赤い魚の一夜
※この作品には、軽度ではありますが、残酷な表現、及び反倫理的な価値観が含まれています。読み進めていただく場合には、予めご理解いただきますよう、お願いいたします。
昔々深く青い海でのこと、はっとする程に美しい赤を身に纏う、ちっぽけな魚がおりました。彼女は他の魚よりずっと小さく、それに加えて鮮やかな赤い色でしたので、いつも大きな魚たちに狙われていました。せっかく美しい色をしていても、彼女自身がそれを自慢に思ったことは一度もありません。むしろそのような色に生まれたことを恨んでさえいたのです。いくら見目美しくとも、それを見せびらかして食べられてしまうのではたまったものではありませんから。
ある晩のこと、彼女は海の浅い場所を泳いでいました。それが他の大きな魚から逃れるためだったのか、単なる気紛れだったのかはわかりません。とにかくそうしたために、彼女は海の深い場所までは届かない、優しい月の光を生まれて初めて一身に浴びたのでした。その晩は雲一つなく、何十年に一度あるかないかという程に美しい満月が浮かんでいました。
彼女は見る間に大きくなり、鱗は消え、かわりに透き通ったうっすらと赤味のさす肌が現れ、見事なひれは燃えるように真っ赤な、それでいてふんわりとした豊かな髪の毛となり、瞳だけは変わらず魚の無機質な光を湛えた黒い瞳で……。
そう、彼女は人間になったのです。しかしそれは、おへそより上だけのことでした。それより下は魚の時と同じで、美しく見事な鱗とひれがそのまま残っておりました。
彼女は自分に起こったその変化を自然に受け入れました。優しい月の光が時として信じられないような奇跡をもたらすことを、彼女はよく知っていたのです。たとえそれまでその光を目にしたことがなくとも、月の神秘は全ての生物が知っておりました。
彼女は生まれて始めて、体中に揺ぎ無い自信がみなぎっていました。そして海面にゆらゆら映る自らの姿を、美しい、と思いました。それは事実で、彼女はこの上なく美しい人魚でした。
彼女は岩場に腰をかけ、月を眺めながら歌いだしました。喜びと自身に満ち溢れた美しい歌です。―風が優しく彼女の髪を撫ぜます。
人魚の歌は一晩中続くかと思われました。しかし突然、その歌声は途切れました。彼女の耳はかすかながら、何か生き物が背後にいることを聞き取っていたのです。彼女は怯えて、後ろを振り返りました。海に飛び込みはしませんでした。
「逃げないでくれ。驚かすつもりはなかったんだ。」
彼女にはその人間の言っていることはわかりませんでしたが、大きな魚たちが彼女を狙う時にいつも感じる、あの恐ろしい感じはしませんでした。
「ああ、こんな美しい生き物がこの世にいるだなんて。どうか、歌い続けてくれ。もっとあの美しい歌声を聞かせておくれ。」
しかし彼女は黙ったままでした。その人間の言っていることがわからないのですから当然です。男は彼女が黙ったまま様子をうかがっているので、安心させようと喋りだしました。
「俺はそこの漁村からやって来たんだ。時々こうして夜中に浜を散歩するのが好きでさ。だけど……。」
男は顔を赤らめました。
「君のように美しい人に会えるだなんて、夢にも思わなかったよ。」
人魚は首を傾げました。もはや彼女は彼を危険だとは思っていませんでした。
その時、彼女は月が大分傾いているのに気がつきました。彼女は慌てて海へと潜っていきました。この不思議な奇跡も、月が沈めば終わりを告げることでしょう。再びあのちっぽけな体に戻れば、この男も彼女を食べようとするに違いありません。それに明るくなれば大きな魚たちも目覚めるでしょう。その時安全な隠れ場所にいなければ、すぐに見つかり食べられてしまいます。そうなる前に住み慣れた海の深い場所に戻らなければなりませんでした。
彼女の後を男の声が追いましたが、彼女は姿を消してしまいました。男はそれでもしばらく再び美しい人魚が波間から姿を現すのを待ちましたが、やがて諦めて立ち上がりました。
彼女の思った通り月が沈むと再び、美しいながらもちっぽけな赤い魚に戻ってしまいました。体中にみなぎっていた何者にも脅かされることのない自信は消え去り、かわりに大きな魚への強い警戒心が体中にぴんと張り巡らされていました。
次の満月の晩、その日も空には雲ひとつなく、あの赤い魚はまだ生きておりました。その日彼女はたこに襲われ、危ないところで助かりました。そんなのは日常茶飯事でしたが、ふと一月前の何者にも脅かされることのないあの体を思い出し、再びあの浜へと泳いでゆきました。
その日の月は、あの晩の満月ほどは美しくありませんでした。それでも彼女が優しい光を一身に浴びると、再び彼女は人魚の姿に変わっていました。
彼女は歌いました。その歌声は一月前よりも力強く、美しくなっていました。
その晩、彼女の歌声は途切れることがありませんでした。永遠にその歌声は続くかとも思われましたが、静かに歌は締めくくられました。まだ月が沈むまでにはだいぶ間があります。
「ああ、なんて綺麗な歌声だろう。」
彼女は彼に微笑みました。彼が来ていることには歌っている途中に気がついていました。
「君はきっと、満月の時しか海の上に来られないんだね。」
彼女は黙ったままです。男の話し振りは穏やかでした。
「君が嫌でない限り、満月の晩には必ずここに来るよ。」
彼女は黙ったままでしたが、男にはそれが肯定の印に思えました。
男の言った言葉は本当になりました。
赤い魚は満月になる度に月の光を浴びて人魚になり、人間にはわからない言葉で歌いました。男はじっとそれに聞き入り、歌が終わると人魚に愛の言葉をささやきます。いつしか人魚も、男を何よりも愛しく思うようになっていました。
しかしいつまで経っても、彼女は満月が水平線に近づくと慌てて波間に姿を消すのでした。彼との別れを惜しむ間もなく、何かに怯えるようにして……。男にはそれが残念でなりませんでした。何が彼女を脅かしているのでしょう?彼はできることなら自分も人魚になって、彼女を始終守ってやりたいと願いました。
ある満月の晩のこと、その晩もまた、この上なく美しい月が天上で輝いておりました。赤い魚はいつものように人魚となり、歌を歌って、いつもはとうに姿を見せている男を待ちました。
人魚の歌声はその晩の満月にふさわしく、いつになく自信に満ち溢れ、この世のものではないかのように美しいものでした。しかしいつまで経っても男は姿を現しません。人魚は段々と声をあげ、ますます力強く歌いました。それでも男は一向に現われる様子もなく、静かな波音だけが彼女の歌声に調子を合わせていました。
男が姿を現さないまま、月は水平線に近づいてゆきました。それでも赤い魚は歌うのをやめません。人魚の姿だというのに、その歌声は力強く響いているというのに、赤い魚はちっぽけな魚の時よりも、ずっと不安でした。
まもなく、東の空が白み始めました。それにつれて赤い魚の体も元の姿になろうとしていました。人魚の声は段々と細り、小さくなっていきます。それでも赤い魚は歌うのをやめませんでした。
声もなく歌い続ける赤い魚の体を、何かが捕らえました。―魚を捕らえるための網です。
日に焼けた柔らかな女の手が、絡み取られた赤い魚を網から出します。
赤い魚はそのちっぽけな体には強すぎる風を受け、その風を必死に吸い込んで、声を出そうと、歌おうと、口をぱくぱくさせながらその小さな命の灯火は、まもなく消えてゆきました。彼女の薄れゆく意識には、ただ姿を現さなかった男のことしかありませんでした。
彼女を襲うことなく、ただやわらかく見つめていただけの男。いつしか襲われる恐怖よりも大きな存在となっていた、たった一人の男のことだけを思って、赤い魚は死んでゆきました。
美しい赤い魚を捕えた女は、急いで家に帰り、早速鍋で煮込みました。そして味を調えると赤い魚に相応しい美しい皿に盛り、病気で寝込んでいる夫に差し出しました。
「赤い魚を食べるとどんな病気も治るんだってね。あんたがひどい熱を出した翌朝に丁度いい具合にいるだなんて、きっと神様の思し召しに違いないよ。」
男は妻に差し出された魚を見ました。赤い魚の体は煮込まれ、あの満月の晩よりも真っ赤に染まり、それはそれは美しく見えました。男はその赤を見て、満月の晩の美しい夢を思い出しました。彼は夢と共に海へ沈むことを願っていました。けれども明るい日差しの中妻の下に帰ると、夢に溺れることは愚かしく思えました。漁村でのつましい暮らしはそれまでずっと彼が送ってきた人生であり、そしてこれからも送っていくはずの充足した幸せなものでしょう。彼は夢を必要とし、真実夢を愛しました。しかし彼は生きねばなりませんでした。夢を見るには現実を生きねばならないのです。
男はやっとのことで身体を起こすと、涙を流して赤い魚を口に運びました。
赤い魚は夢を知り、人間の男は現実を知って、満月の晩は明けたのでした。