崖の上のニョボ
事故で死んだ俺はいつの間にか崖っぷちで跪いている。
断崖絶壁、その下は針山や火の海の地獄だ。
はて、地獄に落ちるほどの悪いことはしていない筈だが。
「よく来たな!スズキタロウよ!裁きの時だ!」
眼の前の人物が大声で言うと口の端に見える牙がキラリと光った。
『裁き』っていったい何を。
跪く俺の前には鬼っぽい兜率が二人、その中央には多分閻魔大王が立っている。
「お前の人生」
俺はゴクリと喉を鳴らす。俺の人生?
「それは平凡な人生で普通の人間、だいたい善悪の中間である」
何とつまらない評価だ。ガッカリだ。
「場合によっては地獄行き!場合によっては生き返らせてやろう」
「えっ」
これは意外だ。まだ助かるチャンスがあるのか。
ここで間違う訳にはいかない。
どんな試験があるのだろう。
「答えよ、我が問いに」
閻魔様はくわっと俺を睨んだ。
「ははあーっ!」
俺は深々と頭を下げる。
「お前は次の人生で自由に妻を娶れるとしたら誰がよい。正直に答えよ!」
「えっ…」
そんな軽い質問?
もっと何か、善悪とは何であるかとか正しい人の道とはとか、そういうんじゃないのか。
「そうだな…3人までいいぞ」
閻魔様は3本の指を立てた。
えらいこっちゃ。何を言うべきなのか。
…これはもしかしたら俺の素直さとか正直さの度合いをはかっているのか。
うん、そうに違いない。
「はい、一人目は長沢よしみさん」
俺は大好きな女優の名前を言った。
「むう」
閻魔様が唸る。
間違ってるのか?
「二人目に弘瀬ベルさん」
あの映画はよかった。『海町日記』だったか。
「ふむむむむ」
いやもう間違いなく、俺は間違っているようだ。間違いない。
閻魔様の機嫌が悪そう…というよりぶち切れる寸前だ。
その時、俺は気がついた。
閻魔様が立てた3本の指のうち、薬指にリングが光っている。
何か見覚えが…
そうだ!思い出した。あれは俺の妻ではないのか。
俺が妻と出会ったのは10年前、市役所だった。
「すみません、この印鑑証明というのはどこで…」
オドオド訊く俺に受付をしていた彼女が言った。
「よく来たな!スズキタロウよ!」
彼女の口の端にはキラリと光る八重歯があった。
「は、はい。えっと…印鑑証明…」
「お前の行く場所」
後の俺の妻はカッと眼を見開いた。大丈夫か、この人。
「それは平凡な窓口と普通の課で、だいたい前後の中間である!」
ただ印鑑証明が必要なだけなのだが。
「場合によっては申請不可!場合によっては本日交付してやろう!」
「…」
まざまざと出会いの光景が浮かび上がってきた。
そうだった!危ないところだが間に合った。思い出したぞ。
妻は独身時代、役所に勤める前は閻魔大王だったと話していたことがある。
その時は冗談だとばかり思っていたが、あれは本当だったのだ。
俺が事故で死んだので(死にそうなので)、一時的に現役復帰して俺を助けてくれようとしているに違いない。
俺は慌てて答える。
「さ、三人目は、今の家内、今の妻がいいです!閻魔様!」
閻魔様はキラリと眼を光らせた後、俺にいきなり回し蹴りを浴びせる。
「一番最初に言わんかーーいっ!」
「ぎゃあっ」
俺は側頭部を蹴り飛ばされ、崖の下へと転がり落ちる。
「うわあああああああっ」
「…!」
気がつくとまた崖の上にいた。
前に二匹の兜率と閻魔大王がいるのも同じだ。
俺は地獄へ落ちたのではなかったか。
そうか。閻魔様がラストチャンスをくれたのだな。
大丈夫、今度はうまくやれる。
「よく来たな!スズキタロウよ!裁きの時だ!」
ギラリと狂暴そうな牙が光る。
何か一度やったせいで茶番にしか見えんな。
「お前の人生は」
どことなく閻魔様もニヤニヤしているし。
「それは平凡な人生で普通の人間、だいたい善悪の中間である」
幾度も普通で平凡で中間って俺のつまらなさを強調されているようで不愉快だが仕方ない。
今はこの閻魔大王の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「場合によっては地獄行き!場合によっては生き返らせてやろう」
来た来た。来ました。
「答えよ、我が問いに」
「ははあーっ!」
「お前は次の人生で自由に妻を娶れるとしたら誰がよい。正直に答えよ!」
「…」
「早く言わんかい!」
ちょっとさっきと違うな。
「あれ?一人ですか?」
「嫁は一人に決まっとろうがっ!」
まあ、いいや。正解はわかっているのだ。
「今の妻でいいです。はい」
「…むむ」
閻魔様が俺を睨んで黙り込む。
「今の妻でダイジョーブ、それで結構ですから」
俺がもう一度繰り返すと、いきなり閻魔大王が立ち上がる。
「えっ」
「このドアホウ!」
今度は腰を落としての右アッパーから左足の胴回し回転蹴りが俺を襲った。
「うぎゃあああっ」
俺は鼻血を拭きだして崖の下に転落した。
落下する俺の耳に妻の叫び声が聞こえた。
「『でいい』ってどういうことじゃあああいっ!『で結構』ってええ!」
「…という夢を見ていたんだ」
病院のベッドで目覚めた俺は傍らのパイプ椅子に座ってリンゴを剥いている妻に語っていた。
「あらあら、大変な夢ね」
妻が微笑む。
「あの時の君の顔の恐ろしいことといったら」
「まあ、失礼ね」
ウフフと笑う妻はいつもの妻だ。
「でも、あなたがトラックにはねられて、その後続のショベルカーに踏まれて、おまけにその上を幼稚園児34名が横断していったと聞いた時はもうダメだと思って気が遠くなったわ」
「ごめんよ、心配をかけて」
そんな大事故だった割には左足を骨折しただけで済んで本当に幸運だった。
それにしてもこんなに美しくて優しい妻を嫉妬深い閻魔大王として夢に出演させるとは、俺もどうかしているな。
「トイレに行きたいんだ。肩を貸して貰ってもいいかい?」
俺がベッドで上体を起こすと、妻が補助をしてくれた。
「はい、こっちよ。ドアを開けるわね」
「ああ、ありがとう。後は松葉杖をつきながら自分でいけるよ」
「まあ、大丈夫なの」
俺の片腕を抱えた妻が心配そうに、俺を下から覗き込む。
「ああ、本当にもう平気だ。…ええと、トイレはどっちだったかな?」
すると妻が俺をじっと見つめ、しばらくしてから言った。
「お前のトイレ!」
いきなりどうした。
「それは平凡な病棟と普通の病棟、だいたい前後の中間にある!」
「えええ…?」
「場合によっては…」
妻はニヤリと笑い、唇の端から犬歯をぎらりと光らせた。
読んでいただきありがとうございました。
こんな夢を見たよ、と妻に話したのですがあまり受けませんでした。というか黙殺されました。
仕方ないので若干アレンジして短編に仕上げてみましたが、またも妻は無反応でした。
何か私は間違いを犯しているのでしょうか。