第11話 噂と歪み
朝の空気が、少し違った。
ざわついている、というほどでもない。
ただ、声の向きが揃っていない。
「聞いた?」
「いや、それは違うって」
「上級生が三人とも――」
断片だけが、廊下を流れていく。
誰も、言い切らない。
俺は通路を歩く。
昨日も通った道だ。
……違う。
足が止まる。
壁際。
床に、わずかな染みが残っていた。
拭き取られた跡。
それでも、完全には消えていない。
赤。
いや――淡い。
血にしては、妙な色だった。
乾いている。
新しくはない。
誰かが、ここで何かあった。
それだけは分かる。
「エリオ?」
振り向く。
ミレイアだった。
いつもの距離。
いつもの声。
「どうしたの? ぼーっとして」
「……いや」
「噂、聞いた?」
言葉は軽い。
でも、視線が一瞬だけ、通路を確かめている。
「なんか物騒だよね」
「そうだな」
「……気のせいかな」
そう言って、ミレイアは笑う。
少しだけ、作ったみたいな笑い方だった。
そのまま歩き出す背中を追う。
もう一度だけ、床を見る。
淡い染み。
血だとしたら、変だ。
昨日と同じ。
今日も、何も起きていない。
――たぶん。
そこまで考えて、やめた。
「知っている」という感覚だけが、残る。
教室に入ると、担任がすでに立っていた。
「今朝、学園内で小さな騒ぎがあった」
声は落ち着いている。
事務的だった。
「関係する生徒については、すでに対応している」
それだけだった。
説明はない。
質問の時間も、設けられない。
黒板には、いつも通りの予定が書かれている。
授業は始まり、板書は進む。
誰も、さっきの話を口にしない。
休み時間になっても同じだ。
噂は、もう形を変えていた。
「夜の廊下で変な音がしたらしい」
「魔導具の暴走だって」
「いや、誰かが勝手に……」
どれも、確証はない。
けれど、誰も真実を求めていない。
求めない方が、楽だからだ。
昼休み。
中庭は、いつも通りだった。
笑い声。
食事の匂い。
変わらない光景。
――変わらないふりをしている。
俺は人目のない場所へ移動し、鞄から帳面を取り出す。
白いページを開く。
書くべきか、迷う。
それでも、ペンを動かした。
・通路に痕跡あり
・説明なし
・処理済みとされた
それだけを書いて、閉じる。
黒いページは、見なかった。
見たところで、何も浮かばないと分かっている。
学園は、静かだった。
整っていて、正しくて、安全そうだ。
その静けさが、俺にはひどく不自然に思えた。
誰も声を上げない。
誰も説明しない。
何も起きていないことにして、
日常だけが続いていく。
俺は、ただ歩く。
この場所が、
本当に俺たちを守っているのか――
その答えは、まだ書けなかった。




