睦月
遼から年賀状が届いた。今年はへび年なので、白蛇の可愛らしいイラストが描かれて、遼の角ばった男らしい字で「受験がんばってください」と書かれていた。
受験……。桑原家の正月は騒がしすぎて受験生への配慮など全くない。共通テストまであと少しだというのに、三人の姉たちのどんちゃん騒ぎが狭い家の中に響き渡る。酒盛りに馬鹿笑い……あの人たちには女らしさの欠片もない。モンスターだ。思わずため息をついた。
「タケちゃ~ん、ねえねえ、たけるくん~。お前も酒飲めよ~」
若い女三人でここまでダルい絡みができるわけだから、女子高なんてとんでもないことになっていそうだな、と自分にはまったく縁のない場所に思いを馳せる。
うんざりしながら伊達巻をつまんでいると、ずみさんからスマホに新年の挨拶がきた。メッセージには凝ったモーションのスタンプが添えられている。毎年思うのだが、新年のスタンプって年に一回しか使わない上に、干支なんかがあしらわれていると十二年に一度しか使えない。さらには、その年の年号などが入っていれば一生に一度しか使えない。買うだけ損ではないだろうか……? スマホ文化にまったく馴染めず全然触らない健琉などは、スタンプなど家族から贈られたものしか持っていない。そして全然使っていないという。不思議でならない。この新年のスタンプ文化が。
そうだ。このうざったい姉たちから逃れるのにうってつけの手段があった。そのままスマホの画面を撫で、遼とのチャット画面を開く。秋に近況の報告を受けただけの寂しい画面だ。
『遼、いま暇かな』
ちょっと緊張しつつ、一瞬ためらってから送信。
『あ!部長!あけおめです!!』
『なんかあったっすか?』
柴犬のキャラクターのアイコンの遼から即座に返事がきた。少し驚きつつ、
『年賀状ありがとう
いきなりで悪いんだけど、これから初詣いかない?』
やはり一瞬のためらいの後、送信。遼なら一緒に行ってくれるだろうという打算的な誘いだが、乗ってくれるだろうか……。感じたことのない緊張を感じながら、スマホを机に置いて正座して返信を待つ。手汗をかいている。姉たちはお互いにぎゃあぎゃあ言いながら酒を浴びるように飲んでいる。リバースするなよ……。
『いいっすよ!!
やったー、俺も暇だったんすよ!!』
画面の向こうではしゃいでいる遼の顔がありありと思い浮かべられる。こちらもホッとしている。どこから来る安堵なのだろう。……誘ったはいいが、どこの神社に行くのがいいだろう。そもそも遼がどの辺りに住んでいるのかさえ知らなかったことにいま気付く。
『部長ってどこ住みでしたっけ???』
わーい! と両手をあげて無邪気に喜んだところで、スッと大事なことに気付いた遼の感じがひしひしと伝わる。チャットってすごいな。いやこれは遼のメッセージがあまりにも話しているときのままだからなのか……。
『学校から二キロ圏内のサイクリングロード沿いって言って伝わるかな……?』
『あー、わかるっす!
じゃあ駅の近くの神明宮はどうでしょーか
俺のじいちゃんがよく通ってたんであの辺詳しいんすよ』
『駅に近いのはありがたいね。じゃあ駅に行けばいいのかな?』
『そっすね!!
俺これから出るんで、午後二時くらいになると思います』
『了解。午後二時待ち合わせで』
神明宮がどんな神社かまるで知らないのだが、昨今の日本人的感覚としては普遍的なのかなと思う。健琉は受験の合否は全て自分の実力次第であると信じて疑わないので、今更合格祈願に強い神社などは望まない。第一、この初詣の動機は、家の女どものやかましさから逃げたいから、なのだ。正直なところ家の外に出られればどこでもいい。初詣といえば特に家人に追及されないだろうな、という気持ちがある。罰当たりというのはわかっている。
「姉ちゃん、初詣行ってくる」
つとめてそれとなく長姉にだけに言い出したのだが、姉たち三人ともがこちらを振り向いた。
「ほあ? タケちゃんひとりで? 姉ちゃん送っていこうか?」
「あはははは、姉ちゃん飲酒運転じゃ~ん、ははは」
「あっちゃん笑いすぎなんだけどウケる」
長姉は自分が酒を飲んでいることを忘れて申し出たが、下の姉たちふたりが爆笑しながら却下した。いちいち騒がしくてかなわない。健琉は苦虫を嚙みつぶしたような顔でそれを一瞥し、コートをとりに自分の部屋に歩いていった。
「……後輩と駅の近くまでだから、すぐ帰るし」
またひと騒ぎされるのもいい加減うざいので、母と祖母がテレビを見ている部屋に一声かけて家を出ようとした。
「タケちゃん、自転車?」
「うん」
「寒いから手袋していき」
「うん」
祖母がいうので、また自分の部屋に戻り手袋をとった。言われなくてもわかってるよと言いたかったが、本当に忘れていたので素直に従った。
やっと家を出たのは一時半近くだった。外に出ても姉たちのバカ騒ぎが聞こえてくるので、こんな家の住人だと思われたくないと強く思う。一刻も早くここを離れなければ同類だと思われてしまう。くわばらくわばら……あ、そうだ、僕んちが桑原なんだよな。……桑原さんだけがくわばらできないの深刻なバグじゃないか? これは毎回思っている。
そんなことより。正月一日に自転車でサイクリングロードをかっ飛ばす年が来るとは、幼い時分の自分は思っていなかった。この年になるまでそこまで姉たちの騒がしさは気にならなかったのだけれど……。それは多分、すぐ上の姉が酒を飲めるようになって浮かれているのと、健琉の受験が重なり、自分が思う以上にピリピリしていることのあらわれなのだと思う。姉が受験のときには「うるさくしないでよ!!」とか言って当たり散らしていたのに、僕のことはいいんだ……という呆れもある。姉たちは自分勝手だ。健琉はストレスコントロールが上手いわけではなく、ただ怒りの沸点が高いだけなのだが、それが「健琉はなにをしても怒らない」という誤解を与えている。これから社会人になるには、それは直した方がいいとわかっているが……怒り方がわからない自分もいる。このままではよくないのだろう。健琉は深くため息をついて、自転車を漕ぐ足に力を入れた。
駅についたが、人影はまばらで、田舎のターミナル駅らしからぬ閑散具合だった。そりゃそうか、今日は元日、帰省ラッシュも落ち着いて、実家でのんびり過ごす人が多数だからだ。若い学生がたむろして「カラオケいこうぜ~」とか言っているのが見える。健琉は、僕にはそんな青春は存在しなかったな、と学生時代を振り返った。
思えば、空ばかり見上げて生きてきた。こう言ってしまうとなんだかかっこよく聞こえるのだが、天体以外になにも興味を示さない子供だったので周囲からはとんでもなく心配されたものだった。自閉症じゃないか、発達障害じゃないか。ただ、母はそんなことはどうでもいい、健琉は健琉であって、普通学級でやっていけているならいいじゃないか、と言って特に検査などはされなかった。ただ空を見上げるのが好きな少年として受け入れてくれた親には感謝してもし足りない。
たしかに自分は普通の子供じゃなかった。ゲームなどには全く見向きもせず、外に遊びに出かけることも滅多になく、友達ともそこまで親密な関係を築かず、いわゆる青春時代というものも「これが青春なんだろうか……」と実感がわかない。カラオケに行ったり買い食いをすることだけが青春ではないのだろうが、一般の人と学生時代の思い出話で盛り上がることが難しいのだろうなと思う。ストレスコントロールの件もそうだが、社会人になれるのか心配になる。
「部長!! あけましておめでとうございます!」
「遼、呼び出して悪いね」
遼は子犬を思わせるにこにこの笑顔で両手を振りながら走り寄ってきた。元バスケ少年ともあって、服装はスポーティだ。白い上着、健琉が着たら多分ミシュランマンみたいになるだろう形の温かそうなやつ。スポーツブランドのネックウォーマー、コンバースのスニーカー、ウインドブレーカー素材の黒いズボン。いまもバスケをやっていそうだ。
対して健琉は、ウール素材のダッフルコート、ジーンズ、名前の知らないブランドのブーツ、グレーのしましまのマフラー。黒縁のメガネ。典型的な理系学生ファッションだ。すごくちぐはぐな二人に見えることは必定。なんだか申し訳ないが、遼がとても嬉しそうなので、こちらもなんだか嬉しくなる。
「呼び出しておいてアレだけど、遼の家は帰省とか大丈夫なの?」
「あ~俺んち母子家庭で、俺も母さんもバイトとかパートがあるんで帰省どころじゃないんすよ」
「そっか、そういや聞いたことあったな、ごめんね、こんなこと聞いちゃって」
「いいんすよ、別に気にしないっす」
遼は心底楽しそうにニカッと笑った。
「バイトって、何してるの?」
「コンビニっす。廃棄持ってっていいよって言ってくれる店長なんで、マジ助かってます」
「よかったねぇ」
「へへ……長期休みしか入れないバイトなんすけど、大事にしてもらってるの感じます。思ったより大人は優しいっす」
健琉はなにか遼の中に大人っぽさを感じて感慨深い気持ちになった。二つも年下なのに、自分よりもしっかり世間と対峙して一人前に渡り合っている。桑原家も母子家庭だが、上の姉たちがもう働いているので、健琉は勉強に専念させてもらっている。すごいなぁと素直に尊敬する。
「僕さ……」
「なんすか?」
「大人になれるのかなって、ちょっと不安なんだよね」
遼はちょっと不思議そうな顔をして健琉の顔を見つめた。
「部長は、どういう人が大人だと思ってますか?」
「うーん……世間とずれていない、人、かな」
「……それは、勘違いっすよ。世間とずれないことを目標にしてたら、自分が摩耗して倒れると思います。部長はもう十分に大人だと思うけどなぁ、俺」
ちょっと悔しそうな声色で遼が言うので、健琉は意外だった。
「どうしてちょっと悔しそうなの?」
「俺は……俺は、っすよ? 部長の背中を追いかけていこうって思ってるんすよ。だから、その目標にしてる人が自信なくしてるのが悔しいなって。誰のせいでそう思ってるのかなって。地の果てまでそいつを探してぶっこr……」
「ストップ、OK、わかった、ありがとう」
思った以上にエスカレートしていったので慌てて止めた。そんなに尊敬されているとは知らなかった。
「誰のせいとか、そういうのじゃないんだけど……。僕さ、ストレスコントロールが下手くそで、何をしても怒らないって思われてるから、わりと鬱憤が溜まりがちなんだよね。こんなことで社会でやっていけるのかなって思ってさ。……こんなこと誰にも言ったことなかったよ」
笑って言い切ったと思ったが、下手くそな笑顔になってしまった。遼はそれを過敏に感じ取って、困った表情になって健琉の肩にそっと手を置いた。
「僕だって怒りたいんだけどねー。もう怒り方がわかんなくて」
健琉は思わず空を見上げて呟いた。空は雪雲に覆われてどんよりしていた。地表の温度は雪が雪のまま降ってこられるほど低くはないので、雪にはならないだろうな、と思った。
遼は突然健琉を抱き締めた。いきなりのことで戸惑ったが、遼が震えているので心配の方が勝った。
「……遼?」
「……俺が聞きますよ。俺で良ければ頼ってください、そんなに溜め込んでたら死んじゃいますよ。部長が死んじゃったら悲しすぎて、俺……」
遼が泣いているのでほんとうにびっくりして、周りをきょろきょろしてしまった。健琉が泣かせたと思われたらちょっときまりが悪い。おろおろしつつ遼の背中をさすった。
「死なないから僕、そんな重い話になるとは思わなくて、ごめん、ごめんって」
「……ほんとに?」
「ほんとだって、……遼がそれでいいなら、話すけどさ」
「……俺の父親、自殺なんすよ。だから、だから、嫌です。嫌です俺、部長が死んじゃうとか」
「そっか。……ごめん傷抉っちゃって」
「ちゃんとガス抜きしなきゃだめっすよ……」
遼は涙を拭って無理に笑った。健琉がトラウマを抉ってしまったらしいことは確定である。とても申し訳ない気分になって、初詣に必ず出ているであろう甘酒などの屋台では大盤振る舞いをしてあげようと思った。
「遼、大丈夫? とりあえず歩こうか」
「あ、はい。……すみません。こっちっす、行きましょうか」
ふたりはようやく歩き出した。手を繋いで。
「なんで手繋いでんのかな?」
「部長がどっか行かないようにっす」
「どこにも行かないって。誘ったの僕だよ?」
「それでもっす」
遼は頑として譲らない。いくら寒いとはいえ男ふたりが手を繋いでいるのはちょっと恥ずかしいが、先程彼を泣かせてしまった罪悪感でいっぱいの健琉は、おとなしく手を繋ぐことにした。こんなところを姉に見られたらどやされるのだろうなぁ……。
神明宮という神社には初めて足を踏み入れた。駅前が閑散としていたので、どこにいってもこんなものだろうと思っていたが、やはり神社には初詣の賑わいがあった。遼の説明によると、伊勢神宮の分社みたいなもので、この神明宮も内宮と外宮に分かれており、敷地内にはたくさんの神々が祀られている、らしい。とにかく由緒ある神社だということは伝わってきた。神楽を奉納する舞殿があったり、弁天池がわりと広くあったりと、まちなかにこんな広くて本格的な神社があったのかと感嘆する。入口が通りに面していて、ちょっと狭い鳥居なので、隠れ家のような印象を抱かせる。上は電線に切り取られていない広い空だった。
初詣といえば、やはり甘酒や豚汁の屋台。ビールやジュースも売っている。お守りやだるま、破魔矢などを授けてくれる場所も外に出ている。初詣バイトなのだろう、若い巫女さんたちがとても寒そうだ。
手水所で手と口を清めてから、健琉は遼に提案した。
「遼、寒いでしょ? 甘酒飲む?」
「いいんすか? やったー!」
お参りする前から甘酒で体温を元に戻そうとしている。冷たい水で手を洗ったところに、風が吹きつけて寒いのだ。先程から身体の芯が震えているのを感じる。冬は、星がきれいに見えることを差し引いたら、どちらかと言えば苦手だ。直前まで手袋をしていればよかったのに、自転車を降りると同時に外してポケットに入れてしまった。学校に通っていたときの癖だ。さっきまで遼の温かい手に握られていたとはいえ、寒いものは寒い。
「あつっ!! めっちゃ熱い!」
「びっくりしたねぇ、こんなに熱いもんだとは……」
屋台の甘酒は激熱だった。とろみのある液体は冷めにくい。知っているはずなのに、甘酒や葛湯の熱さに毎度驚いている気がする。そういえば麻婆豆腐やあんかけ焼きそばなども、律儀に毎回熱さに悶絶している。いいかげん学習しないかと思うが、人間なんてこんなもんだろう。
ふたりは甘酒のカップを両手で持って境内を散策した。玉砂利の音が耳に心地よい。
「まずは外宮で、……そうだなぁ、お稲荷さんにでもお参りしますかね。どうすか?」
「全然わかんないから遼についてくよ」
ふたりは稲荷社の列に並び、遼と母の仕事の安定と、桑原家の仕事の安定と、食べ物に困りませんように、とお願いした。お稲荷さんというと商売と食料の神様というイメージがあったからだ。
次に、一応天満宮にお参りした。
「部長は天才なんで、ほんとはお参りするまでもないかもしれないんすけど、念のため……」
「またそんなことを……。六本木先生に茶化されてただけじゃんか。あ~、じゃあ遼のお勉強のことってことでいいんじゃない?」
「いや、それはだめっす。念には念を入れて」
「人事を尽くして天命を待つ、の天命をお願いしておこうってことね」
「それっす、俺それ言いたかった」
こちらも確かに人間なので、受験会場でど忘れなんてこともありえなくない。どんなに根詰めて勉強しても、受験当日のコンディション次第で合否は決まってしまう。健琉はそれをよく知っている。高校受験の際、本命の県内トップの男子校に落ちて、すべり止めの私立の特待生になった。同じ失敗はしたくない。
「そういや俺、まだ聞いてなかったけど、部長はどこの大学に行くんすか」
「まあ、将来は日本史の教員でいいかなって思ってるので近場の教育学部かなと思ってるけど……家族にはMARCH程度の某国立と言ってある」
「推薦は取らなかったんすか」
「あーなんかTOEICのスコア足らなくてね……」
「……TOEIC……嫌な響き……」
「校長先生には僕がどんな生徒なのか伝わっているのに、公的検定のスコアって無情なんだよね……」
「じゃあ一般で頑張るしかないっすね……なおのことよくお参りしておかなくちゃ……」
健琉より遼のほうが一生懸命にお願いしているのを不思議な気持ちで眺めたあと、今度は内宮にいって、神明宮の御本尊である天照大神にお参りして、お守りでも買って帰ろうか、と話していたときだった。
遼が、あ、と言ってなにかから目を逸らした。目の前には鎮守の森が見える。思わず健琉は、その“なにか”を見ようとそちらを向いてしまった。
「部長、ダメ!!」
遅かった。周囲の賑わいと人混みが視界から消え去る。隣には顔面蒼白の遼がいるだけ。
その“なにか”は人間の顔の皮が何十枚も貼りついた球体のように見えた。見るからに醜悪で、よろしくないモノなのだろうことは健琉にも理解できた。
「あれは?」
「あれは、人間の欲の塊っす……毎年いるんすよ」
“なにか”は何事かを口々に叫びながら、鎮守の森をうろうろしている。寒気がする。本能的な恐怖を感じたときの寒気……。誰もいない、人の声がしない神社は恐ろしい光景だった。このまま自分達はこの空間に閉じ込められてしまうのではないかという恐怖。
健琉はつとめて冷静に“なにか”から目を逸らして元に戻るように願った。
「……部長、アレと目が合っちゃうと、願うだけじゃ無駄なんすよ。いまからせーの、で柏手を打ってください」
「柏手……?」
「神社にお参りするときに手を鳴らしますよね、あれっす」
「了解」
ふたりは小声で言葉を交わすと、せーの、で二回柏手を打った。
シャボン玉が弾けるように人混みの中に戻っていた。健琉はいまさら怖くて震えているのに気づいた。
「アレ……なんだったの?」
「うーん、これは俺のじいちゃんの受け売りなんすけど。初詣って、普段神社に来ないような人も神社に来るじゃないっすか」
「たしかに、僕もそうだからね」
「そう。で、そういう人たちって、お参りの仕方を知らないのが多数なわけじゃないっすか。しかも、七夕みたいに、お願い事を言えばそれでいいって思っている。そのお願いは、必ずしも純粋なものではないわけで」
「なるほど。つまりは、お金が欲しいとか、結婚したいとか、そういう逆に純粋な欲丸出しの人が多くなる時期でもあるのか」
遼は複雑な顔をして頷いた。
「手水鉢で清めない穢れた状態の人間が、汚え欲を一生懸命にお願いしても、神様は受け入れてはくれないもんですよ。それで、弾かれた穢れが、あの誰も来ない森に溜まって、ああいう状態になるんすよ」
「……アレはずっとあそこでうろうろしてるの?」
「時間が経てば薄れていきますよ。でも……今日のはいやに濃かったっすね」
「遼は毎年アレを見てるの?」
「小さい頃は毎年……今年は久々に見ました。アレはどこにでもいるみたいっすよ。俺の知り合いは競馬場で見たって言ってたっす」
「競馬場ねぇ……そりゃいるだろうね、アレとは比べものにならんくらいエグいのがいそうだね」
「あとは、パワースポットとして有名なとこには必ずいますよ、県内だと山の方のあの神社とか」
「そりゃ迷惑な話だねぇ……」
怖くて思わず質問攻めにしてしまったが、遼は顔を顰めはすれども、すらすらと答えてくれた。
人間の欲……か。欲のない人間などどこにもいないだろう。現に健琉にだって、ひとり暮らしがしたいとか、大学に受かって思い通りの進路を歩みたいとか、伊達巻は一本まるごと食べたいとか、そういう欲はある。それはきっと遼にだってある。けれど、あまりにも薄汚い欲望というのは、ああやって醜悪なものとして発露してしまうのかと思うと、つくづく人間という生き物を哀れに思った。
「遼ってもしかしてめちゃくちゃ視えるタイプなの?」
「え……どうでしょう、あんま自覚ないっすね。どうしてまた」
「さっきのあんまり怖がってなかったからさ。ホラー耐性あるのかなって」
「ホラー……あれは気持ち悪いモノで怖くないっす。ああでも、夏の合宿は怖かった」
「アレはレベルが違うよ、アレはもう体験したくない」
夏休みの天文部合宿で、六本木先生も交えて百物語をやったのだが、先生が最後の最後に話したモノが想像以上にエグいもので、部員全員がその悪夢にうなされたのであった。
「それに、アレには小さい頃から遭遇してるんで、対処法知ってますから、全然比べものにならないっすよ」
遼はお守りを物色しながらなんでもないように言った。
合格守り、健康守り、交通守り、恋愛守り……色とりどりのお守りが並んでいる。キャラクターものもあったりする。最近のお守り事情には全く疎いのでここまでカラフルだとは思わなかった。遼はしきりにミニだるまを勧めてくる。選挙活動している政治家じゃあるまいし、丁重に断った。
「とりあえずおみくじ引きません? 俺ここではよく大吉出るんすよ」
「おみくじなんて何年振りだろ……僕が大凶とかだったら話のネタには困らないよね」
「部長ってそういうとこありますよね、学者肌ってだけで個性あるのに、なんか自分のこと面白く話そうとするんすよね~」
「僕、学者肌なの?」
「ええ? 無自覚?」
こんなやりとりをしながらおみくじの列に並んでいたそのときだった。
『後ろに気をつけな……』
しわがれた老婆の声で耳元で聞こえた。遼も同時に振り返った。
振り返ると同時に後ろに並んでいたおじさんがこちらに倒れ込んできた。
「ど、どうしましたか」
「大丈夫っすか!」
周りからは多数の悲鳴があがる。どよめきが境内を埋め尽くす。
「血が!!! 血が出てる!!!!」
「血!?!!?」
おじさんの背中を見るとそこには確かに血のしみが広がっていた。健琉は腰を抜かして地べたに座り込んだ。遼はおじさんの肩を叩いて意識確認をしている。
「救急車と警察をおねがいします……」
震える身体を抱き締めて近くの大人に頼んだ。自分ではパニックになってうまく話せないだろうと思った。まず指が震えて110番通報できない。
「おじさん……大丈夫?」
「痛い、けど、大丈夫だ……あんちゃんありがとな」
周りの大人が神社の職員さんに頼んでくれて救護室に担架でおじさんを運んでくれた。
健琉と遼は力が抜けて人混みの真ん中でへたり込んでいた。放心状態だった。
『うふふふふ……はははははは……』
耳の近くから、遠くから、幾重にもいろんな人の笑い声が聞こえてきた。ふたりは耳を押さえて倒れ込んだ。
「お兄さんたち、大丈夫?! ねえ!!」
女の人のグループが声をかけてくれたところで、健琉の意識は途切れた。
「……さん、……らさん…………桑原さん……聞こえますかー?」
「……は、い」
気が付いたときには救急車の中だった。
「遼は? 連れの男の子はどうしましたか?」
「先に気が付いて、バイタルチェックが済んだので、神社の救護室であなたの容態の報告をまっています。大丈夫、精神的ショックで気を失ってしまっただけでしたよ」
「……よかった」
「目の前であんなことになると気分悪くなりますから、心配しないでいいですよ」
「はい、ありがとうございます」
健琉のバイタルも安定していることが確認できたので、そのまま救急車から降りた。
「部長」
遼は救護室の椅子で項垂れていたが、健琉の姿を確認すると、パッと笑顔になった。
「遼、たいへんだったね」
「ね……なんだったんすかね、アレ」
「さあ……でも、違う意味で怖かった」
健琉はまだ身体の芯が震えていた。遼も手が震えていた。
時刻は16時半をまわっていた。すぐ帰ると言ったが、さすがに心配されているだろうか。スマホをちらっと見る。誰からもなにもない。心配させたくないので、救急車に乗せられたことは黙っていよう。心配させたくないというか、反応がだるいので、言わないでおく。
「散々だったね、なんかの罰かな……」
健琉が苦笑いすると、遼も賛同した。
「厄年っすかね俺ら」
「そうかも」
「まあでも、息抜きにはなったっすね、スリル&ホラー的な」
「遼、強がり言わない」
「……はーい」
遼は地面を軽く蹴っ飛ばした。
「部長も、強がりはもうだめっすよ」
「はいはい。よろしくね、遼」
「へへ……任しといてください」
これから受験戦争に入る。姉たちのことなんてもう構っていられない。健琉はなんとしても大学に行かなくてはいけない。数週間先を想って、健琉と遼は並んで帰途についた。