二 集う四夫人の腹のうち(2)
水盤には新しい蓮の花が浮いていた。
銀雪は白い頬を仄かに染めて、寝台を整えてくれる。紅槿は昼と同じ茉莉花茶を淹れ、お茶会で余った月餅を用意していた。しかしそれは銀雪に見えないように、である。
荷花は丁寧に布団のしわを伸ばしている銀雪を呼び寄せる。そして彼女の手に一つ握らせた。
銀雪は手のひらに乗せられた小さいわりに重みのあるそれをまじまじ眺め、そして目を瞠った。声に出そうとするので荷花は口元に人差し指を当てる。
「今日もご苦労さま。これはお部屋に戻ってからこっそり食べて」
「そんな……いただけません」
ひそめられた声にも遠慮が滲んでいたが、荷花は構わず受け取らせた。
「私月餅が大好きなのよ。それは特別胡桃が入っていてね、とてもおいしかったから銀雪にも食べてもらいたいの」
「胡桃、ですか?」
「嫌いだった?」
銀雪は必死に首を横にふる。
「苦手なら食べなくてもいいけど、遠慮なら必要ないわ」
「わかり……ました。大事にいただきます」
銀雪は両手で包み込むと、紅槿に名を呼ばれてぱたぱたと部屋を出ていった。
それと入れ替わるように沙藍がやってくる。紅槿は沙藍から目くばせを受け取ると、部屋に二人だけを残すようにした。
荷花は用意された茶器を手に、椅子へ座るように促す。
沙藍は椅子に腰を下ろすと、皿に乗せられた月餅に目を付けた。
「……珍しいな。後宮ではめったに見ない」
「そうなのですか? 庶民の食べ物だからかしら」
「おそらくそうだな。しかしいくら金はあれど、民が食すものをその上に立つ人間が知らぬのは問題だ」
骨ばった指が月餅をつまみ上げる。荷花は楊枝を差し出すか迷ったが、このように菓子をつまむ沙藍もめったに見られないだろうと黙っておいた。
一口で月餅の半分が消えてゆく。
(男の人って誰でも一口が大きいものね)
しばらく咀嚼し飲み込むと、残りもすっかり胃袋に収めてしまった。茉莉花茶で満たした茶器も差し出すと、ゆっくり啜り始める。
そしてはたと何か思い出したように、手を止めた。
「画材は届いたか。小さな官女に預けたはずだが」
荷花はすっかりお礼を言い忘れていた。
「あ……ええ、お礼を言うのが遅くなりました、ありがとうございます。とても嬉しかったです」
「そうか。できる限り高級なものを揃えたのだが、気に入ってもらえたなら何よりだ」
「やっぱりそうだったのですね。特に瑠璃は高かったのではありませんか?」
「ああ、棕瓜──宰相は粉にして絵に使うのはもったいないとぼやいていたな」
荷花は肩を揺らして笑った。
ごく一般的な意見だ。絵を描かない人から見れば、柘榴石や真珠に並ぶ石を砕くのは信じられない行為に違いない。
「余は絵に疎い故、宰相に言われて知ったのだが……ああいった石をすりつぶして絵に使うのか」
「はい。膠と混ぜて絵の具に」
「すごいな、絵を描くまでにかなりの時間を費やしそうだ」
「まあ……そうですね。でも下準備を念入りにすればするほど、絵の完成度は高くなって長持ちするんです。絵を描くまでの過程を大切にしてこその絵師ですから」
荷花が胸を張って言うのに、沙藍は感心して息を吐く。
そう、忘れてはいけない。荷花は都合上皇后を下賜されただけであって、役目は別にあるのだから。
「そなたはやはり絵師なのだな」
何をいまさら。荷花は丸一日筆を握っていない手を見下ろして呟いた。
「当たり前です」
荷花が茶器を揺らすと湯気が一筋立ち上る。それはゆらりと軌道をくねらせ空気へ溶ける。
一息ついたところで、沙藍はちらりと扉の外を気にしてから口を開いた。
「今日、華流苑で茶会を開いたそうだな」
「ええ。月餅と茉莉花茶はその時に出したものです」
「……燎貴妃は不服そうだったろう」
荷花は頷いた。
しかし沙藍は荷花の想定外にも、むっと唇をすぼめる。
「他の女の話はするなとは言わんのか」
「言いませんよ。言う必要もありませんし……そもそも私は今日、彼女に関する話をするつもりだったんですから」
「面白くないな」
(面白くない?)
沙藍は荷花に何を求めているのだろう。
ここで恋心を生んでも、荷花が幸せになれるとは思わない。荷花は主上の妻になるために後宮に来たわけではないのだから。
荷花が沙藍の様子をちらりと見遣ると、窺うような目つきに気づいてしまった。
(からかってる? それとも……)
嫉妬してほしいなら、相手にすべきは自分ではない、と荷花は思う。荷花は一つ咳払いをしてから膝の上に手を揃えた。
「ご安心ください。私自ら『後宮の呪い』を生み出すような真似はいたしませんから。……さて、燎貴妃の話に戻しますが」
荷花のひそめられた声に沙藍は目の色を変える。そして自然と伸ばされた背筋に、荷花は話題を切り出した。
「『後宮の呪い』が人に与える影響は具体的にどういったものなのですか?」
「人に与える影響、か……。主には心の病を引き起こすと言われているな。心の病にかかった者は人を忘れて、ありもしない嘘を吹聴したり権力者をそそのかし、火種の原因となり得る」
沙藍は言葉を止め、表情に翳りを見せた。わずかにひそめられた眉に荷花は息をのむ。
「余に兄弟がおらぬのはそれが原因だ。『後宮の呪い』の影響で国家転覆を目論む人間が現れ、巻き込まれた者は余を除いて皆、流罪か死罪となった」
つまるところ『後宮の呪い』とは、人の弱い部分を増大させる装置と言ったところだ。荷花が絵を描くだけで危険が減るのなら、これほど安いものはない。
「直接的に害を及ぼすものではない、ということですね」
確認すると、沙藍は迷いなく頷く。
「そうだな。貴妃に何かあったか」
「……体調がすぐれないようです。咳が続いて、顔色の悪さも厚い白粉で隠しているそうです」
「妙だな」
荷花は同意した。そして燎貴妃の様子と『後宮の呪い』による症状を照らし合わせてふと思う。『後宮の呪い』によって心の制御が効かなくなった者が燎貴妃に《《何か》》盛っているのだとしたら。
(燎貴妃は被害者……?)
「もしかして……」
そのとき、荷花の言葉とほぼ同時に沙藍が立ち上がった。耳を寄せるように言われ、荷花は卓子に身を乗り出す。
「行こう」
「……薔薇宮に、ですか?」
頷く沙藍に荷花は首を横に振った。
「ご冗談を。もしばったり会ったら一貫の終わりです」
実際、荷花は先日の散歩で見事に遭遇してしまっている。
もし燎貴妃が荷花と沙藍が一緒にいるところを目撃すれば、冷やかしだと騒ぎにしかねない。いや、そうなる未来がすでに見えていた。
「会わないようにすればよかろう」
呑気な沙藍に荷花は眉を曲げた。
「そんなにうまくいくものでしょうか」
「では、そなたは見たくないのか」
何を。
聞かずともわかるそれに、荷花は額を抑える。
荷花の中では二つがせめぎ合っていた。『後宮の呪い』の見たさと、見つかったときの恐ろしさ。天秤にかけても揺らぎ続ける二択は荷花を悩ませた。
「……」
「『後宮の呪い』を見たくないのかと聞いている」
「み……見たいのは山々ですが、見つかったときの方がよっぽど恐ろしいです」
「確かに今から行くのは得策ではないな。夜半を過ぎてからにしよう」
荷花は勝手な決定に声を上げかける。
(行くなんて一言も言ってないけど⁉)
しかし『後宮の呪い』を目にしないことには、話は始まらない。
荷花は自身を納得させるため、言い聞かせることにした。
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