別れは、微笑んで
滞在21日目、最後の朝──
ガラリと開いた引き戸の向こうで、錦野さんはやはり樹脂粘土で何かの花片を形造っていた。
「おはようございます、錦野さん」
「おはよう。……えらい早う来て」
壁の時計が9時半過ぎを指している。
「……今日で、神奈川に帰るので」
「そうけ」
錦野さんは手の中の花片を、そっと新聞紙に置いた。
そうしてようやく、顔を上げた。
「アンタには、ようけ世話になったな」
「とんでもないです。俺こそ、何だか押し掛けたような感じで……」
会話はすぐに途切れてしまった。
しん、と部屋が静まり返る。
……何を話したらいいだろう。
また、このパターンだ。
話し下手なせいで、毎回何を話したらいいか分からなくて。
「手紙、書きます」
結局最後に言おうと思っていた言葉を言うことになってしまった。
「手紙?」
「はい。あ、いえ、迷惑なようでしたら」
慌てて付け加えると、錦野さんは可笑しそうに笑った。
「ホンマに……アンタは変わった子ぉやね」
「そんなに変わってますか?」
「充分変わっとるわ。こんなお婆に手紙書くなんて。……今時の子ぉは手紙もよう書かんやろ?」
「……でも、マメなことは良いことです」
「おや、少し言うようになった」
幸せな時間は、すぐに流れ去っていく。
この時間も、もうすぐで手の届かない場所へ行ってしまうのだ。
病室に滞在するのは1時間程度のつもりだったが、錦野さんと話し出せばあっという間に過ぎていった。
別れの間際、錦野さんは自らの両手で、笠原の両手を包むように握ってくれた。
乾いた、あの温かい手で。
ぬくもりに触れた途端、目頭が熱くなったが、そこはぐっと堪えた。
「気ぃつけて帰るんやで」
「はい」
「元気でな」
笠原はコクコクと何度も頷いた。
泣かなかった。
笑ってみせた。
……それでも泣きそうだった。
錦野さんに見送られながら病室を出て、引き戸に手を掛ける。
引き戸は隙間なく、ぴたりと閉ざされた。
穏やかな、朝の別れだった。
最後に竹川の元へ行くと、竹川は「ヨシヨシ」と笠原の頭をくしゃりと撫でた。
錦野さんとの一件も、とても心配してくれていた。
「介坊のこと、ヨロシク頼むで」
「俺の方が団之介に助けて貰ってばかりです」
「なーに、まだまだ危なっかしいガキやでアイツは。「何しとんねん」て頭はたくぐらいがちょうどええ」
ガハハと笑う竹川は相変わらずだった。
そうしてアパートに戻り、荷物の最終確認をして──12時前には明崎と一緒に玄関に立っていた。
「宙ぁ〜、冬休み帰って来るやん」
「………」
「拗ねちゃった」
明崎が神奈川に帰ってしまうのが余程寂しいのだろう。
見送りに来たはずの宙が、槇の背中に顔を埋めてこちらに顔を見せようとしない。
「……や〜い泣き虫ピヨちゃ〜ん」
「泣き虫じゃないもん!」
「おっ、出てきた」
明崎がわざと馬鹿にしたような声を出せば、宙はパッと槇の背中から顔を出した。
なんやかんや言いながら、悔しそうな表情の宙は涙目だ。
「冬休み、一緒に何する言うたっけ?」
「……そりとスケート」
「12月まで、後何ヶ月?」
「……4ヶ月」
「あっという間やって」
明崎はそんな宙に手を伸ばして、頭を撫でる。
「笠原君、また遊びにおいでね」
「ありがとうございます。……本当に楽しかったです」
「そう言って貰えて良かった。冬休みでも我が家は大歓迎だよ」
ね、宙。と槇が首を傾げてみせると、宙が微かにコクリと頷いてくれた。
「宙、また遊ぼう」
「……うん」
「めっちゃ涙声やん」
苦笑した明崎は宙から離れて、今度こそ「じゃ」と荷物を背負い直した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
槇はにこやかに手を振った。
宙も小さな声で「ばいばい……」と言う。
「笠原君も、いってらっしゃい」
「行ってきます」
明崎と笠原は、眩しい光が降り注ぐ外に出た。
その後ろでドアが閉まった。
「……あっつ」
「……暑いな」
「うわーヤダ家帰りたい。すぐそこ家なのに。帰れへん。ジレンマ」
早速げんなりした明崎は、歩きながら遠ざかっていくドアを振り返った。
「そういや須藤帰って来てるんかな」
「実家に戻っているのだったな」
「キリオ君も似たような時期に戻ってくる言うてたで。何や、メンバーそんなに変わらなさそうやな」
昨日のことには、触れない。
何事も無かったような素振りで話して。
また、いつもの日常に戻る。
どちらの心にも、微かなわだかまりを残して……
アパートの階段を下りて、アスファルトの道路を歩いていく。
最寄りのバス停近くまで来た時、ちょうどバスが目の前を通り過ぎて行ったので、2人は慌てて走って、バスに飛び乗った。
おおよそ3週間に及ぶ奈良滞在の日々は、これにて幕を閉じたのであった。




