でも、もっと苦しい思いをさせただろうことくらいは想像できた。
……どうして何もできなかったんだろう。
なんであんな……あんなふうに、固まって泣いているしかなかったんだろう。
次にもし同じことが起きたら――――そんな不安を覚えてしまったら、堪えようと思っても、苦しい気持ちが溢れて、涙が止まらなくなった。
どうすればいいのか見当がつかない。
苦しむ姿を見ても、助けてあげる方法を知らない。
そうやって、枕を濡らして。
濡らし続けて、泣き疲れた後。
助けられないどころか、僕のせいでミアが苦しむことになったという事実を思い出しては、また涙を流した。
狙われたのは僕のはずだった。
ミアは、僕が食べるはずだったお菓子を食べて、運悪く苦しむことになっただけ。
狙われたのは僕で――――本当は、僕が苦しむはずだった。
なのに、僕と一緒にいたせいで、ミアは、あんなに苦しい思いをしなきゃいけなくなった。
僕のせいで。
…………だから。
目が覚めて、起こったことを聞いたら。
苦しみのたうち回る羽目になった理由が僕だって、ミアが知ってしまったら。
きっとミアは、僕のことを嫌いになる。
そうしたら、僕の近くからいなくなる。
そんなのは嫌だ。
嫌だ。
嫌――――なのに。
でも――――じゃあ、このままミアが起きなかったらなんて、そんなことは絶対に思えない。
マルチダは泣きそうな顔をしてた。
離宮にいる皆も、ふとした時につらそうな顔をしてる。
だから、ミアには起きてほしい。
誰も話さなければいいとも思った。
でも、そんなことは、できっこない。
事実を隠したまま、嘘をついたままは、いけないことだ。
そんなことをしたら、本当のことがわかった時、きっとミアが悲しむ。嘘つきって、怒るはず。
ミアにそんな顔はさせたくない。
だから、ミアに内緒にすることも、できやしない。
ミアが目を覚ますのはいつだろう。
あるいはもう、目を覚ましているのかな。
そうしたら、何が起こったかを聞くんだろうな。
僕を狙った暗殺で、僕の代わりに苦しむことになったんだって。
そうしたら、痛くて辛くて苦しかった時を、記憶の限り思い出してしまう。
あんなのは嫌だって、二度とごめんだって、そう思って――――僕の傍から、いなくなってしまう。
顔を合わせてくれるだろうか。
謝って、許してくれるんだろうか。
それとも――――それとも、会ってすら、くれなくなるんだろうか……。
――――にぃのせいで……ッ。
「――――っ! ……っ、ぅ、うぅぅっ、っ………………あぁぁぁぁ……っ」
僕を拒むミアの顔。
憎々しげなミアの声。
また。
また、ふと、想像してしまった。
何かの拍子に、閉じた瞼の裏に姿を見せては、僕の心を竦ませる。
「ヴィンセント様!? ヴィンセント様! どちらかお加減が悪いところでも!? ……で、では、乳母のマルチダやいつも一緒にいるミアが居らず寂しいので?」
突然泣き出した僕に、女官が慌てて駆け寄ってくれる。
あれこれと心配してくれる女官に、けれど僕は首を振ることしかできない。
言ったら、ミアの看病に行ったマルチダの代わりをしてくれているエマも、僕の近くからいなくなってしまうかもしれない。
「ヴィンセント様……」
どことなく困ったような声でおっかなびっくり触れた手は、それでも優しく背中を撫でてくれる。
そんな時だった。
「――ぅくっ?」「なっ?」「討ち取ったり、か」
こつっと、頭に何か当たった感触。
涙で滲んだままの目を向けると、小ぶりの木剣を持った先生が、口の端を曲げて立っていた。
「これで八回か。ハア……。いついかなる時も周囲の警戒を怠るなと何度言えばわかる? ……そう叱りたいところだが」
「あ、あ、貴方は! い、いつもいつも、ヴィンセント様に無礼な振る舞いばかり――なっ、ちょっとお待ちなさい! ヴィンセント様になんてことを!?」
「うるさい。邪魔をするなら出ろ」
呆れたと言いたげにため息を一つ。
木剣を懐にしまうと、エマの腕の中からあっという間に僕を奪い取った先生は、けれどすぐにベッドに放り投げた。
視界が回ったのは一瞬。
でもその一瞬で、先生はエマを部屋の外に追いやって鍵をかけてしまった。
ドンドンドン、と扉を叩く音がする。
開けなさいと叫ぶエマの声が聞こえる。
「もう泣かないのか?」
「……っ」
せせら笑うように言われ、引っ込んだはずの涙がじわじわと出てきた僕は、先生をくっと睨んだ。
苦し紛れの悪足掻き。鼻で笑う先生は、どうせ見抜いているんだろう。
でも、先生には見せたくない。
睨む僕を気にした様子もなく、先生はベッドの傍に椅子を引き寄せて腰を下ろした。
背もたれにだらしなく肘を乗せて、鋭い目がじろりと僕を射抜く。
「さて。俺はよくよくお前の泣き顔を見るが、ヴィンセント、お前は泣き虫なのか?」
「っ……違う」
「ではお前は王子ではなく王女だったか? それなら見かける度にめそめそしているのも許されるし納得できるが」
「ち、違うっ!」
よくわからないけど、馬鹿にされているのは口調でわかる。
「そうか。なら何故泣いてばかりいる?」
「そ、それは……だって……」
言葉が見つからなくて、黒い目から視線を逸らして唇を噛んでしまう。
引っ込んだ涙が、また出そうだ。
「では聞き方を変えよう。今回泣いた理由はなんだ?」
「………………………………………………………………だ、だって」
……黙っていてもきっと言うまで待つんだろうな。
じっと見つめたままの黒い目がひどく落ち着いていたから、僕は渋々口を開いた。
「なんだ?」
「…………ミアや、みんなに、嫌われる、っ、て、思ったら、う、ひくっ……」
「お前…………まったく、すぐ泣くな、お前は」
自分で口にした「嫌われる」という言葉にだんだん悲しくなってしゃくり上げ始めた僕の頭を、先生は呆れたようにため息をこぼして、荒っぽい手つきでわしわしと撫でる。
「僕、ミアが倒れて、苦しんでるのに、なにもっ、なにもしてあげられなくて……! ミアだって、僕っ、僕の、僕のせいでこんな、こんなことになったのに…………嫌いに、なったんじゃ、ないかって! ミア、みんなも、もう僕と一緒に遊んで、っ、くれなく、なるんじゃないかって、そう――うっ、そう、思ったら、つらくて……う、うぅぅぅああああああああああああん!」
「わかった、わかった、もういいぞ。あー………………よく話したな……はあ……」
止まらなくなってわんわん泣き始めた僕の頭をわしゃわしゃと掻き回しながら、「ガキの世話も疲れる……」とか「クソ、要らん世話を焼いた……もうやらん」とか「しかしクズどもよりはマシと考えれば……」とかなんとか先生が呟いているような気がする。
マルチダや女官の皆の手と比べて、ひどくごつごつとした手。
撫で方も、何かを掻き回すみたいで、随分と乱雑だ。
けれど、それでも僕が落ち着くまで、ずっとずっと、頭を撫でたり、背中をさすったり、とんとんしてくれた。
「やっと落ち着いたか……」
「………………うん……ありがと……」
まだ胸とお腹の間が勝手にぴくって震えるのが嫌だけど、たくさん泣いたらすっきりした。
だから、今は、ちょっとだけ気分はいい。
「よく聞けヴィンセント」
「スンっ……ん」
「一つ。今回の暗殺未遂をどうこうできる奴はまずいない。
二つ。あの娘が今回の事でお前を嫌いになるならそれまでの奴だったと忘れろ。
三つ。こうなったのはお前のせいかお前のせいでないかなんぞどうでもいい」
「……え? え…………ぇ、えぇ? えぇ……?」
「なんだ。喉の調子でも確かめているのか?」
ち、違うもん!
「い、一度に言われて……! ……そ、それに、突然だったし、何が、なんだか」
「焦るな。一つ一つ順に言ってやるから、よく聞いて、それから考えろ」
そう言って、先生が指を立てた。
「まず、今回の事件だが。……誰かが被害に遭うのは十分にあり得たことだ。誰が誰かもわからない奴らが出入りしていたんだから、関係ない奴の一人や二人紛れ込むことなんてよくある。まして悪意を持って紛れ込ませたなら、こっちじゃ限界がある。だから防げない可能性は常に存在する。…………後で自分で噛み砕いて理解しろ。今は……そうだな。お前より偉い陛下でも防げなかった。だからお前には無理だったとでも思っておけ」
「う、うん……うん」
「次だ」
思い残しも何もない、いっそ気持ちがいいくらい歯切れのいい口調とともに次の指を立てる。
「あの娘が倒れてから何かできた奴もほとんどいなかった。使用人とはいえ、居合わせた大の大人が雁首揃えて何をしていた? どうせおろおろしているばかりだっただろう?」
「…………うん」
思い返せば、それは確かにそうだった。
だけど。
「――でも、クラウディアさんは違ったよ?」
「そうだな。では、何故クラウディアとやらは助けるために行動できて、お前や他の大人たちはなにもできなかったと思う?」
「え……なぜ、か……?」
クラウディアさんにできて、僕や他の人にはできなかった理由があるの……?
「…………わからない時は身近なものに置き換えて考えてみろ。……例えば、俺は奇襲を受けても自分の身を守れるが、ヴィンセント、お前は俺に剣を当てられるまで気づかなかったな?」
「むー! ――――あ痛っ」
すぐヤなこと言う! さっきは頭撫でてくれたのに………………だから先生は嫌いなんだよ。
じっと睨んでみても、むくれた僕のおでこをピンと弾いて「言われたくないなら反省しろ」と言ったきり口を開く様子はない。どうにもこれ以上何か言うつもりはないらしい。
だから諦めて、ヒントから考えてみる。
――――クラウディアさんは倒れたミアを助けられて、でも僕や周りにいた人は助けられなかった。
――――先生は突然襲われても大丈夫、でも僕は大丈夫じゃない。
(………………………………………………ど、どういうこと?)
「……わ、わかんない!」
「そうか、わからないか」
やけになって言ってみたら先生が冷たい笑みを浮かべた。
思わずひやっとしたけど、「今回は教えるが、次からは……わかるな?」という言葉にこくこく頷いたら元に戻ったからほっとした。
「わからない時は身近なものの中で似たものに置き換えろ。……今回は、要点となる関係性や背景に注目する」
先生はそこまで言った後、近くに置いてあった羽ペンと羊皮紙に何かを書き始めた。
四つの円の中に“先生”“ヴィンセント”“クラウディア”“ヴィンセント”――――って、どっちも僕を引き合いに出すの? ……なんかちょっと嫌だなあ……。
「さて、俺についてお前が知っているのは……このくらいか?」
“先生”と書かれた円の近くに“剣の先生”“軍人”という言葉が付け加えられる。……“悪魔”って書きたいけど、黙っていよう。口に出したら本当に悪魔になっちゃうし。
他三つの円にも同様に“剣術初心者”とか“聖女”とか“魔術の素人”と書き込まれた。
「? 聖女ってなに?」
「知らない……のは、仕方ないか」
面倒臭そうに顔をしかめたのも一瞬のこと、思い直した様子で考え込み始めた先生が、少しして口を開いた。
「要は、聖国公認の魔法使いだ。男なら聖人、女なら聖女。そして司祭位相当の特殊な地位を与えられる……が、後は聖国の講義で聞け。話を戻すぞ」
引き合いに出された四者を指して先生が続ける言葉に耳を傾ける。
「既知の事柄からさらに想像できることがあるだろう? 軍人なら、体を鍛え、戦闘の訓練を繰り返し、戦場に出て敵を殺す。つまるところは戦いと殺しのプロだ」
実感の乏しい、でも聞いた覚えのある内容に頷いて見せる。
「対して、ヴィンセント。お前は子どもで身体は未成熟、鍛練も始めて間もなければ何かを殺したこともない。対比して言うなら、戦いと殺しの素人か」
ここまでは理解したか? と確認されて頷く。
「なら考え方は同じだ。クラウディアは聖女で、お前は違う」
同じように考えるなら……クラウディアさんが聖女で、聖女は魔法使いで、魔法使いは……えっと、僕も魔法を使えるってクラウディアさんは言っていたから、やっぱり魔法かな。
ということは、
「クラウディアさんは魔法のプロで、僕は魔法の素人?」
「惜しい――――が、思考としては及第点か。魔術のプロと素人だな」
「むぅ~」
「そもそもお前が魔法使いか否かなんぞわからんだろう。それとも、魔法が使えたとでも?」
「えっ? ――あっ……えっ?」
「あ? ……おい、まさか――待て、黙れッ」
「ふがっ?」
思わず固まってしまった僕から何か察したように表情を変えた先生が、僕を羽交い締めにして口を塞ぐ。
「目を閉じてじっとしてろ」
有無を言わせない口調に身体が勝手に凍りつく。息まで潜めたまま、一秒、二秒…………とじっと固まっていると、先生が雰囲気を弛緩させて押し当てていた手を緩めた。
もういいのかな? とうっすら目を開けたところで、先生と目が合った。
「……クククク。全く、ろくでもない星の下に生まれた奴だ」
喉の奥を鳴らすようなくぐもった笑い声。
あるいは――――まるで、獣が無理矢理人の真似をして笑っているような声。
ぞくっとした。
「目を閉じろ。声を出すな。身動ぎするな。正しければ……隙間から指を舐めて教えろ」
冷徹に理解を見定める眼差しに小さく頷いて返してから、瞼をぎゅっと閉じる。
「お前以外にそれを知る者がいる。……そうか」
人間味を感じさせないくらい平坦な声で発された問いに、ただただ正直に答える。
ちろりと舐めた手がしょっぱい。
「それを知る人物は王国以外の人間だ。……そうか」
クラウディアさんがいる。
だから、ちろり。
「それを知る人物は……貴族だ。……そうか。それを知る人物は女だ。……そうか。それを知る人物は子どもだ。……そうか」
ちろりと三度舐めたところで、先生が耳元に口を寄せた。
「クラウディアとやらか」
「――みゅっ」
耳打ち。
くすぐったさにぞくぞくしながら、ちろり。
「国外の人物で他にも知る者がいる。……そうか」
いないから舐めないままでいると、ようやく先生が手を離してくれた。
「他は場所を移してから聞くとして……出るぞヴィンセント」
「えっ……え、出られるの?」
「そもそも俺は外出禁止が終わったから最後にもう一度訓練にきたんだ」
「えっ、え……も、もうっ!」
「ほら行くぞ」
目を剥いて怒る僕にしれっとそう言う先生はやっぱり意地が悪いと思う。
† † † † †
先生に促されるまま、クラウディアさんの居室を訪ねたのだけど、生憎と出払っていた。
それじゃあどこに? と聞いてやってきたのは――――医務室。
「……先生のせいで無駄足踏んだ」
「気落ちしているかと思ったが余裕があるな。後で扱くか」
「……」
(うああああああっ! 僕のばかぁ!)
「呆けてないで入るぞ」
「――え、あ、ま、待って!」
カンカンとぞんざいなノックだけして、先生は欠片も気にした様子もなくずかずか入っていく。
堂々とした背中を追って、僕も慌てて扉をくぐった。
「待ちなよ。返事もなしに入ってくるなんてどういうつもりかな。随分と礼儀がなってないねー?」
「育ちが悪くてな」「――わわわっ? ちょっ、先生っ」
急に立ち止まった背中を慌てて避けた僕の目に飛び込んできたのは、見かけないデザインの使用人服に身を包んだ女の人。
頭の上でピンと跳ねた茶色の髪と勝気な飴色の眼差しが印象的で、雰囲気も相俟ってどことなく猫っぽい。
「聖女殿は奥か?」
「どこの誰かもわかんないのに、近づかせると思ってるの? そんなことより、そっちの可愛い子は誰かな?」
剣呑な雰囲気で睨み合いが始まると思っていたから、いきなり目が合ってキョトンとする僕に、お姉さんがにこっと笑って手を振る。
……でもなんだろう。ちょっと変な感じがする。どうしてか、お気に入りのおもちゃを見つけたみたいな顔にみえる。
「誰とも知れない輩に言うとでも? とにかく奥に入れろ」
「は? 名乗りもしないなら客じゃないよね。その子だけ置いて帰りなよ」
手を振り返したらいいのかな? と悩む僕を後ろに隠した先生が怖い空気を出し始めたせいで、お姉さんも呼応するように剣呑な空気を滲ませ始めた。
その矢先。
「今度は何の騒ぎですかオリガ。――あら? これは、ヴィンセント殿下。このようなところにいらっしゃるとは露思わず、失礼いたしました」
仕切りの向こうから、侍女がもう一人姿を見せた。
紺色の髪を切り揃えた、真面目そうな女の人。
「え、え♡ この子がヴィンセント王子!? ――あ痛い痛い痛いたたたたた千切れる千切れる耳にぎゃああああああ――――――っ!?!!?」
「失礼です」
「待って待ってまだしてないお耳、お耳千切れちゃうのおおおおおおおお――――――――!!!!」
「いつまで邪魔をしているのですか」
真面目そうな侍女に耳を引っ張られて猫みたいな侍女が場所を空ける様子はどこかコミカルで、思わずくすりと笑いがこぼれる。
それを認めて真面目な雰囲気の侍女もにっこりと笑みを浮かべた。
「お嬢様は奥で診療中でございます」
「最初からそうしろ」
文句を置いて、先生が僕の背中を押す。
そのまま、仕切りの向こうへ踏み込みかけて――――布一枚の手前で、ピタリと足が止まった。
「……ヴィンセント?」
「…………」
訝しげな声音。
先生の声は、聞こえてる。
でも僕は、答えられない。
……ミアは、起きているんだろうか。
……入って、目があったら?
もし、怯えた目をしていたら?
もし、僕を見る目が――――憎々しげに拒絶していたら?
「――!」
「しっかりしろ。ビビッてたってどうにもならん」
ぱしっと。
先生の手が、少し強めに背中を叩く。
その衝撃が、僕の意識を引き戻した。
「駄目だったらその時はその時だ。俺がついててやる」
「……っ」
見上げた黒い目は、いつものように他人事とばかりに落ち着いたまま。
言葉だって、こんな時なのに駄目なの前提みたいな諦め口調で。
どれだけ意地悪すれば気が済むんだって、そう思うのに。
…………背中に触れた手が、どうしてこんなにも温かく感じられるんだろう。
「……うるさい」
「その意気だ」
歩き出した僕の背中から手が離れて、でも、もう立ち止まらない。
ひらひらと踊る布を避けて、僕は、ミアがいる場所に踏み込んだ。
「ミア……? あ、クラウディアさん」「――え……?」
ミアが横たわるベッドの向こうで、クラウディアさんが目を丸くしていた。
ぼんやりと光を帯びた手はミアの胸の上にあって、呼吸に合わせて真っ白な肌が一定のリズムで上下に動く。
目は覚めていないみたいだけど、眠るミアの表情は穏やかで、あの時のような不安な感じはない。
(……よかった)
膝から崩れ落ちてしまいそうなくらいの安堵。
「起きてないとは、残念だったな?」
「っ――うるさい……っ」
別に、ミアが起きていなかったから安心したわけじゃない。ただ、ミアが大丈夫そうだったから、よかったと思えただけだ。
さも僕が、ミアが眠っていて安心した、みたいに言うのはやめてほしい。
抗議の肘打ちはあっさり受けられ、けれど、先生からの仕返しはない。
でも、今はそれもどうでもいい。
記憶を掘り起こしても、クラウディアさんにきちんとお礼を言う機会もなかった。
マルツィオ様にもありがとうを伝えてない。
だから、ちょうどいい。
離宮に閉じこもっていなくちゃいけない理由もなくなったんだから、この後、きちんとお礼を言いに行こう。
その気持ちとともに、まずはベッドの向こうで固まるクラウディアさんにお礼を言うべく、僕は口を開いた。
「クラウディアさん、ミアを助けてくれて本当にありがとう」
「な」
「? な?」
「――なにをしてらっしゃるの!」
「えっ、え?」
「早く向こうを向いて! 出る!」
お礼を言ったのに厳しい目つきで睨まれるとは思ってもみなくて、わけがわからないまま、それでもクラウディアさんの剣幕に従って、慌ててミアとクラウディアさんから視線を外して反対を向いた。
「そちらの殿方も!」
「せ、先生!」
知ったことかとでも言いたげなしかめっ面を気にする余裕もない。
ぐっと目に力を込めて黒目を見返すと、思いが通じたのか、一つ鼻を鳴らした先生が、踵を返して仕切りの外へ出た。
「申し訳ありませんがこちらでしばらくお待ちいただきたく存じますヴィンセント殿下」
「え、あ、はい……」
(――わ、わ…………! 胸がどきどきしてる……汗が止まんない……なにこれ……)
ゾクッとしたり、嫌な汗をかいたり。
そんなのは毎日のように味わってる。頭の横スレスレに切っ先を叩きつけられたりとか、身の毛もよだつ空気をぶつけられたりとか。思い出したくもない、そして区別もつかないくらいにはたくさん嫌な目に遭った。
けれど、クラウディアさんに怒られて感じたこれは、先生の指南の時とは違う。
先生のは一瞬で終わる。ギリギリの一撃に、痛い思いをしかけたことを察して思わずぶるりとするあの瞬間は、それでも長続きはしない。次の攻撃があるからそれどころじゃないっていうのもあるけれど、でも、次を考えてきちんと備えてさえいればどうにかなるから。
なのにこの気持ちは…………なんていえばいいんだろう。どうにも拭えない居心地の悪さがあって、嫌な感じが、ちっとも収まってくれない。
だから僕は、どうにもならない苦しさを抱えて、用意された椅子の上で、ずっとそわそわと足を動かし続けているしかなかった。
「もう入って大丈夫よ。……それと、いきなり大きい声を出してしまってごめんなさい」
「いっ、いえ、そんな、ちょっと驚いたけど、大丈夫です」
クラウディアさんが顔を覗かせた時、思わず吐息が漏れた。
とても長いように感じられた待ち時間。
顔をしかめても、身体を揺すっても、忙しなく足を動かしても、じっと我慢してもどうにもならなかった居心地の悪さが、さっきの険しい表情が嘘だったみたいなやわらかい笑みを見た途端にすっと落ち着いた。
「ならよかったわ。――でも、女性の胸元をまじまじと見つめるのは殿方の振る舞いではないわよ?」
「は、はい……!」
(うぅぅぅ……っ)
神妙な顔をしていたクラウディアさんの表情が叱るようなものに変わった途端、また嫌な汗が噴き出す。
胸の奥をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなる。
どうしてこんな気持ちになるんだろう。
なんでこんなに苦しいんだろう。
「さあ入っていらっしゃい。大事な幼なじみに声をかけてあげて」
クラウディアさんが元の優しげな表情に戻った途端に強張った身体から力が抜けるのを感じながら、手招きに応じて、そそくさと年上の少女の後に続いて仕切りの向こうへ入った。
もちろん、「女性の胸をじっと見るのはだめ」だということは、頭の中にしっかりと刻み込んだ。
「もう少し治療に時間はかかるでしょうけど、病状に問題はないわ」
「ミア……」
クラウディアさんに付いて、そのままミアの枕元に近づく。
静かな表情だ。
眉根を寄せたり、苦しそうに顔を歪めたりもしていない。
汗で髪が額に貼りついたりということもない。
いつものお昼寝と何ら変わりないとでも言いたげな寝顔。
「……」
ミアが穏やかな表情で眠っていることを確かめられた僕は――――本当は、ミアが目覚めていて元気なままなのが一番いいはずなのに、少しだけほっとしていた。
もし目が覚めていたなら、ミアに拒絶されていたかもしれない。
先生に背中を押してもらったはずなのに。
そう思うと、やっぱり今のこの状況は居心地がよくて。
だから、そんなことを思ってしまった自分のことが、たまらなく嫌になる。
「……ヴィンセント様?」
「え――? あ、な、なんですかっ?」
「どうにも表情が優れないように見えて。……お加減が悪いようなら、わたくしが診るわよ?」
「い――いえっ、そんな、そんなことはないです! あの…………まだ横になっていないといけないのは、悲しいですけど。……それでも、ミアが元気で良かったです」
……いけないことだ。
これはいけない嘘だ。
だから、胸が踏みつけられたみたいに苦しくなるのだ。
本当に思ってしまったこととは違うのに。
なんで違うことを言ってしまったんだろう。
湧き出した嫌な気持ちを抱えるのはつらいことだから、マルチダの教えてくれた通り、すぐに謝って、本当のことを言えばいい。
言えば、いいはずなのに。
……言えない。
言いたくない。
どうしてこんなことを思ってしまうんだろう。
ミアと、マルチダとしているみたいに、いつも通り、誤魔化そうとしてごめんなさいって、嘘をついてごめんなさいって、そう言って、許してもらえばいいはずなのに。
こんなに苦しいのに、それでも、クラウディアさんには言いたくないって思うのは、どうしてなんだろう。
だからって、苦しいままに苦しいとも言いたくない。
苦しい理由は、自分が悪いから。
だから、クラウディアさんには気づかれたくない。
クラウディアさんに心配されるのも、そんなクラウディアさんに嘘をついてしまったことも、どうしようもなく苦しくたって。
だから、笑顔を必死に貼りつけた。
こんな僕なんかを、クラウディアさんが心配しないでいいようにって。
――――そんな努力は、すぐにいらなくなった。
「動かないでもらおう」
「……」「せん、せぇ……?」
驚きに軽く見開いたクラウディアさんの首筋に、一筋の鈍い輝きが添えられていた。




