第23話 朝と異物
― エリオ視点 ―
寮から校舎へ向かう道は、朝の匂いが薄かった。
空気が冷たい。けれど澄んでいる。
足音が、いつもより多い。
誰も走ってはいないのに、歩幅だけがそろっていない。
中庭へ抜ける手前で、声がした。
「エリオ、今日は早いのね」
振り向くと、ユイがいた。
制服はきちんと着ているのに、どこか寝不足みたいな目をしている。
「……たまたま」
「ふぅん」
それだけで会話は終わった。
終わるはずだった。
中庭に入った瞬間、空気が違った。
人だかり。
輪の中心は見えない。見えないように、誰かが動いている。
「おい、聞いたか……」
「例の変な人、死んでたって」
「うそだろ」
「ほんと。教師が隠してた」
声は小さい。
でも、同じ言葉が何度も繰り返される。
教師が一人、輪の外側で手を上げていた。
「危険である。下がれ。教室へ行くのだ」
「見物は無用。今すぐ移動せよ」
強い語尾。硬い声。
それで押し切るのが、この学園のやり方だ。
生徒たちは、文句を言わない。
言い切らないまま、ぞろぞろと動き出す。
輪は解ける。
中心は見えないまま、処理だけが進む。
俺も流れに乗ろうとして——
ふと、視線が横から刺さった。
「あの人と……一緒にいたよな」
「昨日も見た、図書室の……」
小さな声。
目線が、ユイへ向いて、すぐに逸れる。
ユイは気づいているはずなのに、顔色を変えない。
変えないというより、動かない。
そのとき。
中庭の木々のあたりから、人が一人、歩いて出てきた。
生徒でもない。教師でもない。
けれど、昨夜の“変な人”とも違う。
布が重なった服。袖。帯。
この世界では見ない形なのに、俺は知っていた。
前の世界の記憶が、先に名前を出す。
——和服。
喉が鳴る。
その人物は、木陰から出ると、立ち止まった。
ユイと、生徒たちのあいだ。一定の距離を保って。
若い女だった。
髪は明るい色で、顔立ちは整っている。
笑っているのに、場の温度が下がる。
教師が一歩踏み出しかけて、止まった。
踏み込めない。
理由は分からないのに、身体が拒んでいる。
女は中庭を一度だけ見回し、軽く首を傾げた。
「……へぇ。朝から人だかり」
「この集まりって、あの死体のことでしょ?」
ざわめきが走る。
誰も答えない。答えられない。
女は気にしないまま、視線をユイへ戻した。
ユイが、かすかに息を吸った。
「……神原」
その名が落ちた瞬間、周りの空気が固まった。
神原は、楽しそうに笑う。
「久しぶりね。結衣」
呼び方が、近い。
距離の近さが、逆に寒い。
神原は、まっすぐ言った。
「迎えに来たの。こっちにおいで」
「あなたの力が必要なの」
ユイは一歩も動かない。
「……瀬奈は?」
ユイの声が、少しだけ揺れた。
神原は、ためらわずに言う。
「瀬奈は死んだよ」
それだけ。
説明も弔いもない。事実だけが刺さる。
ユイの唇が、わずかに歪む。
「私は……行かない」
短い拒絶。
神原は、ふっと肩をすくめた。
「そっかぁ。じゃあ——」
言いかけて、わざと周りを見渡す。
生徒。教師。視線。沈黙。
「ここ、居心地いい?」
「今朝のこと、誰も説明してくれないのに?」
「あなたがここに立ってるだけで、もう“無関係”じゃいられないのに」
言葉は軽いのに、音だけが重い。
ざわめきが戻る。
小さく、嫌なざわめき。
教師が歯を食いしばって前に出ようとする。
でも、足が止まる。
近づけない。
ユイと神原の周りだけ、見えない境界があるみたいだった。
半径十歩、いや、それ以上。
神原は教師の方へ目を向け、息を吐いた。
「……はぁ」
指先を、軽く鳴らす。
その刹那、空気が歪んだ。




