序 庶民の私が皇后(仮)ですか?
不運続きだ。
桔荷花は必死の形相で街中を逃げ回っていた。
抱きかかえている相棒の画材が今は酷く憎い。こんなもの、と投げ捨ててしまいたかったが後で後悔する己の姿が脳裏に浮かんでできなかった。
ともあれ、荷花は曲がり角をひたすら曲がり、何度目かの鬼ごっこで身に着けた逃走術で視界を切り続ける。
けれども金の絡む怒りとは執念深かった。
「金を返せ、この詐欺絵師が!」
声はすぐそこまで近づいている。
ヒュッ、という菜切り包丁が鋭く空気を切り裂く音に身震いをする暇もなかった。
街をゆく人々が生きるか死ぬかの逃走劇を他人事のように見守っている。
ああ、今日が私の命日なんだわ。
朝、荷花は家族に今月分の生活費を工面しないと家を追い出すという脅迫をされたばかりだった。そして今荷花の手持ちは小銭が数枚。
包丁を持って鬼の形相で荷花を追いかけているお客が後払いを拒否したからだ。
逃げ切れたとて、路頭に迷ってしまえば生活力皆無の荷花は終わりだ。
(私はただ絵を描いて売って、生きていきたいだけなのに……!)
それもこれも──。
「絵が逃げ出すなんて馬鹿な真似あるか!」
「でも納品の時にはちゃんと馬の絵を確認したでしょ⁉」
「俺を騙して金だけ巻き上げるためにすり替えたんだろう!」
荷花は宮廷絵師だった父親の血を受け継いで、絵の評価は高かった。
がしかし、荷花が草花を描けば紙の中で揺れ動き香を漂わせ、動物を描けばこちら側へ飛び出してしまう。さすれば空っぽ絵巻の出来上がりというわけである。
無論、荷花は妙な力を黙って依頼を受けたわけではない。父からはあまり言うなと釘を刺されているが、このことを伏せておくのは不誠実というもの。
だから納品物には近所の道士からいただいた札を張り付け、決して剥がしてはいけないと忠告までした。
剥がしたのはお客人の不注意だというのに、これは理不尽というものだろう。
荷花は大通りに多くの人が集まっているのを見た。これなら、と人混みに紛れ込むことを考え付く。
しかしやけに人が多い。
(お祭りか、臨時の市でも開かれているの?)
そう思って荷花は脇目もふらず大通りへ飛び出した。
「きゃっ」
背後からの追手を気にしていたあまり、荷花は誰かの足に引っ掛かって道の中央に転がり出た。
その拍子に抱きかかえていた包みの結び目がほどけ、ばらばらと道に散らばってしまう。
「いたた……。……ああっ、もう!」
すっと目の前に見えた木沓にふと見上げると、目に映った顔に唖然とした
なんてきれいな顔をしているのだろう。
配置には寸分の狂いもなく、造形から人間らしさを消したような欠点のなさ。しかし表情の機微が顔に様々な色を加えている。
描きたい。
長年筆を握り続けてきた絵師としての矜持が、荷花の中にある芸術中枢を揺さぶっていた。
「無礼もの! すぐに離れよ、高貴なるお方ぞ!」
側についていた二人の護衛は一歩前に出ると、荷花の前に棍棒を十字に交差させた。
荷花ははっと我に返り、彼の側に転がっている自身で柄に彫りを施したお気に入りの筆に目を止める。
「ちょ、ちょっと待って……その高貴なる方の足元に私の絵筆が……」
「知らぬ!」
こんなことをしている場合ではないのに。
護衛に押しやられ、荷花は冷や汗を流した。そんな荷花を見てか、彼は足元の筆を拾い上げると柄の彫刻を優雅に眺め、荷花へ差し出した。
「絵が逃げ出すなんて嘘つきやがって、あの女どこ行ったー!」
その時、追手の怒号が荷花の耳朶を震わせる。
「もう来たの⁉」
「なんだ、そなたは追われているのか。それに『絵が動き出す』……とは」
怒り狂った叫びを彼も耳に入れたのだろう。
不思議そうな表情で荷花を見下ろしていた。
「ええ、そうなのよ! もたもたしてたら殺されちゃう……筆を拾ってくれてありがとうございます!」
そして再び逃げようと踵を返すが、
「待て」
無念にも呼び止められてしまった。
やきもきしながら荷花が振り返ると、男性は護衛に耳打ちをしている。護衛は一瞬目を瞠るが、すぐに棍棒を構えなおし荷花を高貴なるお方へと押しやった。
「ど、どういうこと……? 私、早く行かないと」
「只事ではないと見た。余が助けてやると言っているのだ。甘んじて受け入れておけ」
余、という一人称に荷花は嫌な予感を覚えた。やけに質のいい紗をまとっていると思っていたが、もしやこの方は。
いつの間にか荷花は自分がとんでもなく視線を集めてしまっていることに気づく。
どうして私は普段から政治について学んでおかなかったのだろう。
絵を言い訳に逃げ続けてきたことをひどく後悔した。その知識さえあれば、この人が国の頂点に立つお方なのか否かだけでも、わかったというのに。
「どこ行きやがった、あの女!」
荷花はお客の声にびくりと肩を震わせた。視線を巡らせていると、角から飛び出してきた男の姿を捉える。
「……っ」
包みを抱えて後ずさると、そっと肩を抱き寄せられ荷花は体を縮こまらせた。
しばらくして荷花を見つけた追手は、再び怒りをあらわにして駆け寄ろうとするが、荷花がされたように棍棒を目の前に交差され動揺を見せる。
「どけ! その女は詐欺師だ!」
ざわざわと見物人たちがささやき合う。
「真か?」
肩に添えられた手が緊張するのを肌で感じ、荷花はすぐさま首を横に振った。
「わ、私は言ったはずよ。絵の裏の札をはがせば描いたものが飛び出してしまうから、絶対に剥がさないで、って……!」
「なに?」
「う……嘘は言ってないわ!」
肩を掴まれている手に力がこもっている。ひしひしと伝わってくる圧力に荷花は足を踏ん張って必死に事実を告げた。
「私はきちんと依頼をこなした! 絵を逃がしてしまったのは貴方の不注意だけど、私は後金を求めなかったでしょ⁉」
「ふむ……傍から聞いていれば、余は娘の言うことが嘘には聞こえんな」
押し問答の最中に繰り出された独特の一人称に、男は瞠目して手に握りしめていた包丁を落とす。そこからは早く、男はすぐさま膝を折り、額を地面に擦り付けた。
見物人たちはどよめくこともなく、その状況を受け入れている。
(やっぱり)
荷花はやんごとなきお方に庇われてしまったのだと知る。
「申し訳ございません! どうか死罪だけはご勘弁を……!」
「よい。去れ」
男性はひいと情けない悲鳴を上げて、包丁を置いて走り去っていった。
「さて」
荷花は唇を震わせて、肩を抱き寄せられた手、それから美の具現ともいえるご尊顔を見上げる。
「余はそなたに興味がある。殿に来てはくれんか」
「い……今からでしょうか、主上……」
「勿論、逃げられては困るのでな。『絵が飛び出す』とは如何様なものか、余に話してもらおう」
主上──この沃国の頂点に座す皇帝・漣沙藍は、興味津々と言わんばかりの表情で荷花の顔を覗き込んだ。
曲線が滑らかな彫刻の椅子の座面にはきらびやかな緞子が張られている。
部屋の隅には瓔珞が垂れ下がっており、人の出入りの度にきらめいていた。
離宮だというのにこの装飾の量。荷花はできる限りものには触れないように行儀よく膝の上に手を揃えて座る。
「さて、聞かせてもらおう。そなたの『絵が飛び出す』とやらを」
なぜそこまで嘘のような話に興味を示せるのだろう。
荷花は首を傾げたくなったが、ぐっとこらえて頷いた。
「そのままの意味、私が描いた絵は勝手に動き出してしまうのです」
「ふむ。それはいつ頃からだ」
「確か、初めて絵を描いた日からだったはずです。近所の道士の方から札をいただいて、それを絵の裏に張り付けることでなんとか動きを止めているのですけど……」
沙藍は荷花の話に相槌を打つと背後に控えていた男性を呼び寄せた。
そしてしばらくして運ばれてきたのは上質な絹紙と墨と筆。
「そこに何か描いてみよ」
「え?」
「嘘でなければ描くことができるであろう」
(落書きのためにこんな高級な画材を?)
荷花はせっかくならば顔料を用意して色を付けたいところだが、顔を上げると顎で指図されたので諦めて硯に水を垂らして墨をすり始めた。墨もまた、とろみや粒の大きさから高級さがひしひしと伝わってくる。
細い絵筆を握ると、墨を染み込ませた。
これほど揃った環境で描けるのも今のうちだ。
待たせない程度に堪能してから、紙に筆先を滑らせた。
伸びの良い黒の線は曲線と直線を使い分けで優雅に踊る。
しばらくすらすらと腕を動かしていればそこには今の季節にふさわしい、ウグイスが生まれた。細い枝にさらに細い足で立つ姿は春の風物詩というもの。
今まで書いた落書き──いや、水墨画の中で一番の出来だ。
「出来ました」
荷花が筆を置いたその時。
ウグイスは首を回して可愛らしくさえずった。かと思うと小さく羽をはためかせて春を告げる鳴き声を上げる。
瞬間、ウグイスは飛び立ち、ぬるり、と紙という名の境界を越えてきた。
飛び出したウグイスは狭い室内をしばらく飛び回ると、枝の代わりに瓔珞へと降り立つ。
「ほら」
荷花は白黒のウグイスを指さして、沙藍を振り返った。
沙藍は目を丸くして、白磁の茶器に手を触れたまま動きを止めている。そしてすぐに口の端に笑みを刻んだ。
「あれを動かすことはできるか」
向けられた視線に荷花は戸惑いつつぎこちなく頷く。
「ええ……はい。出来が良ければ良いほど自在に動きます。紙に戻すことはできないけれど……」
荷花は向けられた期待の目に身をすくめながら、そっと指をウグイスの方へ差し出した。
「おいで」
するとウグイス再び瓔珞の上で羽を震わせ、荷花の指先に細い小枝のような足を引っかける。
白黒で体毛もないが、荷花がウグイスとして描いたそれはウグイスに他ならない言動を取った。
「……如何でしょうか、主上」
荷花の尻すぼみになる語調に反して、沙藍の目は輝いていた。
(あら? この人ってこんな子供っぽい雰囲気だったかしら)
現皇帝の年齢くらい覚えておけという話だが、この様子を見ていると荷花よりも年下にさえ思える。
「そなた、名を何という」
「桔荷花です」
「『《《桔》》』?」
「桔暁鶯は父の名前です。ご存じでいらっしゃいますよね?」
沙藍はその名にわかりやすく驚きを示した。
「暁鶯の娘か! それは僥倖。棕瓜、すぐに手配をせよ」
そして背後に控えている男性と顔を見合わせて頷き合っている。棕瓜と呼ばれた男性は拱手を取ると、部屋を颯爽と出て行った。
「ちょ、ちょっと待ってください。何の話を……」
不穏な話の流れに荷花は青ざめる。
「案ずるな。そなたには余の妻となってもらうだけだ」
「そ、それは後宮入りしろということですか? 無茶な!」
「無茶ではない。国のために動いてもらう故、一時的にでも皇后の座についてもらう」
(しかも皇后⁉ それに国のためって何……⁉)
荷花は何が何だかわからなかった。
家名は悪くないだろうが、父が目を悪くしたという理由で宮廷絵師をやめてからは貧乏生活で、荷花も相応しい生活をしてきたわけでもない。
裕福であれば家から追い出すなど言わないはずだ。
荷花は幼い頃こそこまごまとした教育を叩きこまれてきたが、現在後宮におわす何十名にも上る妃嬪には遠く及ばないに違いない。
とんでもないことに巻き込まれてしまった。
荷花が頭を抱えるのは少し遅かった。
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カクヨムにて"先行公開中"ですので、ぜひお立ち寄りください。
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