第三章 覚悟
町の様子はもうすっかり変わってしまった。
ロードサージェントが指揮する緊急厳戒態勢の中、アリサの病気は噂が噂を呼んで根も葉もない解釈とともに人々の元に知れ渡り不安はどんどん膨らんでいく。それでも町から出る事は許されず、外部からの接触も断絶され、接触は許されない。
町に完全に町はシャットダウンされていた。
ただ、イレインとユナはそんな町の状況にも目もくれずにアリサの事だけを研究したおかげか、ようやく前進する事が出来た。ほんの小さくだが、希望が見えだしていた。
「イレイン。そしたらこれとこれを用意してきて」
「おいおいまたかよ。もうどこの店もやってねーから大変なんだぞ? 用意するもんはいっぺんに言ってくれよ」
「つべこべ言わずにとっとと行く! 時間はもう少ししか残されていないのよ!」
「わわわわかったよ!」
慌てて部屋から飛び出すイレイン。ユナはそれを座ったまま見送り、またテーブルに並んだガラス製の容器にスポイトで液体を垂らす。
もう既に薬の調合まで研究は進んでいたが、状況が状況なだけに必要な材料が集まらない。それに加えてなかなか町中で簡単に見つかるような物じゃないのもあるためにここでも足踏みさせられていた。
代用品となりそうなものもなく、その中のどれか一つでも欠けたら意味をなさないくらいシビアな製薬手順だった。
ただ、その効果は八十パーセントとかなり高く。完璧じゃないにしろ恐らく病状は和らいでくれる事には間違いなかった。後はその間に特効薬となるものを作れば良い。あわよくばこれで治ってくれるのが一番だが、それでも助けられる道筋はもう見えていた。だからこそ、ここで足踏みする訳にはいかなかった。
タイムリミットは明日の夕方。十七時二十一分。それまでに投与出来ればアリサは助けられる。
ユナは手を止めて、窓の外を眺める。後はイレインが持ってくる材料を待たなければ進めない。
「大丈夫……よね」
その質問は誰かに向けられたものではなく、自分に向けられたものだった。
だが、ユナはそれ以上は口を開かず、時折巡回で通り過ぎて行くロードサージェントから身を隠しながら、ほとんど人が歩いていない変わり果ててしまったザイバルの街並を眺めてイレインの帰りを待っていた。
「おらー! これで全部だろうな!」
イレインが威勢良く帰ってきたのは日暮れも近い頃。随分とかけずり回ったのだろう、イレインはその荷物をテーブルに置くとベッドへ倒れ込んだ。
「すごい……すごい! 流石イレイン! これで全部よ! 今からなら夜明けには完成させられるわ!」
きっとイレインでなければ見つける事が出来なかったであろう材料の数々。確率を調べては走り、必死に集めてくれた思いを絶対に無駄にはしない。ユナは早速、中断していた製薬に取りかかる……前に、寝息を立てているイレインに毛布をかぶせておいた。
ユナは焦る気持ちを抑えながら慎重に調剤していく。ミスを犯してタイムロスをするわけにはいかない。それでも迅速に手際よくやらなくては夜明けに間に合わせられない。ギリギリのバランスで神経をすり減らしながらユナはアリサの薬を少しずつ完成へと近づけていった。
「……出来たぁ……」
ユナの前に小瓶が置かれている。中には透き通った液体。一見、水にも見間違えてしまいそうだが中身は間違いなく、完成したアリサの薬だった。
ふと視線を投げた外は、もうすっかり白んできてしまっている。ゆっくりしている時間はない。ユナは頬を両手で叩いて覆面を被るとイレインを叩き起こした。
「出来たわよ! ほら! 行くわよ! 夜明けが一番潜入出来る確率が高いんでしょうが! ほら! 早く! ほらほらほら!」
ユナは乱暴に揺さぶりながら起こすが、イレインは一向に目覚めない。こうしている時間も惜しい状態だと言うのに呑気に寝息を立てながら笑っているイレインを見てユナはだんだん腹が立ってきた。
距離を取って深呼吸。そしてベッドへ飛び込んだ。
「おらーー!」
「あがーーーーっ!」
体重を乗せたエルボーアタックが見事に鳩尾を貫いて、イレインは夢の世界から一気に呼び戻される。だが、突然降り掛かった苦痛と上手く呼吸が出来ないせいで動き出すには結局、時間がかかってしまった。
「まったくもう! 何やってんのよ!」
走りながら横で尚も文句を言い続けるユナにイレインは反論しない。起こし方に問題があったなんて口が裂けても言えない。
「ストップ。やっぱりこっちだ」
曲がり角を引き返して、別の路地へ入る。ロードサージェントの目をかいくぐりながら病院を目指すにはかなり時間を要した。行っては引き返し、また別の路地へ。少し止まってまた走り出す。
ロードサージェントの包囲網をかいくぐるなんて普通じゃ考えられない。だが、確率を見れるイレインにはその僅かな隙間を縫う事が出来る。それでも、かなり慎重に動かないと直ぐに見つかってしまうので注意は怠らなかった。どんなにユナから文句を言われようとも頭の中はしっかりと冷静だった。
ここにいるロードサージェントは四番。
イレインは絶対に見つかるわけにはいかなかった。
「ユナ。ここからが本番だぞ」
茂みの中から、アリサがいる病院を覗きイレインは後ろに振り返る。ここまで来るのに随分時間も手間もかかったのに、これが序の口だと言われると一体いつになったら辿り着けるのかと気が遠くなる。ロードサージェントの目を当たり前のようにかいくぐっているこの状況がどれだけイレギュラーな事なのかと言うのが痛い程分かるセリフだった。
「もうお昼過ぎになっちゃってるわよ。本当に間に合うの?」
ユナはたまらず、らしくもない事を聞いてしまう。時間がないのに時間をかけて進まないといけない状況にジレンマを感じていた。
「間に合うか。じゃなくて、間に合わせるんだ。絶対に」
イレインは前に向き直る。力強いその言葉。ただ、それもイレインらしくない言葉だった。いつもなら「間に合うよきっと」なんて楽観的な事を言って余裕しゃくしゃくで間に合わせていたと言うのに、まるで自分に言い聞かせるように放った言葉はやはり今のままじゃかなり厳しい状況だというのが伝わってしまった。
「よし! 今だ!」
一瞬の隙間をついて走り出すイレインにユナは必死についていく。ついて行く事しか出来ない。イレインに全てを委ねる事しか出来ないのだ。だから信じる事しか出来ない今が尚更ジレンマを感じさせた。
「ここで少しストップ」
物陰に隠れて身を潜める。まだ建物内部には入れない。病院周りにいるロードサージェントの包囲網はほとんど完璧で、必ずあるはずの綻びも見つけるのが一層、困難になっていた。
進んでは戻りの堂々巡りを繰り返しながらその隙間を探す。最早、進んでいるのか戻っているのかもわからなくなるほど途方も無い方法だったが、ロードサージェント一人に見つかっただけでもう終わり。彼らの連携は並大抵じゃない。直ぐに周りを囲まれてアリサを助けるどころか自分達まで捕まってしまう。
イレインは頬を叩いて切れかけた集中を取り戻す。立ち止まる度にこのような行動を起こすイレインにユナは少しずつ不安を募らせた。尋常じゃないほどの汗をかいているイレインの姿が無理をしている何よりの証拠で、現状の危うさを表していた。
「よし、次はこっちだ!」
イレインは走る。ユナは追いかける。
それでも、ユナは何も言わない。イレインも何も言わない。諦める訳にはいかなかった。どんなに困難でも、今助けられる命がそこにある。それを見捨てて世界を救うなんて言えるわけなかった。
「よし、ストップ。三秒後にあの扉に入るぞ。そしたら一気に駆け抜ける」
イレインの言葉にようやく進展が見れた。やっと見つかった『完璧』の隙間。一気に駆け抜けると言う事は病院内部に入ってからのルートも決まったと言う事だ。後は薬をアリサに投与するだけ。ユナの心の中に溜まっていた不安がスッと引いていく。それは油断と呼ぶには少し大げさなものだったかも知れないが、一瞬だけ確かに緩んだ緊張。
————その瞬間だった。
「よし! 行く————」
「そこまでだよ」
イレインは腰を上げかけた状態で動きを止める。背後から突然かけられた声。あの忌々しい記憶を一瞬で呼び覚ます忘れもしない声に汗が更に吹き出して来る。
少しずつ削られていった集中力。ようやく見つかった隙間を罠と知らずに気を緩めてしまった。一番気をつけなければいけなかった確率から一瞬だけ目を逸らしてしまった。
隙間をつかれたのは自分達の方だった。
「久しぶりだねイレイン」
イレインは固まったまま動けない。背後の声は落ち着いていながら少しだけ喜びに満ちていた。
イレインと違い、ユナは腰を上げる事も出来ないまま固まっていた。喉元に突きつけられたナイフ。それは少しでも動けば、いとも簡単に自分の喉を切り裂くと悟らせる力を持っていた。感じた事も無いプレッシャー。世界から追われた時でも、ここまで自分の死を近くに感じた事が無かった。もしかしたら今ここで自分の人生は終わりを告げるかも知れない。唾を飲み込む事も許されない圧迫感に気が遠のきそうな自分を何とか保たせるので精一杯だった。一度聞いたはずのその声にもその言葉の意味も考えられる余裕が無かった。
「イレイン。久しぶりに会ったんだ。顔を見せてくれ」
「……俺は見たくもねーよ」
「ははは。相変わらずだね。その言葉遣いも……そのイラツく声も」
ユナの首に少しだけナイフが刺さる。血がプッと吹き出すがユナは流れる血の雫を拭う事無く、ただ真っ直ぐイレインの背中を見ているしかなかった。
「何だかイライラしてきたな。まずこの子を殺しちゃうか。というより殺した方がいいもんね」
「おい! やめろ!」
「ようやくこっちを向いたねイレイン」
イレインが振り向いた先にはユナにナイフを突きつけながら無邪気に笑う忘れもしないマントに身を包んだ男の姿があった。
視線を交わらせる金眼。まるでそれだけで会話が成立しているようにしばらく無言で二人は向き合っていた。
「やれやれ。そんな顔するなよイレイン」
男はユナの喉からナイフを外して立ち上がる。途端にユナはその場に倒れ込んだ。とてつもない圧迫感から一気に解放された体はしばらく力が入らなかった。
「てめぇ……」
「てめぇなんて言うもんじゃないよ。実の兄に向かって」
男はナイフを閉まってマントを翻す。
「おいで。久しぶりに会った弟をみんなにも会わせたい」
その子も連れてね。と笑うとゆっくりと歩き出した。イレインは直ぐさまユナを抱き起こす。
「ユナ。大丈夫か?」
「え、えぇ……」
「早くおいで。でないとその子もみんなに紹介しちゃうよ。世界を欺いた世紀のペテン師さんをね」
男は振り返って笑う。その笑顔は無邪気に見えるはずなのに圧倒的な悪意に満ちている。その矛盾がユナの背筋を凍らせた。正体がばれている事よりも、その笑う男が、あの夜に会った金眼の男で、しかもあの時と同じはずの笑顔がまるで別物に感じている事に恐怖を覚えた。
まるで得体の知れない未知の物に出会った時のような感覚だった。
「ねぇイレイン。あの人、お兄さんって……」
「あぁ……本当だ」
二人は少し距離を開けながら男に着いて行く。一見、逃げ出そうと思えば逃げられるんじゃないかと思える距離でも逃げ場がない事はイレインはもちろんユナにも分かっていた。
「一体何者なのよ、あいつ」
「ははは。そう言えば君には挨拶がまだだったね」
男は立ち止まり振り返る。ユナは目を合わせるだけで体が固まってしまった。
「では、改めて。ロードサージェント第四番隊隊長レイゼル・グレイヤードと申します。いつかの夜はありがとう。ユナ・セレスティさん」
軽くお辞儀をしてまた歩き出すレイゼル。一体いつから自分の正体に気付いていたのか、知る由もないが、ユナは初めから知っていたんじゃないかと感じていた。イレインの兄。その眼はイレインと全く同じ金眼。目元だけでなく、全体的な雰囲気もどことなく似ている。
悪意と無邪気を備えるその視線はイレインと同じ能力を持っている事を感じさせていた。
レイゼルは病院の正面入り口に向かっていた。その道中でユナはいくつかの質問をイレインにぶつけて心に引っかかっていた疑問を少しだけ解消させた。
名前が違うのは、イレインは母方の性を名乗り、レイゼルは父方の性を名乗っているから。
紛れもない兄弟である。しかし、レイゼルはイレインと同じ能力は持っていない。
そして、イレインが母と共に父の元を去ってから、今日初めてレイゼルと会ったという事。
聞き出せたのはそれくらいだった。ほどなくして正面入り口の広場へ着くと、そこにはいつの間に招集されたのか、ロードサージェントの面々が整列してレイゼルの到着を待っていた。
「隊長に敬礼!」
レイゼルの姿を確認すると一番前に立つ男が声を上げ、一斉に敬礼のポーズをとる。
「いいからいいから。みんな聞いてくれ。今まで話した事なかったけど、俺には弟がいるんだ」
レイゼルが隊の前に立って話しだすと、少しだけざわついた。レイゼルはイレインの手を取り自分の横へ引っ張る。
「それがこいつ。イレインだ」
おー! と歓声が上がる。イレインとユナはレイゼルが一体何を企んでいるのかわからなかった。
「みんなは俺の父。ナッシュ・グレイヤードの事知ってるよね? 代々、ロードサージェントを支え続けた由緒正しきグレイヤード家の中でも飛び抜けた才を持ち、ロードサージェントの一番隊隊長として皆を牽引した伝説の男だ。息子の俺が言うのも何だけど、素晴らしい隊長だった。今の隊長も素晴らしい人だけどね」
レイゼルは少し冗談めかして話を続ける。ロードサージェントの面々は真面目に話を聞き続けた。
「このイレインはそんな父を裏切ったんだ」
レイゼルの言葉に一瞬で不穏な空気が流れる。最初は良く分からない歓迎ムードだったロードサージェントから明らかな敵意が向けられていた。
「みんな分かるよね? この愚弟は偉大なるロードサージェントの象徴とも言える一番隊隊長を裏切り、ましてや侮辱に等しい言葉を吐き付けて俺と父の前から消え去った。だから俺は……」
レイゼルは両手を挙げて声高らかに叫んだ。
「今、ここでこのイレイン・コートレッドに決闘を申し込む!」
途端に沸き上がる歓声。レイゼルは微笑みながらイレインに振り向く。
「ロードサージェント流で決着といこうかイレイン」
「てめぇ……」
「決闘を受ける以外に選択肢はないと思うけど?」
レイゼルはイレインの隣で狼狽えているユナに視線を移す。
イレインは歯を食いしばりながらレイゼルを睨みつけた。
「お前が兄貴だなんて本当に吐き気がするよ……」
「こっちのセリフだよイレイン。ずっとこうしたかったんだ。いつだって俺の邪魔をしてきたお前を殺すには絶好の舞台だ」
「……返り討ちにしてやるよ」
「そうこなくちゃ。殺しがいがない」
レイゼルは笑う。無邪気に、悪意に満ち満ちた笑顔は底知れぬ闇を抱えていた。
舞台は直ぐに整った。
病院の正面広場を目一杯使い、円上に広がって二人を囲うようにロードサージェントが並ぶ。それだけだった。ロードサージェントは剣を地面に突き立てて一様に視線を中心に向けていた。
ユナもその内側にいた。二人の決闘見届け人としてレイゼルから指名され、向かい合う二人の間に立っていた。
「ルールは簡単だ。勝負はどちらかが死んだら終わり。それだけだよ。他からの手出しは禁止だから安心してくれ。俺とお前で決着をつけられるから」
「いいのか? それだと負けるかもしんねーぞ?」
「ははは。良い自信だね。の割りには手が震えているようだけど、大丈夫かい?」
「ふん。言ってろよ」
イレインは半歩下がり、短剣を取り出して構えをとる。レイゼルは微笑みを絶やさず、同じように半歩下がるがその場に立ち尽くしていた。そしてユナに頷く。
ユナは手を挙げて震える声で叫んだ。
「そ、それでは始め!」
宣言するとユナは二人から距離を取る。それを待っていたのか、二人はその場から動かずに視線を合わせるだけだった。
「イレイン。きっとその自信は父から教わった短剣術から来るものだろう?」
レイゼルが口を開いてもイレインは答えない。
「図星か。まあその短剣術はこの世で最強の剣術だからね。グレイヤード家に代々伝わる一子相伝の剣術が何で、今まで一回も俺に勝てなかったお前に伝わったのか不満で仕方なかったよ」
「親父は気付いていたんだよ……お前のその凶悪な中身にな」
イレインはようやく口を開くが、構えをとったまま動かない。レイゼルは鼻で笑うとマントの中に手を入れて腰から剣を抜いた。
「傷つく事言ってくれるね。まぁ親父も目をかけて育てたお前が去ったおかげでようやく折れてくれたよ。ロードサージェントとして役立てなくてはいけない剣術の掟を破る決心をしてくれた」
レイゼルはマントの中から短剣を抜いてイレインに向ける。
「……なっ!」
「一子相伝じゃなきゃいけないんだよ。この剣術は。だから親父は条件を出した。これを伝える代わりにね。一つはロードサージェントとしての生涯を全うする事。そしてもう一つは……」
レイゼルは素早く前に飛び出す。完全に虚をつかれたイレインは何とか剣で攻撃を受け止めるが、その圧力はジリジリとイレインの顔と短剣の距離を縮める。
「もう一つはね。お前を殺す事だよ。これは願ったり叶ったりだったよ。お前が生まれてから俺への稽古はおざなりになった。母親も俺が成長するほど冷たくなった。まるで可哀相なものを見るような目で俺がやる事成す事全てにケチ付けやがって。お前ばっかり可愛がってさ!」
「……良く言うぜ! ただの思いつきで友達すら平気で半殺しにしやがるお前を最後まで諦めずに説教してくれた母さんの愛情に気付けなかったお前が悪いんだろうが。お前に見切りをつけた親父につくなんてどうかしてる!」
イレインはレイゼルの剣圧の力を利用して後ろに飛び退いた。レイゼルは構えを取り直すと笑顔からどんどん悪意が溢れ出してきた。
「母さんね。あんな滅亡論信者から生まれたなんて思うとゾッとするよ。病気で死んだんだってね。ちゃんと苦しんで死んでくれたかい?」
「てめぇ……」
「だから、レイゼル兄さんだろ?」
イレインが突進するのを笑って真正面から受け止める。グレイヤードの家系は身体能力に恵まれているが、レイゼルは古い歴史の中でも類を見ない程の力を受け継いでいた。それは父をも凌ぐ潜在能力。加えて稀に見る残虐性。レイゼルはグレイヤード家きっての異端児だった。
「レイゼルーーー!」
「ははは。ようやく名前で呼んでくれたね。そうそう。ちゃんと呼んでくれよ。じゃないと殺す気になれない。イライラしないんだ。その腐った声で俺の名前を呼んでくれ。ほらほらほら!」
レイゼルは遊ぶように剣を走らせる。剣術は同じなのにイレインは完全に受けるので精一杯だった。太刀筋は同じでも力とスピードが段違いだった。
「ちょっとイレイン! ちゃんと切り替えてるの? 忘れてるんじゃないでしょうね!」
たまらずユナが叫ぶ。イレインはユナに振り向いている余裕もない。でも、その声を聞いて少しだけ冷静になれた。レイゼルの太刀筋を先読みして受け切り、また距離を取る。
「こりゃまた低い確率だな……」
イレインは短剣を構え直して自嘲する。呆気にとられたままだった戦況で、何とか一呼吸置いてようやく自分が唯一、兄に勝っている能力を活用し始めた。
「確率……ね。そう言えばお前と母さんの口癖だったねそれ。気持ち悪いなぁ」
レイゼルはゆっくり歩み寄る。イレインは『切り替え』て確率を呟き始める。
「人類が滅亡するだっけ? 全く、滅亡論信者の本性を現してくれたおかげで俺も親父もあいつの危険性に気付けたけどね。お前はもう手遅れだったみたいだけどさ。運良く逃げ延びた所で手配書は回っていたはずだから苦労したんじゃないか? 逃亡生活は楽しかったかい? それとも他の信者の助けを受けていたのかな? なぁどうなんだよイレイン……なぁ!」
レイゼルが切り掛かるがイレインはそれを皮一枚で躱して短剣を走らせる。
カキン! と乾いた金属音が空に響き渡る。
初めてレイゼルが剣を受ける形を取った。
「レイゼル。お前は知らねーだろうけどな。俺はグレイヤードの身体能力や短剣術よりももっとスゲー能力を母さんから受け継いでんだよ!」
レイゼルが剣を弾いて下から剣を振り上げるが、イレインはそれをギリギリで躱してまたレイゼルの首筋を横一文字に振り抜く。レイゼルは思わず後ろに飛び退いて躱すと、喉元に手を当てた。
「久しぶりに見たよ。自分の血なんて」
薄皮一枚分でもレイゼルが斬りつけられる姿を未だかつて見た事がないロードサージェント達は少しどよめいた。
「全く。本当に腹が立つねイレイン。母から受け継いだ能力? 確率が見えるってやつか。今でもそんな事を言ってるなんてね。滅亡論信者の教祖にでもなるつもりかい?」
「お前もまだそんな事言ってるのかよ。俺も母さんも滅亡論信者なんかじゃねーよ。見えちまった未来の確率を危惧して世界もお前らもまとめて救おうとしたんだよ」
「ユナ・セレスティのようにかい?」
レイゼルはユナに視線を移す。ユナは視線を外してイレインに向けた。
「……そうだよ。ユナも母さんも滅亡論信者なんかじゃねー。ただ世界を救おうとしただけだ。それなのにお前らはどこに存在しているかもわからねー地下組織の一味と俺達を一緒にしやがって……世界の秩序を守るロードサージェントが聞いて呆れるぜ。人類滅亡に加担してやがるんだからな」
レイゼルは頭振って溜め息をついた。
「言い訳はもういいかな?」
「なんだと!」
レイゼルは激高するイレインをまるで呆れるような目つきで眺めながら、短剣を構え直す。
イレインはその姿を見て息を呑んだ。
確かに学んだ短剣術は同じはず。それなのに今、目の前にいるレイゼルがとる構えは見た事がないものだった。
「驚いているようだね。無理もない。お前が学んだ短剣術はまだ半分だったんだよ。それだけで最強の剣術なわけがないだろう。それにお前の言っている確率がどうのこうのって言うのもさ……」
レイゼルは素早く距離を詰めてイレインに切り掛かる。イレインはギリギリで躱すが、まるでそれを予測しているかのように短剣を走らせてイレインの頬から血が流れた。
「確率なんて、経験で何となく感じ取れるもんだよ。だから俺も親父も持ってる。お前は母親の事を信じてそれを凄い能力だと過信しているようだが、もう目を覚ませ。それは能力でもなんでもない。きっと最初は母親のペテンにかかっているだけだったが、様々な修羅場をくぐり抜けるうちに経験を積んでいつしかそれを錯覚し始めた」
「違う!」
イレインは切り掛かるが、レイゼルは切り掛かる前に動き出し簡単にそれを躱してイレインの喉元に短剣を突き立てる。
「違わないよ。現に俺にだってお前の動きが読める。お前が母親と下らない生活を送っている間に俺がどれだけの修羅場をくぐってきたと思ってる? それをどうやってくぐり抜けたと思う?」
「う、うるせぇ!」
イレインは剣を振り抜くが、レイゼルは体を傾けるだけで簡単に躱してしまう。それを追うように剣を走らせるがその太刀筋はレイゼルを捉えるどころか、どんどん距離を遠ざける。
「つまらないな。こんなもんか」
レイゼルは剣を構えて剣を三度振ると、イレインの剣は弾かれてしまった。
「弱いね。それじゃ危機をくぐり抜ける事も世界どころか大切な人を守れないよ。さぁ拾うんだ。折角だからイレインの知らない技で勝負を決めてあげるよ」
レイゼルは短剣をイレインに向ける。右腕から血を流しながら跪くイレインは見上げながら睨みつける。
「……イ、イレイン!」
近寄ろうとするユナを手の平を向けて制止する。覆面から覗く綺麗な目元が不安で歪んでいた。イレインは覚悟を決める。もう確率は見てもしかたがない数値を出していた。それでも、チャンスはある。見えているって事はチャンスはある。
イレインは短剣を拾って構えを取り直す。もう右腕にはあまり握力が残っていない。短剣を持っているのが精一杯だった。それでも希望は捨てない。勝てる確率はないわけではない。諦めるわけにはいかなかった。
レイゼルはそれを哀れむように笑うと短剣を握りしめ直す。
「残念だよ。まさか念願の瞬間がこんなにつまらないものなんてね」
レイゼルの顔からはもう笑顔は消えていた。とてもつまらないような物を見る目でイレインとユナを交互に見ると腰を落とす。
「瞬光と呼ばれるこの剣術を最大限に引き出せるのはお前でも親父でもない。この俺だ。イレイン。最後にこの短剣術の真の姿を見せてあげるよ————」
レイゼルが一瞬で相対しているイレインの後方へ駆け抜ける。
ほんの一瞬の出来事だったが、周りの目には剣が光を反射して糸のように走った残像だけ残っていた。見た記憶がないその朧げな残像は、太刀筋とは思えない程複雑に入り組んでいて、まるで蜘蛛の巣のようにイレインを包んだ。
「嘘……でしょ」
ユナはその場に跪く。
短剣の落ちる音が響いて、イレインは自分の足下に出来た血だまりの中へ倒れ込んだ。
レイゼルは振り返り、イレインにゆっくり近寄る。
短剣に付いた血を一振りで払うと、倒れているイレインを足蹴にして仰向けにさせた。
「まだ息あるだろ? 死なないようにかなり手加減したからね。まったく……これくらいで動けなくなるなんて本当にグレイヤード家の人間かい?」
イレインはレイゼルの顔を見上げながら笑う。
「俺はグレイヤードの人間じゃねぇ。イレイン・コートレッドだ。一緒にすんな」
「そうか……そうだね。お前みたいのがグレイヤードの血をひいているわけないか。良かったよ」
レイゼルは短剣を振り上げる。
「父も母も死んだし。これで俺は天涯孤独か。さよなら大嫌いなイレイン……」
レイゼルの顔は笑っていた。その顔には今までの悪意は感じられず、少しだけ寂しそうに見えた。イレインはその顔に見覚えがあった。何かを隠すようにごまかすように笑い、強がるその顔を。残虐な心の奥底に眠るたった少しの『情』という名の人間味。兄の中にある小さな希望。いつからか歪んでしまって全く顔を出さなくなったその感情が表に出たのは今回だけではなかった。そう、たった一度だけ見た事がある。
それは、あの日。最後に見た兄の顔だった————。
グレイヤード家は代々ロードサージェントに身を捧げる伝統の家系。
それは例え生まれた者が女性だったとしても変わらない。現にグレイヤード家の歴史を紐解けば、女騎士団長として名を馳せた人物も少なくなかった。
故に伴侶となる人物も限られて来る。長い歴史なのだから例外はあれど、そのほとんとは生まれながらにして決められているようなものだった。
イレインとレイゼルの父『ガルド・グレイヤード』も幼なじみ兼許嫁であったエルスラとロードサージェントに入隊が決まると同時に婚姻する運びとなった。
決められていた事とは言え、前々から恋仲になっていたのだから幸せなケースと言えよう。
中には政略結婚を強いられ、全く知らなかった者といきなり婚約させられた者もいるのだから。
ガルドはロードサージェントとして数々の功績を上げながらエレノアとの時間も大切にし、グレイヤード家にしては珍しいくらいに幸せな家庭を築いていた。
レイゼルとイレインという子宝にも恵まれ、跡継ぎも出来た。その頃にはもうガルドはロードサージェントの一番隊を率いて、後に伝説と称される数々の逸話をつくる事になる。
ただ、歯車は知らない間に少しずつ狂い始めていた。音も無く、しかし確実に未来を狂わせていた。
ガルドはレイゼルの心の闇にいち早く気付いていて、イレインが生まれた時にはもう跡継ぎとする者を決めていた。いや、跡継ぎを作る為にイレインを生ませたと言った方が正しいかもしれない。
エレノアはガルドの思惑にも気付かずイレインの世話をしながら、レイゼルが狂気に惑わされずに何とか正しい道へと導こうとしていた。ガルドは早々に諦めていたが、実の息子に対してそこまで冷徹に家系の事だけを考えて接する事など到底出来なかった。
でも、レイゼルはそんなエレノアの気持ちとは裏腹に、どんどん闇を抱えていった。グレイヤードの血が闘争心を煽り、イレインにばかり気をかけている父を見かける度に見えない所でイレインを傷つけた。誰にも気付かれないように周到に事を運んでいたが、唯一エレノアだけにはいつもバレてしまった。
そしていつも悲しい目をしながらレイゼルを真っ直ぐ見つめて、どうしてそんな事をしてしまうのかと問いただした。
レイゼルは答えない。母も父同様にイレインといる時はよく笑っている事を知っていた。それでいて自分にも同等に接しているように振る舞う母に不信感を覚えていた。イレインのイタズラには冗談半分で笑いながら怒るくせに、自分には何故ここまで悲しそうな目で怒るのか。
————それはきっと自分の事が嫌いだからだ。
母がレイゼルを叱る度に、レイゼルの心は更に闇へと落ちていった。母の愛を知るにはレイゼルはまだ幼すぎた。
イレインもまた父に短剣術を教わりながら自分の異変に気付いていく。何となく、父の太刀筋が読めてしまうのだ。
父は才能があると言うだけだったが、イレイン自身は成長するにつれどうも違うみたいだと言う事に気付いていった。
見えるのは太刀筋だけじゃなかった。何となく身の回りで起こる事象が感じ取れる。それが徐々にハッキリと数値化する頃には、その特殊な能力が確率を読んでいるものだと言う事に気がついた。
ただ、誰にも能力の話はしなかった。異端であると思われれば由緒正しきグレイヤード家から追い出されてしまうのではないかという不安があった。
誰にも言わず、能力をうまく活用していけば良い。こうしてレイゼルの嫌がらせを回避する事だって出来ている。イレインは異端な能力を悟られないように生活していた。
だが、狂った歯車はとうとう音を立てて崩壊してしまった————。
「ねぇガルド……落ち着いて話を聞いて欲しいの」
イレインの稽古中にエレノアがレイゼルの手を引いてやって来た。その辛辣な表情に、ガルドはまたレイゼルが何かやらかしたかと溜め息をつきながら短剣をしまう。
「どうした?」
ガルドだけではなく、手を繋いでいるレイゼル、そして短剣をプラプラと遊ばせているイレインもエレノアに視線を向ける中、エレノアは何かを考えながら歯を食いしばっていた。
いつもと違う様子なのはわかっていた。現にこうして訓練を遮ってまで来る事自体が初めてだったので、ガルドは何も言わずにただジッと見つめてエレノアが口を開くまで待っていた。
そうして沈黙が数分続いた後、エレノアが意を決して口を開きだす。
「その……今から言う事は本当に信じがたい話なんだけど……と言うより信じがたい話が重なっているのだけど」
「大丈夫だ。何でも話してくれ」
ガルドは、やはり様子がおかしいエレノアが少しだけ気がかりだった。
「うん……そうよね。ガルド。あなたなら何とか出来るかも知れない。と言うよりあなたじゃなきゃ無理だと思うわ」
「何の話だ?」
「その……まだ二十年以上も先だけど……世界が、人類が滅亡するわ」
エレノアの唇が震えながら衝撃の言葉を放つ。目線は斜め下を向きながら話を続けた。
「どうやって。どうしてそうなるのかは良く分からないんだけど。確実に世界が終わるの。私、今まで話していなかったんだけど……確率が……見えるのよ……信じられないかも知れないけど。本当なの。ねぇガルド。あなたなら信じてくれるでしょ?」
エレノアは顔を上げてガルドに視線を移したが、ガルドはそれを合わそうとはせず、拳を握りながら何かを考えているようだった。
「……ガ……ルド?」
「……エレノア。一つ質問だ」
「な、何?」
「お前まさか……ネルドゼスト教の奴らと繋がっていないよな?」
「……ガ、ガルド。何を言ってるの? 私がそんな人類滅亡論信者なわけないじゃない! 周りにもそんな人いないわよ! そんな退廃的な思想を持つわけないって事くらいあなたならわかるでしょ? ねぇガルド!」
エレノアはガルドの肩を掴んで顔を覗き込むが、ガルドは一向に視線を合わそうとはせず、肩からエレノアの手を外すと、その手を引いて屋敷へと歩き出した。
「ちょっと! ちょっとガルド! どうして!」
「お前の話は身辺調査の後だ。もしかしたら屋敷内にネルドゼストの連中が紛れている可能性がある。俺の留守中にお前が洗脳されている可能性も拭いきれない」
「何を言ってるの! そんな訳ない! そんな訳ないじゃない! ねぇどうして? どうして信じてくれないのよガルド!」
「お前を信じたいからするんだ! いいか? 絶対に他の誰かにその話はするな。絶対にだ。しばらくお前は地下牢に隔離する。悪く思わないでくれ。すぐにケリはつけるから。少しの辛抱だ」
「いやよ! 離して! ガルド! 信じてよ! ねぇ!」
「様子がおかしいと思ったら……俺だって信じたいさ。でも、最近急激にネルドゼストの奴らが勢力を広げているのは事実なんだ。今や世界にとっての脅威になりつつある。そんな奴らの仲間がグレイヤード家から出るわけにはいかないんだ」
イレインとレイゼルは口論しながら歩く両親の後を追いかける。
ネルドゼスト教は密教と呼ぶには語弊がある程、有名な退廃的滅亡論崇拝者の集まりである。その実態こそ良く知られていないが、今まででも何人かは捕まっており、その誰もが問答無用で極刑に処されている言わば属しているだけで大犯罪とされている異端な宗教。何故、そこまで忌み嫌われているのか。それはそのシンプルな思想にある。
『人は滅びるべきだ』
この世に人類は必要ないという考え方で行動する為、彼らの行動には常に人の死が付きまとう。度々起こる大規模な事件や事故にも裏で関わっていると噂が流れもした。正にいつか世界をひっくり返してしまうのではないかと国が恐れている集団だった。
イレインとレイゼルはロードサージェントである父からその話を良く聞かされていた為、ネルドゼスト教の恐ろしさを十分知っていた。
エレノアは必死の説得も虚しくガルドによって幽閉されて、そこからグレイヤード家は秘密裏に身辺調査を行った。外部からの接触歴はもちろん、古い付き合いまで全てを洗い出し、身内を振るいにかけた。
レイゼルとイレインは水面下で動いている騒動に紛れて度々、エレノアの元へ会いに行く。もちろん別々で。
レイゼルは母がネルドゼスト教に入信したと疑わず、無様な姿で幽閉されているのを嘲笑し、今までの恨みを吐き出す為に行っていたが、イレインは違った。
「母さん。僕はわかるよ。母さんの言っている事は本当だ。ほぼ確実に世界は滅んじゃう」
檻の前に座ってイレインは打ち明けた。
「イレイン……もしかしてあなた。見えるの?」
檻越しに肩を掴んで声を潜める。イレインが力なく頷くとエレノアは首を振ってイレインの手を取った。
「あなたは受け継いでしまったのねイレイン。そう……そうだったの。今までずっと隠して来てたのね……つらかったでしょうに。ごめんなさい。私が生んだばかりにこんな異端な能力まで授けてしまうなんて。本当にごめんなさい」
エレノアはイレインを抱きしめて涙を流した。息子に自分と同じ思いをさせてしまう、友達や家族を欺いて生きる生活を強いられてしまう未来を想像するだけで胸が締め付けられた。
「イレイン。これから話す事は二人だけの秘密よ。この能力はコートレッド家の血筋にだけ現れる特殊なものなの。私と私の父が受け継いでいたのだけど、他には誰が受け継いでいるのかわからないわ。受け継いでも話さないから。誰にも。私やあなたは、たまたま親も同じ能力を受け継いでいたからこうして話す事が出来たけど、誰にも話さずに生涯を全うした人も多いはずよ。いつどのタイミングで能力が目覚めるかも、どうやって受け継がれるかもわかっていないから私たちにはどうする事もできない。誰かに話した所で異端者扱いされるだけだしね」
エレノアはグッと歯を食いしばる。そしてイレインから体を離すと肩を掴む手に力を入れながらイレインの目を真っ直ぐ見つめた。
「もしかしたらレイゼルにも受け継がれているかも知れないわ。今はまだでもいつ覚醒するかわからない。だから私からも折りをみて話しておくけれど……もし、もし私に何かあったらイレイン。あなたにお願いするわ。あの子は周りから疎まれているけれど、心の奥底はあなたのように綺麗で優しい気持ちを持っている私の子供よ。あなたのお兄さんよ。だから例え今は信じてくれなくても、もしかしたら一生覚醒しないかも知れないけれど、私とあなたのように理解してくれる人がいる事を伝えて欲しいの。あの子が一人で苦しまないように。お願い……できる?」
イレインは座ったまま二度頷いた。それを見てようやくエレノアは微笑む。
「ありがとう。あなたもレイゼルも私の可愛い息子よ。それにガルドだって愛している。こんな事になってしまったのも仕方がない事だから。イレイン。あなたは父を恨まないでね。あの人はロードサージェントとして職務を全うしなければいけないの。本当は私の言葉を信じたいはずよ」
「……だったら信じればいいじゃないか」
イレインはつい本音を口走ってしまう。家族よりもロードサージェントとしての地位を取った父の行動を許せはしなかった。
「そう言わないで……あの人も苦しんでいる。ネルドゼスト教と言うのはあなたが思っているよりずっと恐ろしい集団なのよ。ガルドだって彼らと相対して何度も死の淵に立たされたんだから。だからこそなのよ。身内から一人でもそんな者が出てしまうと他の身内も危ない。それに少しでも疑われれば私の命も危険なの。だから、ガルドは私を守る為にも閉じ込めたのよ。完全に潔白が証明された後にきっと私の話を周りにも伝えて世界を救ってくれるに違いないわ」
「そう……かな」
エレノアはまたイレインを抱きしめて耳元で呟く。
「そうよ。きっとそう。それとねイレイン」
————もし、あなたがこの人なら信じてくれると思える誰かと出会えたなら、その時はこの能力の事を打ち明けなさい。知ってくれる誰かが一人でもいるだけでそれは大きな支えになるから。
「————エレノア」
数日後。ガルドはエレノアの元へ降り立つ。
「残念だけど……使用人の一人がネルドゼストの信者だった。ナザラが……」
ガルドの言葉にエレノアは目の前が真っ暗になった。ナザラはエレノアを担当している使用人の一人。とりわけ実に近しい存在だった。
「今……お前をグレイヤード家関係者が探している。今までこちらでごまかしていたが、恐らくここも直ぐに見つかるだろう」
ガルドは檻の鍵を外して、エレノアを抱きしめた。
「……すまない。俺は……俺はこうする事しか出来ない。わかってくれ」
エレノアはガルドの腕の中で覚悟を決める。恐らくこれが今生の別になる。ロードサージェントのトップがネルドゼスト信者の疑いをかけられている者を妻にしているなど許されない。
「ガルド……あなたの選択は間違ってないわ。子供達をよろしくね」
エレノアはガルドの背中に手を回してギュッと衣服を掴んだ。
————地下牢から抜け出してガルドの手ほどき通りに駅へと向かう。用意されていた列車のチケットを差し出して席へ座ると列車は汽笛を鳴らしてエレノアと家族を引き離した。深く被った麦わら帽子の下で一雫の涙をこぼしながら、顔を上げて故郷の最後の顔を見る事すら許されず、たった今、思い出に変わった家族との日々を思い浮かべながらエレノアは揺れる覚悟を必死に支えた。折れそうになる心を必死に。これからの生涯は困難の連続だろうが、死を選ぶわけにはいかない。自分はネルドゼストの人間じゃない。自ら死を選んだらそれを認めるのと同じ事だ。例えどんなに苦しかろうと生涯を全うせねばならない。自分が家族の為に出来るのはもうそれだけなのだ。
母の失踪後、グレイヤード家は変わった。イレインもレイゼルも監視下に置かれ、ガルドはナザラの発覚とエレノアの失踪による起こった騒動を鎮める為に奔走した。
その甲斐あって騒ぎは徐々に収まり、子供達のかんしも解けた頃、ガルドは傾きかけたグレイヤードの信頼を取り戻そうとするが如く、また戦場へ赴いた。
イレインはそのチャンスを狙っていた。父が家を空けて出来た隙を見逃さなかった。
監視下に置かれながらずっと地図を広げて母の居どころを探っていたイレインは既に行き先を決めていた。まだ使い慣れていない能力だったが、幸い時間はたっぷりあったので部屋で自ら能力を使いこなせるように磨きをかけた。そうした修行の仕方を教えてくれたのは皮肉にも恨んでいる父だったが、感謝はしない。イレインにとっては最愛の母を裏切った人物に他ならなかった。
ガルドが出発した二日後の夜。イレインは脱走を計る。準備は万端だった。
————コンコン。
イレインは見回りの目を盗み、レイゼルの部屋を訪れる。ノックから数秒。怪訝な顔のレイゼルが顔を出した。
「何だよイレイン。その格好」
「レイゼル。お別れを言いに来たんだ」
「え? 何言ってんだよ」
イレインは急に慌ててレイゼルを部屋へと押し込み、扉を閉める。角から見回りの照らすライトが現れたのはその数秒後だった。
「おいおい。何だよ急に。お前まで頭おかしくなったのか?」
悪態をつくレイゼルにイレインは反応しない。いつもなら反発する所だが、今はそんな時間もなかった。ここへ来た理由はただ一つ。母との約束を守るため。
「レイゼル。母さんから聞いた?」
「何をだよ」
「確率が見える能力の話」
「あぁ。何か言ってたな。興味ないけどさ。あんな奴の言葉に耳を傾けてたら耳が腐っちまう」
「そっか……でもさ。あの話。本当なんだ」
「はぁ?」
「僕も見えるんだよ。確率。コートレッドの血を引く人間なら誰でも覚醒する可能性があるみたい。もちろんレイゼルにもあるよ。確率で言ったら低いけど、確実に可能性はある」
「な、何だよ。お前もおかしくなっちまったのか?」
「別に今は信じなくてもいいよ。もしかしたら一生信じられないかもだけど。それでももし、覚醒したら教えてよ。協力出来る事が会ったら協力するからさ。母さんとの約束だし」
「ふん。意味わかんねー。お前まだあんな奴の事を母親だと思ってるのか?」
「思ってるよ。だから僕はグレイヤードを捨てて母さんの元へ行く」
「お、お前……」
「何だよその顔。そんな顔しないでよ。じゃあね。伝える事は伝えたよ。さよなら」
窓から去ろうとするイレイン。しかし、その腕をレイゼルが掴む。
「ふざけんなよ。行かせるわけねーだろ。ネルドゼストの元へなんか」
レイゼルはイレインを部屋へ引きずり下ろして叫ぶ。
「おーい! 誰か来てくれ! イレインが逃走を計ってるぞー!」
「おい! レイゼル! やめろ!」
「早く来い! 早く!」
イレインは立ち上がり、扉の方へと駆け出すがまたもやレイゼルに阻まれる。
「レイゼル……いい加減にしてくれ」
「それはこっちのセリフだ。お前自分がしようとしている事の意味わかってんのか?」
「分かってるよ。決まってるだろ」
「分かってねーよ。お前はグレイヤードの後継者に選ばれたも同然なんだ。俺じゃなくてお前がだぞ? そんなお前が脱走しちまったらグレイヤードはどうなる?」
「そんなもんどうでも良いよ。知るか」
「どうでも……良い? お前は俺がこの世で一番欲しいものをどうでも良いなんて言うのか?」
「どうでも良いよ。レイゼルが跡継ぎになればいいだろ……っぐ!」
イレインの腹にレイゼルの拳が突き刺さる。
「それ以上、愚弄したら殺すぞイレイン」
「レイゼル……お前……くそ!」
イレインは短剣を取り出し、レイゼルに向ける。
「親父から教わった短剣術を使うのか。結局お前はグレイヤードに頼るんじゃないか」
「だからそんなもん知ったこっちゃない! 使えるものは使うだけだ!」
イレインがレイゼルに切り掛かろうとすると、扉が開け放たれ、衛兵が押し掛ける。
「イレインを発見! 直ちに取り押さえろ!」
イレインは舌打ちをして、背後にある窓へと駆け出す。大丈夫。確率は見えている。逃げ切れる。
そうして窓に足をかけて飛び降りる瞬間————。
振り返った先に見えたのは多勢で追いかけて来る衛兵の隙間から覗く、立ち尽くしたレイゼルの寂しそうな微笑みだった。
イレインはその表情の意味を考える暇も無く、衛兵達の網をかいくぐって必死にグレイヤードの家を抜け出す。厳重な包囲網だったが、確率が見えるイレインは何とか脱走を成功させた。
確率を頼りに転々とする母の居場所を追いかけて、ようやく辿り着いた先でイレインは母の名を呼び、エレノアは振り返る。
ようやく見つけた母。イレインはエレノアと視線を交わらせて笑うと、糸の切れた人形のようにその場に倒れてしまう。エレノアは驚きのあまり言葉を失ったが、直ぐに倒れ込んだイレインの元へ駆け寄った。
「イレイン? イレインなの? どうして……どうして!」
「僕は母さんの息子だよ。一人になんかさせるわけないじゃないか……」
エレノアはボロボロになったイレインを抱いて泣いた。
捜索の目をかいくぐり、ここまで来るのは容易くない。いくら確率が見えるとは言え、イレインは子供だ。誰の手も借りずにここまで辿り着くには様々な困難が待ち受けていたに違いない。それを想像するだけで胸が痛くなった。
イレインは母の腕の中で一気に気が抜けてしまい、脱走を計ってから初めて深い眠りについた。一番安心する母の腕の中でスヤスヤと寝息をたてるイレインの顔は今までの苦労なんか一つも感じさせないくらい幸せそうに見えた。
こうして二人はエレノアが病に倒れて永遠に目覚めぬ眠りにつくまで人の目を避けながら苦しい逃亡生活を続ける事になる。ユナとイレインが出会うのはそれから数年後の事————。
「ばーか……殺す気なんかないくせに」
血だまりの中、レイゼルを見上げながらイレインは笑う。
レイゼルはその言葉を鼻で笑い飛ばすと、何も言わずに短剣を振り下ろした。
……が、短剣はイレインに突き刺さる事無く、レイゼルは体ごとその場にドサッと倒れ込む。イレインはもちろんどよめくロードサージェント。イレインは首を回してユナに視線を投げる。
「ユナ……お前」
ユナはスリーピングフォレストを構えていた。銃口はイレインの方向。正確にはレイゼルが立っていた場所を向いている。
突然の出来事に周りが呆気にとられている中、ユナがそのまま駆け出すと、事態を察したロードサージェントが一斉に動き出した。
「イレイン!」
ユナはレイゼルをどかしてイレインの腕を肩に回す。
「おい……お前何やってんだよ」
「何やってんだじゃないわよ! バカイレイン! 私一人残して死ぬなんて許さないから!」
ユナは短剣を拾ってイレインに手渡し、ゆっくりと体を起こした。
「行くわよ! 時間がない! ほら! 短剣で何とかしなさいよ! 出来るでしょ! ってかやりなさい!」
ユナとイレインを囲むようにロードサージェントは集まっている。レイゼルが殺されたと勘違いしているようだが、例え死んでいなくとも神聖な決闘の場に手を出したユナはどんな理由であれ捕まれば殺されてしまう。
それでも、ユナに後悔はない。考える前に手が出ていたとは言え、あのままイレインを見殺しにしていたらそれこそ後悔していたはずだ。
こんな状況でイレインを担いだまま逃げられるとは思わないが、最後まで抗うと決めたユナはイレインを引きずりながらゆっくりと前へ進む。
ロードサージェントは構えたまま動かない。瀕死の少年と非力そうな片割れの必死な姿は何とも哀れだった。最早二人に助かる道はない。近くにいるものがひと思いに切れば良い。
誰もがそう考えていた。
「イレイン。ちょっと。あんた自分で歩けないの?」
「お前……無茶言うよな。どこまで本気なんだ?」
「全部よ! 全部! 最後まで諦めないって決めたでしょ! ほら早く短剣使って活路を開きなさいよ! じゃないと私たちもアリサも終わりよ!」
ユナの無茶はイレインの心を和らげる。こんな状況でも変わらないこの傍若無人ぶり。駆けつけた時は泣きそうな顔していたくせに、もうこんな膨れっ面をしている。
ユナの言葉はイレインの心に小さな光を灯した。
「その通りだなっと!」
イレインはユナの肩から腕を離して、構える。そのせいで急に重みが取れて浮き上がるように体を起こしたユナに呟いた。
「合図で真っ直ぐ走れ。行くぞ!」
瀕死のはずだったイレインはいつも通りの俊足でロードサージェントの元へ突っ込む。ユナは驚いている暇も無く、指示通りに真っ直ぐイレインの後ろを追いかけた。
瞬間、二人に向かって四方から堰を切ったようにロードサージェントが襲いかかって来るがイレインは短剣を走らせて道を作る。ぶつぶつと数字を呟きながら軽やかに動くイレインは、血だらけでありながら、いつものイレインだった。
「このまま突っ切るぞ!」
イレインはユナの前で振り返らずに叫ぶ。襲いかかるロードサージェントを退けながら。
ユナもスリーピングフォレストを使って何度か援護する。こういう時は使い勝手が悪いが、それでも少しはイレインをサポート出来た。
ロードサージェントの輪の中からくぐり抜けると、ユナは手製の煙幕弾を投げつけてイレインの腕を掴む。
「ナイス! ユナわかってるねー!」
「こんな状況じゃバカでもこうするわよ! ほら! 早く走って!」
「オッケー! 行くぞ!」
ユナはイレインに引かれるまま、ありったけの煙幕弾をそこいら中に投げた。白煙は辺りを一気に包み、ロードサージェントはユナとイレインどころか、陣形を崩した味方の位置すら掴めなくなり立ち往生した。
煙幕に覆われてもイレインは迷う事無く進む。正面玄関をそれて少し回り込んだ窓を割ると手早く侵入した。
「よっしゃー。侵入成功!」
侵入した部屋は小さな診察室だった。病院内に残されているロードサージェントは慌ただしく動き回っているのが漏れて来る声や音でわかる。
「後はこいつらのタイミングを計りながら進めばいい。時間は何時だ?」
「……あと三十分よ」
「くそ、レイゼルのやつ。余計な時間使わせやがって……おっと」
立ち上がるや否やフラつくイレインをユナは支えて、ゆっくりベッドに座らせた。
「とにかくあんたの応急処置をしないと。明らかに血を流しすぎてる。このままじゃアリサの元へ着く前に死ぬわよ」
「そんな時間もないだろ。行こう……あがっ!」
立ち上がろうとするイレインの腹にキツめのボディブローを容赦なく決めるユナ。
「さっさと終わらせるからジッとしてなさい! 五分で終わらせるわ! その間に経路を考える!」
イレインは言葉を発せずに腹を押さえながら何度も頷いた。目に浮かんだ涙はレイゼルにつけられた傷の痛みからではなく、たった今、味方から受けた攻撃によるものなのは明白だった。
ユナの手当は言葉通り、迅速だった。イレインに栄養剤を与えている間に診察室から包帯とガーゼ、数種類の薬を取り出して多数の傷を見事な早さで処置する。
「これ、数が多いのに傷自体は全然深くないわね……」
「だから言っただろ? あいつは殺す気なんかないって」
ユナは顔を上げて傾げる。
「どういう事?」
「理由はわかんねー。でも、あいつと戦っている間、俺の死ぬ確率は絶対に十パーセントを超える事はなかった。それにこの傷を見れば分かるだろ? あいつはどういう訳だか手加減してやがった。殺さない程度にな。俺が思った以上に攻撃を捌いたってのもあるけどな。だからお前があんな事するなんて思いもしなかったよ」
イレインは「それでもやっぱ血流し過ぎたけどな」とユナに包帯を巻かれた右腕を眺める。
「どうせ死なないなら……余計な事したわね」
「いや、助かった。あぁでもしてくれなきゃ今こうして先に進めている可能性も低かったから。ありがとな。でも、無茶はするなよ。こっちがハラハラしちまう」
「時には無茶も必要よ。それに考えている間もなく手が動いちゃったの。仕方ないじゃない」
「俺が死ぬって思ったから? まったくお前の愛の深さも底知れないね」
ユナは何も言わずに立ち上がるとニッコリ笑ってイレインの背中を思いっきり叩いた。
「いってーーー!」
「あらごめんなさい。愛が深いからつい……ね? さぁ終わり。きっかり五分。行くわよ」
「りょ、了解……」
背中をさすりながらイレインは立ち上がる。短剣を手にして扉に手をかけると数を数えた。
「十秒後に……右へ走るぞ。そして直ぐにまた右へ曲がる。そこから階を一つ上がって目の前の部屋だ。まずはそこまで一気に行く」
「オッケー」
そっと扉を開けてユナとイレインが走り出すと、虚をつかれたようにロードサージェントが出遅れて二人の姿を追いかける。
「ユナ! 変更だ! もう一つ階を上がる!」
「わかった! 後ろちゃんと着いて行くからそのまま走って!」
予定を変更して階を上がると、廊下の左右からロードサージェントが現れ二人を追いかける。
「あーもう面倒くせーなー! ユナちょっとストップ!」
イレインは踊り場で身を翻すと、階段の中腹まで来ていた二人のロードサージェントを斬りつける。足を斬りつけられたロードサージェントはその場に倒れ込んだ。致命傷とは程遠いが、その傷でユナとイレインを追う事は出来そうにない。
「運が良いな! ここは病院だから早めに手当してもらえるぜ!」
イレインは階段を駆け上がりユナの手を引いて、廊下を曲がっていく。少し進んだ所で部屋に入ると、数秒後にロードサージェントが駆けていく足音が響いた。
「よし。セーフ」
「イレイン。アリサの部屋から遠ざかってない?」
「大丈夫だ。遠回りだけど、これなら多分五分前には着く」
ロードサージェントの守りはアリサの部屋に近づけば近づく程、強固なものになっている。絶対に死守しなければならない場所なのだから当然だが、イレインはそこの穴もしっかり見えていた。タイムリミットはもう二十分もないが、焦るわけにはいかない。確実に助ける為に確実に辿り着かなければならない。
「よし、今度は左に行くぞ。そこから右に曲がって階を一つ下りる。真っ直ぐ走ってそれから五つ目の部屋に身を隠す」
行くぞ! と扉を開けて走り出す。当たり前のようにロードサージェントに気付かれるが、二人は捕まる事無くイレインの言う通りに部屋まで走り抜けた。
その後も近づいては遠ざかりを繰り返し、度々ロードサージェントの足を止めながら二人はアリサの元へと徐々に近づいていった。
「イレイン! もう十分もないわよ!」
「わかってる! くそっ! ちょっと強引に行くしかねーか」
イレインは短剣を握り直して立ち上がる。
「俺がこのまま突破して道を開くから、お前は真っ直ぐアリサの部屋を目指してくれ。振り返らずに全力で走れば良いから」
「ちょっと! 大丈夫なの? そのシンプルな計画で」
「どのみち、突破出来る確率がどんどん下がってる。多分、レイゼルの野郎が目を覚ましやがったんだ」
「嘘でしょ? こんなに早く目覚めるわけないじゃない?」
「いや、数分前にもう目覚めてる。あいつ……本当にどんな体してやがんだ」
レイゼルが目を覚ましてこちらに来たらもう絶望的だ。アリサの部屋に辿り着ける可能性はほとんど無くなる。奴が戻る前に辿り着くにはもうこうするしかない。
イレインが出した作戦は一か八かの賭けだった。
「悩んでる暇はない! 行くぞ!」
ユナの返事も待たずにイレインが飛び出すとロードサージェント達が一目散に駆けて来る。ユナはイレインの言う通りに前だけ向いて全力疾走した。
前のロードサージェントを斬り倒したと思えば直ぐにユナの背後に回って直ぐそこまで迫っていた連中も素早く斬りつけた。そして踵を返してまたユナの前へと走り抜ける。
ユナはどんな攻撃が来ようとも止まらず、避けようともせずに走った。イレインを信じて。
イレインもその期待に答えるように怪我をしているとは思えない動きで走るユナの道を開き続ける。
そして、ようやくアリサの部屋が見えて来る。進む方向には三人、そしてアリサの部屋の前に二人のロードサージェントが二人を待ち構える。
「イレイン!」
「まかせろ!」
ユナが叫ぶのと同時にイレインは飛び出す。目にも留まらぬ早さで剣を走らせてまず、三人を纏めて斬り倒すと、勢いを止めないまま壁を二、三歩蹴って飛び出し、着地と同時に二人の両手足を瞬時に斬りつけた。
「ユナ!」
「わかってる!」
それでも立ち上がり行く手を阻もうとするロードーサージェントを押さえつけながらイレインが叫ぶ。ユナは手を伸ばすロードサージェントを避けるようにアリサの部屋へと飛び込んだ。
「アリサ! 薬よ! 薬が出来たの!」
アリサの部屋でユナの声が響き渡る。イレインは部屋の前でどんどんやって来るロードサージェントを待ち受けた。レイゼルがここへ来るまであと数分しかない。この後、逃げきれる確率もみるみる下がっていった。
「ユナ! まだかよ! 早くしろ! とっとと逃げねーと俺達が危ない!」
イレインは距離を取って構えるロードサージェント達と睨み合いながら部屋の中に声をかける。しかし、ユナの返事がない。
「おいユナ! 聞いてんのか! おい! 返事しろ!」
イレインの頭に不安が過った。ロードサージェントを牽制しながら死亡確率を見る。
「……う、嘘だろ?」
イレインは身を翻して部屋の中に入る。鍵をかけたものの、ロードサージェントには直ぐに突破されてしまう。
イレインはベッドの前でへたり込んでいるユナを抱えると、床に転がっていた薬を拾い窓を破る。
「アリサが……アリサが」
ずっと同じ言葉を呟き続けるユナに答えもせず、イレインは窓の縁に足をかけて身を乗り出すと一瞬だけ振り返る。
視線の先には少し微笑んで眠っているアリサの姿があった。
安らかに……安らかに眠っていた。二度と目覚めぬ眠りについていた。
「……くそったれ!」
イレインは唇を噛んで窓から飛び出し、落下しながら二階下の窓を割って腕をかける。突き刺さったガラスが包帯の中から赤い染みを広げる。よじ上って中へ入るとユナの肩を揺すった。
「おい……おい! しっかりしろ! ユナ!」
「イレイン……アリサが……アリサが……何で? 私……私……」
タイムリミットまでまだ五分はあった。ただ、それは『確実に死ぬ』時間であってその五分前でも死ぬ確率はある。それでも、以前に見た時はそこまで高くなかった。と言う事は何かがキッカケで早まってしまったとしか考えられない。ただ、今はそれを考えている時間なんてない。
「ユナ。とにかく脱出しよう。アリサの事は戻ってから考えるんだ」
「でも……でも……アリサを……助けられなかった……私が何とかするって言ったのに……救えなかった……きっと信じて待っててくれたのに……私は……私は」
「しっかりしてくれ! 頼む! お前がそんなんじゃアリサも浮かばれない! 今、俺達が捕まればこの薬を広める事も出来なくなる! なぁユナ! 目を覚ましてくれ! ショックなのはわかる。でも、そんなお前をアリサは見たくないはずだ。もうこの世にはいなくなっちまったとしても、お前は最後までアリサの憧れでいなきゃダメなんだ! あいつの事を思うならお前はお前でいなきゃダメなんだよ! 傲慢でワガママで勝手で暴力的で理不尽で冷徹で物事を斜めに見てて口が悪くて気持ちの浮き沈みが激しくて、あとなんだ? そうそうてんさ……あがー!」
イレインは真横に吹っ飛ぶ。一瞬の出来事で理解が遅れたがどうやらユナの拳が左頬を捉えたらしい。右の壁にぶつかったのだからそう思うのだが、痛みは貫通していて何故か右頬の方に痛みが走っていた。
「いってー……」
ユナは立ち上がり、頬をさすっているイレインの目の前まで迫ると胸ぐらを掴んでもう一度頬を叩いた。今度はひどく弱々しく平手でイレインの頬を叩き、そして頬に手を添えたままユナは涙を流しながら額をイレインにくっつける。
「分かってるわよ……言われなくても……分かってるわよ。自分が今出来る事くらい……でも、分かんないの……何が天才よ……慕ってくれる子の一人も救えないなんて……何も出来なかった……約束も守れなかった……こんな私にアリサは今でも憧れているって言うの?」
「ユナ。憧れてるよ。アリサはこれからもずっと。確率なんか見なくてもちょっとの時間だったとしても、見てたらわかるよ。アリサは例え何処に居ても二度と会えなくてもお前に憧れ続ける。絶対だ」
「そう……そうかな」
「そうだ」
「……絶対?」
「絶対だ」
「百パーセント?」
「あぁ。百パーセント」
「……百パーセント……見えないくせに」
ユナは顔を離して目を開けると、溢れる涙を拭って微笑んだ。
「ありがと」
ユナは立ち上がってイレインに手を差し出す。イレインもフッと笑うとその手を取って立ち上がるともう片方の手で握りしめていた薬の入った小瓶をユナに手渡す。
「ユナ。時間、ないけど」
「えぇ。これを託しましょう。エンバールさんに。二度とアリサのような犠牲者を出さないように。私たちの代わりにこれを公表してもらいましょう。せめてもの手向けに」
「おう。んじゃ、行くぞ」
「えぇ。案内頼んだわよイレイン!」
二人は部屋を飛び出した。行き先は研究室。エンバール夫妻の元だ。
ロードサージェントを倒しながら真っ直ぐ進んでいく。レイゼルはきっともう報告を聞いて自分達を追っているだろう。逃げ出せる可能性はどんどん低くなっている。が、二人に迷いはなかった。
最短距離を全力で走り抜け、研究室の扉を開ける。中にはもうエンバール夫妻しか残っていなかった。
「エンバールさん!」
ユナは夫妻の元へ駆け寄る。
「アリサが……アリサが」
ユナが息を切らしながら、言葉を詰まらせるとヴィンスが肩に手を置き頷いた。
「えぇ……わかっています」
「ほ、他の研究員は?」
「みんなロードサージェントの指示で避難しました」
ジェナが首を振りユナに悲しい笑顔を向ける。
「私と夫はそれを拒否しました。アリサが亡くなったと言うのに、自分達だけ逃げ出す気にはなれません。それにウイルスの研究も途中ですしね……」
ユナはジェナに頷くとヴィンスに小瓶を手渡す。
「……これは?」
「ウイルスの特効薬です。時間も設備も足りなかったので確実なものに出来ませんでしたが、この紙に製造方法と更なる改良方法が書いてあります。すいません……本当はこれでアリサを助けたかったんですけど」
ヴィンスは紙を広げて目を見開く。
「こ、ここまで……」
「どうか、これで世界をウイルスパニックから救って下さい。私たちには残念ながら公表する術がありません。ですからお二人にこれを託します」
ヴインスとジェナがユナと視線を合わせて力強く頷く。ユナは深々と頭を下げると部屋を後にする。そして扉の前で振り返って立ち尽くしている二人に口を開いた。
「私……絶対に忘れません……アリサの事」
二人は顔を伏せた。涙を隠したのかも知れない。そんなエンバール夫妻にもう一度頭を下げるとユナは部屋から飛び出た。
「ユナ。済んだか?」
「うん。託してきた。さぁ逃げるわよ」
部屋の周りを囲うようにロードサージェントが集まっている中、イレインが集中しだす。
「こりゃ難しいねぇ……」
「そんなのこの状況見ればわかるわよ。それでも最後まで諦めない。でしょ?」
「そうだな。よし! ユナこっちだ!」
イレインはロードサージェントへ突っ込んでいく。それなりに数は減らしたと思っていたが、まだまだ多い。四方から繰り出される攻撃を受け流しながら足を止めずに駆け抜ける。ユナもスリーピングフォレストを使って微小ながら援護した。
後は逃げ出すだけなのだが、レイゼルも目覚めたとなっては簡単にはいかない。外にもとっくに包囲網がしかれていて、窓から飛んで逃げ出した所でその隙をつかれてしまう。
少しずつ確実に隙をつきながら合間を縫うように進む他なかった。
「ちくしょう……後から後から……」
逃げながら応戦を繰り返しているうちにイレインの動きが徐々に鈍っていくのをユナはようやく気付いた。
「ちょっとイレイン! その腕の血は何? もしかしてあの時……」
逃げ込んだ部屋の中でユナはアリサの部屋から飛び出して二階下の窓を破って侵入した時の事を思い出した。
「大した事ねーよ。ちょっと動かしたから傷が開いただけだ。心配いらねー」
「大した事無い訳ないでしょ……ひどい出血じゃない」
厚めに巻いた包帯がしばらく出血を隠していたせいでユナの発見が遅れてしまった。今はもう包帯の意味をなしていないほどに血が滴り続けている。
「とにかく血を止めないと……」
ユナが立ち上がろうとすると腕を掴んでイレインが制止する。
「ダメだ。もう出るぞ。出たら左へ走れ」
「でもイレイン!」
「大丈夫だって。行くぞ!」
イレインは飛び出し、腕から血を散らしながら短剣を振るった。ユナは言われた通りに走る事しか出来ない。もう準備しておいたスリーピングフォレストの睡眠弾も尽きてしまった。
何も出来ないまま走る。イレインの後を追いながら走ると突然止まったイレインの背中にぶつかる。
「きゃ! ど、どうしたの!」
ユナが鼻を押さえながらイレイン越しに前方へ視線を投げると、そこにはレイゼルの姿があった。
「短い別れだったねイレイン。あ、そうそうユナ・セレスティさん。さっきは素敵なプレゼントをありがとう。おかげで久しぶりにグッスリ眠れたよ」
レイゼルは笑いながら短剣を取り出す。イレインはユナの手を掴んで真横の階段を駆け上がった。
「くっそ……最悪のタイミングだ」
「イレイン! 私たち本当に逃げられるの?」
「逃げられなくても逃げるしかないだろ!」
イレインは最上階まで駆け上がると後ろを確認する。まだレイゼルの姿は見えない。どうやら悪い癖が出ているようだ。少しずつ追いつめて、いたぶるように傷つけながら楽しもうとするレイゼルの悪癖が。
「まったく……嫌な野郎だな」
イレインは奥にある小さな倉庫の扉を開けて身を隠す。
息を潜めながらまた数字を呟き始め、逃げ道を探るがユナはイレインの苦い顔と今も尚、腕から滴る血を見て心の奥底から一つの案が生まれる。
「イレイン……」
「ユナ。大丈夫だ。大丈夫だから少し静かにしててくれ。集中出来ない」
イレインは汗を流しながら数字を呟き続ける。息が荒い。恐らく思考も鈍ってきているのだろう。どれだけ確率を見ても動き出そうとしない。逃げ道が見つからないのだ。
ロードサージェントの声が下の方から響いてくる。どうやら一階ずつしらみつぶしに探して潰す作戦のようだ。レイゼルらしい逃げ道の潰し方。恐らく追い込むだけ追い込んだら、自分でケリを付けるつもりなのだろう。
「イレイン。聞いて」
「ユナ。悪いけど静かに……」
顔を上げたイレインは言葉を詰まらせた。真向かいに膝をついているユナはその透き通るような美しい素顔を曝け出していた。手には脱いだ覆面が握られている。
「……ユ……ナ?」
「イレイン。『切り替え』て」
「な、何言ってるんだ?」
「いいから。切り替えなさい。早く言う通りにして」
イレインは切り替える。すると今まで見えなかった確率が次々に現れて、今まで見えもしなかった逃げ道が直ぐに見つかった。
イレインの能力にはもう一つの種類があった。
それは『自分の身に起こる出来事に絞ればあらゆる確率が受動的に見続けられる』というもの。これは見ると言うより感じ続けると言うのが近い。膨大な確率を一挙に感じ取り最良の選択をする事が出来る。
しかし、自分の身だけに限定してしまうため、他の出来事は見れなくなってしまう。なので、普段は他の事象も見れる状態にしてユナと自分の身に起こる確率や、これからどこでどんな出来事が起こるかを見る事にしていた。『切り替える』タイミングは戦闘時が多かったが、それもユナの安全を確保した上でないとイレインは絶対に『切り替える』事はなかった。でないと、知らぬうちにユナへ迫る危険に対応出来ないからだ。
「イレイン。後は頼んだわよ」
「ユナ……お前まさか!」
「あんた一人なら逃げられる。私が囮になるから。チャンスを逃さないでね」
「バカ! 何言ってんだよ! そんな事……!」
ユナはパチンとイレインの両頬を手の平を挟む。
「覚悟を決めなさい。どの道このままじゃ二人とも捕まっちゃうんでしょ? 大丈夫。私は死なないわ。大犯罪者とは言え今までの功績もあるからきっと生涯幽閉されるくらいで済むはずよ。あんたには借りが沢山あるからね。少しは返さないと。イレイン。ごめんね。任せちゃう事になるけど、きっとあなたなら大丈夫。怠けないでしっかりやるのよ! じゃあね」
ユナは微笑んでパンとレインの頬をもう一度挟むと、立ち上がり扉に手をかける。ロードサージェント達はもう一階下まで迫っていた。
「ユナ……おい、ユナ!」
イレインの呼ぶ声にユナは扉を背にして振り返ると、手に持っていた覆面をイレインに投げる。
「これ、あんたのアイデアだったわよね。最低なアイデアだったけど。私もなんでのっちゃったのかな? ほんと不思議」
覆面を両手でキャッチしたイレインが少し不安げに目を瞬かせる。ユナは込み上げて来る気持ちを抑えきれる自信がなくなって扉の方へ向き直った。
「イレイン……ありがとう」
ユナは扉を開けて部屋を後にする。震える声で言われた感謝の言葉にイレインは何も返す事が出来ずに、覆面を握りしめた。
直ぐに階下からロードサージェントの言葉が響き渡る。ユナの声は聞こえない。ただ、確かにロードサージェントの声で「ユナ・セレスティ」と言っているのが聞こえた。
イレインはユナの覆面を握りしめたまま、部屋を飛び出た。ユナの下りた階段を通り過ぎて、振り向かずにたった一つの逃げ道を、何かを振り切るように走り抜けた――――。