01 誕生
スナスア大陸の中央部に位置する王国スレイスフィールド。
その王都スレイスオールに存在する王城の一角にて、今、新たな生命が産声を上げようとしていた。
「もう少し、もう少しでございます! エミリー様!」
苦鳴を漏らしながらもどこか視線の定まらない一人の女性に、産婆がしきりに声をかけている。
周囲ではこの時のために選り抜かれた女官たちが今か今かとその瞬間を待ちわびている――――が、皆疲労の色が隠せない。
熱湯や清潔な布などの準備は滞りなく済んでいた。今も熱い湯を湛えた器が運び込まれ、時間が経ちぬるくなった水が外へと運び出されている。
そこに陣痛が始まった当初のような慌ただしさはない。
日が昇りそれが沈んで、今また夜が明けようかという頃。
かれこれ二四時間は過ぎたか。
側妃エミリーの全身は汗にまみれ、その顔は血の気が失せ、そして我が子を抱くための痛みに耐え続けた精神ももはや疲弊し切っていた。
端的に言えば、難産だ。
これが最初のお産とはいえ、一日中休む間もなく精神と肉体の両方を酷使し続けた彼女には限界が迫っていた。
「……! お子が……!」
長い時間を経てようやく見えた赤ん坊の頭に、傍近く控える女官さえ喜びの滲んだ声を漏らす。
「お子がお見えになられましたぞエミリー様!! お気を確かにッ!! ここが踏ん張りどころですぞ!!」
周囲に矢継ぎ早に指示しながら、産婆が再度エミリーを叱咤激励する。
その声には、ようやく好転の兆しをみせたこの状況を逃してなるものか、という感情が色濃く滲んでいた。
「っ…………ぅ、ぁぁ、っ、ぁぁぁぁああああああああああ……ッ!」
精も根も尽き果てたと見えたその身のいったいどこにそんな力が残っていたというのか。
今までとは比較にならない叫びとともに、細い身体が一際強く強張る。
果たしてその結果は――――
「……ついに、ついにお生まれになられましたぞ……!!」
産婆が涙声でそれだけを告げたと同時、元気な泣き声が部屋を満たした。
その身を受け取った女官たちが手早く、しかし優しく丁寧に拭い衣を纏わせる。
有事の際にと壁際に控えていた女官たちも、これでひと安心とばかりに安堵の息をつく。
生まれたのは王子様、わずかに生えた髪の毛は王妃様と同じ黒に近い紺色でございますと報告する女官。
ああもう安心だ。山場は越えた。
安堵に緩んだ空気が部屋を満たす。
誰もが円満なる終わりを――――否、続く明日を疑いもせずにいた。
「――――――……婆……?」
――――ふと、へその緒を切ろうとした産婆の耳に、呼ばう声が擦れた。
「……王妃様? どうなさいました?」
あまりにも弱々しい声。
不穏な何かを感じ取った産婆は、はさみを女官に預け、傷の手当ての準備を指示してエミリーの元へ向かう。
「婆……貴女は……よく、やってくれたわ」
「! ――エミリー様、お待ちくだされ、それは」
膨れ上がった不吉さが老骨の足を掬う。
冷水を浴びせられたような感覚に、しかしよろけた産婆の腕が掴まれる。
ハッとして視線を向けた先で、エミリーが、嫌にゆっくりと息を整えて、続きを紡ぐ。
「わたくしのことは、わたくしが、一番よくわかるもの」
――――刹那、悲鳴じみた叫びが上がる。
準備を任せた女官が、焦った様子で血が止まらないと声を上げ始めた。
「! すぐに――――ッ……!?」
止めねば。
考えるより先に動きかけた産婆の腕が強く握り締められる。
……どこにこんな力が――――?
そう思った次の瞬間には、潰えかけた命さえ使っているのだと理解してしまった。
故に、産婆の足が凍りついたように止まる。
「……お父様には、謝っておいて」
「なッ――――なりませぬ! なりませぬぞ!?」
「お願い。我が子に、ヴィンセントに、母の最後の頑張りを、伝えて頂戴」
「……っ……」
仮にも王族に連なる者を死なせたとなれば、その責任を負うのは産婆ということになる。いかに子爵家の者だとはいえ王の寵妃、それは免れられないはずの事実。
覚悟はあった。
子爵家に世話になっているだけではない。
エミリーの出産にも立ち会った産婆は、我が娘のごとき愛情を彼女にも抱いていた。
だから――万が一にも死なせる気はないが――その場合は、責を負うと。
――――だが。
一日がかりの出産の、そのすべてに立ち会ったのは産婆を置いて他になく。
今にも命尽きようとする母から将来の我が子へ話をする、その願いを託すことで、エミリーは産婆を生かした――――それに気づいて、もとよりぼやけつつある視界がなにも見えないくらいに滲む。
「…………エミ、リー、様……!」
腕から離れる手を、手探りで追って縋りつく。
「……マルチダ?」
老婆の頬を弱々しく撫でたエミリーが、嫌に擦れた声で名前を口にする。
囁くほどの声は、しかし確かに本人の耳に届いていた。
「っ……エミリー、様。ここに、おります」
「乳母……を、お願いして、いいかしら……?」
「……っ、はいっ、はい……お任せ、っ、……下さい……!」
「娘と、一緒に、育てて。……たくさん、叱って、あげるのよ?」
「はい、はい……っ」
親友に我が子の養育を託せて安堵したのだろう、吐息が漏れる。
力だけでなく、命さえ抜けていくような空恐ろしい吐息。
「……ヴィン、ス……」
もうだめか――――誰もがそう思う中、老骨にさえ冷たいと感じる指から力が抜ける感触に産婆はみっともなく悲鳴を上げかけて、それでもエミリーは踏みとどまる。
当然だ。
どうして我が子に触れずにいられようか。
命に代えても産み落としたいと望んだ愛しい子を祝福せずして、逝けるものか。
「こちらです、こちらにいらっしゃいます王妃様……っ」
目元を拭った老婆の視界で、なにも知らず元気な泣き声を上げ続ける王子を懸命に掻き抱くエミリー。
老婆は慌てて握る手を離し、思い直して王子の背に回す。
青褪めて、しかしぞっとするほどに美しさを増したエミリーが、力ない笑みを浮かべて老婆を見返し、それから愛しい子に視線を向ける。
「……あぁぁぁぁぁぁ…………いとおしいわ……」
母の胸元に抱かれて落ち着いたのか泣き疲れたのか、ヴィンセントの動きが徐々に緩慢になってゆく。
「……ヴィン、セント…………生きて……」
言いたいことは多いだろう。
「生き……抜くのよ……」
してやりたいことなど星の数ほどあるだろう。
「つらくても……みっとも、なくても……なにが、あっても……」
ともに過ごすはずだった、たくさんの幸せを感じさせてあげるはずだった未来が、なすすべなく指の間からこぼれ落ちていく感覚は、いったい如何ほどか。
「生き、続けて……」
堪えられず膝を折って涙を流す女官たちの中、老婆はしかと聴き届けた。
「わた、くし……の、いと、しい……ヴィン……セン、ト」
それが、一人の母の最期の言葉だった。