嵐の後。祭りの前にて。
嵐が過ぎ去った後のじとじとした空気と生暖かい太陽のおかげで、王都は蒸し風呂のような気候に包まれていた。
王都のほぼ中心部、王宮殿の外周部に住む上流貴族たちの多くは離れた場所にある避暑地へ消え、住宅街は閑散としたゴーストタウンと化していた。
住宅街の外れにはひときわ目立つ一軒の豪邸があった。格式高い、由緒ある伝統的な外観をしているその家こそ、かの極悪令嬢の住まいそのものなのであった。
周囲の静寂などお構いなしに、その日のカシュアグール家は慌ただしかった。
メイドたちはひっきりなしに辺りを駆け回り、執事たちは書類やら家具やらを持っていったりきたり。
突然のパーティー開催を受けて従者たちはその準備の奔走に余裕がない。
従者たちが汗だらだらになってもそれでも正装のままいるのは、かつては四大貴族に数えられていたカシュアグール家としての矜持だろうか。ただ脱ぐのさえも面倒なほどに忙しいからか。
それでも暑いものは暑い。執事やメイドたちによって窓やあらゆる戸口は解放され、少しでも風通しを良くする、というささやかな抵抗が行われていた。
当主の部屋とてなんら例外ではない。カシュアグール家当主の私室は二階にあるが、執務室は三階にあり、やはり窓は全開になっていた。
机の上には招待状や申請書の束がずらりと積み上げられ、調度品や料理のカタログが乱雑に開かれている。
「だるっ あつっ」
マリーナは肌着をぱたぱたと仰ぐ。
汗のつぶてが重要書類にまるいしみを残したのを見て、彼女はヒステリックに叫んだ。
「あッ …なあああああああ、また書き直し!!…もういや!!!これじゃ全然終わらないじゃない!」
「…お嬢様、せめて今夜までに終えねば招待客は集まりませんぞ!」
暴れるマリーナを尻目に老執事はせっせと文字を書き込んでいく。額に鉢巻を巻き、袖もたくし上げて完全に効率重視の格好になっていた。
それに比べてマリーナの格好はひどいもので、下着の上に一枚の肌着を羽織っていてかろうじて素肌が隠せているような状態だ。机の上に足を投げ出し、長い金髪をぐるっと後ろで縛り上げて、額にはゴムバンドをつけている。それでも暑苦しいその天気のせいで汗のにじんだ額をぬぐいながらうんざりしていた。
「…なんでこんなクソめんどくさいことやんなきゃなんないのよ!!ったくクソ暑いし、だるいし…大体…こんなのメイドたちにやらせりゃいいじゃないの!招待状を直接私が書かなくたっていいじゃん!!ていうか、アレよねさっき汗が滴り落ちたときも、出来る執事ならさっと紙をよけるとか、とっさに汗からガードするとかなんとかできたんじゃないの!?あぁあん?」
半ば八つ当たりのような内容にロドリゲスは冷や汗とも単なる発汗とも見えるそのつぶてをハンカチでぬぐう。
「私汗フェチではございませんので…それに招待状は家督を受け継ぐのに頼った黒いコネやらパトロンやらにも送らねばならないのですよ。このリストを何も知らないメイドや執事に見せるのはいささか危険です」
「…わかってるわよ!…そういやロバートは何やってんのよ?そうよ、あいつにやらせましょうよこれ」
ロドリゲスはため息をついて、指で窓の外を差した。
声が聞こえる。
屋敷中の窓や扉があいてるために、下の階の話し声がまるぎこえになっているらしい。
「おいおい!ここに花瓶置きっぱなしの奴は誰だよ!!」
「椅子の追加発注って何時まで!?え。まだ数えてない!?嘘だろ!!!」
「こんな暑い日に、パーティーなんて誰もこないぜ…」
「おい、パーティーは明後日に延期だそうだ。避暑地にいった方々が戻るまで待つらしい」
「そんなの聞いてないぞ!?」
「全員、傾注!パーティーは明後日に変更ッス!生花の搬入は明日に変更、食材の調達は六時間後に延期ッス…と、待て待て延期してもお前ら休む暇なんてないッスよ!?コックの人数を倍にするからどこかの料亭から引っ張ってくるッス!あ、あと招待客に配る土産は600から800に変更で袋詰めよろしくッス!」
「はぁ…なんでまたこんなに急にパーティーなんて…」
「ああっー!コラーッ サボるなッスよ!俺だって休憩まだなんスから」
「さっきからロバートの野郎、自分は口出ししてるばっかじゃねえか…くそ…あちぃ…」
「ほらお前ら、仕事あるッスよ!次は…」
「ロバート様、倒れたメイドは七人目になりましたよ!これじゃ手が足りません!!暇ならきてください!手伝っていただきます!」
「ま、マジッスか!?お、俺、現場の指揮を取らなきゃ…」
「今伝え終わったでしょう!?さぁ!いきますよ!」
「というわけでして… お嬢様。」
「ああああああああ ッ もうやめよ!明後日じゃなくていいから来週くらいまでにパーティの準備しといてよ!私はもう泳ぎに行くわよ!!」
「ちょっ どこに行かれるつもりですか!?ていうかパーティーはどうなさるんです!?」
「みんな避暑地なら、逆にミルウェ湖の方はひともいないでしょ。…こんなの、どーせうまくいきっこないわ。それに、だれかも分からない貴族からの招待状なんて彼が受け取ってくれるかしら…?うまくいきっこないわ!!無駄よ!!!無駄!無駄無駄無駄なのよォッ!!」
「そんなお嬢様、諦めになるのは早いですよ。…大体そんな恰好ではお出掛けになされるのですか!?…せめて夏用のドレスをお召しになってください!」
ロドリゲスの進言を最後まで聞かずにお転婆令嬢は廊下を駆けて消えた。
かつてほどの絶対力はなくとも、この王都の経済や流通のほとんどを取り仕切るカシュアグール家の現当主ともあろう女傑とは思えない。自由っぷりだ。
老執事はふたたび深いため息をつくと、ぼんやりと心配してるのだかしてないのだかわからないような口ぶりで、ひっそり、読者にだけ聞こえるような声でつぶやいた。
「まさか…おパンツ丸出しでお出かけになるとは…」
そこを指摘しない、さすがのゲス。ロドリゲスであった。
「…まっ いいか…」
ミルウェ湖とは王都の貴族街を抜けた先にある小さな山の中にある湖のことだ。その美しい景観は貴族たちが茶会をやったり、散歩するのに絶好の場所となっている。
ミルウェ湖までは普通は馬車で向かうもので、カシュアグール邸から歩いていくと三十分ほどの距離なのだが、複雑な出自の彼女には気にならない距離であった。
(孤児院の頃は5倍くらいの距離歩かされてたもんなー。薬草摘みも隣の山までいかされたりしてたし)
マリーナはぺたぺたと石畳の道を素足で歩いていく。街は本当に誰もいないので静かだ。
主についていかなかった従者たちも、家で静かに過ごしているのだろう。雲一つない晴天の空も、じりじりと日に照らされる静まり返った無人の街もなんだかいつもと違う風景が心地よい。
頬をなぜる風がやたらと気持ちがいい。まるで、服も何もかも脱ぎ捨ててただその身だけで街を歩いているような解放感だ。
風は貴族街に城上に見える旗たちを揺らめかせる。まるでマリーナだけに手を振っているようで気分がよかった。
「…たまにはいいかもね。こういう庶民的な過ごし方も」
もっとも毎日なんて御免だ。自分はそれが嫌で、ここまで上り詰めたのだから。
マリーナは元はトロンバーシュ家という僻地の落ちぶれた貴族の娘で、名はサリア・トロンバーシュといった。
隣国との戦争に行った父や兄弟は死に、無理な出費に借金を重ねていた家は終戦と同時に崩壊し、一人残った彼女は孤児院に引き取られていったのである。戦災孤児を奴隷のようにつかう孤児院からなんとけ抜け出して、カシュアグール家の妾の子マリーとの出会い、変人格闘家タバトルとの旅、そして脱走。奇妙な縁―おそらく運命とかいう奴なのだろう―に翻弄されながらも、今はカシュアグール家の一人娘という肩書まで手に入れた。今でもこうして地位を手にできたことやそのためにやってきた汚いことやあくどいことを後悔したことはなかった。
いつの間にかあたりは街道から森に囲まれた山道へと変わった。小さな山ではあるが傾斜はそれなりである。入り口を見つけるとマリーナはなんだか待ちきれなくなって階段を駆けだした。
階段を上りきると青々とした草木があり、かき分けて進んでいけばふいにひんやりとした空気が足元に触れた。湖だ。
丸く刈り取られたように頭上にはぽっかりと穴が覗き、木々の隙間から届いてくる木陰はその模様を水面へと映しておだやかに波打つ。見慣れたはずの風景だが、やはり美しく感じた。
ミルウェ湖というのは森に囲まれ山岳の合間にある滝と直結しているおかげで広々として見えるが、意外と小さな場所なのだ。
とどのつまり、ここは山と呼ぶにはおこがましい丘であって、湖と呼ぶにはつつましい池がある場所である。だがマリーナはこのちいさな箱庭のような風景が不思議と気に入っている。
予測通り誰の影もない。
「ふん、こんな近場に素敵な避暑地があるってのに暑苦しい人ごみごとわざわざ隣の街まで集団移動する神経がわからないわ。あれじゃまるでレミニングスね」
マリーナは服に手をかけて、半分ほど脱ぎかけて途中でやめた。どうせ帰りも汗でびしょびしょだ。一緒に服の洗濯してやったっていい。
白砂の浜辺をざくざくと踏みしだき、勢いよく水面へ走り出したその瞬間であった。
地鳴りのような爆発が鳴り響く。
時間差を置いて二、三と炸裂が続く。
近い。とっさに身を屈める。何だか分からないがとても近くで何かが起きている。
森の木々がこすれて鳴く。大地の揺れはなおも続いている。
太陽が雲に遮られてマリーナは影のなかに身を落とす。
急激に背筋が凍りつき、瞬時に沸騰するマグマのように熱くなる、どきりとする間もないほどに危機が迫っているときの感覚だ。マリーナは影から飛び出した。
それは雲ではなかった。
次の瞬間には影は巨大な岩へと変貌していた。墜落した岩が砂浜を巻き上げる。
訳も分からぬままその粉塵に吹き飛ばされるようにマリーナはごろごろと砂の上を転がり込んだ。何が起きているのか分からないが、攻撃されているらしい。
「ちょ、タンマタンマ!」
女の声がする。慌てるような口振りだがその姿は見えない。
「マー君タンマ!人がいるって!!…あのー、生きてますかー?」
砂まみれになったマリーナは姿勢を低く、保ったまま声の方向を睨みつける。
「誰!?」
「よかったー!…生きててよかったァー!!!」
「いいわけないでしょ…!なんなのよ、あんたは!」
唸るようにマリーナは言い放つ。暗殺者かもしれない、マリーナはいつでもどの方向にも動けるように筋肉を緊張させる。
ゆらりと落石に巻き上げられたら砂煙のなかから小さな影が見えた。
それは真っ黒な帽子に、マントのような服を羽織った影法師のような人間の姿だ。少女のような外見だが中年の女のようにも見える、年齢が読みとりづらい不思議な容姿の女だ。
影法師はいやぁと照れたような申し訳ないような形容しがたい表情をうかべるとぺこりとこちらに頭を下げた。
「申し訳ない。まさか人がいるとは思ってなくてねェ。ここ、僕らが修行場に使わせてもらってたんですが」
「…あんた…ここは道場じゃないのよ!!一般人を殺す気なの!?」
「いやァ、貴族の方々はみなリゾートシティのほうに消えちゃったって聞いてたので、ここで修行したっていいかなっておもったんですよね。あはは」
どうやら本当に暗殺者ではないらしい。ほっと胸をなでおろして、それから…相手の胸ぐらをつかんでひったおす。
「あははじゃない!こっちは物理的にこの世から消えるところだったのよ!?ああんッ!?見たところ、魔法使いみたいだけど、この王都で表歩けなくしてやろうかァ?!魔法使い組合から追放してやろうかァ ああ?!」
「い、威勢のいい姉ちゃんだなァ…」
「なんか言った?」
「ほんとスイマセンでした」
魔法使いは猛り狂うオオカミのようなマリーナにへらへらと笑って返す、コイツもなかなかに図太い神経をしているな。と、マリーナは勢いに任せて罵倒しながらも、ひそかに値踏みした。相当修羅場をくぐっているに違いない。
「大体修行ってなんなのよ、魔法で岩を落とす修行?はン そんなことしなくても博物館から投石機持ってくれば十分でしょ!近代戦争の基本は火薬と戦術なのよ。質や種類のそろわない魔法使いなんかおよびじゃないのよ!規格統一された弓矢隊が200人いた方がまだマシじゃないの!」
「ほんと雪崩とか洪水みたいな人だなあ… いやいや、修行は僕じゃあなくてさぁ…あ、おーいマー君一緒に謝ってもらえるかい?」
森の中から一人の青年が顔を出す、どうやらこの男が魔法使いの仲間らしい。男は手にしたバスターソードを背中のホルスターに納刀して砂浜へと降りてくる。少し距離があるので顔はよく見えないが、意外と小柄なようだ。
「フン、一体なんの修行だってのよ…」
「まあまあ、お姉さんも彼の名前聞いたらびっくりするよ」
「誰だろうが興味ないわ。ただ落とし前だけつけさせて ……えっ」
マリーナは目を疑った。男は近くで見ると、背負っている剣の大きさのせいで余計に小柄に見える。
灰色のレザーアーマーは薄手で、幾重にも傷が入っていたが、それ故に何度も戦場を耐え抜いてきた風格を携えていた。だが、マリーナが驚いたのはそこではなかった。
「すみません。修行に夢中で…!お怪我はありませんか?…ってアレ」
「……サリア?」
サリアと呼ばれたマリーナは口をぱくぱくとさせる。ありえない。こんな偶然など。
厚手のグローブから覗いた手首に巻きつけられた青いトパーズのお守り…。それはかつて彼女がある人間に贈った品であった。
「サリアだよね!すごい!こんな偶然なんてあるんだ?!…ほら 僕のこと覚えているかい?マシュー・ティンバールだよ!君の幼馴染だった!!」
こんな偶然、これではまるで運命ではないか。
あうあうと、幼児退行したかのようにうめくばかりで極悪令嬢は言葉を失っていた。
なんでここに。なんで今。心の準備が …あうあうあう。脳みそがぐるぐると回転する。
マシューは不思議そうに彼女を眺め、そして、くすりとさびしそうに笑った。
「そうだよね。もう、五年も前の話だ。孤児院の記憶はつらいことばかりだし、覚えてなくても仕方ないよ」
(違うって!! こんな… こんなところで初恋の人と会うなんて思ってなかったからだよ!!!!)
そう口に出したかったが、全身がしびれてうまく動けない。血がどこかで滞っているのかもしれない。このままでは脳にたまった血が破裂して死んでしまう。ええい。動け!ここで動かなきゃダメだ!
全身を叱咤激励する。ようやく血がめぐり始める。
「ちがっ 違う… お、 おお おぼえてる…よ… マシューのこと…」
カタコトになりながらもなんとか言葉を捻り出す。
「よかった! 僕らの思い出が嫌な記憶じゃあないってことだよね?」
「うん…!そうだよ!…わ、私… マシューといつかまた会えるって思ってた…信じてたんだから…」
「ありがとう、僕もそんな気がしてた。この旅の先に君がいるってそんな気がしてた」
なんだろう。この暖かさ。彼と再び会えたことも、彼としゃべっていることもすべて夢なのだとしたら、これは永久に醒める必要のない夢なのだろう。
「あのー なんなんすかこれ……。僕、蚊帳の外なんですがーー!ていうか、ていうか一番言いたかったこと言っていいですかァ!?」
「なんなの。空気読みなさいよ、今いいとこなんだから」
「なんでお姉さん、パンツ丸出しなんですか?」
「はあ?なにいって……え」
マリーナが自分の下半身を見る。そこには真っ白い肌着と…細い生足…。ありていに言えば下半身すっぽんぽん状態なのであった。
「えっ」
魔法使いはあきれたように首を振る。
「えっ」
ようやく気が付いたのか。マシューは照れたように目を伏せる。
「ええええええええええええええええええええ」
天へと叫ぶ。神よ。なぜ人にパンツを与えたもうた。
「きゃああああああああああああああああああ」
マリーナは必死に尻を隠しつつ、顔を真っ赤にして水面へと身をダイブさせた。
「あ、お嬢様パンツ一枚で出かけて行ったッスか!?相変わらずどうでもいいところで間抜けですねー。アホですね!いやあ…観たかったッス…」
「馬鹿いえ。あのお嬢様だ。パンツくらい見られたところで赤面するような小娘ではあるまいよ」
「あー みてえッスねえ あの鉄面皮の純情なとこ。つかロドリゲス様。色は何色でした?!」
「色?」
「お嬢様、派手好きですからねえ。豹柄とか、黒のセクシーなやつとか…ああ。でも一番はやっぱり…アレっすよねえアレ」
「アレ…ですか…。アレはいい。人類が生み出した文化の極み…。」
「あははは、面白い子だねえ。マー君、彼女紹介してよ」
魔法使いが水中で沸騰せんばかりにもがくマリーナを見て笑う。
「純白…」
マシューは水辺に背を向けて、目を瞑りながらぽつりとつぶやいた。