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コッペリアの棺

作者: 朱美

いつものように、男は店にやってきた。

身なりの良い上品そうなその男は、大して物があるわけでもなく、しんと静まり返っただけの店の中で、いつものようにわき目も振らず、それの前に立った。

男に気が付くと、それはぜんまいを巻かれて踊りだす。

流麗な舞である。

ステップ、ターン、飛んでは跳ね、時にくるりと回る。

かみ合う歯車の音が聞こえてきそうなくらい無機質なのに、その動きは水の流れにも似て滑らかだった。

男はそれを、何をするでもなくただ腕を組んで眺める。

踊るそれを見つめる男の瞳は、元々ある冷ややかな色をとどめながらも、恋の熱に浮かされてぼんやりと輝いていた。


「旦那、やっぱりそいつが気になりますかい」


店の隅で、質素な机に空の酒瓶を転がした醜い男が言った。

男は不快そうに眉根を寄せて、醜い男へ目をやる事もなくただ頷いた。

男が見つめる中、それは休むことなく踊り続ける。

流派も流儀も何もない、ただ美しいだけの舞は、技術などないからこそ伝わってくる強い気持ちだけがあった。

その舞は、激しい愛を表現する為だけに紡がれるものだ。

言葉より如実に、それの舞は情熱と愛を男に伝えようとしている。

そして恋の熱に浮かされた男は、それを正しく受け取っていた。


「・・・そいつの名前、なんと言うか知ってますかい?」


醜い男が、男の至福を打ち砕くのを楽しむかのようにまた呻いた。

しかし、その話題には男も少し興味があったようで、熱心のそれの踊りを眺める合間、ちらと醜い男に視線を送った。

醜い男はがま蛙のような口を歪ませて笑う。


「ペッコリアでさ。俺は商品にゃずいぶん感情移入するほうでね、一つ一つにちゃあんと名前をつけてやるんだ。まあ、旦那が買って行ってくれるって言うんなら、名前も自由に付け直してもらって結構ですがね」


醜い男は揶揄すように笑った。

男は情熱に舞う踊り子の方へ視線を送ったまま、小さくつぶやいた。


「・・・由来はなんだ」


「あ?・・・ええ」


醜い男は笑った。そう聞かれるのを待っていたらしい。


「そりゃあれでさ、コッペリア(踊り子人形)ですよ。出来損ないのコッペリアみたいでやしょう?」


醜い男が大声を上げて笑い、男は眉根を寄せた。


「・・・奴隷商人にふさわしい、いいセンスをしているな。反吐が出る」


「そりゃあどうも。それを毎日見に来てる旦那も、同じようなものだとは思いますがね」


男は既に奴隷商人を見てはいなかった。

ただ、奴隷女の流麗な舞に熱のこもった視線を向けている。

奴隷女の動きは一定していない。

激しいリズムを踏んだかと思えば、緩やかな足運びに変わり、また思い出したように飛び跳ね始める。

合う曲でも流れていれば違うのだろうが、その美しくありながらどこか滑稽な様は、確かに壊れた人形を思わせた。

奴隷女は全身を使い、一定しないリズムで男に気持ちを訴えている。

ただ一つだけ違うところがあるとすれば、それは目だ。

奴隷女の目だけは、どこを見つめるでもなく空虚に霞み、何の感情も表してはいない。


「なあ、旦那。買うならさっさとしちまってくだせえよ」


奴隷商人が、痺れを切らしたように大声を出した。


「いいかい、あんたがこいつに興味を持ってるって言うから、俺は毎回売春窟への出荷リストからこいつを外してやってんだ。だがそいつももうおしめぇだよ。首都の監査が激しいもんで、こんな偏狭の町でだってこの商売は成り立たなくなってる。旦那がこいつを買わねぇってんならそれまでだ、さっさと安値で処分して、俺はこの店をたたむだけだよ」


男は何も言わず、ただ音を立ててつばを飲み込んだ。

奴隷女が踊る。なりのいい男がそれを男が見つめる。

女は体中でその愛を示していたが、目にだけは何の感情もこもってはおらず、男の体は奴隷女の檻の前に立った時からぴくりとも動いてはいないが、目だけはその溢れる思いを雄弁に語っている。

そんな愛溢れる様子にお構いなく、奴隷商人は続けた。


「おい、なあ、聞いてんだろ?売春窟なら、傷ものにゃなろうが買い戻す事は出来るだろうよ。けどな、行き先が内臓屋やスナッフ・ムービーだったらどうする。買い戻そうにも三日と待たずに手遅れだ。なあ、値段なんぞ何とか相談に乗ってやるよ、買うならさっさと買ってくれ。これじゃあ俺は、店をたたむにもたためねえよ」


奴隷商人は、困ったように額に手をやった。

男はその顔にちらりと目をやり、もう一度、奴隷女の流麗な舞をうっとりと眺めてから、やがてきびすを返した。


「・・・また来る」


緩急に乏しい男の声に、奴隷商人の顔がさらに醜く歪んだ。

店の出口へ向かう男に向けて、奴隷商人は怒鳴った。


「いいか!あと一日だけ待ってやる!それを過ぎたらもう知らねぇぞ、スナッフ・ムービーの出演依頼がありゃ、優先的にそっちへ回してやるからな!」


男は振り返らなかった。

仕立ての良い生地で作られたスーツの背中を見せながら、何も言わずに店を出て行く。

男が店を出て行くと同時に、奴隷女は糸が切れたマリオネットのようにぷつんと踊るのを止め、その場にへたり込んだ。

ぼうっと虚空に向けられた目だけが、踊っていた時と変わらない、無機質な美しさを保っている。

奴隷商人は、檻の向こうにいる最後の商品を睨んで、呻くように言った。


「・・・おめぇは、売春窟やら内臓屋やらにやるには、ちと勿体ねえよ。お前の貰い手はな、ああいう馬鹿野郎のとここそ相応しいんじゃねえか」


言いつつ、奴隷商人は転がっていた酒瓶を持ち上げた。

もう舐めるほどしか中身の入っていないそれを、ぐいっと一息に傾ける。

男は酔ってはいなかった。その瓶は、数日も前に打ち捨てられたものだったからだ。


「・・・ペッコリア、一つ良いことおせえてやるよ。俺はな、商品に名前をつけたことなんてたった一度しかねぇ、俺が名前をつけた奴隷はな、ペッコリア、お前だけだ。お前が最初で、恐らく最後になるんだろうな」


懺悔するような男の声に、奴隷女は答えない。

言葉を、いや、それ以前に世の中の一切を忘れたかのような空虚な目は、ただ何もない空間を、物思いにでもふけるようにぼうっと見つめていた。




店を出た身なりのいい男は、どこへ行くでもなく繁華街をうろついていた。

仕立ての良い、けれど大分くたびれて埃をかぶったスーツの衿を正しながら、ふと、思い出したように懐に手を入れる。

懐の裏にあるポケットから、これまた上品だがくたびれた、茶色い革の財布が出てきた。

男はそれを淡々とした手つきで開き、道端に中身をぶちまけるかのように逆さにして開いた。

財布からは、まず一束か二束ほどの埃の塊が零れ落ちた。

だがそれより後、財布から零れ落ちてくるものは何もなく、硬貨が固い石畳を叩く澄んだ音は、いつまで立っても聞こえてはこない。

金持ちの生まれで、今は金庫の中にさえ蜘蛛の巣しか残っていない没落貴族の男は、しばらく、財布を逆さにしたまま突っ立って、何事か思案していた。

男に手に握られた財布はくたびれているが上品で、男の身を包む衣服も大分汚れているが十分見栄えのするものだ。

売り払えば、恐らくなかなかの金に換わるだろう代物である。

そうして得た金は、恐らく奴隷女を一人買うには十分な額であり、そして人二人を養うには、あまりに少なすぎる額なのであった。



男が選んだのは、なんだったと思いますか?

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― 新着の感想 ―
[一言] 初めまして。 情景が目に浮かびそうな、描写の良さが物語に引き込んでくれますね。  コッペリアに感情を伝える奴隷商人は、想いがありそうで良いなと感じます。昔と今の違う上品な身なりの男の選択は、…
[一言] タイトルに惹かれました。僕が神と崇める清く強く美しいあるお方が(以下略) 彼女に心引かれているにもかかわらず、後のことを考えて買わないのですね。 奴隷である彼女は手に入れられても、それからど…
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