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神無月

 放課後の応接室にひとり、古い日本人形と向き合っている。ドアを閉めきって人形と二人きりなんてちょっと気味が悪いから半分くらいドアを開けて、床に膝をついて、机から顔を覗かせるようにして、無表情な人形の目を見ている。怖いから誰か先生に見つかったら潔く帰ろうと思っている。というか、できるだけ早く帰りたい。……誰か先生が見回りに来ないかな。


 怖がりなわたしが何故こんなことをしているのか。良い質問だ。率直にいうと受験に失敗したくないから。どこの学校にも七不思議というものは大抵存在していて、例に漏れずこの学校にもある。ほかの六つはよく知らないのだが、いちばん有名なのがこの『応接室の日本人形』。この人形が涙を流すところをみることができると受験に失敗しない、らしい。見たことがないから、真偽のほどはわからないのだけれど、毎年この時期の限界三年生の間でまことしやかに囁かれはじめる。ちゃんと勉強していればこんなことにすがらなくたってよかったはずなのに、溺れる者は藁をも掴んでしまう……。


 叔父さんがこんなわたしを見たら、


『桐ちゃん、人事を尽くしてないのにはじめから天命を待ってどうするのさ』


と言うに決まってる。いや、どこかで見ているかもしれない。なんか声まで聞こえてきた気がする……。


「……アヅマさんなにしてるの?」


「……っえ、」


 隣を向くと、本田くんが五十センチくらいの距離にいた。不意打ちだ。変な声が出た。涙目になって、耳が熱い。いま顔真っ赤だって自分でわかるくらい。


「……あの、……精神統一を……」


「……ここで?」


 こんな最悪のタイミングで隣に来るなんて反則も反則、一発退場ですから、と思って改めて彼の方を見てみると、シャツがびしょびしょに濡れていた。


 一気に興奮状態の心が落ち着き、顔の赤みが引く。


「……どうしたの、それ…」


「ああいや、これは、……何でもないよ」


 彼は一瞬笑うように目を細めたが、ほんとうに笑っている顔じゃなかった。いつもそう。


 きっかけはよく知らないけれど本田くんはずっと前からいじめられている。物を失くされたり、盗られたり、壊されたり、打たれたり、閉じ込められたり、無視されたり、こんなふうに水をかけられたり、それを見て見ぬふりをされたり。わたしには普通に見えるけれど、いじめている人達から言わせると、『嘘つきで気持ち悪い』のだという。もちろん普通に接してくれる人もそれなりにいるはずで、いじめている方が少数派なのだけれど、なかなか根が深いらしいようで、他人に構っている暇がないはずの、高三の受験期になっても彼はいじめられている。


 そのせいか、彼はかなり神経質で、絶対に本心を見せたりしない。笑ったりはするけれど、ニセモノの笑顔に見えてしまう。あまり自分のことは話してくれないし、優しいけれど、どうしても壁を感じてしまう。


 わたしは一年生のとき、彼のことを今よりなにも知らなかったときに、彼の寂しそうな笑顔が好きになってしまって、それからずっと密かに見ていた。クラスは同じにならなかったし、いじめられているのを知っていたから、話しかける勇気が出なかった。変に偽善者だと思われて、本田くんに嫌われたくなかった。


 三年生でやっとクラスが同じになって、五月の球技大会のときに、だいぶ勇気を出して、告白した。相手にされないんじゃないかと思っていたけれど、本当に自分でいいのか、と逆に何度も聞かれた。形だけは付き合っていることになるのだけれど、もう五ヶ月も経つのにわたしが全然慣れない。夏休み中は、突然叔父さんが亡くなって、そんな浮かれたことを言っていられなかった。9月の半ばくらいからやっと普通に学校に行けるようになって、久々にちゃんと会話した気がする。メールのやりとりは毎日していたけれど、直接の会話になるとちょっとまだ緊張してしまう。


「寒くない?」


「うん、大丈夫。ちょっと通りかかっただけだから、気にしなくていいよ、ごめん」


 人形どころじゃないので、立ち上がって少し近寄ったら、慌てて身を引かれた。避けるというか、逃げるような、怖がるような、一瞬表に出た表情がとても切なくて、喉がきゅっと締まる。


「待って、」


 反射的に彼の手首を掴んで引き寄せていた。


「気にしなくていいわけないでしょ……一緒に帰ろう。わたしのジャージがあるから、早く着替えて」


 彼よりどうしたって小柄だから、気休めにしかならないのはわかっていたけど、慌てて鞄からジャージを取り出して押し付けた。それでも頑として受け取ろうとしないので、部屋の扉に鍵をかけて、彼のシャツのボタンに手をかけた。


「吾妻さん、吾妻さんわかったから、着替えるから……ちょっと後ろ向いてて……」


 彼がとても恥ずかしそうに言うので、ぎこちない動きで後ろを向く。


 さっきまで人形を見つめていた角度で立っているのに、人形の顔がちょっと違った表情をしているように見えた。目付きが、鋭くなったような、怒っているような……。


「……人形が見てる……」


「……その人形がどんな人形なのか知ってる?」


 ちょっと小さいわたしのジャージに袖を通しながら少し低い声で彼は聞いた。そんなの、知っているわけがない。薄汚れた、青色の着物を着せられて、傘をさして、芸者さんのように立って、顔をきもち斜めにしてこっちを見ている。目が細く、唇は少しおちょぼ口で、古風な顔立ち。髪も芸者さんみたいに結ってある。古めかしい日本人形だと思う。


「あの人形は、ほんとなら人形供養に出されるはずだったやつみたいだよ。動くんだって」


 古いというだけで既に怖いのに、動くなんて知りたくなかった。シャツを畳みながら淡々と人形の情報を喋ろうとする本田くんを引っ張って、自分と彼の鞄を掴んで部屋を飛び出した。やっぱり顔変わって見えたのは、目の錯覚じゃなかったんだ……。怒ってた、なんで?




「怒ってたね、人形」


「本田くんにも見えたの?」


 もちろん、と寒そうにくしゃみをしながら彼は答えた。思ってたよりジャージが小さく見えない、その上から学ランを着るように強く促したのもあって、普通に見える。


「吾妻さん、人形に用があってあんなとこにいたんでしょ?  どういう人形なのか知ってると思ってた」


「知らないよ、わたしはただ……ほんとに、精神統一してただけだし……」


 言えない、君と同じ大学に行きたいから七不思議にすがろうとしてたなんて、口が裂けても、言えない……。だんだん声が小さくなっていく。


 いまさら、この一緒に帰っている状況にドキドキしてきてしまった。こんな日が来るなんて夢にも思っていなかった。彼はしかも、わたしのジャージを着ている。それは今日体育の授業で着ていた、匂いとか心配になってきた……。お互いに家の場所知らないし、勢いで本田くんについていってるけど、これ……どうしよう、心の準備がいろいろとできていない……。そっと手を彼の手に近づけて、それは少し思いとどまった。なにも聞かないでいきなり手を繋ごうとして、『そういうの嫌い』とか言われたら立ち直れないし、『手を繋いでも、いいですか?』と聞くのは恥ずかしすぎる……。みんなそういうのどうやってんだろう……。



「なんか、久しぶりだね、吾妻さんと話すの。……僕なんかと並んで歩いてて、嫌じゃない?」


「嫌だったら使用済みジャージ着せなくない? ……、」


 しまった、彼の自己卑下にイラっときていちばん心配に思ってることが口から零れてしまった。すぐに顔が耳まで赤くなるのを感じた。


「ごめん、違う、使用してない、予備、予備だから」


 わたしから告白して、メールでも自分で引くくらい絵文字とか打っちゃって、何度もなんども好きって、ずっと言ってるのに、未だにそこすらを疑われているのが悲しいというか、虚しいというか。隣を歩いてるだけでこんなにそわそわしてるのに。


 チラッと彼の顔を見ると、彼もわたしに負けないくらい顔が赤かった。……なんだよ、


「……敢えて使用済みだから着せたんじゃないから……ごめんなんか、」


「うん、大丈夫、洗って返すから……ありがとう」


「手、貸して」


 彼の手は異常に冷たくて、少し緊張して震えていた。そんな君をわたしは好きになったのに、……。




「吾妻さん、精神統一は嘘だよね」


「まあね……」


「通りかかっただけって、さっき言ったけど、本当は、吾妻さんがいるのが見えたから、応接室に入ったんだ。……学校にはもう、行かないかもしれない」


 彼は涼しい顔をして、淡々とそう言った。わたしの手を握る力が少し強くなった。


「ひとりで帰ろうかとも思ったんだけど、吾妻さんのこと巻き込んだらどうしようとも思ったけど、」


 声が震えている、辛くないわけない。今日まで学校に来られていたのが、おかしいくらいなんだ。誰の前でも淡々と、ただ寂しそうに笑って、特定の仲の良い人を作ってこなかったのは、彼がとっても、強かったからなんだ……。


「いや、ごめん、忘れて。……一緒に帰れて、ちょっと浮かれてるんだ」


 またいつもみたいな、ニセモノの笑顔を浮かべて見せる。わたしはそれが、切なくて、喉が絞まる。


「応接室にいたのはね、ちょっと七不思議を検証してたんだ」


 本田くんは黙ったまま相槌を打った。


「あの人形が涙を流すのを見ると、受験がうまくいくんだっていうから、わたしそんなに頭良くないけど、本田くんと同じ大学行きたくて……だから、」


 さっきまでは口が裂けても言えないなんて思ってたけど、言わないと一緒にいてもらえなくなる気がする。言葉のかわりに涙ばっかり溢れてくる。


「自分で頑張らなきゃほんとは意味ないんだってわかってるけど、不安になっちゃって、」


「そんな泣かなくても大丈夫だよ……」


「大丈夫じゃないから神頼みするんでしょ、この間の模試C判定だったんだよ……」


 彼が少し慌てているのがわかる、足を止めてただ手を握られたまま挙動不審になっている。少しの沈黙の後、強引に話をすり替えられた。


「……吾妻さん、でも、そんな話初耳なんだけど、……あの人形泣くの?」


「え……?有名な話だと思ってたけど、違うのかな……」


 思わず素頓狂な声が出る。では、誰がわたしを救ってくれるというのか……。確かに情報の出どころは不明だけれど、本田くんは成績もまずまずで、落第の瀬戸際で踏ん張っているような私たち限界受験生とは生息域がまったく異なる。わたしたちの有名は、彼らの無名かもしれない……。そもそも所詮は七不思議。真偽とか科学的根拠とか、そういうものから外れた謎に包まれてこその七不思議だ。




 黙り込むわたしを尻目に、本田くんは彼の知っている範囲での、あの人形の話を始めた。


「これは、うちの姉貴に聞いた話だからほんとうかどうかはよくわからないんだけど、あの応接室の人形はもともと他の小学校にあった人形なんだって。寄贈された人形を、又貸しじゃないけど、開校祝いにって、うちの高校に贈られてきたとかなんとかって」


 あれは古い人形のようで、もともとの所有者は昭和初期の女学生なのだと誰かが言っていたらしい。勉強熱心なお嬢さんで、成績は常に優秀であったという。ただ彼女が不運であったのは、女子が勉学など……という考え方の、その時代としては一般的な家庭に育ったということだ。縁談が決まってしまうと、嫁ぐために退学させられた時代。彼女は勉学とともに、入学祝いにと親戚に買い与えられた人形を、捨てるように手放した。


「なんかこの時点でいわくつきの匂いっていうか、怨念入ってそうだよね……。僕が校長だったら絶対引き取らないけど、良い人形だからって、小学校に寄贈されたみたい」


 案の定、小学校でもなにかしらあったのか、めちゃくちゃ怖がられたらしく、寄贈されてから十年も経たぬうちに、倉庫にしまわれたのだとか。ざっと計算しても、戦前から高校が開校するまでの数十年は倉庫の肥やしになっていたということになる。そう考えるとかなり保存状態の良い骨董品という見方もできる……。



「よく焼けなかったね、戦争の時」


「この辺りは市の中心から外れてたから、空襲はあんまり酷くなかったみたいなんだよね。たぶんこの話に出てくる小学校なのかな、ってとこ通ってたけど、……そういえば《青い目の人形》あったな。一緒にしまっといたのかも」


 青い目の人形、ってなんだろ……、でもこんなに喋る本田くん見たことないから下手に質問できないなぁ……。


 なんか、誰かが『本田ってオバケ見えるらしい』的なこと言ってたけど、そうなんだろうな、いま突然そんなのを思い出した。確かに不思議なことを口走る。わたしが知らないだけで普通のことなのかも、って思うときと、変なこと言ってるなぁ、って明らかにわかるときと。アレをオバケって思って良いんだとしたら、わたしも見たことあるし、別に変なことじゃないと思う。それが原因でハブられてんなら、って思うとちょっと胸が痛い。あまり怖がられないように、いろいろ言葉を選んで話すうちに、根本的にあまり話さない、という技術を身に付けたのかもしれない。


 そういうことを考えないで、べらべらとお話をしてもらうのって、もしかしたらいまのわたしは宇宙でいちばんの幸せな人なのかもしれない。そう思い始めたら顔が熱くなってきた。




「吾妻さん、……?」


 完全に幸せな考え事をしていたら、相槌も打たずに本田くんをスルーしてしまっていた。大失態だ。


「ごめんちょっと、聞いてなかった、」


「いやそうじゃなくて、……僕なんか変なこと言ったかな、と思って……」


「えっ、いや、これはなんか大丈夫、うん。……話戻そ、そもそもあのお人形ってどう怖いの?」


「その、思う存分勉強できなかった悔しさ、みたいなものが人形に宿ってるみたいな話が広まっちゃって、人形の前で『サボりたいな~』みたいなことを言うと、動く、とか」


 本田くんは、僕は見てないから本当かどうかは知らないけど……と小さめの声で付け足した。


 それが本当なら大変なことだ。一生懸命勉強できなくて悔やんでたり怒ってる人に、『大学合格させてくださいな!』と無邪気にお願いをしていることになる。めちゃくちゃキレられて当然だ。


「……人形の顔が怖くなってたのって、」


 わたしもそういうお願いしちゃってたし、しかもその理由は不純な動機だ……。


「それって人形の表情が変わってたってこと?」


「そうだけど……本田くんも人形怒ってたねって言ってたじゃん」


 彼は少し言いにくそうな顔をして、言葉を探すような沈黙の後、


「……なんか、雰囲気が、」


とだけ絞り出した。


 なにかわたしには見えなかったようなモノが見えていたんだろうか。これはわたしが三年間彼を観察していたからわかる間で、他の人にはバレないかもしれないけど、わたしにはお見通しなのだ……。しかし彼は隠せている気でいるから、わたしもそこをつつかない。


「わたし、だいぶ不純な動機で見てたからなぁ」


「C判定か……」


「マズいよね……」


 彼は無言で頷いた。まだ十月だから……なんて悠長なことは言ってられない。本当はこんな話してないで帰って勉強するのがあるべき受験生の姿なのだけど、諦めたくない気持ちと、自暴自棄になりかけている気持ちとのせめぎ合いは、ほんの少しだけ自暴自棄のほうが優勢になっている。



「そういえば、こんなとこまで来ちゃったけど、吾妻さんの家ってどの辺なの?」


 あと十数メートル歩けば彼の家らしい辺りで、お互いにやっと気がついた。


「あの、中高一貫の近く、ちょっと遠いかも」


「どうする?帰りは大丈夫?」


「そこのバス停のバスで帰るから、時間まで一緒にいていい?」


「いいよ、夕方までいなよ」


 家にはまだ誰もいないらしく、何の抵抗もなく家にあげてくれた。意識してしまっているわたし、下心があるみたいじゃないか……。なくはない、否定はしない、けど、ものすごくドキドキする、やだ……。


「……ほんとに暗くなるまでいていいの?」


「いいよ、今日は誰も帰ってこないから」


 やだ……どうしよう、わけもなくドキドキして彼の一挙手一投足を見守ってしまう。階段の一段目に足をかけながら手招きする手の甲の白さとか、鞄を下ろすときの背中のラインとか。ああ、わたしはなんだかんだ言って、この人の顔とか、外見に一目惚れをしたんだな、と思った。ひとつひとつを目で追う自分に我ながら気持ち悪い気がする。


「僕が先生でよければ、ちょっと教えられるけど、お勉強していく?」


 絶対集中できない、絶対余計なこと考えちゃうって、わかってるのに。わたしは反射的に頷いていた。




 そこからなにがどうなったのか全然覚えていない。気がつくと家に帰り着いていて、呆然としながらご飯を食べていた。お母さんにめちゃくちゃ心配された。




 その夜、日付が変わった頃、わからない化学の計算問題を広げたまま、もう限界な気がして布団に入った。


『……学校にはもう、行かないかもしれない』


 眠りの縁で、頭の中に彼の声が響いた。……そんなのやだな、だけど、本田くんの気持ちをわかっている人でありたいから、でも……君がいない学校なんて……。涙が滲んで、目尻から耳に伝った。


『……起きてる?』


 暗闇の中、ブルーライトに顔をしかめながら、メッセージを送ってしまった。……寝てるならそれでいい。なんて迷惑な女だろ、って嫌われたら嫌だな。後悔のため息をつきながら、画面を消して充電ケーブルを繋いだところで携帯が震えた。


『おきた。 なにかあった?』


 たった一個のメッセージで起きるなんて、なんと眠りの浅いことだろう。ちょっと心配になる。


『ごめんね起こしちゃって……』


 ここまで打って手が止まった。どう続けるべきなんだろう。“明日学校には来ないの?”なんて聞いたら、なんだか責めてるみたいで心苦しいし、“もう学校に来ないとかほんと?”なんていうのも、登校を促してるみたいで、彼を理解している人でありたい自分と同化できない。


『……あの、人形の件なんだけどさ、応接室の。わたし怒られちゃってたわけじゃん。謝ったほうがいいのかな??』


 すごく無難かつ、放置してはいけないような気がする話題を思い出せてよかった、


『あー、あれか。……うーん、そうだね、謝ったほうがいいかもしれないね。明日僕ついていこうか、』


『えっ!? いいの???』


『まあ、なんていうか、供養、じゃないけどさ。ちょっと僕も気になることがあって』


 結構本気の声色で、学校には行かないかもなんて言ってたから、絶望的だと思っていた。よかった、また明日も会えるなんて、嬉しくて涙がまた出てきた。


『ねえ、明日の朝本田くんのお家にお迎えに行ってもいい?』


『なに突然、遠回りなんじゃない?』


 既読の文字が、送信と同時につくのが嬉しい。片想いし続けていた私にこの幸せを教えてあげたい……。


『朝から君の顔が見たいので。』


『マジか』


 いま変な間が空いた。……画面の向こうでどんな顔をしているんだろう。今日見た、彼の赤面したところを思い出して、胸が苦しくなった。


『じゃあさ、7時にうちの前に来て』


 7時に?早すぎないかな、と思ったら、連続でメッセージが来た。


『朝のうちに決着つけとこうと思うんだけど、どうかな、バスある?』


『あ! あるよ! わかった、じゃあ7時に行くね』


『ありがとう、もう遅いから寝な。おやすみ』


『おやすみ!』



 不安な気持ちで始めたやり取りだったのに、終わった頃にはすっかり幸せになってしまって、寝られない気すらしてきた。何はともあれ、明日の朝から本田くんに会えるのが、嬉しすぎる。顔が赤くなっているのが自分でわかる。枕に顔を埋めて、足をばたつかせた。こんな動きをまさか自分がするなんて。明日の朝は色付きのリップ塗って、薄く眉毛描いていこう、絶対そうしよう。枕元に置いてあるメモ帳に、『色付きリップ』と書きなぐって、睡眠につとめた。




 翌朝、彼の家の前について、インターホンに指を近づけた瞬間、ドアが開いて、彼がでてきた。


「おはよう、早かったね」


「バス、この時間しかなくて」


 昨日『誰も帰ってこないから』と言っていたとおり、朝になっても家には誰もいないようだった。ちょっと時間が早すぎるということで、家の中に通された。


「はい、まずジャージ。昨日はありがとう」


 ジャージは、洗濯、乾燥を経て、綺麗に畳まれて返ってきた。こういう、彼の家庭的な面がまたキュンときてしまう。当たり前だが、彼の服の匂いがして、ドキドキしながらカバンにしまった。


「……どうしたの?」


 学ランを羽織る動作なんて何度も見ているのに、彼の家だからか、特別に見えてしまう。


「いや? ……そうだ、決着って、どういう?」


「家から塩持ってきてくれたでしょ? ちゃんともってきた?」


 家を出る直前にメールが来て『塩』とだけ書かれていたのでとりあえず小さいジップ袋に入れて持ってきておいたのだった。こういうなんとなく不器用な感じのところも好きでしかない。


「持ってきたよ!!」


「よし。それでどうにかなると思う」


「これでどうすんの?」


「それはねぇ……ちょっと秘密かな」


 薄く笑った顔がいつもと少し違って見えた。ニセモノの笑顔じゃない、ほんとに出る薄笑いだった。




 学校につくと、誰もいなかった。正確に言えば先生はいる。しかしいつもより静かな学校内に二人きりでいるような気がした。廊下の時計の長針がわざとらしく音を立てる。応接室の扉を開くと、あの人形が妙な威圧感を放って立っていた。


「吾妻さん、ちょっと出ていてくれるかな」


 ポケットにしのばせたジップ袋の塩を手に取ると本田くんは人形を見つめながら声を低めて言った。従うしかない声色だった。


「思ってたよりやばかったかもなぁ……」


 彼はそんな呟きを洩らし、桐乃は扉の外へ追いやられた。やばかったって何が? その塩で何をするつもりなの? 聞きたいことはたくさんあったが、八月のことが頭を掠めた。この世の中には常識だけでは説明しきれない世界があるのだ。彼がいま部屋の中で何をしているのかは、あえて気にしないことにして、冷たくなってきた空気が生脚に纏わり付くのを感じていた。


 五分くらい経った頃、扉が開いた。


「吾妻さん、もういいよ」


 部屋の中はさっきよりも明るくなり、人形の妙な威圧感も消えていた。


「……何したの??」


 本田くんは、困ったような顔を一瞬したが、ひとつ頷くと桐乃の耳元に口を寄せた。


「吾妻さん、僕ね、変なものが視えるんだ。この人形にはちょっとおまじないをかけた。もう吾妻さんに怒ったりしないよ」


 驚いた。その事実は知っていたけど、こんなに早く打ち明けてくれるなんて。


「私に教えていいの??」


「吾妻さんは僕を怖がらないでしょ?」


 そう言って彼は両手を広げた。ずるい。無言で抱きつくと、温かかった。そしてちょっと震えていた。私のことを信頼してくれている。それがとても嬉しかった。人形のことなんて忘れてしまうほどに。 


「じゃあ、あとは勉強頑張るだけだね」


「また教えてくれる?」


 もちろん、と彼は頷いて私を軽くきゅっと抱き締めた。初めてちゃんと私の顔を見てくれた気がした。


 人形はぽろりと涙を流した。

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