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優しい人

初デート以来、アネットとトリスタンの婚約者同士のしての交際は順調であった。


魔法省の高官候補として重要な仕事を任され多忙を極めるトリスタンだが、必ず休日はアネットとの時間を取ってくれる。


もし、家や仕事関係の用事で休日が潰れてしまった際も必ず平日のどこかで時間を作り、アネットを食事や映画に連れて行ってくれるのであった。


そうやって何度か二人で会って楽しい時間を共有するうちにアネットはいつしか、トリスタンにひとかたならぬ信頼を寄せるようになっていた。


今、この広い世界で間違いなく、トリスタン・ハイドという男がアネットにとって一番近しく一番信頼できる異性であった。



部署もフロアも立場も違えど同じ魔法省に勤める者同士、時々は省舎内でトリスタンの姿を見かけたり鉢合わせをしたりもする。


分刻みで動いているらしいトリスタンが立ち話など悠長なことは出来ないが、それでもぶっきらぼうにでも手を挙げて挨拶をしてくれたり、その時手にしていたお菓子などをくれたりするのだ。


そんな一瞬のひと時でもアネットは嬉しくて、そして何だか心がくすぐったくて笑ってしまう。

それを見たトリスタンがいつも何か言いたそうにするのだが、すぐに他の職員に呼ばれてその場を離れるので聞かず終いに終わっていた。



ある時、いつもの雑用でアネットが会議用の資料を運んでいると、せかせかと歩いていた男性職員とぶつかってしまった。


アネットが手にしていた書類が床に落ちて散乱してしまってもその職員は悪びれることも無く、

「邪魔だな。下っ端がウロチョロするなよ」

と見下すように言い捨ててさっさと行ってしまった。

ああいう職員は大概が選民意識の高い貴族籍を持つ職員である。

同じ貴族としてああいう態度は如何なものか……とアネットは肩を竦めた。


「まぁまぁ大変。せっかくの資料が」


アネットはそうひとり()ちて書類を拾い集めていく。

すると同じように書類を拾う手が視界に入った。

男の人の大きくてゴツゴツとした手。

その手の主がブツクサと文句を言いながら書類を拾ってくれていた。


「まったく……これだから一部のクソ貴族職員とは相容れられないんだ」


「トリスタン様」


どうやらたまたま近くにいたトリスタンがこの惨状を見て駆け付けて……かどうかはわからないがアネットを手伝ってくれるらしい。


アネットは書類を拾いながらトリスタンに言う。


「貴族……少しも貴さを感じませんわね。トリスタン様、お忙しいでしょうにお手を取らせてごめんなさい」


「キミが謝る必要はない。ぶつかっておいて詫びを入れる事も書類を拾う事もしないさっきの男が悪いんだ」


「ありがとうございます」


アネットがトリスタンにそう礼を告げると、他に書類を拾って渡してくれる職員がいる事に気付いた。

男女の職員が三名。皆トリスタンの部署の仲間だろう。

一人は男性で恐らくトリスタンの後輩職員。

あとは三十代前半くらいの女性職員が二人。


「災難でしたね」

「まったくくだらない男よね」

「たしかさっきのアイツ、子爵家の三男坊だったわね」


三人はそう言いながらアネットに書類を渡してくれた。


「皆さん、ありがとうございます。おかげで助かりました」


アネットは他の職員たちにも礼を告げる。

そして女性職員それぞれから書類を受け取る時に、彼女たちの手と自分の手が同時に目に入り……アネットはその違いに驚いた。


家事や魔法省でも水仕事をする自分の手が年頃の娘としては恥ずかしいくらいに荒れているのは知っていたが、こうやって間近で手入れの行き届いた綺麗な女性の手と比べるとかなり恥ずかしいものがある。


彼女達の手はつるつるのすべすべで、あかぎれもなくまるで陶器のようだ。


その時、アネットはなぜかトリスタンにだけは自分の手と彼女たちの手を見比べて欲しくないとそう思った。


書類を受け取る時に、持ち方を変えてなるべく自分の手がトリスタンの視界に入らないようにしてしまう。


「どうした?」


それを不審に思ったトリスタンがそう訊いてきた。


「……いいえ?何でもありませんわ。皆様、本当にありがとうございました」


アネットは笑顔でもう一度礼を告げた。


そのままトリスタンと職員たちと別れ、アネットは資料を届けに急ぎ会議室へと向かったのであった。



それから数日後。

トリスタンにまた夕食に誘われた。


終業後にエントランスで待ち合わせをして食事に向かうのにも少し慣れてきた。


トリスタンとの食事デートは美味しく、そして楽しくてアネットにとって本当に幸せな時間だ。


トリスタンにしてみれば婚約者の義務なのかもしれないけど、彼もそれなりに楽しんでくれているとアネットは感じていた。


だけどその日のトリスタンはどこかソワソワとしていた。


「……?」


不思議に思うアネットであったが、トリスタンが何も言わないのであれば敢えて何も聞かない方がいい。


そう思っていたら、食事の後で公園を歩いていると、ふいにトリスタンから小さな紙袋を手渡された。


「これは?」


反射的に受け取ったアネットがそう訊ねると、トリスタンがぶっきらぼうに言った。


「……やる」


「え?」


「それをキミにやる」


「……開けてみても?」


トリスタンが無言で頷いたのを見て、アネットは紙袋から中身を取り出す。


「まぁ……これは……」


それは乳白色の小ぶりなジャーに詰められている物だった。

ジャーの蓋に書かれた文字を見てアネットが訊く。


「ハンドクリームですか?」


「そうだ……保湿効果が高いらしいから存分に塗ればいい」


「これを私に……」


自分が手荒れを気にしていたのを、トリスタンは気付いていたのだろうか。

それとも見るに堪えないほど荒れた手がお目汚しをしていたのかも。


不安に小さく瞳を揺らすアネットを見て、トリスタンは無言のままハンドクリームの蓋を開けて中身をすくった。


そしてそれを手に取り、アネットの手に塗りながらトリスタンが言う。


「……キミの手は働き者の良い手だ。その手を見れば今までキミがどれほど頑張ってきたのかが鈍感な俺でもわかる。だから恥じることなんて何一つないんだぞ。……だけど荒れてあかぎれが出来た手が痛々しくて(かな)わん。毎日これを塗って手を労わってやれ」


「トリスタン様……」


アネットは自分の手にせっせとクリームを塗り込むトリスタンの手に視線を落とす。


大きな手がアネットの手を包み込むように覆い、クリームを塗ってくれる。

手がじんわりと温かみを帯びてくるのはクリームの効果かトリスタンの手が温かいからか。


それをぼんやりと見つめながらアネットは思った。


あぁ……この人は本当に優しい人だ。


いつもぶっきらぼうで不遜なもの言いが多いけど、その態度の向こうには誰よりも優しい心を隠し持っている。


アネットは手と心に何とも表現し難い温かみと潤いを感じた。

そんなアネットをトリスタンがジト目で見る。


「毎日塗れよ?勿体ないからと一日おきに塗ろうなんて考えるなよ?」


ぎくり。


「コラ。夜寝る前にだけ塗るのもダメだ。また新しいものを贈るからケチらずに水仕事の度に使え」


「ぷっ……ふふふ。さすがトリスタン様は優秀な魔術師様でもあるのですね、私の考えがわかるなんて」


「読心魔術は使用してないからなっ!?そんな事したら魔術資格を剥奪されるんだぞっ!キミは時々思考がダダ漏れなんだよっ」


「まぁそうでしたか。……ありがとうございます。ハンドクリーム、大切に使わせていただきますね」


「……わかればいい」


そう言ってトリスタンはスタコラと歩き出した。

アネットはその背中を追いながら思う。


──こんなにもよくしてくれるトリスタン様に、何かお礼が出来ればいいのだけれど。



トリスタンに喜んで貰えるような、そんな贈りものがしたい……と。








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