プロローグ:脆い平穏
朝。
笠原が目を覚ました時には、特に異変を感じることはなかった。
いつも通りの朝で、空は曇り気味というぐらいだ。
笠原はいつもの朝のスケジュールを頭の中でさらいながら、布団をきっちりと畳む。
今日も身支度を済ませたら、洗濯機を回し、3人の朝食を作って、洗濯物を干す。
雨が降るという予報は無かったから大丈夫だろう。
きっと、すぐ乾くはず。
今日も穏やかに1日が終わるものだと、信じて疑わなかった。
「よ、……っ!?」
だが部屋を出ると、リビングには珍しく早く起きたらしい須藤が居て、普通に挨拶しようとした声を──急に途切れさせた。
「笠、原……」
「え……?」
酷く愕然とした顔で笠原を凝視する。
驚いた笠原は、突然の反応に訳が分からず須藤を見返した。
「それ……」
続いた須藤の言葉と、差された指の方向に、笠原ははたと気付いた。
顔のことを言っているらしかった。
そんなに、何かおかしな事になっているのだろうか。
無意識に左手を上げて、頬を触る。
すると、柔い肌ではなく何か硬いものが指とぶつかった。
その、非常に覚えのある感触。
滑らかで、冷たい。
──全身の神経が引き絞られるような恐ろしい予感を覚えた。
まさか。
笠原はすぐさま洗面所に走った。
そんなこと、あってはならない。
洗面所に飛び込んで、鏡で己の姿を見た笠原は、余りのことにその場で凍りついた。
左側の目元の頬骨から、頬の半ばまで。
あの、翠銀色の鱗が広がっていた。
「───」
……どうして。
悲鳴も上げられず、笠原は呆然とその場に立ち尽くした。
鏡の中で、大きく目を見開いた自分がこっちを見ている。
視線は、頬に浮き上がった鱗に注がれていて──
化ケ物ガ、コッチヲ見テイル
鏡の中の目が一気に恐怖の色に染まった。
弾かれたように鏡から離れた笠原は、けれど鏡から目を離すことが出来なかった。
戦慄く唇は、最早血の気を失っている。
笠原は左手を持ち上げて、鱗にそっと指を這わせた。
背中のものと同じ、硬い感触が指にも頬にも伝われば、それは紛れも無く現実に起きたことを示していた。
……駆けてくる足音が聞こえる。
それはすぐに洗面所まで近づいてきて、勢い良くドアを開いた。
「紫己!」
須藤が起こしたのだろう。
赤いジャージ姿の明崎が焦った様子で飛び込んで来た。
その目は、すぐに驚きを露わにする。
「あ……」
明崎を振り返った笠原は、思わず声を漏らした。
彼の左頬にも、笠原と同じように鱗が広がっていたからだ──
心臓を深く穿たれたような、そんな絶望感に襲われる。
……悪夢のような光景だった。
「……来るな」
声にもならない声で明崎に言った。
「……紫己」
明崎は、1歩足を踏み出した。
笠原は2、3歩後ずさった。
駄目だ。
この人を近づけてはいけない。
明崎を見つめながら、笠原は悲痛な表情で被りを振った。
「……来るな」
もう一度、訴えた。
悲しみが胸から込み上げてきて、溢れるように涙が出てきた。
「アンタまで……本当に化け物になる」
何ということだろう。
明崎をこんな姿にさせて、自分の不幸に巻き込むなんて。
その恐怖に、涙が次から次へと頬を伝っていって、笠原は俯く。
恐ろしくて堪らなかった。
この人まで化け物呼ばわりされてしまうと思うと、胸が張り裂けてしまいそうだった。
「………」
明崎の瞳から、もう驚きや戸惑いの色は消えていた。
躊躇うことなく笠原の傍まで来ると……その身体を引き寄せて、抱き締めた。
「……大丈夫」
静かに、笠原へ紡がれる言葉。
恐怖に冷え切って、震える心を温めるようにその声は優しかった。
「ちょっとびっくりしてもうたな」
「………」
「大丈夫やで。怖がらんといて。一緒に居るから」
……優しい。
優し過ぎて、心が痛い。
何処までも寄り添ってくれようとする明崎に、笠原は安堵すると同時に、刺すような痛みを伴った罪悪感を覚えた。
でも、もう何も言葉には出来なくて。
笠原は両手で明崎の背中に縋りついた。
人の温かさに包まれると、感情の抑えが効かなくなってしまう。
身体の震えも涙も止まらなくて、ついに声を漏らして泣き崩れた。
そうして程なく伊里塚が駆けつけて来るまで、明崎は「大丈夫やから」と繰り返して、笠原の背中を宥めるように摩ってくれた。
今日も穏やかに1日が終わるものだと、信じて疑わなかった。
その日常が、笠原の手の届かない所で脆く崩れようとしていた──