第19話 静かな夕刻と踏み込まれる距離
放課後の空気は、昼とは違う。
人の気配が、薄い。
廊下を歩く音も、遠くで反響するだけだった。
俺は机に向かい、今日の記録をまとめていた。
学園指定のノート。
雑務の内容、巡回の順、気づいたことを簡潔に書き留める。
今日の役目は、もう終わった。
ペンを置き、少しだけ間を空ける。
──こっちにも、書いておくか。
黒い表紙を開き、見開き右の白い紙に、私的な記録を書き足す。
事実だけ。
感想は、いらない。
そのときだった。
気配。
誰かが、いる。
それだけじゃない。
一瞬、圧のようなものを感じた。
視線を上げると、少し離れた机に、ユイがいた。
姿勢を崩さず、静かにノートを見ている。
……書いている、というより。
視線が向いているのは、
書いた行ではなく、別の場所──。
黒い紙。
そう思った瞬間、視線が合った。
「……あ」
ユイは、わずかに瞬きをしてから、口を開いた。
「ごめんなさい。驚かせたかしら」
声は落ち着いている。
丁寧で、控えめな調子。
「いえ」
短く答える。
沈黙が落ちる。
だが、居心地が悪いわけではなかった。
「あなたが、エリオさんね」
「……そうです」
「私はユイ」
それだけ言って、軽く会釈する。
目立たない所作。
わざと、そうしているようにも見えた。
「放課後に、よくここに?」
「ええ。静かだから」
理由は、それ以上語られない。
俺も、深く聞かなかった。
だいたい、こういう時は。
言葉を重ねない方が、長く続く。
そういう場面を、知っている気がした。
その静けさを破ったのは、
軽い足音だった。
「いた!」
弾むような声。
「やっぱりここだと思ったわ!」
ミレイアが、迷いなく近づいてくる。
「エリオ、探したわ。もう部屋に戻ったかと思ってた」
「記録を、少し」
「真面目ね。そこがいいところだけどね」
そう言ってから、視線が横にずれる。
「……え?」
ユイに気づいた瞬間、表情が変わった。
「え、え? 誰?」
「同じ学園の方よ」
ユイが、先に答える。
「ユイです。少し、お話を」
「……へぇ」
ミレイアは一拍置いてから、にこりと笑った。
「エリオが、美人と二人。
……ねえ、もしかして付き合ってるの?」
「違います」
即答だった。
「早っ」
「そういう関係ではないわ」
ユイも、静かに否定する。
「ふーん……」
ミレイアは二人を見比べてから、肩をすくめた。
「まあいいわ。邪魔しちゃったなら、ごめんね」
「いえ」
「今日は、これで失礼するわ」
立ち上がり、軽く会釈する。
その動きに、迷いはなかった。
去り際、もう一度だけ、
黒い表紙に視線が落ちた気がした。
気のせいかもしれない。
ユイが姿を消すと、空気が少し変わった。
「……ねえ」
ミレイアが、声を落とす。
「エリオ、あの子。ちょっと不思議じゃない?」
「そうですか」
「うん。なんていうか……静かすぎるのよね」
俺は答えなかった。
ただ、机の上の帳面を閉じる。
今日も、特別なことは起きていない。
少なくとも、そう見える。
それでも。
静かな日常に、
確かに、別の距離が入り込んだ。




