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一 後宮入りは前途多難(3)

 蓮の花は無事届いただろうか。


 荷花フーファは月の浮かぶ蓮池を格子窓から眺めていた。座している寝台は柔らかく、気を抜けばそのまま眠りに落ちてしまいそうだ。下がりかけたまぶたの奥で春の風に揺らぐ水面を捉えたとき、戸を叩く音によって意識が引き上げられた。


「……」


 紅槿ホンチンは荷花の脱いだ襦裙じゅくんを整える手を止めて、視線を寄越してきた。荷花はあくびを噛み殺して寝台から降りると入室を促した。


 扉の向こうに立っていたのは大きな包みを抱えた少女だった。昨晩、蓮の花を届けてくれた女の子だ。彼女は深々と拱手すると、鈴の鳴るような声で「お邪魔いたします」と言った。


「今日から側付きとなりました、銀雪インシュエと申します。皇后さまにお仕えできること、光栄に思います」


 十幾つに見えるのにずいぶんしっかりとした少女だ。荷花よりずっと良家の生まれらしい。


「荷物は卓子つくえに置いてちょうだい。銀雪、今日からよろしくね」

「はい……!」


 荷花が微笑みかけると、銀雪は再び深々と腰を曲げた。銀雪に椅子を進めて紅槿には茶を淹れさせる。三つの席が埋まったところで荷花はゆったりと足を組んだ。


「その包みは?」

「あ、これは」


 銀雪は細い腕で荷物を荷花の近くへと押しやった。開けるよう促すので、荷花は結び目に指をかける。布の下は大きな木箱で、中央に蓮の焼き絵がされていた。

 蓋を持ち上げると、中には高級な画材の数々。荷花は特に青い小粒の石が詰まった小瓶を掴んで声を上げる。


瑠璃るりだわ!」


 荷花が思うより大きくなってしまった声に、銀雪はびくりと肩を震わせ、紅槿は荷花をじっとり睨む。荷花は集まる視線に咳払いをするが、興奮は押し殺し切れていなかった。頬が緩んで仕方ない。


「この瑠璃というのはね、真の群青を作ることができるの。藍銅鉱らんどうこうという比較的安価な石からでも作れるのだけど、そっちは紫を帯びていて群青を名乗るには一歩足りない……って感じね。絵を描く人なら人生で一度でも瑠璃の群青で一枚描いてみたいものなの。無茶でも言ってみるものね!」


「……荷花さまは絵が本当にお好きなんですね」


 銀雪は勢いに気圧されながらも荷花の手の中で揺れる石の粒に目をやった。


「ええ! ここに来る前は筆を握らなかった日は……」


 睨む目が一層鋭さを増して皮膚を突き刺す感覚に、やっと荷花は回る口を止める。


「と、ともかく、これは主上がご用意くださったものなのよね? 持ってきてくれてありがとう。重かったでしょう」


 ほら、と茶を勧めると、銀雪は細い指先で掬うように茶器を持ち上げた。


 荷花はそのうちに小瓶を木箱の中に収めて蓋をした。続きは夜、一人になってからだ。このままではさらに銀雪を動揺させるだけ。

 荷花も茶器を手に取ると一口茶を含んだ。


「少し勢いには驚いてしまいましたが……それだけお好きだということですよね」


 銀雪のささやかな上目遣いに荷花は頬を緩めて頷く。


「木箱の下に、小さく切った絹紙が包んで敷かれているはずです。よろしければ絵を少し見せてくださいませんか?」

「……それは」


 銀雪は荷花に気遣ってくれたのだろうが、その願いに応えることはできなかった。現在後宮で荷花の力を知っているのは沙藍とその周囲の数名、そして紅槿だけ。

 道士の札がなければ描いたものはすぐさま動き出してしまう。荷花は眉を下げた。


「ごめんなさいね。私、主上から描くものには制限を受けているのよ。だからここで好きに描くわけにはいかなくて」

「……申し訳ありません! 軽率に描いてほしいなどとお願いをして、不躾でした。どうかお許しください。せ、せめて首だけは……!」

「そんな、やめてちょうだい!」


 銀雪は箱入りの象徴のような白い顔からさらに血の気を引かせると、すぐさま卓子に額を擦り付ける。ごめんなさいと何度もなんども繰り返すので、荷花は銀雪の肩に手を優しく添えた。


「大丈夫よ。許可が下りたらいくらでも描いてあげるわ。むしろ誰かのために描くことが荷花としての生き甲斐だから。ね?」


 尋常ではない謝り方だ。今にも殺されるのではないかという怯えを超えた恐怖を顔いっぱいにして、銀雪は荷花に許しを乞うた。

 顔を上げた銀雪の大きくきれいな瞳からは涙がぽろぽろと溢れ出している。


(良家の姫のようだと思っていたけれど……)


「銀雪、今日は疲れているのよ」

「……」

「お早めにおやすみなさい。明日から、また頑張ってちょうだいね」


 銀雪は紅槿に背中を押されて退室した。室内には荷花と紅槿が残り、荷花は頬杖をついて額を抑える。


「繊細な子です。荷花さまはお気になさらず」

「……あれを見て気にするなと言う方が無理よ」


 普通に生活しているだけで、『後宮の呪い』に関係していると思しきものが浮上してくる。


「一つ言っておくならば」


 紅槿は上に一枚羽織りながら口を開いた。

 春の夜はまだ寒さが残る。いとまの合図に荷花は椅子の背に体を預けながら首を傾げた。


「銀雪はリャオの分家に養子として迎え入れられております。ここでは宮女をやっておりますから姓を知る機会こそありませんが」

「燎貴妃の御実家?」

「の、分家です」


 燎家は現当主の三代前が商業で大成し、分家も直系と変わらない程潤っていると聞いた。養子を受け入れ、その上に後宮に働きに出すとはかなり先を見据えた行動である。もし何らかの理由で燎貴妃が後宮を出るとなったとき、次に皇帝へ差し出されるのは銀雪になる可能性が高い。


 とはいえあの怯えようは。


 燎家には少なくとも何かあると考えた方がよさそうだ。


「……荷花さま」

「え?」


 紅槿に名を呼ばれ、荷花は顔を上げた。紅槿のじっとりと睨むような視線は荷花の指先に向けられている。荷花もまたその視線を追って己の手を見ると、そこには瑠璃の小瓶があった。


「……」

「こっ、これは違うのよ! 手が勝手に……」

「お一人でにやにや笑うのはお好きになさってください。しかし夜更かしだけは皇后とはいえお許しできません」

「だ、大丈夫!」


 荷花はあわてて木箱を閉じ、さらに布で包み込んだ。それを荷花からずっと遠い場所へと移動させると、ぱっと手を離す。


「ね?」

「……。ではおやすみなさい、荷花さま」

「え、ええ! 紅槿もお疲れさま!」


 ひらひらと手を振ると、紅槿は疑いの目を残しつつも扉を閉めた。荷花は冷や汗を浮かべながら、包みを蓮の浮かぶ水盤すいばんの隣に置く。

 確認に戻ってこないかとしばらく扉を見つめた後、荷花は寝台に腰を下ろしてそのままごろりと上半身を倒した。天蓋てんがいを眺めながら零した長いため息が空気に溶ける。


「……これ以上厄介な問題が出てきませんように」


 明日の昼には、四夫人を集めたお茶会が開かれる。


 伏せただけのつもりだった瞼は、荷花を夢の中に連れ去った。

ブックマーク等ありがとうございます!

カクヨムにて"先行公開中"ですので、ぜひお立ち寄りください。

よろしければカクヨムでも評価を入れていただけると嬉しいです!


https://kakuyomu.jp/works/16818622173777742131

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