溺レル
滞在17日目。
午後のことだった。
笠原が竹川医院へ向かっていると、道中で急に雨が降り出した。
「……あ」
鞄を探ろうとして、「しまった」と気付く。
折り畳み傘を忘れてしまった。
天気予報でも午後には雨が降ると聞いていたから、玄関にわざわざ置いておいたのに……
結局笠原は雨に濡れて、医院へ駆け込むことになった。
「えろう濡れとるやないか。──おおい、タオル持ってきたってや」
竹川はすっかり濡れ鼠のようになった笠原に笑いながら、タオルを差し出した。
「すみません」と受け取りながら、笠原はさりげなく服や髪に纏わり付いた水も取り払っていく。
こういう時に、この力があって良かったとは思う。
2階に上がってからも、錦野さんに「傘差してなかったんか?」と聞かれてしまった。
「玄関に用意してたのに、忘れてしまって」
「うっかりやな」
「うっかりです……」
錦野さんは小さく笑って「風邪引きなや」と言った。
いつものようにぽつぽつ話していく内、雨が酷くなってきた。
天気予報通りの土砂降りである。
錦野さんは紫の粘土を手で薄く伸ばして、何かを形作っていた。
花びらだ。
浅井が帰った日も、同じように花を作っていたのだ。
「この前の花ですか?」
「この前のは出来上がったで」
見るか?と言って、錦野さんは粘土を触るのを止めて、引き出しの上に置いてあった小さな箱を取り上げた。
「わ……」
中を開けると、そこには綺麗な水色の艶掛かった薔薇が一輪入っていた。
驚いた。
ぱっと見では、本当の生花と見分けがつかないほどそっくりなのだ。
たくさんの花びらを纏った水色の薔薇は、大振りでとても可憐である。
まさか3日空けた内に、こんなに美しいものが出来上がっているなんて……
「凄い……」
「ホンマはそれでリースを作ったりするんや。一輪じゃあ、まぁすぐ出来上がってまう」
「本物みたいで、とても綺麗です」
「おや、上手だこと」
そんな遣り取りをしている内に、再び粘土に触っていた錦野さんの指は魔法のように、なめらかでふっくらした花びらを生み出していく。
この前笠原が触った時は、ゴテゴテの酷いものが出来上がってしまったというのに。
同じ人間の指でこんなに違うものだろうか。
取り落とさないように、笠原はそっと箱を引き出しの上に戻した。
「手品師言うても男やしなぁ。貰うても喜ぶかね」
「俺だったら、嬉しいです。……きっと、喜んでくれると思います」
「アンタは出来た子ぉやな。今時そんだけ気ィ利く子なんか、居うへんわ」
「いや、俺は全然……」
錦野さんの言葉に恐縮して、首を横に振る。
すると錦野さんが顔を上げた。
口を少し開け、何か言いかけた様子だったが──目を見開いて、凍りついたように固まった。
驚いて見返した笠原は、その光景に僅かながら既視感を覚える。
──それが何の時だったかを思い出す前に、錦野さんの口から声が零れた。
「ア、ンタ……それ」
微かに震えた手で指を差されたその方向は、笠原の顔。
「──!」
気づいたその瞬間、顔から血の気がザァッと引いていくのが分かった。
笠原は弾かれたように、咄嗟に左頬を隠した。
……鐘代の言葉が頭の中で蘇る。
『水で思い切り濡らすと流石に取れちゃうから、土砂降りとか、そういうのは気を付けてね』
触った感触で分かる。
人工皮膚は半分近く剥がれていた。
……一体、いつから?
何も言葉を継げなかった。
どう、しよう。
身体の中では激しく心臓が脈打ち出した。
なんで、よりによって。
足元がぐらつく。
頭の中が引き絞られて、ぐるぐるするような酷い緊張感と恐怖が、笠原を襲う。
だから錦野さんを見つめたまま、笠原は凍りつくしかなかった。
……錦野さんが唇を微かに動かした。
──化 け 物
そんな声を聞いた、気がした。




