知らないまま
午後になって。
竹川医院から槇宅に戻ると、槇が「おかえり」と笠原を出迎えてくれた。
「あ……出掛けられるんですか?」
槇はワイシャツに薄手のジャケットを羽織って、黒いスラックスを身につけている。
いつものように朗らかな微笑みを浮かべて、槇は頷いた。
「伊里塚君と仕事にね。もしかしたら今日中に帰れないかも。夕ご飯のおかずとか、冷蔵庫に入れてあるから食べてね」
「分かりました、ありがとうございます」
笠原がコクコク頷いていると、廊下からひょこりと伊里塚が顔を出した。
「戻ってきたのか」
「ただいま戻りました。……ところで、団之介は?」
「向こうでチュー太郎と寝てるぞ」
玄関から上がった笠原がそっと居間を覗くと、明崎と宙は一緒にタオルケットを被って床に眠っていた。
およそ1時間前に眠ってしまったのだという。
笠原が時計を見上げると、今は14時半だ。
「中学の頃は19時に寝てたりもしたかなぁ」
「随分早いですね……」
「12時間はサラッと寝てたからね」
「えっ!?」
幾ら何でも寝過ぎである。
「今はそうでも無いみたいだけど、ホントよく寝る子だった」
槇は気持ちよさそうに熟睡する明崎を見下ろして、愛おしげに目を細めた。
「……そろそろ行かなきゃ」
笠原に向き直った槇は「留守の間、よろしくね」と言って、玄関に行く。
後をついて行くと、伊里塚は既に靴を履いて槇を待っていた。
伊里塚は何か物思いに沈んでいたようだが、槇が来ると徐に伏せていた目を上げた。
……なんだか浮かない顔をしているように見える。
気のせいだろうか。
「じゃあ行ってきます」
「お気をつけて」
槇と伊里塚が、家を出て行く。
笠原は一人、それを見送った。
──────
「……なぁ」
「ん?」
アパートを出て、歩き出すなり伊里塚から声が掛かった。
「あいつそんなに寝るのか」
「うん。中学校を卒業する頃まで、そうだったよ」
「……あの手紙の話とは、関係あるのか」
「手紙……?」
「最後の。"無いやつ"」
「あー……」
槇は視線をそっと伏せる。
「ちょっとねぇ……こんがらかった話なんだ」
「………」
「関係は大いにあるよ。けど、多分今その話を始めたら、"見送る"どころじゃ無くなると思う」
伊里塚は眉間を顰め、チッと舌打ちした。
「……聞いてねぇぞ」
「経緯は話せないって書いたじゃん」
階段を降りて、建物の陰から出るなり、肌を刺すように熱い日光が2人に降り注ぐ。
今日はバイクを使わず、大阪まで電車を使って行く。
バスに乗るまでの数分間は歩きだ。
「……まぁ、その内話すからさ。その時は聞いてよ」
伊里塚はその言葉に口を噤まざるを得なかった。
……このタイミングだったから。
槇は話さなかったんじゃないだろうか。
"こんがらかった話なんだ──"
……こんがらかったって、何だ。
ずっと、気になっていた。
明崎に一体、何があってそうなったのか。
考えたところで、答えを知る術など無い。
……こんなタイミングじゃなければ。
兄弟を看取りに行くような、自分が弱るような時じゃなければ。
何かしら力になれていたんじゃないだろうか。




