08 武術指南
ヴィンセント5歳
二度目の武術指南の時間。
ぼんやりとした記憶を頼りに、見覚えのある修練場へと続くと思しき道を辿る。
一回きりの朧げな記憶に、だんだんと目の前に広がる光景が重なっていく。そのことにほっと胸を撫で下ろしながら、前に教えてくれた青い鎧の騎士を探す足が少しずつ歩みを速めていく。
「……あれ?」
けれど、見覚えのある騎士鎧はどこにも見当たらず。
代わりに、見覚えのない青年が修練場で剣を振るっていた。
窮屈そうな暗灰色の服装に身を包んだ長身の男性が一人。
……もしかして、場所を間違えたかな? と周囲を見回してみるけれど、記憶と違うところは見当たらない。
「何をしている。さっさとこっちに来い。……走れ」
「え。……あ、はいっ」
やっぱりあの黒髪の男の人が教えてくれるらしい。
……もしかすると、今日はアルの体調が良くなかったのかもしれない。
アルとは違う鋭い声音に驚きつつも、言われるまま彼の下に急いだ。
「確認するが、ヴィンセント・スレイスロードで間違いないな?」
「うん」
(……っ)
「……そうか」
冷たい眼差しが一瞬だけ細められて怒ったのかと思ったけど、何事もなかったかのように一つ頷いた。
「まずは……自己紹介か。……王国軍所属、クリス中尉だ」
迷うように視線を彷徨わせたのも一瞬のことで、一瞬呆気に取られてしまうくらい簡潔な名乗り。
「……アルジャーノンの爺の後任として貴様の武術指南を担当する」
「は、はい。よろしくお願いします、クリス……中尉? ……ところで、あの」
「なんだ」
「アルは……アルジャーノンは、どうしたんですか?」
「アルジャーノンはこない。後任と言っただろう」
「あ…………はい」
(アル、来ないんだ)
思い返せば、目の前の男は、確かに「後任」と口にした。
なら、後任という以上、新しい指南役に任せたなら、前任者が姿を見せなくなるのは当然と言えば当然のこと。
……けれど。
にこりともしない目の前の男よりは、たとえお腹が鳴る音を笑われるとしても、にっこり笑うアルの方がいいなと思ってしまう。
「まず。今後俺のことは中尉――いや、先生か。先生と呼べ」
「? はい、クリス先生」
「クリスは必要ない。先生だ」
「はい、先生」
「……」
言う通りに呼んだのに、先生は眉間にしわを寄せた。
なにか間違ったかな? と思ってみても、たった今言われた通りにしただけなのだから心当たりなんてあるわけない。
「……よし、なら次だ。身体を解す。俺の真似をしろ」
「はい」
目の前で先生がする通りに姿勢を真似て身体を伸ばす。
「次だ。修練場の外縁に沿って走れ」
「えっ……?」
「行け」
広い。
いつもミアと遊んでいる離宮の中庭よりずっと広い訓練場を見渡して、胸に浮かんだ気持ちが思わず口から漏れた。
けれど先生は重ねて告げただけで、鞘に収めていた剣を抜き放つと素振りをし始める。
まじまじと見つめても、これ以上何かを言うつもりはないらしく、僕に見向きもしない。もちろん、傍らに置かれている木剣にも。
「…………はい」
アルが教えてくれたみたいにすぐ武術の練習を始める気はないらしいと悟った僕は、渋々と修練場を走り始めた。
† † † † †
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
いくら吸い込んでも足りない空気を求め、無我夢中で呼吸を繰り返す。
ずっと。
ずっとずっと、ただひたすらに走らされた。
そうしていると、だんだんと苦しくなってくる。
息が追いつかなくなる。
足が重たくなって上がらなくなる。
そしてそのうち、走る速さが遅くなる。
すると、素振りを続ける先生から「もう少し速く走れ」という指示が飛んでくる。
だから慌てて足を動かす。
その繰り返し。
それに応えて足を動かし続けた。
だけど、汗が次から次へと出てきて、いくら息を吸い込んでも苦しくて、手足は今まで感じたことがないくらい重くて、本当の本当につらかった。いつまで走ればいいかも教えてくれなかったから、足が前に出なくなりそうだって何度思ったか。
それでも、気持ちを見透かしたように厳しい声が飛んでくるから、足が止まることはなかったけれど。
「立ち止まるな、歩きながら休め。息が整うまで歩け」
(なんで、つらいのに……っ)
バクバクとうるさく鳴り響く胸の音に紛れて聞き取りにくい。
それでも先生が歩けと命令する声が繰り返し聞こえて、渋々足を動かす。
一歩ずつ動かすけれど、膝はぷるぷると震えるし足はずしりと重たいしで、正直嫌になる。
それでも言われた通り歩いているうちに、弾んだ息は少しずつ落ち着いてきた。
歩いているだけなら楽でいい。
(…………なんで僕、こんなにつらいことをしているんだっけ……?)
……えっと、護身術だ。
身を守るため。
もしもの時に、何かあったらいけないから。
………………そのもしもは、こんなにつらいことをしてまでしなくちゃいけないことなの……?
「……戻ってこい」
先生が呼ぶ声に、ぼんやりしていた意識が引き戻される。
億劫な気持ちが胸の中に蟠るのを感じながらも、先生の言う通りに、先生の元へ駆け寄った。
「飲め」
「うわ……お、重たい……っ」
手渡された瓶のずしりとした感触に身体が泳ぐ。
ぽちゃぽちゃと、耳をくすぐる音に思わず喉が鳴った。
栓を抜き、口をつけて、その重さに苦闘しながら瓶を傾ける。
口から溢れた水が首を伝う。思い出したようにくるくると鳴り始めたお腹に水が流れ落ちていく。
喉を潤してくれる水は、冷たくはない。
けれど、火照った身体の熱が吸い込まれて消えていくような感じがして、気持ちがよかった。
「――そこまでだ」
「んむっ!? ――わぷっ、あ、あぁぁぁ……!? な、なんで……なんで取るの?」
「飲み過ぎるな。動けなくなる」
全然飲み足りないのに!
思わず睨みつけた僕は、けれど正面から見返されて、逆に僕の方が気圧されて視線を逸らしてしまう。
……悔しい。腹が立つ。どうしてそう命令ばかりされなきゃならないんだ。悪いことなんてしていないはずなのに。
「剣の握り方はわかるか?」
「っ……ぅ、わ、わかるっ」
握ってみろと言われるままに木剣の柄を握ってみせる。……ちょっとあやふやだったけど、合っていたみたいで、大きく直されることはなかった。
「素振りをする。構えろ」
「っ……は、はい」
(あれ……? こんなに重かったかな……?)
散々走らされてがくがくと震える足ほどではないけれど、腕もいつも以上に重く感じる。
昨日アルと練習した後よりはまだましだけれど、当然これから木剣を振るはず。
なら、昨日みたいに、終わった後は肩も腕もしばらく動かしたくないくらい重たくなるというのは予想ができる。
(……嫌だなぁ)
アルとやったみたいにこの木剣を振ったり剣を合わせたりするかと思うと、ますます気が重くなった。
「姿勢はこうだ。よく観察して直してみろ」
「……はい」
言われた通りに、先生の周囲を回りながらよく見て、思い描いた構えと同じ姿勢になるように身体を動かして修正を続けて。
最後に姿勢を確かめてもらって及第点をもらったと思ったら、今度は言われた通りに姿勢を維持し続ける。
……苦しい。
正しい姿勢を崩さないようにするだけで頭がいっぱいになる。ふとすると気が抜けそうで、既にそうして何度も構えを直されたというのに、また正しい姿勢から外れそうになる。
正しい姿勢。
剣を振るのに正しい構え。
背筋を伸ばすだとか、腕の角度がどうだとか、切っ先を真正面に置くだとか、いろいろと言われたけれど。
正しいって、なんだっけ?
「構えた状態から、こう振り下ろす。……俺の動きを見ながらでいい。完璧にできると思うまで、頭の中で動かし方を繰り返せ」
言われた内容の輪郭を見失いかけたところで、ようやく姿勢の維持から素振りにこぎ着けた。
……綺麗な素振りだと思う。
身体がほとんど揺れない。
ピッと走った木剣が、まったく同じ位置でピタリと止まる。
初回の鍛錬の時、アルが見せた一振りからも感じた、胸が空くような気持ち。
僕の姿勢が崩れるとすぐ直されるというのを繰り返しながら、正面から、左右から、後ろからと、僕が見たいと告げた方向からの剣の振り下ろし方を、先生は繰り返し見せてくれる。
何度も。
何度も。
何度も。
前後左右に斜め四方向、果てはその間の向きに至るまで、何度も何度も何度も何度も。
「……もうわかった」
「今度こそ見落としはないな? 肩も膝も見せた通りにできるんだな?」
「ないっ!」
そうして何度も繰り返し同じ動きを見せられることにとうとう飽きた僕は、思い切って先生にやってみると告げて剣を振り上げた。
「――うあっと、っと」
「……何をやってる」
「う――うるさいっ……! ずっとじっとしてたからこうなったんじゃないかっ!」
「そうか。なら早くやってみせろ」
しばらくじっと固まっていたからだろうか、急に動かした身体が上手く動かなくて、またも上半身が泳いだ。
呆れた表情を浮かべた先生にムッとしながら、構えを取り直して、今度は慎重に剣を振り下ろす。
「――違う。腕だけで振るな」
「――身体が泳いでいるぞ。集中して振れ」
「――構えが崩れた。もう一度構え直せ」
何度も何度も何度も構えて、振って、思い出したかのように時々指摘されて間違いを直す。
(……面白くない)
朝食前でお腹が空いていて身体も重たいのに、それに加えてひたすら単調な動きを繰り返すなんて、つまらなくてしょうがなくて、だんだんといらいらしてくる。
何度も何度も細かい所まで違うと直されるのも腹立たしい。何が違うかがわからない。そんな小さな違いでいったい何が違うというの? どうして違うというの? 型だから? 型って、どうしてそれが正しいって言えるの?
(面白くない)
まだ縦に振ってるだけなのに、もうこんなにもくたくたになるなんて思ってもみなかった。
だというのに、アルから習った振り方は左右もある。
また構えから始めるっていうの?
そして次は動かし方をずっとずっと繰り返せって?
あと二回もこんなことを繰り返すのかと思うと、心底嫌になってくる。
(面白くない)
僕の目の前で簡単に同じ動きを繰り返す様子を見せられるのも、僕を見続ける鋭い眼差しも、まるでなかなか上達しない僕を責めているようで嫌になってくる。
(面白くない……っ)
「どうした。身体が傾いているぞ。構えからやり直せ。背筋を伸ばして――」
「――――もう嫌だっ!!!!!」
溜まりに溜まった不満が、とつと弾けた。
地面に叩きつけるように投げ捨てた木剣が、二度三度と跳ねた後、カランと音を立てて止まる。
「……ほう。何が嫌なんだ?」
僕は怒っているのに、先生は気にすることじゃないとばかりに落ち着いた声で、それもたまらなくいらいらする。
「ずっと走らされたかと思えば次は剣を振るばっかりで! 僕だって頑張ってるのにっ、あれも違う、これも違う、違う違う違うって!!」
「違うものは違う。指摘して直すのが俺の役目だ」
「わかってるよそんなこと!! でもうまくできないんだもん!! どうしたらいいの!? 上手く振れなくたって仕方ないじゃないかぁっ!! う、ぐっ、ひくっ、、ひ、ぅ、っ、うああああああああああああああああんっ!!」
叫んでいるうちに、怒っているのか、悔しいのか、悲しいのか、はたまた他の感情なのかどうかもわからなくなってきて、ただ胸の内を埋め尽くして溢れ出てきたぐちゃぐちゃを吐き出すしかなくて。
僕は、涙と叫び声に変えて、ただただみっともなくぶちまけるしかなかった。
でも、男はじっと見ているだけ。
落ち着かせようと僕の背中をさすることもしないどころか、近づきもしない。
観察でもしているような、淡々としていて冷たい眼差しのまま、男は佇み続けた。
「……不満は理解した。ならどうする。俺に剣で挑んでみるか?」
泣きたいだけ泣いた後、ひくっ、ひっくとしゃくり上げる頃になって、男はようやく口を開いた。
鼻で笑うような声。
嘲笑うかのような口振りに、カッと頭に血が上るまま、放り投げた木剣を拾って、そのまま駆け寄って振り下ろす。
「――っ、ぐぁ……! うっ、ぅ……」
もちろん、本当に当たるなんて思ってなんかない。
それでも、全力で突っ込んだのに、手に持った剣で防がれるどころか、それをそのまま腰の鞘に収めて、横に動かれるだけで男の動きが終わるなんて思ってもみなくて。
有り余る勢いのままに、僕は転んだ。
でも、痛みなんか感じない。
重さもない。
今までの疲れが嘘みたいに抜け落ちた身体をがむしゃらに立ち上がらせる。
振り返った僕は、男の顔に浮かぶ薄い笑みに気づいた。
「わ――――笑うなあ!!」
過熱する頭が命じるまま、滅茶苦茶に剣を振り回して、追いかけて。
まるで当たらない。
当たるわけがないと、微塵も疑うことのないその視線が、一層僕を苛立たせる。
「このッ、くっ、逃げるなぁ!」
「当てられないお前が悪い。俺の動きをよく見て振れ」
ポン、ポン、と。軽く跳ねるように後ろに下がりながら、男が身を踊らせる。
あの馬鹿にした笑みに一発でもぶち当ててやりたいのに、当たるどころか、掠める予感さえない。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
「どうした? 息が切れたから降参か?」
怒りのままに木剣を振り回していた時はそうでもなかったのに、呼吸がままならなくなるや否や、思い出したかのように、身体がギシギシと悲鳴を上げ始めた。
頑張って息を吸い込んで吐き出してを繰り返す。
……胸が破けそうだ。
息をするのがこんなに苦しいなんて。
でも、それを続けないと、歩くことさえままならない。
汗を滴らせ肩で息をして、それでもと睨みつける僕の視界で、男は何を思ったのか、今まで転がしたままだった木剣を蹴り上げた。
見もせずに手に取って、何かを確かめるように数度振る。
「動けないなら、今度は俺から行こう」
「――っ」
ぞくりとする眼差し。
口元に変わらない薄笑みを貼りつけて、男はゆっくりと距離を詰め始めた。
「――――――ハッ――ハッ――ハッ――ハッ」
呼吸が浅くなる。
胸の底が、お腹の上の辺りが、まるで引き攣れたように震えて軋む。
男の歩みは散歩でもするかのように遅い。
なのに、ガクガクと震える手足が言うことを聞いてくれない。
やだ。
怖い。
動け。
動け。
動け、動け、動け、動け、動け、動いてよ――――!
「――――うあっ。……い、たぁ……っ」
思い通りに逃げることもままならず、それでも必死に動かした足は、自分のものとは思えないくらい簡単に縺れて、僕は尻もちをついた。
――――そこに、影が差す。
「うっ、ぁ、あ……っ」
「どうした? 逃げるまでもないか? そうだな、俺の指導に従わないんだ。当然、俺が木剣を振り回す程度では恐れるに値しないんだろう?」
衝撃に思わず閉じた目を再び開けた時には――――あと数歩の距離。
寒気を覚える笑みを浮かべて、男がゆっくりと木剣を振り上げる。
(いや――――――こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい――!!)
「いくぞ」
「あっ、あっ、あっ――――!」
怖いのに目も逸らせない僕のすぐ前で、ヒュン、という軽快な音が鳴って――――――
「――――――――――――――――――――――――」
――――――ピタッ、と止まった。
切っ先は眉間のすぐ前。
ともすれば触れているとさえ思えるくらいの距離。
「……ふむ」
頭が真っ白になったまま固まる僕の眼前から、停止した木剣が遠のいていく。
代わりに伸びてきた手が震える間もなく頭に乗って。
…………視界が左右に揺れた。
「加減したとはいえ気絶するかと思ったが、まあ、なんだ。………………よく、耐えた」
貼りつけたような笑みとも、怖気を感じたものとも違う笑み。
面白そうなもの、興味を惹かれるものでも見ているような色が強くて――――――けれども、今までとは違う、かすかにでも温度のある笑み。
その声に映った感情は、決して馬鹿にしたものではなく、少しの驚きが混じった感心で。
頭の上に置かれた手は、不慣れというにも程遠いとはいえ、僕の頭を撫でている。
「………………………………っ――――――」
目の前の男は、褒めているのだと。
――――そう理解した時、僕の身体からふっと力が抜けた。