なみだ屋
自殺しようと思う。
方法は何でもいいんだ。身体がぐちゃぐちゃになってもかまわない。確実に死ねたら、それでいい。死体が見苦しくなったとしても、私自身がそれを見るわけじゃないし。
私が死ねば、両親もホッとするだろう。…いや、悲しむかな?八つ当たりの道具がなくなって。私は左腕の大きな痣をさすりながら、笑った。はずだった。
「…なんで泣いちゃうかなぁ」
最高にみじめだ。自分のために泣くなんて。だけど、私のために泣いてくれる人なんて、他には誰もいないじゃないか。私は私のために、声をあげて泣いた。誰もいない、冷たい校舎の屋上で。
「どうしたんです?」
…誰もいない、屋上で?
目をこすりながら声の方に目をやると、見知らぬおじさんが立っていた。さっきまで誰もいなかったはずなのに、いつの間に?
それに、ここは私の通ってる中学校の屋上だ。だけどこのおじさんは明らかに、教師でも用務員さんでもなかった。だとしたらこの人は一体、誰なんだろう。
きちっとした背広を着こなしているそのおじさんは、にこやかに私の方へ近づいてきた。
「…辛いことがあったのですか?」
うるさい、と思った。生きてることそのものが辛いんだよ馬鹿、とも。
おじさんは私に紺色のハンカチを差し出しながら、足元に目をやった。
「死ぬ気だったのですか…」
おじさんの視線の先を追うと、私が脱ぎ捨てた靴と、汚い字で書かれた遺書があった。授業中に配られたプリントの裏に、黒いボールペンで『疲れた。死ぬ』としか書いていないそれだけど、どう見ても遺書だ。私は慌ててそれを拾い上げ、ぐちゃぐちゃに丸めた。それから内心で、ため息をついた。「死んではいけません!」とかなんとか、うるさく説教されるだろうと思ったからだ。
だけどそのおじさんが言ったのは、
「ここから落ちても死ねませんよ」
だった。
「え…?」
「まず、高さが足りない。それから、下が花壇というこの条件の悪さ。ここから落ちても、十中八九、失敗しますよ?なんなら私が、もっといい場所をご紹介しましょうか。確実に死ねる、穴場スポットを」
呆けてる私に、おじさんが素敵な笑顔で言った。
学校に行けばいじめられる。家に帰れば殴られる。私には居場所なんてないんだ。この世にいちゃ、いけない存在なんだ。
どこに行っても、きっと拒絶される。拒絶され続ける。「いつかいいことがあるよ」って人はよく言うけど、いつかっていつ?…私はもう疲れたんだ。今、疲れたの。だから今、死にたい。
なんで死にたいんですか?と訊かれた私は、気付けばボロボロと言葉を零していた。俯きながら小さい声で語るそれを、おじさんは真剣に聞いてくれた。肯定も、否定もせずに。
「…それで、死にたいんですか」
「うん。私なんて、死んだ方がいいんだよ。私が死んだらきっと、みんな喜んでくれる。それにきっと、誰も泣かない」
それを聞いたおじさんの眼が、少しだけ鋭くなった。
「本当にそう思ってるんですか?」
「ん?」
「あなたが死んだら、誰も泣かないと」
「…思ってるよ」
私が苦笑すると、おじさんはとびっきりの笑顔を見せた。そして両手を広げ、
「それは、とっても寂しいことだと思いませんか!」
…素晴らしいことだと思いませんか!とでも言っているような、素敵な笑顔と口調だった。
「え、うん、…まあ」
「そうでしょうそうでしょう!どうです?あなた、私のお客様になりませんか」
「は?」
何言ってるの?という私の声を華麗にスルーして、おじさんは自分の胸に手を当てる。そして、少しだけお辞儀をするようなポーズで、言った。
「私、なみだ屋なんですよ」
「ナミダヤ…?」
聞いたことない職業だ。
「なにそれ」
「簡単に申し上げますと、あなたが死んだ時、私が泣く。そういう職業です」
おじさんはお辞儀のポーズを辞めて、背筋をピンと伸ばして胸を張った。
「たとえ、あなたの葬儀で誰も泣いていなかったとしても、私が泣きます。泣くために、葬儀に参列します。どうです?寂しくないでしょう!!」
「…。」
このおじさんは、本気で言ってるんだろうか。そしてそのナミダヤは、実在しているんだろうか。開いた口がふさがらないという単語の意味を、私は今、身をもって体験している。
「契約していただけたなら、お好きなコースをお選びいただけますよ!『ホロホロと泣く』から『大号泣』まで、バリエーションは様々です!」
「あの…」
「料金ですか?安心してください。学割、というものがございます!」
「おじさ…」
「契約していただいた場合、自殺決行前には必ず私にご連絡を…」
「おじさん!!」
おじさんの話が止まらないので、私は大きな声で叫んだ。自分の話を途中でちょん切られたおじさんは、不思議そうな眼で私の顔を見た。
「はい、なんでしょう?」
「おじさん、なんなの?」
「ですから、なみだ屋です」
おじさんは真剣だ。
「…私が死んだら、泣いてくれるって?」
「その通りです」
おじさんは真剣だ。
「…ははは。いいね、それ」
私は笑った。もう笑うしかなかった。このおじさんは何を考えてるんだろう。そして、自分も。…奇妙な空間。自分が存在している空間を、ここまで奇妙だと思ったことはない。
奇妙なのはおじさんか、それとも私か。
「私、あんまりお金持ってないけど大丈夫かな?」
「大丈夫です。学割、というものがございます」
おじさんはウインクした。…つもりらしいが、両目ともつぶっているのでそれはただの瞬きだった。私は笑った。その笑いの意味は、自分でも分からなかった。
「分かった、契約する。私が死んだら、おじさん泣いてね」
「かしこまりました」
おじさんは胸に手を当て、先ほどよりも深い角度でお辞儀をした。それから顔を上げると、こう言った。
「あなたが死んだら私が泣きます。…だから、死なないでください」
この世の終わりみたいに、真っ赤な夕暮れだった。空も、建物も、何もかもが赤く染まっていた。目の前にいる、おじさんの顔も。
「…今、なんて言ったの?」
聞こえていた。聞き取れていたくせに、わざと訊き直した。
「あなたが死んだら私が泣く。だから、死なないでください。…そう言ったんです」
おじさんはほほ笑むと、沈みかかっている夕陽の方を見た。それから、語り始めた。
「自分が死んだら誰か泣くだろうか。…誰もが一度は考えたことのある話でしょう。そして、『家族が、恋人が、あるいは友人が。誰かがきっと泣いてくれるだろう』。そんな風に、答えを出します。
けれども私のお客様となる人は、そう考えていない人が多い。自分が死んでも誰も泣かない。むしろ喜ぶ。だから死ぬ。…先ほどのあなたのセリフと似たようなセリフを、私は何度も聞いてきました」
そこまで言うと、おじさんはふっと息を吐いて笑った。
「実際、どうなんでしょうね?あなたが死んでも誰も泣かない。本当にそう思いますか」
「…。」
「私はね、あなたのことを詳しくは知らない。ただ、あなたが死んでも誰も泣かないというのは、ないと思っています。たとえあなたの葬儀で誰一人泣かなかったとしても、あなたの知らないどこかで、誰かがあなたのために泣いているかもしれない。それに、私も泣きますしね」
「…それは、契約したからでしょ?」
「違います」
即答、だった。
「あなたとこうやってお話ししたから。少しでも、あなたのことを知ったから。…あなたのことが、好きになったから。だから、泣くんです」
足元から、子供の笑う声が聞こえた。下を覗くと、男子生徒が2人、笑いながら歩いている。屋上の私たちには、気付いていないようだった。
「もしも今あなたがここから飛び降りたら、あの2人が泣くかもしれない」
同じく男子生徒の様子を見ていたおじさんが、呟く。
「誰かが泣くから、死ぬな。それはおかしな話です。けれども知っておいてほしかった」
「おじさんは」
「…ある男が、首吊り自殺をしました。全てに、疲れていた」
私が言おうとしていることをさえぎって、おじさんは話し始めた。紫から紺色に染まっていく空を仰ぎながら。
「借金まみれで、どうしようもなかったんです。けれどもその男は、誰かに頼るのが酷く苦手でした。…自分が死ねば保険金が入ってくるし、家族は助かる。…きっとみんな、喜ぶ。追い詰められた男はそう思っていました。そして、後悔した」
「…なにが、あったの?」
私の視界がうっすらとぼやけ始める。その話の意味に、…おじさんの正体に、気付いたから。
「死んだ男は幽霊になりました。そして、自分の葬儀を見に行ったんです。…たくさんの人が、泣いていました。家族も友人も仕事仲間も、皆が後悔していました。『なんでもっと早く気付いてやれなかったんだろう、助けてやれなかったんだろう』ってね。…それを見た男は、酷く後悔しました。どうして自分は死を選んでしまったんだろう、って」
「…。」
「自分が死んだら皆が喜ぶ…なんてのは、自分勝手で浅はかな考えです。人のことを考えているようで、考えていない」
おじさんは私の顔を見るとほほ笑み、もう一度ハンカチを貸してくれた。
「あなたが死んだら、私が泣きます。ただ、私の涙は誰にも見えません。あなたにしか、見えません」
おじさんのハンカチは、透けていた。おじさんの、姿も。
「それでも。たとえ姿が見えなくても、あなたが死んだら誰かが悲しむということを覚えていてほしい。後悔してほしく、ないから」
私のように、と、おじさんは小さな声で付け加えた。
私がボロボロと零した涙は、アスファルトに次々と黒い点を作った。おじさんの流した涙は、アスファルトの色を変えることなく、消えた。
「…私、もう少し頑張ってみるよ」
真っ赤な鼻で笑うと、おじさんもほほ笑んだ。
「…契約の件ですが、料金は後払いです。それに、いつでも解約できます。
もしも自殺を決行するときは前もって、なみだ屋である私にご連絡ください。…止めに行きますから」
「なにそれ、結局死なせてくれないんじゃない」
私の笑い声が、温かな校舎の屋上に響いた。
その時にはもう、おじさんの姿は見えなくなっていた。