憧れのガレット
「わ、わぁ……!見てくださいハイド様っ……ガ、ガレットが光り輝いていますっ。そ、それにあのフィナンシェ、ふわふわなのにしっとりとしているのがその佇まいからわかりますわっ……」
「フィナンシェの佇まいとは何だ」
トリスタンに強引に連れられ、憧れの有名パティスリーに入店したアネット。
ショーケースに立ち並ぶ菓子たちの美しさに思わず興奮してしまうアネットに、トリスタンは言った。
「なんでも好きなものを買えばいい」
「いえっ……もう本当にこうやって香りでなく実物を見れただけで満足です。気になっていた店内にも入れましたし……この思い出だけで充分にパンが食べられます……!」
「思い出でパンを食べるとは何のことだっ」
明日の朝のパンはさぞかし美味しく戴けるだろう。
アネットはうっとりとして更に記憶に植え付けるためにショーケースへと視線を戻した。
あぁ……あのカヌレの硬質な艶めき、リキュールしみしみのサバランの存在感はとてつもない……。
そうやって眺めるだけで何も求めようとはしないアネットにトリスタンは言う。
「わけがわからん。もういい、」
そしてショーケースの向こう側の店員に「店のお勧めの菓子をいくつか見繕ってくれ。これから出かけるのであまり箱が大きくなってもかなわん。そこは適当に頼む」
「かしこまりました」
トリスタンと店員のやり取りを見てアネットは慌てる。
「え、え、えっ」
「生菓子も買ってやりたいところだが持ち運びには不向きだからな、それはまた今度だ」
「え、え、えっ」
「お待たせいたしました。こちらでいかがでしょう?」
「え、え、えっ」
店員がチョイスして箱詰めしてくれた菓子を確認のために見せられた。
アネットでも持ちやすい大きさの箱の中にはガレット、フィナンシェ、フロランタン、カヌレ、ダックワーズ、そして様々なフレーバーのクッキーが詰め合わされていた。
「素敵……!美味しそう……」
思わずそう心の声が漏れてしまうアネット。
その瞳はキラキラとしていて、それを見たトリスタンも店員も満足そうに言った。
「いいな。よし、じゃあそれで包んでくれ」
「かしこまりました。ありがとうございます」
店員は再びショーケースの向こう側でテキパキと包装を始めた。
焼き菓子を見て恍惚としてしまっていたアネットがハッと我に返る。
「ハ、ハイド様、本当によろしいのですか……?」
「くどいなキミは。こんな菓子くらいで何をそんな」
「こんな菓子くらいだなんて、ここのガレット一つで私は三食の食費を賄えますわ!」
「なんだか凄い情報を開示された気がするがもう買うのは決まったことだ。今更ごちゃごちゃ言うな」
トリスタンにきっぱりと言われ、アネットは戸惑いながらも受け入れることにした。
「ありがとうございます。本当に……こんな、なんとお礼を言ったらよいか……」
「だからそんな大層なっ……べつにこんな菓子くらいいつでも買ってやる……ふん」
トリスタンはそう言い捨てて会計のためにアネットの側を離れた。
そして戻ってきた時には美しい包装紙に包まれた箱を手にしていた。
箱も包装紙もアネットには手が届かないと思っていた憧れのものだ。
箱と包装紙は捨てずに何かに利用しよう。
箱はパッチワークにするために古着を切り取り少しずつ貯めている布の収納にいいかも。
それか給与明細や家賃の領収書など大切な書類を入れてもいい。
包装紙はブックカバーにしよう。お揃いで栞も作って……あぁ…どんどん夢が広がる。
そんな心のトリップに出かけていたアネットの前にひとつ、焼き菓子が差し出された。
「ガレット……」
アネットは目の前に出された菓子を見てそうつぶやいた。
そしてそれを反射的に受け取る。
手にしてみてもそれはやはりガレットであった。
「ハイド様、これ……」
アネットが唖然としながら訊ねるとトリスタンはぶっきらぼうに答えた。
「キ、キミはとくにそのガレットとかいう菓子を見ていたからなっ……せっかくだからひとつ食べてみたらいい。店員も勧めていた」
「え、私がですか?今ここで戴いてもいいんですか?」
「我々庶民は買い食いなど珍しいことではないが。貴族は外で立ち食いをしちゃいかんのか?」
「普通の貴族であればしませんね……でも私は名ばかりの貴族ですからよくお肉屋さんの揚げたてコロッケを買って食べます」
「じゃあ問題ないだろう。店員が勧めるくらいなんだから遠慮は要らんだろう。もういいからさっさと食べろ」
アネットは微かに震える手でガレットを見つめ、そしてトリスタンに言う。
「はい……ありがとう、ございます……それでは戴きます……」
アネットが礼を言うとトリスタンは満足したように頷いた。
「うん!それでいい。俺も食べるぞ」
そう言ってトリスタンも手にしていたガレットをぱくりとひと口で食べてしまった。
ガレットのサクサクの食感が男性の力強い咀嚼により小気味よい音を奏でる。
アネットはそれを聞きながら、恐る恐るガレットを口に運ぶ。
まさかこんな日がくるなんて。
パティスリーの前を通る度に香りだけを楽しんだ日々。
その香りから歯触りや口内に広がるバターの香りを想像し、それでパンを食べる日々。
その全てが走馬灯のように思い出しながら、アネットはガレットを口にした。
「っ………!」
「どうだ?上手いか?」
ガレットを口にしたアネットが目を丸くしたのを見て、トリスタンがそう訊ねてきた。
「……美味しいですっ……想像していたのよりずっと、バターが濃厚でサクサクで……」
「そうだな、ここのガレットは確かに美味い」
「ええ、本当にっ……」
そう答えてアネットはまたガレットを口に運ぶ。
ふた口目もひと口目と寸分たがわず感動の波が押し寄せてくる。
美味しい。本当に美味しい!
「ふふ、しあわせ……」
頬を上気させ、幸せそうに微笑むアネットを、トリスタンは黙って見ていた。
そうやって夢中になってガレットを食べ終えて、アネットは心の底からの感謝を気持ちをトリスタンに告げる。
「ハイド様、本当に……本当にありがとうございます。他のお菓子たちも大切に、大切に戴きますね」
そう言ってふんわりと笑みを浮かべるアネットに、トリスタンはボソりとつぶやく。
「………で、いい」
「え?」
「トリスタンと、そう呼べばいい……」
「お名前を……」
「べ、べつにおかしな事ではないだろう!俺たちは婚約者同士なのだからなっ!」
「はい。その通りです。……ではトリスタン様」
アネットが柔らかく穏やかな声で彼の名を初めて口にした。
「っ!……な、なんだっ!?」
なぜかトリスタンはしどろもどろになりながら返事をする。
アネットはその様子が微笑ましいと感じた。
「トリスタン様、では私のことはアネットと。そうお呼びくださいませ」
「ア、アネット……」
「はい。トリスタン様」
「っ……!!」
笑みを浮かべて返事をしたアネットを見て、なぜかトリスタンは突然慌て出す。
「そうだ!お、俺はトリスタン・ハイドだ!そらもう行くぞ!菓子は買ったんだっもうこの店に用はないっ……つ、次行くぞ!」
とそう言ってアネットの代わりに菓子入りの箱をもってスタコラとパティスリーを出た。
「あ、トリスタン様、お待ちください」
アネットは慌ててトリスタンの後を追う。
そして店を出る前に、パティスリーの店員たちにぺこりとお辞儀をした。
「ありがとうございました」
礼を告げ、そしてトリスタンの後に続く。
後ろから店員たちの
「こちらこそ当店をご利用いただきありがとうございました。またのご来店をおまち申し上げております」
という声が聞こえてきた。
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アネット…確かにガレットひとつで走馬灯まで走らせるのは大袈裟だと思うぞ。
なんでだろう……アネットの食レポで味王さま(@ミスター味○子)を思い出しちゃったぞ。