魔公子様の日常
直接的な表現はありませんが、さらりと残酷ですのでご注意ください。
「公子、敵襲です」
金髪の麗しき女性の報告は、言葉少なに、表情乏しく告げられた。それを玉座で聞いた男は、膝に乗せていた翡翠色のドレスの裾を広げて視線を寄越さない。
「そうみたいだな」
先ほどから外が騒がしい。たまに響く地鳴りにそんな気はしていたと、男はドレスの裾に掌を滑り込ませて頷いた。
「応戦してください」
「忙しい」
きっぱりと。告げた言葉は明確な意思がこもっていた。実はこの会話の間、というかどおんという音とともに場内が揺れたときから顔を青褪めさせていた黒髪の女は、するりと入り込んできた大きな掌にではなく、その態度に驚いて目を見開いた。
「公子…お戯れを」
媚びるようなその声を全く無視して、公子と呼ばれた男は女の首筋に噛み付いた。そんなときではないというのに、あ、と声が漏れる。
「俺は忙しい。お前が適当にしておけ」
「公子…なんてこと!」
悲鳴を上げたのは言われた金の髪ではなく、黒色の髪の女。今にも抱え上げられそうだった足を無理矢理に落として、上半身に力を込める。ぐい、と前のめりになった女に呼応するように、男の顎が反った。それからむ、と眉が顰められる。
「なんだ」
「なんだ、ではありませんわ。この城は公子のもの。貴方がお守りせずに、誰が守れると言うのです?あんな娘に任せてなど…そんな頼りない中、貴方に体はお任せできません」
女は、自分に大した力がないことを知っていた。あるのは生まれ持っての美貌のみ。力などなくても、自分の武器を持った女は強い。男という男を渡り歩き、そうしてこの地獄を生きてきた。庇護してくれる存在を絡めとり、用が済めば他の男を抱き込んで。その果てがここだと決めていた。そのつもりで近づいた。公子と呼ばれるこの存在がどれほど強大なのか、ここに住む者ならば知っている。震えぬ者などいない。
それを懐柔して、女はこの地位を築いた。そう簡単に手放すつもりなどない。
だからこそ、ここで男に戦ってもらわねばならなかった。
本人が強大な分、彼の敵もそれに匹敵する者だった。それを、常に公子に蔑ろにされている小娘などに任せて、逃れられるわけがない。
一番安全なのは、男が武器を手に取り戦ってくれること。そして、自分ならば。愛妾である自分ならばそうさせることができると確信しての言葉だった。
だが。
男は半眼に眇めただけだった。は、と短く哂って首筋に鼻を埋める。
「こ、公子!?」
「身の程知らずは嫌いでな」
低い声は、女の喉を震えさせた。
「床の才しかないのだから、どんなときでもそこで尽くせよ」
「な…!」
女の顔が朱に染まる。咄嗟に屈辱を受けたことだけは分かったが、それ以上に理解が進まなかった。何より、自分の手管に堕ちていなかったと、見誤ったことが尚衝撃を増した。
唇が震える。
「わ、わたくしは…」
言いかけた女の言葉は、そこで一生途切れることになった。身体を起こした男が女の視線と捕らえる。そこにあるのはいつも見る飄々としたものではない。欲情を孕んだ熱もない。
「お前の価値はそれだけだろう?」
冷めたその瞳は、侮蔑の視線を女に寄越していた。肩が震える。真っ黒の闇に見つめられ、女は男の膝の上から転げ落ちるようにして降りた。大した高さでもなかったのに、床で打った全身がビリビリと痺れる。痛くもないのに体が上手く動かない。
それでも逃げようとした。逃げる場所などないと知っていても、体は認めることを拒絶した。何故なら女は知っていた。この瞳に晒された者の末路を。少ない時間ではあったが玉座近くにいることを許されてから、何度も見た。間近で。
同じように哂っていたのだ、自分も。
とにかく男から遠ざかろうとして、必然、広間へと繋がる階段へと身体を向けた。段差に倒れて打たれる身体が痛い。だが、かまってはいられない。
数段降りたところで、きらきらと輝くものが目に入った。
公子を呼びに来た女。金色に輝く髪と紫の瞳は珍しく、それは公子の気に入りなのだと、城に上がってすぐ聴いた。湧き上がった危機感は、公子の態度により駆逐された。自分を女として扱う十分の一ほどの熱も、彼女には向けられていない。珍しい玩具でも扱うようなその態度は、逆に女の自尊心を満足させた。
公子が玉座で自分を抱くようになっては尚更だ。公子に愛されている上に高みから見下ろす快感。一時前まではそのはずだった。
「助けて…!」
今は惨めたらしく懇願している。いつだって優越感しかなかったモノに願うこの屈辱。だがそんなものとは比べ物にならない。何に縋ってでもこの場から逃げ出したい。
伸ばした手は、傷ひとつなかった。傷になるようなことなどひとつもしてこなかった。それが自分の誇りだ。これからもそうなるはずだった。
「や…」
声が引き攣る。悲鳴になる。女はその恵まれた容姿のおかげで衣食住に困ることがなかった。いつでも庇護してくれる存在があったから、憎悪に身を焦がすこともなかった。恐怖もなかった。ただ悪意だけは厳然と存在して、けれどそれは当然の成り行きで。
だから必死になることなどなかったのだ。
喉も裂けんばかりに叫ぶことなど。
「…ああ、全く」
男は呟く。足元には血溜まり。綺麗な赤はその中で倒れる女によく似合っていた。それを見てしまうと早くこうすべきだったと思う。だが同時に、もう少し後でも良かったはずだと思うのだ。
「全く。いい身体をしていたのに」
次を探す間、自分はどうすればいいというのだ。憤慨して男は身を翻した。
「どちらに行かれます?」
「決まっている」
聞いてくる金髪の女に鼻息荒く応じて、男は鋭い犬歯を見せた。
「エルゼバブにこの代償を払わせる。向こうの女でも攫ってくる」
「エルゼバブ様の?―――公子とは、趣味が合わないと記憶していますが」
真顔で言う女に、男は思い出したように顔を顰めた。
「ああ、そうだった。では八つ裂きくらいにしおくか。それとも奴の女も殺すか?」
「ご随意に」
女を従えて、男は広間を後にした。
本当はコメディの序章として考えていたものなんですが、これだけ抜き出すと人でなしにも程がありますね。
とはいえ、「魔界」なんだからこれくらい殺伐としてないと…ということでご了承ください。