表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

第二章  過去

「————で? 何で私たちはこんな所で焚き火をしながら夜明けを待ってるのかしら? 確かちゃんと宿取ってたわよね?」

 山の中腹で、形の良い石を見つけて焚き火をしていたイレインとユナ。パチパチと音を鳴らしながら煌煌と燃えている火を挟んで対面に座る二人はこの暗闇では身動きが取れないので、こうして朝日を待っていた。

「仕方ないだろ。あんだけカッコつけて消えちゃったんだから。また宿に戻ってガードン達に鉢合わせたらダサ過ぎて死んじゃうよ。それに後一時間もすれば夜明けだ。大した時間じゃないよ」

「あーあ。覆面破けちゃったし。どうやって顔隠そう……」

 ユナはイレインが拾っておいた覆面をつまんでヒラヒラと揺らす。揺れる火の光に照らされる顔にはもうさっきまでの悲壮はなかった。

「もうしょうがねーから、とりあえず町で仕入れるまで、それで鼻と口元だけ隠しておけば?」

「こう?」

 ユナは破けた布を少したたんで頭の後ろで縛る。確かに顔の半分は隠せた。

「後はその伸びた髪を少年みたいに短く切れば、すっかりおとこの……あがっ!」

 最後の「子」を言い切る前にユナの見事な投石がヒットする。

「言いたい事はそれだけ?」

「ゆ、ユナさん……言葉と行動の順序が……」

「はぁ?」

「い、いえ……何でもありません」

「まったく、もう」

 ユナは腰を下ろすと、ポケットの中から紐を取り出し、器用に髪を束ね始めた。

「これでどう?」

「おぉ……」

 随分印象が変わるもんだな。とイレインは感心する。その姿は少年ではなかったが、確かに今までのユナとも違って見えた。その見栄えがかなり新鮮で少しだけ見蕩れてしまった。

「しばらく……それでいれば?」

「あんたねー。バレたらどうすんのよ」

「逃げる」

「バカじゃないの? 付き合ってられないわ。それより、次はどこに行くのよ?」

 ユナは顔をそらしてぶっきらぼうに質問した。視線の先にはローグタウンがある筈だが、暗闇で全く見えない。それが何だか安心したし、寂しくもあった。

「次はザイバルだね。あそこで誰かが殺される」

「本当に尽きないわね……でも、それくらいだとあまり被害はないんじゃないかしら?」

「いや、それがどーも変なんだよな。人が殺される確率はもとより、それによって負の連鎖が起きる確率も九十を越えてるんだよ」

「何よそれ……また、とんでもない殺人鬼を相手にするって事?」

「まぁ、そうなるだろうね。確かに俺達が殺人者に相対する確率も同じくらい高いから」

「そう……了解。何とか未然に防ぎましょ」

「もちろん」

 少しずつ空が白んで来る。漆黒に塗られた世界が少しずつ色を取り戻していき、地面も空も、その境界をハッキリさせた。

「よし、行こう。ここからなら昼には着くだろう」

 イレインは焚き火を消して立ち上がる。

 ザイバルと言う町はローグタウンの西側に位置する町で、大きさはローグタウンの四倍もある大きな町だった。人口も多く、様々な分野で先進しているいわば文化の拠点となる町の一つだった。

 山を下りて、西へ向かう。地図を片手に前を歩くイレインの姿に迷いは無い。こうした役割分担が決まってからもうそれなりに時間が経った。ほとんどユナの命令に従っただけだが、その頭脳から提案されたものは全て合理的でイレインが口を挟む余地は無く、現在に居たるまでずっとその手法と手段を取っている。ただ、自分よりも自分の能力を使う技術に長けているユナを見る度にイレインは何とも言えない気持ちになっていた。

 ザイバルへ続く線路の上をしばらく歩いていると、ようやく汽車がやってくる。二人は横に逸れて身を隠し、流れる列車のタイミングを計った。

「よし! 今だ!」

 速度はそれほど遅くない。イレインが接続部に飛び乗ってユナを引っ張り上げる。このまま後はザイバルに着くまで大人しくしていれば良い。

「ねぇ。聞き忘れてたんだけど、その誰かが殺されるのはいつなの?」

「あー。そうだそうだ。どうやら七日後に殺されるのが一番確率高いみたいだけど」

「七日後? 随分先じゃない。それなら他の所も回れるんじゃないの?」

「いやいや、それはない! この七日間、他の所で連鎖が起きる可能性はかなり低い。それよりザイバルでしっかり調査した方が良い!」

「そう。あんたがそう言うならきっとそうなんでしょうね」

「だからそうなんだって……」

 イレインの能力が本物と信じているユナにとっては、その情報は紛れもなく真実なのだが、いつまで経っても学習しないイレインという人間がその信憑性を限りなく低くさせていた。

 今の所、それよりもイレインの身体能力の方が信頼性がある。ユナもまた何故、自分にこの能力が備わらなかったのかと嘆く日々を送っていた。

 二人は車間接続部の隙間から空を覗く。流れていく青はずっと変わらない。

 上だけ見ていると、この汽車は止まっているんじゃないかという錯覚にも陥ってしまいそうだったが流れる風や横に広がる広大な田畑の動きが自分達の移動している向きを教えてくれた。



「いやー! 着いたなザイバル!」

 駅に着く直前にスピードを落とした汽車から飛び降りた二人は何食わぬ顔で町に入って行く。

「何だか賑やかね。お祭り?」

「そうか! そうだそうだ! ザイバルは確か今、星祭りだ! いやー忘れてたー!」

「何よ星祭りって」

「なんだ知らねーの? 天才学者のくせに」

「その言い方止めて。それに風土関係は専門外」

「はいはい。星祭りってのはこのザイバルがここまで発展する前からある由緒正しき祭りなんだ。ちょうど、この時期が一番星がよく見えるってんで、神様が一番近づいている時期と言われてるのさ。だからみんなで神様に感謝しながらおかげで幸せな毎日を送っていると見せるんだ。しかも夜になれば極力明かりを消してみんなが空を見上げるらしいぜ。いやーロマンチックだこと」

「ふーん。面白い文化ね。発展した科学に頼りすぎて大事な事を見失うなって意味も込められているのかしら? それとも……」

「はいはいはいはい! そこまで! 全く、いつもそうやって分析すんのやめろよ。要は楽しもうぜって事! 深く考えなくていいんだよ! ほら! 折角なんだ! 時間もあるしたまには羽伸ばそーぜ!」

「ちょ! ちょっとイレイン!」

 ユナはイレインに手を引かれ、浮かれた町中へと飛び込んだ。

 二人は人ごみの中をまるで踊るように駆けて行きながら様々な店で立ち止まった。

「おいユナ! アレ欲しいだろ? 取ってやるから見てろよ!」

 イレインはユナの返答も聞かず、銃口にコルク弾を詰めた銃を構える。狙いは月をかたどった綺麗な髪飾り。慎重に狙いを定めて撃つ。

「っだー! くそ! まだまだ!」

 わずかに逸れた弾。残りは三発。

「っだー! 次は右かよ!」

「っだー! もう! あぁ! やばい!」

 結局、かすりもせずに迎えてしまった最終戦。気付けばイレインのオーバーな反応を面白がってギャラリーが囲っていた。その直ぐ前に立つユナは別に欲しくもなかった髪飾りが何だかいつの間にか欲しくなってきていて周りと動揺に胸を高鳴らせていた。

 緊張の一瞬。みんなが息を呑んでその瞬間を待つ。ギャラリーも店主もユナも。

 イレインは台に手をつけず、絶妙なバランスで体を預けて身を乗り出した。その姿は誰がどう見ても格好悪いものだったが、笑うものなど一人も居ない。イレイン自身もそこまでして欲しいものかどうかと聞かれたら首を捻るだろうが、そこはお祭りマジック。何としてでも手に入れなければという半ば使命感のようなものに突き動かされてなりふり構わなくなっていた。

 そんな真剣な者を誰が笑えよう。今、彼が撃ち落とそうとしている物は男のプライドよりも大切な物なのだ。

 引き金に指をかける。そして……

 ————放つ!

「っっっっいよっしゃーーー!」

 イレインによる歓喜の雄叫びがバイザルの空に響き渡る。途端に沸き上がる歓声。

 放たれた弾は見事に髪飾りの上部を撃ち抜き、落とした。

 送られる拍手や賛辞の言葉に振り返り、へこへこと頭を下げるイレイン。そのにやけた間抜け顔はいつもなら蹴っ飛ばしてやるのだが、ユナも何故か拍手を送ってしまっていた。

「ここまでして持ってかれるなら気持ちがいいや! はいよ! 中々の値打ちもんだぜ!」

 店主に渡された髪飾りをイレインはユナに手渡す。

「付けてみろよ!」

「う、うん……」

 左の側頭部の髪を束ねて髪飾りで留めると、さっきよりも盛大な拍手がユナとイレインを包んだ。

「どーもどーも!」

 いいぞ! よくやった! などという声援に混じって「挙式はいつだ!」「今晩ははりきっちゃうな!」といった言葉が届いてユナは我に返る。

「ち! 違います! これはそういうんではなくて!」

 両手を振って懸命に誤解を解こうとするが、熱気は既に頂点まで登り詰めている。そんな事を言っても逆効果だった。

「恥ずかしがるなよ!」

「顔まで隠して! 照れ屋な嬢ちゃんだ!」

 ユナはどうにも出来なくなってしまい、慌てて髪飾りを外そうとするがその手をイレインに取られ、またもや引っ張られながらギャラリーの隙間へと突っ込んで行く。

「よっしゃー! つぎつぎー!」

「いいぞ兄ちゃん! でも折角の星祭りだ! 夜はちゃんと空見んだぞ!」

 ガハハハハと男達の笑い声に包まれながら店を後にする。イレインは同じく笑っていたが、ユナは覆面で隠せないほど顔が真っ赤になっていた。

 その後も途中で立ち止まっては様々な出店で立ち食いしたり、遊んだりの繰り返し。イレインの大げさな反応は自然と客寄せになってしまい、まだ来て数時間と言うのに名前も知られないまま顔だけは知れ渡ってしまった。

 終盤になると、店に着いたら「お! 噂の兄ちゃんか!」と店主に喜ばれる始末。

 ユナも顔が売れるのはマズいと思いながらも、射的やくじ引き、見た事も無い甘い飴菓子やシンプルに焼いただけの肉など、平常時にやったら面白くもおいしくもないものに不思議と心を奪われてしまって結局楽しんでしまった。

「いやー! やっぱ祭りって良いよなー!」

「あんたもう少し目立たないように出来ないの? こっちは気が気じゃなかったわよ」

「ユナ。その両手に持ってるそれは何だい?」

 町の中央にある噴水広場の階段に腰を下ろしていた二人。イレインが指差すユナの両手には、先ほど食べた甘い飴菓子が握られていた。

「こ! これは! 美味しかったのよ! それにこっちはあんたの分でしょ!」

「あっそ。じゃあちょうだい!」

「私の分よ!」

 ユナはイレインが伸ばした手を避けて飴菓子を頬張る。口中に広がる柑橘系の自然な甘みに公庫鬱の表情を見せた。

「楽しんでんのはどっちだよ……」

「……何か言った?」

「い、言ってません!」

 イレインは両手でユナを制す。いつもならここで問答無用の暴力が振るわれるのだが、両手に『甘い幸せ』を握っているからか何とか事なきを得た。

 喧騒と呼べば、そうとれるくらいに町中が騒いでいるのに全く不快感は無く、むしろ快活な気分になれた。みんながみんな笑い合って時の流れを楽しんでいる。本当に神様が近くで見ているのなら確かにこれを「幸せ」と呼びそうだった。

 二人は休憩で座っていたのだが、賑やかな人の流れを眺めているだけで楽しめてしまう。

 今日、この町に何にも無い退屈な場所なんて存在しないのかも知れない。

 時々、イレインを見つけて手を振る者も居たが、それ以上に余計な干渉をしようともせず、イレインが手を振り返すと互いに笑顔でその距離をまた遠ざける。おかげで、ユナの心にあった多少の不安は少し薄らいだ。

「おいユナ。あれ見ろよ」

 イレインが指差す方向に目を向ける。

「……頭脳王決定戦?」

 ユナは目を細めて看板に書いてある事項を読む。簡単な話、どうやら科学系のクイズ大会のようだ。

「ユナ! あれ出ろよ!」

「はぁ? 何で私が?」

「だって賞金五十万レントだぞ? それだけありゃここでの生活は豪遊三昧だ!」

「バカ言わないで! 大人しくしてなきゃダメじゃない! 私たちの目的を忘れないでよ。良い? 私たちは正体が明らかになったらいけないの! 何で自ら危険を冒さなきゃならないのよ!」

「心配し過ぎだって! 大丈夫だ。今の姿なら絶対にバレやしない! 名前を偽名にしてやれば問題なし! それに……それ、食い放題だぞ?」

 ユナはイレインと向かい合いながら、最後の一口を頬張る。

 ゴクッ————。



「————そして最後の紹介になります! エントリーナンバー二十番! ユナ・エレナさんでーす!」

 祭りで一番大きな会場に沸き上がる拍手と歓声。そこには笑顔で手を振るユナの姿があった。

 参加申し込みの際に渡された問題を全問正解した二十人が並んで座る。

 この頭脳王決定戦は星祭りの中でも一、二位を誇る有名行事で、ここで優勝した者はその後、一年間頭脳王として町中から尊敬される。発展の最先端を走り続けているザイバルらしい風習だった。

 大きな会場に詰め寄るギャラリーの数は途方も無い。みんな待ってましたと言わんばかりに目を輝かせて声援を送っていた。

「さぁ。栄えある頭脳王に輝くのは一体誰なのか? そしてここでみなさんお待ちかね! 前回の優勝者! 現頭脳王の登場です! どうぞ! 皆様盛大な拍手を!」

 司会者が会場の袖を指すと、そこから一人の少女が現れる。そして割れんばかりの拍手が大地と空へ響き渡って行く。

「さぁこちらが前回まで五連覇中のザイバルが誇る頭脳王! アリサ・エンバールさんでーす!」

 少女は紹介を受けてスカートの裾を引っ張りギャラリーに挨拶をする。見た目もあどけない正真正銘の少女だったが、そのそつのない挨拶の仕方と言い、この大観衆の前でも緊張一つ見せない笑顔と言い、何やらただ者ではない雰囲気を持っていた。ユナはそんな少女の姿を見て少し懐郷の念に心を埋められながら、少しばかりの恐怖も感じていた。

「ユナさん! よろしくお願いします!」

「え? あ、あぁ。こちらこそ……」

 アリサはユナの横に座ると丁寧に頭を下げた。その子供っぽい笑顔と大人な仕草がどうもちぐはぐで心が落ち着かないユナは少し戸惑う。

 しかし、そんな間もなく頭脳王決定戦は火ぶたを切った。

「第一問! 今から言う二十個の数字を足す、引く、掛ける、割るの順番で計算していき、答えをお書き下さい! シンキングタイムは問題を言い終わってから五秒です! ではいきます!」

 司会者が問題用紙を眺めながらリズム良く数字を唱え始める。その全てが四桁以上で一問目から随分難解な問題かと思われたが、ユナは全く動じず頭の中で数を計算する。

「————それでは一斉に答えをどうぞ!」

 ボードに書いた答えはみんなバラバラ。しかし、ユナとアリサだけが全く同じ答えを書いていた。

「おーっと! これはこれは! ユナさんとアリサさんが同じ答えですねー! さぁ正解はどうなっているのでしょう! この問題の正解はこちら!」

 会場のバックに設置された大型のモニターに数字が映し出される。

「ユナさんとアリサさんが正解でーす! これはこれはもしかしたら今回初登場のユナさんが台風の目になるかもしれませんねー! さぁどんどんいきましょう!」

 それからの問題も難解を極める物が続いていく。しかし、そこは流石に選ばれた精鋭達。観衆に紛れて問題の意味すら理解していないイレインとは違い、それぞれ数回は間違えるも正解を何度もたたき出した。

 ただ、ユナとアリサだけは全問正解だった。

「さぁ! ここで現在の成績を見てみましょう! こちら! おーっとやはりユナ・エレナさんがダークホースとなりましたねー! まさかのアリサさんと同率首位! 残す問題はあと二問! 果たして結果はどうなる事やら!」

 司会者は上手く会場の空気を操っていく。当初から熱気は凄まじい物だったが、ここへ来て更に熱を増していった。

 ユナは少しだけ心が揺れる。隣で笑顔を絶やさず、純粋に楽しみながら正解をたたき出す姿にかつての自分が重なってしまった。きっとこのザイバルでは有名な天才少女なのだろう。目の前に広がる観衆の期待の目がそう言っている。今回もアリサが優勝するに違いないと信じ切っている目だ。この子ならやってくれる。そう期待を向けた目は、自分に向けられている物ではないにしろユナにとっては久しく見る眼差しだった。

「第二問! これはちょっと難しいですよー! かつて何人もの数学者が生涯賭けても解けなかった難問の応用です! しかし、昨今では既に解かれている数式ですのでみなさんなら解ける筈でしょう! いきます!」

 司会者が読み上げた問題を聞いて一瞬、ペンが止まる。

 そのかつての数学者が解けないまま死を迎えた問題。

 昨今になってようやく解き方が公表されて長年の命題となっていた難問はその存在の全てをようやく世界中に明かした。

 その時、その難解な数式を解いたのは若干、十三歳の少女だった事もまた世界を賑わし、それからも少女はいくつもの解き明かされなかった問題の答えを導きだしていった。そうしていくうちにいつしか、解き明かされていく問題よりも少女自身の方が有名になっていく。

 〈彼女の前には「答え」しかない〉

 そんな形容も全く滑稽にならないほどの世界中が認める奇跡の天才少女。

 その名はユナ・セレスティ————。

「またもやユナさんとアリサさんだけが同じ答えです! さぁー見てみましょう! 正解はこちら!」

 モニターに写し出された答えはユナとアリサが答えた物と同じ。

 一気に沸き立つ歓声と拍手の渦。司会者もそれをどんどん煽っていく。ただ、それに対する二人の表情は全くの別物だった。

 終始笑顔を絶やさないまま嬉しそうに手を振るアリサ。その横でユナはどんどん表情を曇らせていった。

「つまらないんですか?」

「え?」

 ユナが振り向くとアリサは首を傾げていた。司会者が場を盛り上げようとさらにヒートアップして言葉を放つ中、アリサはユナを見つめたまま、もう一度口を開く。

「そんな顔してたから。ユナさんつまらないのかなーって……」

「う、ううん! 全然! そんなことないよ!」

 笑顔を作って答えた。目だけでも笑っているとわかるくらい大げさにしてみたのだが、アリサの表情は変わらない。

「私は、楽しいです。ユナさんがどんな気持ちでいるのかはわからないけど、私はユナさんとこうして競い合うの楽しいです」

 アリサの言葉にユナの心がズキっと痛む。きっと作り笑いだって事もバレているのだろう。この子は子供のような純粋な目で人を見抜き、そして大人顔負けの思考力で分析する。その上で自分の正直な意見を言える純粋さを持っているのだ。

 そう、あの頃のユナのように。何も恐れず、ただ目の前に広がる未知の世界が知りたくて駆け抜けるように扉を開けていった。こんな未来が待っているなんて知らずに、何も疑う事無く、全てを吸収しながら過ぎていった自分の幼少期。

 ユナの脳裏にあの頃が甦って来る————。

「おかーさーん! お腹空いたー!」

 ユナは小さな田舎町の中流家庭に生まれたごく普通の少女。ユナ自身は何とも思っていなかったが、学校では常に成績トップをキープしていて、周りからは天才などと呼ばれたりもしていた。

「はいはい! もう少し待っててね! お父さんも帰って来る頃だから。そうしたら夕飯にしましょう。だからまずはテーブルの上を片付ける事」

「はーい!」

 ユナは母の言いつけ通りにテーブルの上に散乱した文献を片付け始める。例え天才と呼ばれようとも、こんな所は他所の子供と変わらない。興味を持つのが科学だとか数学なだけで、別に子供には変わりないのだ。

 ユナは両親にとっては自慢の娘だ。しかし、それは天才だからではなくて親の言う事をちゃんと守れる良い子という意味での事。ユナの父と母は娘の才能なんて気にもしていなかった。

 だからユナ自身も何とも思っていなかったのだ。

 そんな人並みの幸せを噛み締めながら過ごす平坦な毎日が変わったのは、ある日の事だった。

 雨脚がその強さを一層増した午後。家族で団欒を楽しんでいた休日。突然それは訪れた。

 コンコンとドアをノックする音が鳴る。雨の音が強くなってきてもそれはハッキリと聞こえた。

 父親が扉を開けると、二人の男が立っていた。見慣れない黒い制服を身に纏った男達。歳はユナの父よりも上に見えた。

「失礼。こちらがセレスティさんのお宅でよろしいですかな?」

 前の方に立つ男が帽子を脱ぎ胸に当てて伺う。

「はい。そうですけど、何の御用でしょう?」

「実はそちらのお嬢さんに用事がありまして」

 男はテーブルに文献を広げてノートにペンを走らせているユナに手を向ける。

「うちのユナに……ですか?」

 怪訝な表情で男二人に視線を配ると、後ろの男が胸元から一枚の書類を取り出して広げた。

「そちらのユナ・セレスティさんに国家から出向要請が来ております」

「ユナに……? ど、どうして!」

 ユナの父は男達の言っている事がまるで信じられない。こんな田舎町のしかもまだ小さな少女に国家が出向要請だなんてありえない。もしかしたら詐欺かも知れないと疑ったが、彼らの襟に付けられたバッジを見て考えを改める。

「あ、あなた方は……」

「申し遅れました。私たち国家から送られました聖騎士軍。通称ロードサージェントのウェルスと申します。そしてこちらが部下のジェイカー」

 紹介されたジェイカーが書類をユナの父に渡して頭を下げる。

 ロードサージェント。

 国が持つ最強最高の騎士軍。国の為に様々な活動を行っているため、属している騎士達は常に各地を回っている。そして有事とあらば一挙に集結し、その全てを解決に導いてきた聖なる存在。故に、国の為にしか動かない誇り高き彼らの命令に逆らう事は許されない。

「お宅のユナさんが類い稀なる頭脳をお持ちとの噂を聞き、是非とも国家研究所でその力を振るっていただきたいと国王が申しております。わかりますな?」

 男の目は笑っているが、その顔は柔和とは程遠く、冷酷その物だった。

 わかりますな? の意味はユナの父も重々承知している。これに逆らえば国家反逆罪で家族みんなが処刑されかねない。よくて一生牢獄暮らしだろう。

 つまり、ユナとは今、この瞬間にお別れが決まったのだ。

「あなた、どうしたの?」

 玄関先で固まったままの夫を気にかけてユナの母がやって来る。

「これはこれは、ユナさんのお母様ですな? どうぞ、旦那様のお持ちになっているその書類に目を通して下さい。お宅の娘さんにとても名誉な要請が国から来ています」

 国からの要請。で、勘のいいユナの母は何となく気付いた。そして夫の雰囲気でそれを確信する。

「ユナの頭脳が……国のお役に立てるのですね」

「その通りです。さすが天才を生んだ母君ですな。聡明でいらっしゃる」

 ユナの母は頭を下げると、夫の肩を抱きユナの元へ戻った。

「あれ? お母さんもお父さんもどうしたの? 嫌な事でもあった?」

「ううん……大丈夫よユナ。ねぇユナ? 問題を解いたり、知らない事を知ったりするのは楽しい?」

「うん! 楽しいよ! 問題解くの大好き!」

「そう……そうなの……良かったわ……本当に良かった」

「ん? お母さん?」

 ユナが首を傾げると母が抱きしめる。

「く、苦しいよお母さん。どうしたの?」

「ユナ。大丈夫。絶対に大丈夫だからね。必ずまた会えるから。その時はあなたの大好物を沢山作って待ってるからね。ユナ。ユナ!」

 母の抱きしめる力は強く、ユナにとっては苦しさしか残らなかったがどうやら母は泣いているようなので抵抗もせずジッとしていた。ふと、上げた視線の先で父が膝をついて泣いている姿の理由も分からないままただジッと座っていた。

 その後、直ぐに両親が泣いている理由を知る事になるとも知らずに。

 研究所に送られたユナは程なくしてその才能を見事に開花させた。科学や数学、物理学から生物学まで精通し、様々な国家研究機関を転々としながらその知識をどんどん吸収していった。

 悲しみに暮れる暇も無く。両親との連絡も断絶されていて、いつしかあまり思い出さなくなった。それよりも目の前に広がる未知の世界から目が離せなかった。知れば知るほど謎が生まれ、それをまた解いては謎に出会う。答えを出す快感もそうだったが、成長していくにつれて、何より人々の役に立てているという栄誉がユナの研究理由になっていた。

 しかし、それもやがて崩壊する。全世界に向けて発表した世界滅亡論。成長した世紀の天才が研究に研究を重ね、導きだした答えに間違いは無かった。無かった筈なのに、彼女は一瞬で世紀の大犯罪者になってしまった。

 最初は良く居る町で有名な勉強のできる少女だったのに。どこで変わってしまったのだろう。

 どこかで道を間違えてしまったのだろうか。なんて考えても遅かった。

 進んだ時計の針は絶対に戻らないのだ————。



「ユナさん?」

「え? う、うん。ごめんなさい。ちょっと考え事してて」

「あはは! 私と話してるのに考え事ですかー?」

「あ! ご、ごめん! ごめんね?」

「全然! 気にしないで下さい! ユナさん! 最後の問題始まりますよ!」

 負けませんからねー! と笑う顔は何とも愛らしかった。ユナはその顔を見てやっぱり過去の自分を重ねてしまう。

 この子の未来はどんなものになるのだろう。と考える。きっと今は幸せな筈だ。でなければこんな風に笑っていられない。きっとアリサには優勝を喜んでくれる人が大勢いる。誇りに思ってくれる両親が今も待っている筈。大丈夫。きっと大丈夫だ。この子は私のようにはならない。ならないで。

 そんな事を考えながら最終問題を聞いていた。今までで一番の難問だったが、ユナにとっては取るに足らないもの。ペンはスラスラ走った。

「さー皆さん! 回答をお出し下さい!」

 司会者の合図で一斉にボードを裏返す。

「おーっと! ここでようやくユナさんとアリサさんの回答が割れました! さぁ! ここで決着が着いてしまうのか! どちらかが正解すれば優勝決定! どちらも不正解なら二人のサドンデスが始まります! では見てみましょう! 正解はこちら!」

 モニターにパッと正解が映し出される。その数字を見て目の前に広がる観客が一瞬の静寂の後、今までで一番の盛り上がりを見せた。

 割れんばかりの拍手が降り注ぎ、声援がひっきりなしに届いて来る。

 そしてどこからか始まる「アリサ」コール。そのコールは鳴り止む気配がなかった。

 この最終問題を制したのはアリサだった。

「またもや頭脳王に輝いたザイバルの誇る天才少女アリサさんに皆様、今日一番の拍手で讃えましょう!」

 これでもかってくらいに鳴り響く拍手の中、アリサは立ち上がり手を振る。その横でボードに書いた数字を眺めながら微笑むユナ。そう、彼女はわざと間違えた。喜ぶ者がいるのならアリサが優勝するべきだと考えた。自分のようにはならないで欲しい、両親と幸せを噛み締めて欲しい。そんな願いが彼女の行動に反映した。

 ユナは沸き立つギャラリーの中、イレインの姿を見つける。みんなが両手を挙げて拍手を送っている中、一人絶望に撃ちひしがれているような表情で虚空を眺めている姿は何とも間抜けで、ユナはプッと吹き出してしまった。

 そしてまた思い出す。命からがら逃げ延び、彼と出会ったときの事を。

 世界中が信じなかった自分の理論を真っ向から「正しい」と背中を押してくれた確率が見えるという不思議な少年。彼のおかげでまた立ち上がる事が出来た。こうしてまた皆の為に、いつかまた会えると信じて止まない両親の為に動く事が出来た。

 感謝してもし足りないのだが、それを言うとまた調子に乗りそうなので止める事にした。ただ、きっと会場を出たら文句を言ってきそうなので、どうやって黙らせようかと考えていた。



「なーにが天才だよ! あんな少女に負けちまってんじゃんか!」

「あんた言いたい事はそれだけ?」

「ひっひぃー! 何でも無いでっ! あがーっ!」

 容赦なく繰り出される右フックがイレインの顔面にめり込む。数メートル吹っ飛んだ彼の姿を見て溜め息をつきながらも心は穏やかだった……いや、一瞬だけ沸騰したけど穏やかに戻った。

 予想通りの反応を見せたイレインを叩き起こして、拠点となる宿を探す事にする。ただ、ここまで大きな祭りの最中となるといささか苦戦しそうだった。

「ダーメだ。ここもいっぱいだってよ」

 既に十軒目となる宿から出てきたイレインは首を振る。やはりユナの予想通り、宿探しは難航していた。

「もう野宿しかねーんじゃねーか?」

「ぜっっったいにイヤ!」

「もー……だったら優勝くらいしろよな……」

「何か言った?」

「い、いやいや! 何も言ってな! がはっ!」

 今度はボディブローがイレインの腹部にめり込む。胃から今日食べた物が逆流しそうになるのを必死に堪えてイレインは(やっぱり聞こえてんじゃん)と心で愚痴を吐いた。

 そうしているうちにも日はもう傾き始めている。このままでは本当に野宿になってしまう。

 二人は歩を速めて一軒一軒宿を回った。

 回ったのだが、そのどれもがやはり満室だった。

「もーダメ! 降参! ユナ! 祭りが終わるまでの辛抱だよ。諦めよう」

「何言ってんのよ! 私は諦めるのが一番嫌いなのよ! ほら! 行くわよ!」

 しゃがみ込むイレインの襟を引っ張るが、イレインはなかなか立ち上がらない。体力は彼の方があるのだ。なのにこうしているのはきっと彼は野宿がそこまで嫌じゃないのだろう。気持ちは時として体を凌駕する。今の二人の姿が正に典型的なそれだった。

「ユナさん!」

 なかなか起き上がらないイレインをいよいよ蹴り上げようとした時、背中に声を掛けられる。

 振り返るとそこにはアリサが立っていた。

「あ、アリサちゃん?」

「ユナさん。今、大丈夫ですか?」

 アリサの表情に笑みは無い。ただ別に不快感も感じられなかった。ただ真っ直ぐにユナを見つめているだけで。

「え? あ、あぁ……うん! 大丈夫よ!」

 ユナはしゃがみ込みを続けるイレインの後頭部を睨みつけて渋々、引いていた右足を戻すとアリサに微笑んだ。

「ユナさん……最後、何で間違えたんですか?」

 アリサの質問にユナの顔が少し曇る。

「何でって……そりゃ計算ミスしちゃって」

「嘘です。ありえません」

「な、何でよー! 最後の掛け算でミスしちゃったんだって!」

「わざとですよね?」

「……いや、その。だから」

「何で勝負してくれなかったんですか? 私との勝負じゃ楽しめなかったんですか? 私は感動してました。憧れの人に名前も似ていてしかもその人に負けず劣らずの頭脳を持っているあなたに!」

「え……?」

「その人はもう亡くなってしまっているかも知れませんが……それでも一生私の憧れなんです。それは変わらないんです。どんな事があっても……絶対に……憧れなんです。だからユナさんと勝負している時はその人と勝負しているような感覚が芽生えてきて……それで、それで」

 ユナはもう気付いていた。アリサの憧れが誰であるか。でも、心の奥底で信じられなかった。世紀の大犯罪者のレッテルを貼られた自分に憧れている子供がいるなんて。しかも、それが自分の過去と良く似た少女だなんて信じられなかった。

 でも、それ以外に考えられないのも事実。ユナは覆面の下でグッと歯を食いしばった。

 言ってはいけない。聞いてはいけない。

 それを言わせてしまったらそれこそ、何かが変わってしまいそうで。ユナはグッと喉から出かかる言葉を飲み込んだ。

「アリサ。それってもしかしてユナ・セレスティか?」

 ユナの後ろからしゃがんだままのイレインが口を開く。驚きのあまりユナが振り返っても、視線は合わなかった。イレインの目は真っ直ぐアリサに向けられていた。

「お兄ちゃん、誰?」

「俺はイレイン・コートレッド。ユナ・セレスティの事を今でも信じている大バカ野郎の宿無し放浪者だよ」

 イレインは自己紹介を終えると立ち上がり、ユナに並んだ。

「な。お前もそうなんだろ?」

 イレインの質問にアリサは小さく頷く。それを見て微笑むとイレインはアリサの頭をワシャワシャと撫でた。

「そっか、良く言った。流石だなー。それ正解だ」

 髪をぐしゃぐしゃにされたアリサは顔を上げる。イレインに向かって放った言葉はただ一言。

「うん!」

 その笑顔は屈託の無い物だった。もしかしたらアリサはユナがわざと間違えた事を口実に、何となく話したくなっただけなのかも知れない。

 自分の隣で自分よりも数倍の速さで問題を解く憧れの人と似た名前の人物に、どこか惹かれていたのかも知れない。

 目的が何であれ、アリサにはもうどうでも良くなっていた。ユナ・エレナが何者でも良い。それよりも、そこで出会った居る筈の無い同志の存在が嬉しくて、一気に心が開いてしまったのだろう。

 アリサはイレインによって爆発したような髪型になりながら、会場では見せた事も無かった子供そのままの笑顔を向けた————。




「なー。本当に良いのか?」

「うん! 大丈夫だよ! パパもママも喜ぶよきっと! 今日はパーティーだから!」

「でも……申し訳ないわよ。いきなりお邪魔するなんて」

「いーの! 大丈夫なの! あとユナさんは今日また勝負だからね! 次はわざと負けるの無しね! 約束!」

「アリサちゃん、だからあれは……」

「やーくーそーく!」

「わかった、わかったわ。約束」

 ユナとアリサは小指を絡める。アリサは夜の楽しみが増えたのが嬉しいのか、飛び跳ねるように進んでいった。

 イレインがその後ろ姿を眺めながらユナに呟く。

「良い弟子が出来そうじゃねーか」

「バカ言わないでよ」

「そうだな。自分より頭が良い奴を弟子に出来る訳っがぁ!」

 今度は鳩尾に肘打ちが決まる。しばし、呼吸の出来ないイレインはその場にうずくまるが、アリサは全く気付かない。ユナもそのままイレインを置いてアリサを追いかけていった。

「ホント……何であんなのと旅してんだろ俺……」

 俯いたまま、石畳にそっと呟き顔を上げるとユナがこちらに振り向いていた。

 その光景に驚愕したイレインは全力で首を振る。ユナが向き直り、前に進むと深く息を吐いた。

「何で聞こえんだよ……ひぃ!」

 やっぱりユナが振り向く。イレインはこの時、ようやく自分に安全地帯が無い事を知った。

「ただいまー!」

「もうアリサどこ行ってたの! 真っ直ぐ家に帰りなさいって言ったでしょ……あら、そちらは……」

 玄関に現れたアリサの母親は無邪気に笑う愛娘の後ろで能天気に笑う男と覆面の女性? を訝しげな目で見た。

「ママ! この人ユナさんだよ! ほら! 頭脳王で一緒だった!」

「あ、あぁ! ユナ・エレナさんね! どうしてまた家に?」

「今日の宿がとれなくて困ってたから私が呼んだの! それでこっちの人はイレイン! 友達だよ!」

 ユナが深々と頭を下げる横でイレインはヘラヘラと笑いながら「どーも!」と手を挙げる。イレインは家に入った瞬間から香っている御馳走の匂いに心が弾みっぱなしだった。

「まぁ。それは大変でしたね! 私はアリサの母のジェナ・エンバールと申します。どうぞどうぞお上がり下さい!」

 ジェナはイレインを友達と呼ぶアリサが何となく不思議だったが、この能天気な顔からするに悪い人では無いだろうと踏んだ。ユナに至っては頭脳王での功績が心理的に良い方向に働いて覆面をしていても怪しむ事無く、家に上げた。

「うおー! 御馳走だ! パーティーだ!」

 イレインはリビングに案内されて、そこに広がる夢のような光景に飛び跳ねて喜ぶ。その姿を見てジェナはピンと来た。

「イレインさん。あなたはもしかして今日、色んなお店ではしゃいでいた方では……?」

「あー! そうそう! そうです! まさか星祭りの日にザイバルに来る事が出来るなんて!」

 イレインの浮かれている姿を見てジェナは吹き出してしまう。やはり悪い人ではなさそうだと確信した。

「ユナさん元気ないけど、どうしたの? 大丈夫?」

 アリサは家に上がってから一言も喋っていないユナを心配するが、ユナは目元を緩ませて首を振るだけでやっぱり話してくれない。

「何だよユナ。疲れちまったのか? 本当に体力ねーなー」

「あらあら。旅の疲れが出てしまったのですかね。でしたらお部屋にご案内しますからゆっくりお休みになって下さい」

 ジェナは少し俯き気味に立つユナを気遣い、部屋まで案内する。客間にはベッドが二つ置いてあり、一つの大きめな窓の横にテーブルと椅子が二脚置いてあった。

「こちら遠慮なくお使い下さい。しばらくはザイバルにいらっしゃるんですか?」

 ユナは頷く。

「でしたら明日は主人の知り合いの宿にも当たってみましょう。もし空いてなくてもここに泊まっていただければ良いですしね。アリサも喜びますから」

 ではごゆっくり。とドアを閉めるジェナにユナはしばらく頭を下げ続けた。

 一応、電気を消してから覆面を取る。その際に髪飾りも外して束ねていた髪の毛を全て解放した。

 いつものユナの姿になって深呼吸をした後、ベッドに座り込む。直ぐ側で聞こえるイレインとアリサの笑い声を聞きながら窓の外を眺めた。

「星祭り……確かに綺麗ね……」

 満天の星は空を埋め尽くしている。今が夜だと思えないくらいに光が散らばっていた。

「アリサと約束したのに……破っちゃった」

 エンバール家の優しさが胸に沁みて、空が歪む。楽しそうな声にアリサの父親らしき声も加わり、一層トーンを上げた。

 ユナは眠らずにずっとその声を聞きながら星を眺め続けていた————。




「————おい。大丈夫か」

 ユナは顔を上げる。いつの間にか寝てしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。でも気付けばとっくに楽しそうな声はしなくなっていて、時計を見ると時間は大分経っていた。

「何があった?」

 イレインは部屋に入り、扉を閉めるが明かりは点けなかった。

「ユナ。アリサの両親と知り合いなのか?」

 イレインの言葉に体がビクッと反応する。それを見てイレインはゆっくりと窓際に歩き、空を覗いた。

「あの両親だけ、お前に気付く確率が高かった。驚くほどって訳じゃないんだけどな。それでもそこら辺より高い。でもま、気にすんな。アリサの父さんが知り合いに頼んでくれるから、明日には宿が見つかりそうだし。覆面さえ取らなければ大丈夫そうだ。きっと少しくらい話してもバレる事は無いよ」

「……見てくれたんだ。確率」

 イレインは窓に背を向けてユナに振り返る。星空が明るいせいか、逆光になって表情はわからなかった。

「当たり前だろ。いつだって見てるよ。ヘマする訳にはいかねーからな。ま、それにお前のそんな姿見たらどうしたって気付いちまうさ。しばらく旅してる仲なんだからよ」

「そう……そうだね。アリサは、怒ってた?」

 イレインは首を振る。ユナはだんだん目が慣れてきて表情がやっと掴めた。イレインはあっけらかんと笑っていた。

「むしろ心配してたよ。イレインが引っ張り回したんでしょ! って怒られもした。言いがかりだっつーの」

「本当の事だけどね」

「まぁいいじゃねーか。だからさ、気にするな」

「うん……ありがとう」

 イレインはパンと手を叩くと窓から身をずらし、テーブルに手を添えた。

「腹減ったろ? これ貰ってきたから食えよ」

 まるで手品のようにテーブルにはパーティーで並んでいた食べ物が一人分用意されていた。

「ど、どうやったの?」

「種も仕掛けも御座いません」

 イレインは肉を一つつまんで口に放る。それを見てユナは直ぐに立ち上がり、イレインを押しのけて椅子に座った。

「私のよ! 食べないでよ!」

「ははは! ごめんごめん! っよっと!」

「あー! また!」

「もう終わり! これで終わり!」

 イレインは両手を振って後ずさる。まるで獣のように威嚇して来るユナを見て安心した。

「いただきます」

 ユナは手を合わせてお辞儀をすると勢い良く食事を始める。星明かりに照らされた食卓に座る一人の美女はすごく絵になる景色だったが、その豪快な食べっぷりは全くそこにそぐわないものだった。

 ……どんだけ腹減ってたんだよ。

 とイレインは心で呟く。

「ふぁんかふぃった!」

 ユナは口一杯に頬張りながら顔を上げ、イレインを睨みつけた。

 イレインは思い出す。自分に安全地帯は無かった事を。

 どうやら心の中にもそれはないらしい。

「……何でもありません」

 イレインは顔をそらしてベッドに腰をかける。ユナの食事がまた再開する音を聞いて、ようやく安堵した。

 ユナが食べ終わるまで、黙ってじっと待つ。そんなに時間はかからなかった。一人分とは言え、それなりの量があった筈なのだが、ユナはものの見事に早技で平らげると腹をさすりながら背もたれに身を預けた。

「はー。食べたー……」

 ユナは一息ついて、イレインの方へ顔を向ける。

「エンバールさん。何となく耳馴染みのある名前だと思ったんだ」

「そう。俺は全く馴染みがないけどね」

 肩をすくめるイレインに微笑んでユナは話を続けた。

「アリサの両親。ジェナ・エンバールとヴィンス・エンバールは私と同じ研究所に居た研究員よ」

「でも、ユナは転々としてたんだろ?」

「最初はね。でも、私はベールハイト博士に出会ってからはずっとあの人の研究所で学んでいたわ。エンバール夫妻もそこに居た。大きな研究所だったからそんなに関わる事もなかったし、エンバール夫妻は私が入所して間もなく辞めちゃったから、イレインの言う通り心配はいらないかも知れないんだけど……私の悪い癖ね。必要以上に警戒しちゃう」

「まぁ仕方ねーよ。お前のその警戒心のおかげでバレる確率は低くなっているんだろうしな。別に良いんじゃねーか? そういう事なら明日とっとと退散して拠点を宿に変えよう。そうすりゃアリサともクイズ対決出来るだろ?」

「……あんた。一体何をどこまで確率見てるのよ?」

「さーてね! じゃあスッキリした所で本番に参りますか! アリサ達はとっくに行っちまったぜ?」

 イレインがすっと立ち上がり、窓から飛び出す。いきなりの行動に面食らったユナは外から差し出されたイレインの手を何となく握ってしまった。

「本番って何よ?」

「星祭りの本番! 夜空を見上げて朝を待つんだ。昼間みたいに大盛り上がりって事にはなりそうもねーけど、この為の祭りなんだ。きっと神秘的に違いないぜ」

 夜だと言うのに、イレインの能天気な笑顔はまるで太陽のように明るいので何だかそぐわない。それでもユナは笑って頷き、手を引かれるまま外へ飛び出した。

 イレインに手を引かれながら町中を進んでいく。昼間とは違ってスピードを緩めてゆっくり歩いていった。

 町は極力、明かりを消していて、道の幅や、曲がり角を示すように等間隔でロウソクが置かれているだけだった。その光景だけでも十分神秘的に感じてしまうが、何より道を行き交う人のほとんどが真上を見上げている様が壮観だった。

 しばらく歩いていると、どんどん人気が無くなっていく。町の外れの小道にはロウソクすら置かれていなかったが、イレインは難なく進んでいった。

「ちょっと。どこまで行くのよ?」

「良いとこあるんだって! 穴場だよ!」

「何であんたがそんなの知ってんのよ?」

「アリサが教えてくれたんだ」

「え?」

「心配すんなよ。エンバール家はみんな別の穴場に行っているはずだ。今から行くのはアリサしか知らない穴場。もし、体調が良くなってたらユナさんにも見せてあげてってさ。言ってたから」

「そう……そっか」

「ほら、ここの階段を上がれば着くぞ!」

 イレインは一歩一歩ゆっくり上っていく。ほとんど外壁に囲まれていて狭い階段は大きく弧を描いて上に続いていた。

「とーちゃく!」

「うわー……!」

 上り切ると同時に急に開けた世界。

 町外れの小高い建物の上に二人は立っていた。そこには視界を遮る物は無く、ただ星空が広がっている。遠くに見える切れ目は地平線だろう。平地に存在するザイバルならではの景色だった。

「すごい! すごーい!」

「ユナ。ここには人も居ないし、人が来る確率もほとんどないから覆面とれよ。澄んだ空気も最高だぜ?」

 ユナは言われた通りに覆面を首元に下ろすと、胸一杯に空気を吸い込む。

 ゆっくり吐いて、もう一度。夜の涼やかな空気は確かに澄んでいた。それはまるで神様の贈り物のようで、確かに神様はこの星空にいるような気さえしてしまう。

 神秘的な風景は、科学的根拠なんて必要せず、ただそう思わせてくれた。

「これが星祭り……すごいなー! こんな空見た事ないわ! イレイン! ほら! 見てる?」

「見てる。見てるよ。ったく。いきなり元気出過ぎだろ……」

「ザイバル来て良かった! 本当に!」

 イレインは愚痴をこぼしたのに気付いていないユナに驚く。横顔を盗み見ると、眼差しはずっと遠くに向けられてその瞳には一種の憧れのような何かを感じた。

 何はどうあれ、こうして元気を取り戻してくれれば別にいっか。とイレインも空へと向き直る。満天の星は朝日が昇る気配をまだ感じさせない。ただ、ずっとそこに在り続けた。

「なぁユナ」

「何よ。ちょっと今、話しかけないでよ」

「いや、聞いてくれ」

 ユナは声のトーンが変わったイレインに振り向く。えらく真剣な顔をしているので、何だか気色悪く感じていた。

「何よ急に改まって。どうしたの?」

「いや、それがさ————」




 ————ユナさん? ユナさん?

「ユーナーさん!」

「はいっ!」

 顔を起こすとアリサは正面で頬杖をついて口を尖らせた。

「また、ぼーっとしてる……やっぱり私とじゃ、つまんないんだ」

「違う違う違う! 癖なのよ。何か考えると、別の考え事に移っちゃって没頭しちゃうの! さぁ! 答え合わせしましょ!」

 二人でノートを見せ合う。そこに書かれた答えはどれも全く同じだった。

「ユナさんやっぱりすごいなぁ。何であんなにぼーっとしながら間違えないんだろ?」

「さ、さぁ……何でだろうね?」

「じゃあ次、とびっきり難しい問題出して!」

「いいわよー? アリサちゃん解けるかな?」

 アリサは望む所といった表情でユナの問題を待った。

 あの夜が明けて、イレインとユナはアリサの父ヴィンスのツテで宿を借りる事が出来、すぐにそこへ移った。

 星祭りは今日も開催していたが、遊びに出かけたのはイレインだけでユナは宿でアリサを待った。昨日果たせなかった約束を果たす為だ。

 頭脳王決定戦は終わったので、アリサの出番は無く純粋に祭りを楽しめる日なのだが、アリサはそれよりもユナとのクイズ対戦を望んだ。もちろんユナもそれを承諾する。

 ただ、あの甘い飴菓子だけは絶対に買って来いとイレインに命令していた。

「うーん……難しいなぁ。強敵だぁ……」

 アリサはユナの問題に首をユラユラ揺らしながら思考を働かせる。テーブルに置いたノートには途中で詰まった計算式。ユナはとっくに答えを書き終わり、ノートを伏せてアリサが答えを出すのを待った。

「だめだー! 降参! ユナさん参りましたぁ」

 アリサはドンとテーブルに突っ伏して白旗を揚げた。

「ふふふ! アリサちゃんにはまだ早かったかなー? これはねぇ……」

 ユナが問題の解き方を説明し始めると直ぐに体を起こして興味津々に聞き入る。そんな姿がやっぱり自分とダブってしまい複雑な気持ちになった。

 ……そして、気持ちが複雑になっている理由はそれだけではなかった。

(それがさ、あんまり信じたくないんだけど……確率が出ちゃってる以上そうとしか考えられないから伝えるぞ。ここで殺されるの……アリサだ)

 昨晩、イレインの放った言葉が頭の中でグルグルと回っている。確率はまだ九十を越えたままらしい。

 それでも信じられなかった。信じたくなかった。

 今、目の前で自分の話を興味津々に目を輝かせながら聞いているまだ小さい少女がもうすぐ殺されてしまうなんて。

 アリサは天才だ。恐らく、自分よりも。きっと大人になればそれはそれは立派な科学者になれるだろう。それによって沢山の幸せを世界中に運べるかも知れない。そんな希望の芽を摘ませやしない。ユナはそう固く心に誓っていた。

「うわーやっぱりユナさんすごいなぁー! じゃあこれはこうなったらどうなるの?」

「これはねー……」

 だんだんと言葉遣いが砕けて来るのが仲良くなった証拠だろう。現にイレインに対しては何となくもう自分のような振る舞いを見せるときがある。暴力こそ振るわないが、呆れながら笑う姿は何となく共感を覚えていた。

 クイズ大会はいつの間にか、ユナによる勉強会に変わっていてアリサは色んな質問をユナにぶつけていた。その全てにユナが答えるとそれについて更に深く質問を重ねて来るアリサは既に研究者の一歩を踏み出しているようなものだった。

 研究者とは百パーセントの好奇心で出来ている。

 師事していたベールハイト博士の言葉だった。ユナもその通りだと思っている。

 好奇心が尽きた時、もしくはそれよりも大事な物が出来た時に研究者ではなくなる。

 そう考えると、自分はもう研究者ではないのだろう。でも、こうして新たな研究者はどんどん生まれて来る。そうやって次に託せば良いのだ。

 大丈夫。絶対に守ってみせる。

 ユナは目の前で笑顔を向けるアリサを真っ直ぐ見て、自身も微笑んだ。




「あー食った! 遊んだ! 楽しんだー!」

「遅い! どんだけ楽しんでんのよあんたは!」

「あがー!」

「ユ、ユナさん!」

 扉を開けた瞬間にイレインをぶっ飛ばして、尚も襲いかかろうとするユナをアリサが止める。アリサが前に立つと直ぐにユナは平常心を取り戻したが、今の一瞬でアリサの心の中にある二人の関係が「仲間の絆」から「主従関係」に少し傾いた。

 浮かれに浮かれたイレイン(もう既に意気消沈している)が帰って来た時にはもう日が傾いていたので、ユナはイレインの手からお土産の飴菓子を強引に奪うと、アリサを家まで送っていくように命じ、もちろんイレインは何も言わずに従った。

「何だよもー……いいじゃんかなぁ? 折角の祭りなんだから」

 アリサと並んで歩きながらここぞとばかりに文句を話すイレイン。アリサの心の中でどんどん「主従関係」の言葉が大きくなっていく。

「大体、お土産もさー。二個で十分だろ? むしろ気を使って二個買ってきた事を褒めるべきだろ? なのに聞いたろ? 『足りないわよ!』だって」

 イレインの物真似にアリサは吹き出した。その物真似は予想外に似ていた。

 気を良くしたイレインはどんどんユナの物真似を重ねていく。その全てがイレインに対する文句の物真似だったが、完成度は高く、アリサはもう大声で笑っていた。

「イレインおもしろーい! 似過ぎ!」

「あったり前だろ! あいついっつも俺に文句ばっか言いやがるから流石に身に付いちまうよ」

「仲良いんだねー!」

「仲……? 良くないだろ?」

「えー? 仲良いと思うんだけどなぁ」

「良くない良くない良くない! いっつも何であいつと旅してんのか疑問に思うもん。後悔しっぱなしだぞ毎日!」

「うーん。じゃ、そう言う事にしといてあげる! でもイレインって下僕タイプだよね! ユナさんの気持ちちょっとわかっちゃうなぁ」

 アリサの微笑みが少しだけユナに似ていた気がしたが、イレインが目を擦ってもう一度見ると、いつものアリサの笑顔だった。イレインは表情に意識を奪われて「下僕タイプ」と言われた事に気付く事無く流した。いや、馴染んでいた。

「じゃーね! あ、そうだイレイン達っていつまでいるの?」

「うん? 明日から五日間は確実にいるかな」

「じゃあまた明日も遊べるね! 明日は三人で星祭り回ろうよ!」

「おう! ユナにも言っておく!」

「ふふん! 命令だよー!」

 アリサは笑って家のドアを閉める。イレインは降り続けていた手を止めて踵を返すと早足で来た道を戻りながら思考をフル回転させる。

 まずい……まずいぞ。やはりあれは錯覚じゃない。

 アリサの笑顔はやっぱりユナに近づいている。

 非常にまずい事になった。このままでは小さなユナが出来上がってしまうのも時間の問題だ。あんなとんでもない奴がもう一人増えてしまったら世界がひっくり返りかねない。

 ……どうしたものか。いっその事ユナに近づけないとか?

 いや、そんな事しても二人は引き寄せ合ってしまうだろう。天才ってのは孤独なもんだ。理解し合える存在が貴重に違いない。何よりアリサはユナの大ファンだ。この作戦は無理がある。

 ならばどうすれば……?

「おかえり。ちゃんと送り届けた?」

「え? あ、あぁ」

 気付けばイレインは宿に着いてしまっていた。

「何よ曖昧な返事ね。何かあったの?」

「いや、何も無い何も無い!」

 ユナはイレインの慌てっぷりに「怪しいわね」と半眼を向けるが、そこまで興味が湧かなかったらしくすぐにテーブルに広がる文献に視線を戻した。

「何調べてんだ?」

 イレインが向かいに座るとユナは本を閉じて顔を上げる。

「星祭りの事。と言うよりザイバルの事か。何だか興味が湧いてきて。でも、中々捗らないわね。やっぱりこういう歴史や風土関係は性に合わないわ」

「ふーん。俺は科学や数学なんかより逆にこっちの方が面白いけどな」

 イレインは本を一つ拾ってペラペラと捲る。

「私は過去よりも未来を作る事に興味があるの。あんたはきっと未練たらしい男なのよ。だからそういう歴史や伝承なんかに興味があるんでしょうよ」

「お前……世の中の全歴史学者を否定してるぞ……」

「あんたの場合は。よ。例は一つじゃないし、例外も常にあるわ。そうやって全てを一緒くたにするのは愚かな行為よ。バカ」

 ユナは大きく伸びをすると、また文献に目を通し始める。

 イレインはユナの全快を確信した。




「ここからも星空がしっかり見えるのね」

 夜になると宿の窓からまた満天の星が覗けた。テーブルに散らかしたままの文献に、イレインが祭りで買ってきた夕飯の余り。それらが窓から指す明かりに照らされている。何だか祭りの後のようだった。

「ねぇイレイン。またあの場所に……」

「ユナ! まずい!」

 イレインはユナの言葉を遮って窓から外へ出る。

「ちょ! ちょっと! 何よいきなり!」

「早く来い! アリサが危ない!」

 アリサが危ない。イレインがそう言うと言う事は……ユナもその意味を理解していた。

 ユナが覆面を手に取り、そのまま外へ出ると二人は一目散に走り出す。

「イレイン! 説明して! まだ無事なの!?」

「いや……わからないっ!」

 イレインは振り向きもせず、唇をギュッと結ぶ。

「わからないって何よ! それじゃ何のための能力……よ……」

 ユナは自分の理解力を呪った。

 イレインがわからないと言う。それは確率を見れないという事。

 イレインが見れないのは既に起こった事や動かない事象のみ。つまり百かゼロ。

 アリサはもう……

「ユナ! しっかり走れ! まだアリサは死んでない!」

 イレインは足を止めそうになるユナに叫ぶ。ギリギリでまた走るスピードを上げられたのはまだ、死んでいないと言う言葉のおかげだった。

「イレイン! どういう事!」

「俺にもわからねーんだ! アリサが死ぬ確率は見えるんだ! それは今、あんまり高くない! でも、五日後に死ぬ確率だけは何故か見えねー! しかも急にだ! 瞬間的に跳ね上がっていきなり見えなくなりやがった!」

「一体何が起こってるっていうのよ!」

「だからわかんねーよ! とにかく急ぐぞ! アリサは恐らく家にいる!」

 二人は夜空を眺める人々の間を縫うように走り抜けた。

 お願いだから無事で居てくれ。という願いと、おかしな確率変動の謎を胸に秘めながら、そのスピードは更に増していく。

「エンバールさん! エンバールさん!」

 アリサの家に辿り着くと、ユナがけたたましく玄関をノックする。荘厳な夜にいきなり響いた叫びにも似た声とノックの音に周りにいる人達も目線を下げる。

「な、何なんだいきなり!」

 開け放たれた玄関先に現れたのは父のヴィンスだった。部屋の中は真っ暗だったが、ずっと星空を眺めていたのだろう。寝ているような格好ではなかった。

「おっさん! アリサは! アリサはどうしてる!?」

 ユナの後ろから飛び出してきたイレインにヴィンスは仰け反った。

「イ、イレイン君!? どうしたんだ急に!」

「いいから! アリサはどこにいる!」

「り、リビングで一緒だが……」

「お邪魔します!」

 ユナはヴィンスの脇をすり抜けて真っ先にリビングを目指す。イレインもヴィンスを連れて後へ続いた。

「アリサ!」

 イレインが叫ぶと、ユナに抱きしめられながら首を傾げていたアリサが振り向いた。

「あ! イレイン!」

「良かったぁ……無事だったか」

 アリサの笑顔を見てイレインは体から力が抜ける。倒れかけた体をヴィンスの肩に肘を置いて支えるとヴィンスが訝しげな顔でイレインと向き合った。

「一体、なんなんだ?」

「いやいや、こっちの話だから気にしないでよおっさん。とにかく無事で何より」

 ヴィンスはそれ以上何も言わずに、アリサを抱きしめているユナを見た。

 ユナはアリサの無事を確認して安堵していたが、イレインのように気を緩めてはいなかった。

 アリサから体を離してヴィンスに振り向く。

「アリサちゃん。熱がありますね。直ぐに病院に行きましょう」

「熱? アリサ、もしかして疲れが出ちゃったか?」

 アリサは心配そうに見つめるヴィンスとジェナに顔を振って「わかんない」と答えた。

「今は多分、微熱だろうけど。少し心配です。一応病院で検査を受けましょう」

「そんな大げさな。薬は家にもあるし、しばらくゆっくり休ませれば大丈夫ですよ」

「ダメです。この子は将来、国の。いえ、世界の宝になるかも知れない子なんです。念には念を入れましょう」

 ユナはそう告げるとイレインと視線を交わらせた。イレインはヴィンスの肩を叩く。

「まぁ俺の相棒はあぁ見えて医学に精通してるんだ。悪い事は言わねーから病院に連れて行こう。こんな夜でも緊急用にやっているとこあるだろ?」

「ま、まぁそうだが」

「ユナさん。私、別に平気だよ?」

「ダメ! ちゃんと診てもらいなさい!」

「は、はい……」

 アリサはユナに逆らえない。尊敬している人物がこうも真剣に言うのだから言う事を聞こうと思った。

「ジェナさん。直ぐに行きましょう」

「え、えぇ。ちょっと待ってて直ぐに仕度するから」

 ジェナもいきなりの事に少し動転しながらテキパキとしたユナの指示に従った。ヴィンスもイレインに促されて準備を整える。

 今の所、アリサに変化はなかった。自力で歩けたし、病院へ向かう道中もイレインと冗談を言い合っては笑っていた。でも、ユナには抱きしめた時に感じた体温の上昇が引っかかっていた。それは微熱程度の小さな変化だったが、後に大きな変化へと繋がる気がしてならない。

 イレインの言っていた確率変動の謎はユナの中で解決に向かっていた。いや、それはほぼ確信に近かい。

 アリサは何らかの病気にかかっている。そして恐らく五日後に病死するのだ。




 病院でもユナは楽観的に診察した医師に対して様々な可能性を語る。

 大した事は無いと言っていた医師も天才であるユナの理論を打破する事は出来ず、渋々、検査入院という形を取った。アリサの両親もいくらなんでもやりすぎだと口にしたが、イレインとユナの「かかるお金は私たちが持ちますから、どうかお願いします」という言葉にただならぬ意志を感じて、お金は自分達が持つと告げて検査入院を承諾した。

「いいですか? あらゆる検査をして下さい。色んな角度から見てみないとわからない事がありますから。特に……」

 ユナは担当する医師に医者以上の知識をもって進言する。覆面しながら話すその姿は怪しさの塊だったが、話す内容がむしろ勉強に成るくらいに高度なものだったので「何者?」と疑惑は膨れはしたが、指示に従う事を約束した。

「それじゃ、また来ます。ジェナさんヴィンスさん。アリサの荷物を宜しくお願いしますね」

「でも、検査入院だからそんなに必要ないだろう?」

 疑問を投げるヴィンスにユナは目つきをきつくする。

「念のため。です」

 では。と頭を下げてイレインと病院を去って行くユナにジェナは頭を下げるが、ヴィンスは溜め息をつきながら見届けるだけだった。

「イレイン。急いで宿に戻ってアリサの病気を探るわよ」

「わ、わかったよ。ってかお前。病気とか医学に詳し過ぎねーか?」

「私の師事していたベールハイト博士は医学の権威よ。特にウイルス関係についてはあの人の右に出るものはいないわ。と言うより、あの人こそ本当の天才よ」

「ユナより?」

「私なんか足下にも及ばないわよ。あの人のおかげで医学は勿論、色んな研究が出来た。滅亡論に辿り着いたのも、言ってしまえばあの人のおかげのようなものよ」

「ふーん。まさに師匠ってやつか」

「そうよ。まぁ……結局、あの人も私の研究を信じてくれなかったけど……」

 走るスピードを増すユナをイレインは追いかけながら考える。

 ユナは自分よりも天才だと思っている師匠がいまだ辿り着けていない答えを出してしまっている事に気付いていないのだろうか。

 それとも、既に越えてしまっている事から目を背けているのだろうか。

 憧れや尊敬が、その目を曇らしているだけじゃないのか。

 イレインはそれらの言葉を口にはしなかった。尊敬していた人物が間違ってしまった時の痛みは随分前に知っていたから。

 ユナには必要ない痛みだ。それよりもアリサの事を考えよう。

 気持ちを切り替えて宿へ戻る。少しだけ残った心の中の痛みは見て見ぬ振りをした。

「良い? 死に至る可能性を片っ端から見ていくわよ?」

 部屋に戻るとユナはテーブルの上を片付けてノートを開く。ペンを走らせながら様々な病気やそれらの合併症により死亡する確率をイレインに見させた。

 何らかの病気にかかっている事は間違いないのだが、そのウイルスがなかなか見当たらない。見つけ方を変えながら、あらゆる方法でアリサの体内に潜むウイルスを探ったが、その数自体が途方も無いのでやはり検査結果を待つしかなかった。

 それでも、二人は朝日が昇るまで探し続けた。何もせずになんていられなかった。




「ユナ。一回中断して病院に行こう」

 イレインが立ち上がる。結局、原因となるウイルスを見つけられないまま、時間はもう正午近くになっていた。

「そうね。もうそろそろ検査結果も出ているだろうし」

 何よりも最優先で検査するように約束させてあった。ユナとイレインは一睡もしないまま、再び病院へと向かう。

 病院に着くと、ジェナとヴィンスもいて、検査結果も出ていた。

 結果は「原因不明」

 しかし、アリサの容態は一晩で急に悪化していた。微熱は高熱に変わり、体は一気に衰弱し始めた。

 今は解熱剤で下げる事は出来ているが、明らかにおかしな症状だった。

「まさか……いや、それしかないわ。何で見落としてたんだろう……」

 ユナは頭を抱えてその場で崩れる。その頭の中で点が繋がった。

「おいユナ! 大丈夫か!」

 イレインが顔を覗き込むと、ユナは小さく呟いた。

「イレイン……もしかしたら、まずいかも」

「っな! 何言ってんだよ!」

 ユナはイレインの目を真っ直ぐ見つめる。不安や恐怖が入り交じりながらも力強い目でしっかりと言葉を放った。

「アリサの体内を蝕んでいるのは……新種のウイルスよ————」




 アリサはその日から隔離病棟に移される事になった。ユナの進言により、アリサの両親も加わり改めて新種のウイルスの線で検査を開始する。

 アリサの両親もベールハイト博士の元で研究の手伝いをしていたので、この方面の研究では大いに戦力となる存在だった。

 ただ、ユナに出来るのはそこまでだった。流石に病院関係者でも学者でもない、ましてや身分さえも定かではない者がこれ以上、足を踏み入れられる訳が無い。まだ何もわかっていないのだ。もしかしたら、このウイルスが人類に多大な被害を及ぼす可能性もあるのだから。そんな大事に得体の知れない連中を関わらせるほど病院も疎かではない事は重々承知だった。

 それでもユナはこの状況が歯がゆくて仕方がなかった。自分の頭脳を加えられれば、何か進展させられるかも知れない。可能性は大いにある。でも、正体を明かす訳にもいかない。自分達には成し遂げなければならない大きな目的がある。その為にはまず、自分達を守らなければならないのだ。世界の為に。

 でも、アリサを助けたい。今、目の前にある消えそうな命の灯を守りたい。何とかしたい。この小さな一つの命を全てを賭けて救いたい。

 心は揺れる。しかし、体は動かなかった……動けなかった。

 イレインとユナは簡易的に作られた専用の研究室を見つめながら結果報告を待っていた。

 アリサの病室は完全に隔離されていて、中に入るには防護服に身を纏わなければならない。よって部外者が容易に入る事も出来ず、そこは厳戒態勢で医師達が対処していた。

 アリサの病状は不安定だった。急に悪化したと思ったらまた快復の兆しを見せる。その症状は様々で発熱もあれば嘔吐する事もあり、全身に痺れるような痛みが走る事もあった。

 あらゆる症状が波のように襲ってきては引いていく。明らかに今までにない病気にかかっていた。しかし、感染経路も不明のままではその未知なる存在自体が騒動の原因となる。

 この病気の存在を知るのは病院の医師、アリサの両親とユナ、イレインだけだった。

 病院内には箝口令がしかれ、その情報が外に漏れる事は無い。

 ザイバルに着く前から引っかかっていた謎……アリサが死ぬ事によって始まる負の連鎖。

 最早、その謎は明らかだった。イレインの判断は正しかった。このまま行けば、ザイバルどころか世界中に連鎖しかねない。未曾有の大災害にさえ繋がりかねない大事件。

 これがキッカケで始まろうとしている負の連鎖の正体、それはウイルスパニックだ。

「イレイン。ここからはあんたの力が大事よ」

「それはユナも同じだろう」

「絶対……絶対助けるわよ」

「当たり前だ」

 もう一度、決意を固める。ユナはそうでもしないと挫けてしまいそうだった。

 あと四日。それは新種のウイルスを研究して対処法を見つけるにはあまりにも短すぎた。それはユナの頭脳を持ってしても、イレインの能力を持ってしても同じだった。

 研究室から医師とヴィンスが出て来る。

「……どうでしたか?」

 医師はユナを研究室に招き入れた。落胆しているヴィンスはイレインが肩を抱く。

 研究室の中は静かだった。でもそこにいる人の表情はみんな険しく、ジェナも一心不乱に作業を進めていた。

「こちらをご覧下さい」

 医師に促されるまま、顕微鏡を覗く。

「何よ……これ」

 そこにはやはり見た事が無いウイルスが存在していた。

「これ、全く新種だわ。何かの亜種とかじゃない。この世に存在するどれにも似ていないなんて……信じられない」

 ユナは顕微鏡を覗きながら思考を働かせる。今まで見てきたウイルス、調べてきたウイルスのどれとも似ている所がない新種に対してやるべきアプローチ。

「すいません。見せていただきありがとうございました」

 ユナは研究室を出て、ヴィンスに耳打ちをする。

「このままでは時間がありません。良いですか? ヴィンスさんとジェナさんはもう感染経路は捨てて、何とかウイルスを死滅、もしくは緩和させる方法を探って下さい」

「でも、そしたらその間に多くの人に感染が広がってしまう可能性が……」

「そこは他の医師達に任せて下さい。私たちも自力で探ります。あなた達はアリサちゃんを救う事だけを考えて下さい」

 ユナは頭を下げて、イレインの手を引き病院を後にした。

「ユナ。どうすんだよ」

「どうするもこうするもないわよ。とにかくやるしかないわ」

 宿に戻ると、ユナはポケットから蓋をされた小さな試験管を取り出した。

「何だそれ?」

「アリサの体を蝕んでいるウイルスよ。研究所にあったのを持って来たの」

「えー! いいのかよ持ち出して!」

「ダメに決まってるじゃない。だから黙って持ってきたわ」

「おいおいおい! 感染経路もわかってねーのに!」

 ユナは狼狽えているイレインを睨みつけてテーブルを思いっきり叩いた。

「しっかりして! 空気感染するなら私たちもうとっくに感染してるわよ! それどころか町中が感染している可能性もあるのよ! なんの為の箝口令よ! もうやるしかないの! 後戻りは出来ないの!」

 ユナは椅子に座り直すとイレインに向かいへ腰を下ろさせた。

「良い? あんたの能力が必要なのよ。時間が圧倒的に足りないの。私とあんたでやるの。アリサを救うの。わかった?」

 イレインは落ち着きを取り戻して頷いた。それを確認するとユナは早速、検証を始める。

「じゃあまず。私たちがこのウイルスにこれから感染する可能性は?」

「……七十パーセント」

「と言う事は私たちは『まだ』感染してない。どう? 安心した?」

 ユナは初めからわかっていたかのような態度でイレインに問う。正直、安堵していたが口にはしない。それよりも自分が何故最初にそれを見なかったのかと呆れていた。

「そしたらどんどん行くわよ、じゃあ次……」

 ユナはその後、時期によっての感染確率の変動をグラフにする。そうしたら次は様々な局面を仮定して感染の確率を探っていく。また対処法も探すため、どの薬物がこのウイルスにどのような効果をもたらすのかを細かく聞いて、それらもまた全て記していった。

 まるで手探りに近い作業だったが、ユナの集中力は途切れない。これは元々の才能もあるが、これまでに磨き上げた賜物でもある。ユナは休まず頭を働かせ続ける。

 一方、イレインに疲れは見えなかった。ユナに言われた確率を見て述べるだけの作業に力は必要ない。集中せずとも出来る特殊能力のようなものなのでジッとしているのと大差なかった。ユナが何をしているのかはイレインには全くわからない。でも、ユナの言う通りに述べていけばアリサを救える。そう信じていた。

「よーし。ちょっとまた整理していくから少し休んでて」

 ユナはノートから目を離さずにイレインに話す。別に疲れていないが、黙って従う。ユナのほうこそ休んだ方が良いなんて口が裂けても言うつもりは無かった。

 その後も研究は続いた。ユナはイレインの能力に感謝していた。この能力のおかげで研究機材なんて無くてもこうして探る事が出来る。

 夜が更ける頃に、ようやくユナの手が止まった。

「よし。これで感染経路の方はわかったわ。恐らく接触感染と飛沫感染の二つね。確率は百パーセント。見れないはずよね。だから空気感染はゼロパーセント。イレイン安心しなさい。このままならあなたはアリサからは感染しないわ。ただ……」

「だからもう不安になってねーって。ただ、何だよ?」

「一体、どこで何から感染したのかはわからない。感染してしまっている以上はもう見れないから。ただ、あなたが言った『いきなり確率が上がって見れなくなった』時に感染したのは間違いないから、その時の行動をアリサもしくは両親が覚えていれば絞れると思う。そしてそれからわかってる事は発症から五日後に死亡する事。後は……」

「肝心なのは治療法だろ?」

「それなんだけど……まず現在、私が知りうる限りの方法では治せないわ」

 イレインは溜め息をついて首を振る。ユナは一息置いて話を再開した。

「それに……私がそれを見つける確率も低過ぎる。タイムリミットまでにっていう条件付きだけど。でも、時間をかけて見つけた所で、アリサが死んでからじゃ遅いわ」

「……つまり?」

 ユナは答えない。ペンを握る手が震えていた。

「ダメ……なのか?」

 ————答えろ!

 イレインが思いっきりテーブルを叩いて身を乗り出した。顔を上げたユナの目には涙が浮かんでいた。

「まだわかんないわよ! 最後まで諦めないって言ったでしょ! やるしかないの! どんなに確率が低くても最後までやるに決まってるでしょ! じゃなきゃあの子死んじゃう!」

 ユナの目にはまだ力が残っていた。と同時に悲しみも持っていた。

 イレインの金色の目が少しだけ滲む。

「悪い。その通りだよな。いらねー事聞いちまった」

「いや……私は別に」

「すまねぇ。ちょっと外出て頭冷やして来る。お前ももう休め。明日になったら分かった事伝えにいって、あの夜についても聞いてみようぜ。そしたらまた何か変わるかもしんねー」

「う、うん……」

 イレインは力なく笑うと部屋から出て行った。閉められたドアを見つめながらユナはしばし考えていた。何か変わるかも知れない……と言う事はきっと変わる可能性は低いのだろう。

 イレインがわざわざ濁らせた言葉の真意をいとも簡単についてしまう。

 今の今まで如何なく発揮していた自分の理解力が今、この瞬間だけはいらなかった。

 コントロール出来たらどれだけ楽だろう。などと考える自分の愚かさを嘲笑する。その頬には一粒の涙が流れていた。




 イレインは夜の街並を眺めながら歩いた。星祭りは今日で最後。

 そう言えば、アリサとした約束をユナに伝え忘れていたと思い出して胸が痛くなる。でも、それを伝え忘れていて良かったと思った。伝えていたらきっとまたユナは、約束を守れなかったと思ってしまうだろうから。

 周りの人々はみんな空を眺めている。イレインはそれを眺めながらゆっくりと歩き続けた。

 無意識に行き着いた場所はアリサの秘密の場所。本当だったらユナとアリサと三人で来ていたであろう場所に立っていた。

「ははっ。やっぱスッゲーな……」

 ようやく見上げた空は壮大で、まばゆい光達は降り注ぐ事無く、そこで煌めき続けていた。

「何やってんだ俺……」

 頭は十分に冷えていた。むしろスッキリしすぎているくらいだった。

 それでも、アリサを救える確率を見つけられない。

 無力だった。

 この壮大な空を眺めるチッポケな自分がその無力さを表しているようで、虚しくなる。

 その夜空の美しさが心に刺さった。

 イレインは自分の両頬を思いっきり叩く。そして背筋を伸ばし、真上を見上げた。

 ユナは諦めないと言っていた。絶望的確率でも抗うと決めている。元々、自分達は絶望的な確率を相手にしている事を忘れていた。それを覆せるはずだと手を貸してくれたのはユナだった。人智を越えた、この能力を真っ向から信じて共に世界を救おうと言ってくれたのは紛れもなくユナで、だから自分も絶対に諦めないと誓ったはずなのに、忘れていた。

 自分の悪い癖だった。すぐに忘れる癖。何度もユナに同じ事を言わせて、怒らせてきた。

 でも今回は自分で気付く事が出来た。

 そう、成長しているんだ。きっと今だって。前に進んでいる。

 確率なんて元々不安定な物じゃないか。信じすぎてはいけない。いくらだって覆せるのだ。一秒先は何が起こるか分からない。未来はまだ決まっていない。

 きっと覆せる……きっと……百パーセントも……きっと……覆すんだ。

 イレインは「おし!」と叫んで目線を下ろす。と、その先、遠くに見える星の切れ目よりもっと手前に小さな光の集まりが見えた。

「何だあれ?」

 その光はかなりのスピードでこちらへ近づいている。どんどん距離を詰めて来る光の群れはようやくぼんやりと視認出来る位置まで辿り着いた。その数は二十以上もある。

 イレインは目を凝らして正体を探った。

「あれは……ロードサージェント!?」

光は装甲車のヘッドライトだった。そしてその装甲車に大きく誇示するように描かれていたマークは忘れもしない、あの聖騎士軍の紋章。

「そう言う事かよ!」

 イレインは踵を返して町の中心部へと走った。ロードサージェントが動く理由は限られている。国の命令もしくは『有事』の際。この状況、病院内の誰かがアリサの情報を国家に密告したのは明らかだった。

 どれだけ厳重にしいた箝口令も未知のウイルスに対する恐怖の前では無意味のようだ。

 このままいけば、夜明け前にはもう病院はロードサージェントに包囲されてしまう。そうなってしまったらイレインとユナは近づく事すら出来なくなるだろう。

 事は急を要した。

「ユナ! まずいぞ!」

 イレインは宿の窓をけたたましく叩く。

「ち、ちょっと何よ! びびびビックリするじゃない!」

 突然鳴り響いた騒音に相当ビックリしたのか、ユナらしくない言葉のつっかえ方をした。

 いつもならそれを笑って指摘するイレインだったが、今はそんな事をしている場合じゃない。イレインはさっき見た光景を説明すると、すぐにユナを引っ張りだして病院へ向かった。

「ロードサージェント……」

 ユナは走りながら覆面の下で唇を噛み締める。あの発表から世界中に糾弾され、逃げ回るユナを追っていたのは紛れもなく聖騎士軍ロードサージェントだった。それがこの町にやって来る。いつもなら直ぐに町を離れるのだが、今回はそうする事が出来ない。

「全く次から次へと何なのよ……」

「ホントだよ。こりゃかなり面倒な事になりそうだ」

 イレインはふと夜空を見上げて溜め息をついた。どんなに全力で走っても星は流れる事無く、真上で見下ろしている。今の心境のせいか、それがまるで嘲笑っているように見えた。

 ロードサージェント……やはり嫌な思い出しか無かった。




 病院に着くと、ユナとイレインは直ぐに研究室へと向かった。明かりはまだ点いている。

「エンバールさん!」

 扉を開けて呼んだのはアリサの両親だったが、声の大きさからその場にいる全員がユナに振り向いた。

「ど、どうしたんですか?」

 ヴィンスが席を立ち駆け寄る。一瞬集まった視線も直ぐに解けてみんなそれぞれの作業に戻った。

「ちょっと……いいですか?」

 もしかしたらこの中に密告者がいるかも知れない。あまり自分達の事を話されてしまったらこの先が色々と面倒になる。ユナはヴィンスを研究室から連れ出してアリサの病室へと向かった。

「ロードサージェント? 一体何故?」

 アリサの病室の前でヴィンスは静かに叫ぶ。ユナは「それより」とポケットからメモを取り出してヴィンスに渡した。

「ここに私が調べたウイルスの情報が全部書いてあります。恐らく間違いは無いと思います。ただ、あまり有益な情報とまではいきませんのでこの先も研究が必要です。でもこれがあれば随分先へ進めると思いますので」

 ユナはヴィンスに深々と頭を下げた。

「ど、どうやってここまで?」

 メモを開いて中を見たヴィンスが驚く。その中身は、まだ自分達研究チームが手もかけられていない所まで調べ上げていて、それどころか、何も機材が無い所で辿り着くのはおよそ不可能なものばかりだった。

「良い助手がいますから」

 ユナはイレインに目配せする。ヴィンスに向けてピースサインを送るイレインはそんなに聡明には見えない無邪気な笑顔をしていた。

「それより……」

 首を捻っているヴィンスに顔を戻してユナは話を本題に移す。

「あの日……アリサの家に私たちが押し掛けた夜の事なんですが、何かいつもと違う事はありませんでしたか? 何でも良いんです。どんな些細な事でも」

 ユナの質問の意図が読めないままヴィンスはあの夜を思い出す。

「うーん。特に変わった事は……星祭りでしたから夜でもみんな起きてた事くらいですかねぇ。起きて星を眺めていたら、お二人がいらっしゃった。それ以外に何か違う事ってなかったような気がしますが」

 ヴィンスは首を捻るが、やはりそれ以上は何も思い浮かばない。

「そう……ですか。アリサだけ何か口にしたとかは?」

「うーん……ないですね。みんな同じ物を口にしていましたから」

 手がかり無し。ユナの肩をイレインが叩いた。もう時間があまりないらしい。

「でしたら、最後にアリサちゃんとお会いさせて下さい」

 ヴィンスはアリサの病室を見て少し悩んだ後、頷いた。

「わかりました。それでは準備をお願いします」

 ユナの願いを聞き入れたヴィンスが扉を開けて防護服を手に取ると、ユナが首を振る。

「大丈夫です。空気感染はしませんから。イレインにマスクだけ貸して下さい」

 ヴィンスは防護服を戻してマスクをイレインに渡す。受け取ったマスクを装着するとゆっくり病室の扉を開けた。

 アリサは症状が落ち着いているらしく、スヤスヤと眠っている。ただ、その顔は明らかにやつれていてあまり良い状態とは言えなかった。

 ユナはその寝顔を見て目元を歪ませるとヴィンスに振り向く。

「ヴィンスさん。少しの間、私たちだけにしてくれませんか?」

「え? それは……」

「お願いします。ロードサージェントが来たら多分、なかなかこうして会えなくなると思うので」

「う、うーん……まぁ、少しなら」

 ヴィンスは渋々病室を後にする。

「ユナ。寝てるけど、起こすのか?」

「当たり前でしょ。可哀相だけど、助けるチャンスを少しでも逃すわけにはいかないの。さぁ頼んだわよ」

 自分で起こそうとしないのは、きっと万が一にも嫌われてく無いからだろうなとイレインは思いながらアリサに話しかける。

「アリサ。起きろ。俺だ。イレイン。ユナもいるぞ。ほら起きろ。ほらほらほらほら」

「ん……うるさいなぁイレイン」

 アリサはとても不機嫌そうな顔でゆっくりと目を開ける。その顔を見てユナはホッとした。

「アリサちゃん。夜遅くにごめんね。ちょっと聞きたい事があったの」

「ユナさん?」

 ユナに顔を向けたアリサの顔がぱっと明るくなる。イレインはその反応の違いが少し悔しかった。

 月明かりが指す病室は機械の作動音が静かに響いていた。暗く低く、沈んだ底から鳴っているような音は無機質で、寂しげだった。

「ユナさん来てくれたんだぁ」

 アリサは嬉しそうに口元を毛布で隠して、首を揺らす。

「当たり前でしょ。来るに決まってるじゃない。あ、でね。早速なんだけど。アリサちゃんさ。あの、星祭りの日、私たちが病院に連れて行くまでに何か変わったこと無かったかな?」

「変わった事……うーん。ないんですよね、それが」

 アリサは困ったような顔で上体を起こす。

「他のお医者さんにも聞かれたんですけど、どう考えても普通の日だったんです。星祭りだったってだけで。これじゃ何から感染したのかさっぱりですよね」

「アリサちゃん……」

「あ、いいんですいいんです! こんな時、自分の理解力が嫌になったりしますけど、慣れてますから。でも、ごめんなさい。有力な情報は何もありません」

 アリサの力ない笑顔を見てユナは胸が締め付けられる。

 私と同じだ……

 また自分の過去とダブって見えてしまうアリサに言葉が見つからない。

「アリサ。んじゃさ、その日の夜に突然現れたものとかなかったか? 何かのサプライズみたいな」

 ユナが言葉を探している間にイレインが質問を投げる。アリサは首を傾げて目線を天井に移しながらメニューを呪文のように唱えた。

「えー? ないよそんなの。あったら言ってるし……あ、でも流れ星見たよ?」

「流れ星? 時間は?」

「んーよく覚えてないや。でも、部屋の電気は真っ暗にしてたし、紅茶を飲みながら家族全員で見たからちょっと遅い時間だったと思う」

「流れ星……」

 イレインは頭をフル回転させるが、やはり何にも結びつけられない。ユナに目を向けるが、ユナも首を横に振った。

「流れ星って色んな説があるけど、どれも迷信めいた伝説みたいなもんよ。全く関係ないわ」

「……でも、確率見えないぞ?」

「ゼロパーセントだからよ。流れ星にウイルスが付着してたら流れる度に病気になっちゃうじゃない。この世界に墜落してたらまた別だろうけど流れてるくらいじゃ害なんてないわよ」

「そーだよイレイン。子供だなぁ」

「子供が言うな!」

 イレインが大げさに怒るとアリサは手を叩いて笑った。何だか久しぶりの和やかな雰囲気だったが、時間は刻一刻と迫っていた。

 その後も何とか違和感を見つけようと、イレインやユナは疎かアリサも一緒になって頭を働かせるが、やはり出て来ない。

「まずい。いよいよ来やがった」

 イレインが窓の外に目を投げると、光の集団が少しずつこちらへ向かっているのが見えた。

「イレイン。まずいって何が? 何かあったの?」

「アリサちゃん。その、何て言うか。上手く言えないんだけど、もう少ししたらロードサージェントがこの病院に来るのね? でも、それはその演習みたいな物だから気にしないで良いから。大丈夫だからね?」

 ユナは焦り気味に言葉を捲し立てる。グズグズしている暇はないが、今後の事は言っておかないと後に響いてしまう。大した情報も引き出せないのにこういう事はちゃんと覚えている自分が情けなかった。

「それと、私たちの事はロードサージェントには……」

「うん! 言わないよ!」

「え?」

「その雰囲気見ればわかるよ! 大丈夫! 絶対に言わないから!」

 アリサはガッツポーズで笑ってみせた。

 ユナはここでようやく確信する。アリサはユナのような理解力にイレインのような勘の良さを兼ね備えている紛れもなく自分以上の天才だと。恐らく正体だけではなく、様々な事にも気付いているんじゃないだろうか。と思わせる口ぶりだった。言葉の裏に色んな意味が込められている気がした。

「おいユナ。そろそろ」

 イレインが覗く窓からはロードサージェントの姿がハッキリ見える。連中はもうすぐそこまで来ていた。

「わかった。行きましょう。じゃあ……またね。アリサちゃん」

 イレインとユナがアリサに手を振って部屋から出ようとすると、アリサが声をかけた。

「あ、ユナさん!」

 振り返るユナにアリサはモジモジとしながら、何かを言いたそうにしている。

「アリサちゃん。どうしたの?」

「あ、あの……その……」

 アリサの視線がユナと床を行ったり来たりしている。それを見たユナはイレインに「先に部屋から出ていて」と促してアリサの元へまた戻った。

「アリサちゃん。遠慮はしないでいいのよ。どうしたの?」

「あ、その……えーっと……」

 アリサはゴクッと唾を飲み込んで顔を上げた。

「あの、ユ、ユナさん……」

 アリサの唇は少しだけ震えていたが、ゆっくりと動き始めた————。




 ————部屋から出てきたユナの顔は何だか嬉しそうでもあり、悲しそうでもあったがイレインにはその理由を聞いている暇もなかった。

「ユナ。もう奴らが表に到着する。裏の森から抜けていくぞ」

「うん。待たせちゃってごめんね」

「いいよ別に。それに見つかる確率もまだ低いしな」

 イレインが先頭を走り出し、ユナが後をついて行く。まだロードサージェントは中まで入ってきていないので最短距離を走り、裏手へ回った。

「おし、後はここから森を突っ切るぞ」

 扉を開けて二人は直ぐ目の前の茂みに飛び込む。ガサッと少しだけ音が鳴ってしまった。

「誰だ!」

 既に周辺を巡回していたロードサージェントの何人かが、その音を聞き逃さず裏手の方へ回ってきてしまう。

「お、来ちまったか! ユナ! 走れ!」

 イレインは慌てもせず、そのまま奥深くに進むのではなく、病院の外側を回りこむように茂みの中を走り出す。普通なら危険に思えるこの行動も、確率から選んだものだろうとユナは全く疑いもせずに着いていった。

 グルリと回り込んで病院正面側に出る。そこにはもう人はおらず、誰の目にも触れる事無く、正面玄関へと向かう事が出来た。

「何で誰もいないのよ?」

「巡回の連中が音に反応してローテーションが崩れたんだよ。後の連中は病院内だから今は絶好のチャンスだ。よっしゃこのまま走り抜けるぞ!」

 イレインは走る速度を上げてユナとの距離が少しだけ開く。慌てて全速力で追いかけるも、差はそんなに埋まらないまま正面玄関まで差し掛かった。

「よっしゃー! 楽々脱出ー!」

 玄関を隠れもせずに通り抜けて、町中へと紛れ込むと二人は徐々に速度を落として、ついにはほとんど歩く状態にまで落ち着いた。

「ふぅ。危なかったぜー」

「ちょっと! 聞いてないわよ!」

「いやいや心配するほどじゃねーよ。現にこうして脱出出来ただろ?」

「それはそうだけど……」

「んじゃ、ちょっと先に戻っててくれ。俺は気になる事があるから後で戻るわ」

「え? 何よいきなり。ちょ、ちょっと!」

 イレインは人ごみの中をスルリと器用に抜けていき、すぐに見えなくなってしまった。

「本当に『思いつき人間』ね。あれで勘が良くなかったらとっくに破滅してるわね」

 もう姿も見えないイレインの愚痴を吐きながら、置いていかれたユナはゆっくりと歩を進める。星祭りの最終日となると人の多さも一番だった。時折、空を見上げては立ち止まりながらユナは進む。それでも頭の中はアリサの事でいっぱいだった。

「あ、すいません。ちょっといいですか?」

「え?」

 立ち止まり、空を見上げていたユナに一人の男が話しかけてきた。視線を下ろすと、そこには小綺麗な旅装束を纏った男がにこやかな顔をして立っていた。

「な、なんでしょう」

 ユナは覆面を少しだけずらして、目元も隠す。

「道をお尋ねしたいんです。この町で一番大きな病院へ行きたいんですが……」

 男の声は明るく、まるで困っているように感じられなかった。その感じが何だか妙な違和感を覚えさせたが、ユナは男の足下に視線を落としているので上手い具合に探る事が出来ない。

「それなら……この坂道を上っていけばあります」

 あまり深入りするのも危なそうな気がしたユナは素直に道を教えて立ち去ろうとした。珍しく勘に頼った行動だったが、それは男の差し出す手に阻まれてしまう。

「ありがとうございます。親切な方で良かった」

「は、はぁ」

 早いとこ握手を交わして立ち去りたかったユナだったが、好奇心から握手を交わす際に少しだけ顔を上げて男の顔を見てしまう。

「……あ」

「どうしました?」

「あ、いえ……何でも。ではお気をつけて」

 慌てて頭を下げ、ユナは逃げるようにその場を去った。真正面からハッキリと見た男の目に思わず声が出てしまった。

 その目はまるで夜に浮かぶ満月のように光り輝いていた。

 そう、まるでイレインの目のように金色に————。




「お帰りなさい。随分遅かったわね」

 ユナは宿に帰ってきたイレインをノートから顔を上げずに迎える。

「あぁ……ちょっとね」

「ん? どうしたの?」

 イレインの反応が思っていたのと違い、ユナはようやく顔を上げてイレインに向き直った。

「いや、何でも無いよ。それよりどうだ? 何か手伝おうか?」

「あ、そう……まぁちょっと確率見て欲しい所があるけど」

「おし! やろう!」

 イレインは真向かいに座ってユナの広げているノートに目を通し始める。ユナはイレインの様子がおかしい事に気付いていたが、明らかにはぐらかそうとしている感じを見てそれ以上、問いつめる気にもなれずモヤッとしたものを心に残しながら自身も研究に気持ちを切り替えて進める事にした。

 研究はそれでも思うように進まない。決定的に何かが欠けている気がした。

 情報量も少な過ぎる中、何とか模索していくが夜明けを迎えても進展する事は無かった。

「ごめん。ちょっとだけ仮眠するわ」

 ユナはノートを閉じて溜め息をつくと早々にベッドへ潜り込む。働かし過ぎた頭は少し回転が悪くなっていた。休む時間が惜しくても効率が悪いままだと、もっと時間を無駄にしてしまい兼ねない。何より発想が貧困になってしまうのが一番の理由だった。

「俺は外に出てくる。少ししたら戻って来るよ」

 ユナの返答は無い。どうやらもう眠りについたみたいだ。

 イレインはそっと扉を開けて、宿を後にする。町中は祭りの後を少しだけ残しながらいつもの日常が訪れようとしていた。

 ただ、それはもう星祭り前の日常ではない。町のみんなが目覚め終わる頃にはきっとこの非常事態が嫌でも分かってしまうはずだ。

 ロードサージェントは町の至る所に配置されていて綿密なローテーションで巡回している。町の回りにも監視が及んでいる事だろう。混乱を抑える為でもあるが、それはこの町から誰一人として外に出さない為の措置でもあった。

 イレインはそんな彼らを眺めながらまたアリサの教えてくれた場所へと立つ。複雑な路地を入って行くこの場所までは流石のロードサージェントも訪れない。唯一つだけ取り残されたような日常がこの狭い空間にだけ存在していた。

 町の周りを見てみるとやはりロードサージェントが等間隔で監視をしているのがわかった。町中の逃げ場はここで良くても、これでは町の外までユナと逃げ出すのはなかなか困難を極めそうだ。

 イレインは町の外に背を向けて壁に肘をかけながら寄りかかると、空を見上げた。昨日と変わらない空はきっと星祭りの事も、アリサの病気もロードサージェントの来訪も知らない。そしてイレインの胸中に渦巻いている拭えない感情の理由も。

「もしかしてって思ったけど……やっぱりだったか」

 呟く一人言も口から出た瞬間に溶けていく。昨日の夜、イレインが確かめたのはロードサージェントのナンバー。彼らは十三隊に分けられており、それぞれ役割が少しだけ異なる。若い番号に成る程、抱える仕事は大きくなる。そして訪れた町でそのナンバーの記された旗印を必ず町の入り口に掲げる習わしになっていた。

 イレインはそれを確認しに行ったのだ。

 掲げてあった旗のナンバーは『4』だった。つまり、四番目に力を持った勢力になる。

 世界中にウイルスパニックを引き起こしかねない事態なのだから、一番が来なかっただけでも運が良かった。と思いたい所だが、イレインにとっては一番よりも四番のほうが厄介だった。その番号が来ない事だけを祈って確認しに走った。しかし、悪い予感は見事に的中してしまい、この町に訪れたのはイレインにとって最悪の四番。

 頭の中に嫌な記憶が戻って来る。ふと、頭を空っぽにするとそれは瞬く間に広がってしまうので、イレインは空を眺めながらまるで関係のない確率を見る事で何とかそれを阻止した。

 宿に戻ると、ユナは既に目を覚ましていてまたテーブルに広げたノートにペンを走らせていた。

「あー、イレイン丁度良かった。見てもらいたい確率が沢山出てきたの」

「おう。どうやら頭の中はスッキリしたみたいだな」

「もちろんよ。天才なめんじゃないわよ」

「自分で言うか……」

「はぁ?」

 ギロリと睨みつけられ、イレインは体が硬直する。何だか久しぶりの感覚に思えてしまうやり取りが少しだけ二人の間に日常を戻してくれた。ただ、ユナは暴力を振るう事は無くイレインを早く座れと促すとノートに書き留めておいた内容をイレインに聞かせた。

 日常は少しだけ変わってしまった。ザイバルの、世界の未来は今も変動しながら少しずつ進んでいる。

 少しの希望も無い中、それでも立ち止まるわけにはいかない。

 ただ、残された時間は刻一刻と過ぎていく……。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ