リリアーナ
リリアーナ・スレイスロード視点
少し前……そう、少し前のこと。
ただ、女官たちが囁き合っていた言葉を聞いて訊ねてみた時の、驚愕と狼狽が滲んだ彼女たちの表情は妙に記憶に残っている。
わたしが何か言う前に側仕えの女官であるグレタが下がらせてしまったから、それ以外はわからなかった。
けれど、何かいけないことをしてしまったという表情と相俟って、ひどく強烈な印象をわたしに残した。
そして、その時初めて、わたしは知ったのだ。
――――わたしには、レオン兄さま以外にもう一人お兄さまがいるらしい、と。
お名前は、たぶん――――ヴィンセントさま。
「ナバル、しーっ。気づかれてはだめなんだから、もっと身体を小さくするのよっ」
困った顔をしながらも、わたしの言う通りに茂みに隠した身体を一層縮こまらせる大男の姿に満足して、庭を覗き込む。
今いる所は離宮付きの庭にある茂みの一つ。
この国のお姫さまがいるべき場所ではないけれど、目的のためには仕方がない。
わたしの目的。
――――それは、会ったこともないお兄さまに会うこと。
でも、正面から会いに行くことは、きっと難しい。
もう一人のお兄さまのことを聞いてみても、乳母のグレタが、いつもは優しい顔を怖くして「忘れてくださいませ」と言っていた。理由を聞いても「お教えできません」の一点張り。駄々をこねてもグレタはお願いを聞いてはくれなかった。きっと、どんなにお願いしても、会いに行かせてはくれない。
だから、こっそりと自分から乗り込むことにしたの。
わたしの世話をしている女官はみんな怖い顔をして厳しいことばかり言うから、きっとお兄さまのところにいる女官も怖い顔をして厳しいことを言うはず。そしてわたしは追い返されて、グレタにたくさん怒られる。
会わなくても怒られるくらいなら、会ってから怒られる方がいいわ。
「リリアーナ様、や、やっぱ帰らねえだか……?」
「しーっ! 声が大きいわ!」
後ろでびくびくしながら泣き言を言うナバルに振り返って、くちびるに指を当てて黙らせる。
優しくて、何でもできて、言うこともよく聞くお気に入りの騎士なのだけど、肝心な時以外は臆病で泣き言が多いのが玉に瑕ね。
「り、リリアーナ様も大きいだよ……」
あと、口うるさいわ。
「いい? まずはヴィンセントさまをよく見て、どんな方かよぉーく観察するの。それで、お兄さまみたいに怖い方だったら帰るわ。怖くなかったら、会ってみるわ」
「……レオンハルト様は怖いだか?」
「……今言ったことは忘れるのよ」
「わ、わかっただ」
ブンブン首を振って頷いたのを確認して、茂みから少しだけ頭を出す。
……女官に会わなければ取り次ぎができず、けれども取り次ぎができなければ、会うのは極めて難しい。
怖い怖い女官たちを避けてどうやって居場所を知ろうかと悩んでいた時、お兄さまも同じお菓子を食べていると耳にして、もしかしたらと思った。
食いしん坊に思われるのは癪だったけれど、目的のためと不満を呑み込んで、料理長にお菓子のリクエストをしたり感想を言ったりとお話をすることしばらく。
意を決し、それとなさを装ってヴィンセントさまも同じお菓子を食べているのかを聞いてみると、案の定料理長が用意していることがわかった。
なら、ヴィンセントさまもお茶とお菓子をいただく時間は同じくらいのはずと考えて、後はひたすら抜け出す時機を窺い続けて……ようやく、その機会が巡ってきた。
思った通り、女官がティーカートを押してサンルームに入っていく。
推測が当たった感触に、わたしは自然と手を握りしめていた。
「……あれかしら」
主役の姿を探して視線を移すと、どうやら既にサンルームに入っていたみたい。
わたしと同い年くらいの子どもが二人。どちらも美味しそうにスコーンをつまんでいる。会話も弾んでいるみたいで、実に楽しそうなお茶会に見える。
(いいなー……)
「……リリアーナ様ー、涎垂れてないだか?」
「――たっ垂れてなんかないわ! 何言ってるのよ!?」
「こっ声が大きいんだな! しっ! しー!」
「むぎゅっ」
口を塞ぐフリをしながら濡れた感触がないか確かめる。……ほらやっぱり大丈夫じゃないの。…………あら? 本当にわたしが食いしん坊みたいじゃない。ナバルはレディーの扱いがなってないわ。
「な、なんでオラを睨むだか……?」
あとで叱らないと。
「そんなことより、ナバルも縮こまってばかりいないで、ヴィンセントさまを探してちょうだい」
「わ、わかっただ」
一人は明るい青色の髪の女の子。
左を結って垂らしている可愛い子。けど、似た顔立ちと髪の色を持つ女官が近くにいるし、この子はおそらく違うはず。いつかは忘れたけれど、小耳に挟んだ乳母とその子に違いない。
もう一人はちょうど葉っぱに隠れてほとんど姿が見えないのだけど………………………………黒に近い紺の髪の……女の子? 肩にかかるくらいの髪はサラサラで、顔立ちも整っている、わね。
(……あれ?)
お兄さまだったわよね?
二度、三度と目をこすって見直してみても、わたしより一つか二つくらい年上の女の子にしか見えない子がいる。
「……ナバル。場所は合ってるの?」
「王宮の見取り図は頭に叩き込んでっから、場所に間違いはねぇだ」
王宮に勤める護衛として当然よね……じゃあ、間違いはないはず。
「……歳の近い令嬢を招待して遊ぶような方なのかしら?」
そんなぷれいぼーいな方だったら、どうするべきかしら? もしかして、これが会うのを諌められていた理由なの?
「うーん……お披露目がまだだから、まだそんなことは難しいと思うんだなーオラは」
「そうだったわね」
ということは……?
「ねえナバル。…………ヴィンセントさまはお兄さまなのよね?」
(もしかしてもしかすると、お姉さまだったりすることもありうるんじゃないかしら……!)
表向き王子さまと公表されている理由はまた気になるけれど、それならそれでいいわ。むしろそっちの方が一緒に遊べていいんじゃないかしら? ええ、ええ、楽しそうだわ!
「嘘を広める理由はねえと思うだが」
「……」
「い、痛えだよ」
「フン」
他愛のない妄想と切って捨ててくれた護衛に蹴りを入れつつ、考える。
「……こんなに天気がいい日なのに、お部屋に籠ってらっしゃるの……?」
日差しは少し強いけれど、そよ風が気持ちよく吹いている。だから当然外に出ていると思ったのだけれど、まさか、わたしの思い違いだったのかしら……?
「う、うーん……エミリー様の御髪の色から考えても、あの、夜空みてえな紺色の御髪のお方だとオラは思うだが……」
「……やっぱり、そう?」
「服を見たらどうかと思うだが」
「! 名案だわナバル!」
「あ、リリアーナ様っ、無理矢理動くとドレスさ裂けちまうだよっ!?」
ちらちらと離れを確認して視界を確かめながら茂みを移動するわたしを追って、ナバルも動く。
青髪の女の子が何かを思いついたような顔をして、おもむろにスコーンを手に取りクリームを塗る。
にこっと笑うと、ヴィンセントさまかもしれない子の口元にスコーンが差し出されて。
ヴィンセントさまは、ちょっと躊躇ったように見えたけれど、口を開けてスコーンを食べた。
「あっ……」
上品とは言えない、いいえ、はしたない食べ方なのだけれど。
(…………いいなあ)
二人を見守る給仕や護衛達も、にこにこと食べるヴィンセントさまも、見たこともないほど幸せそうに笑う青髪の少女も。
見ているだけで胸が温かくなるような雰囲気が、一員としてその場所を形作っていることが、ひどく羨ましく思えて。
わたしもそこにいたくて、ふらふらと前に踏み出してしまって――――――不意に、足が引き留められた。
「――ぇ?」
「リリアーナ様っ、裾っ、裾っ、あ――」
ビリッ、という音とともに、突然自由を取り戻した足が前に出て、でもうまく一歩を踏めなくて、バランスを崩して、わたしは――――――。