長月
「遼、今日部活ないし暇だよね、ちょっと付き合ってよ」
昼休み、自販機の前で偶然出会って、莉緒に声をかけられた。ちょっと意外なんてものじゃない、空耳かと思った。午後の授業を寝ないように購入している三本目のブラックコーヒーを思わず取り落とす。
「例のスムージーおごってあげるからさ、」
いちごミルクの紙パックをとりだしざまに正面から顔を見据えられて無表情に甘言を吐かれた。どんな用事だか怖くて仕方がないのだが、家の近くにできた新しいカフェのバナナスムージーが目の前をちらついて、二つ返事で了承してしまった。
夏休みも明けて怠惰な二学期が始まった。文化祭は隔年開催で、今年はやらない年だから、楽しみは既に消えている。部活も先輩が抜けて女子の中で孤立している。ハーレムなんて茶化されるけど、あの人たちはそんなもんじゃない。ちゃんと勉強する気にはなれない。好きな人もいない、友達は部活で忙しい。秋雨前線が調子にのっているので星空さえ見せてくれない。憂鬱だった。
天文部なんていうとかなり驚かれる。先輩みたいな学者っぽい雰囲気醸してるわけでもないし、体格がいいのは自覚している。中学の三年間はバスケに明け暮れていた。勉強はできる方じゃなかったけど授業だけきいてればそれなりにできた。自分にはバスケしかないなんて思っていた。
けれど、受験が終わってすぐ、喘息の発作で過呼吸になった。年明けから風邪をひいて咳だけ二ヶ月残った。尋常じゃない苦しさで吐きそうになったこともあったけれど風邪だと思って医者にはかからなかった。受験間際には落ち着いたと思っていたけれど、咳喘息が喘息に進行したことが告げられた。絶望だった。気をつければ多少走れるとは言われた、けれどやっぱり苦しいのは辛くて、吸入薬も合わないのか、手が震える。薬を変えてもらいに医者にかかるのは面倒だった。ずっと運動してきたのになんでだろうと漠然と考えたりもしたけど、ストレスとか、花粉とか些細なきっかけでなってしまうものだから、と説明された。そうなってしまうとなんだか全部がどうでもよくなってしまって、プロのプレイヤーになりたいなんて一ミリも思ったことないくせに将来が暗くなった。 もう頑張らなくてもいいんだ、とかいってホッとしている自分もいた。志望校に受かったのになにも嬉しくなかった。
「天文部でーす、よろしくおねがいしまーす」
入学してすぐ、死んだ目でビラを配っている先輩に目がとまった。小さい頃から星は好きだった。夜明け前に外にでて月と金星が並ぶのを見たりとか、冬場の練習終わりにシリウスの位置で時間をだいたい見たりとかする程度にはずっと好きだった。まさか天文部なんてものがあるとは、バスケ部が強いから、そのためだけに志望したので全く知らなかった。帰宅部で、バイトでもすればいいかななんて思っていたけれど、このメガネ先輩に賭けてみようと思った。先輩の方は俺みたいな見るからに体育会系な新入生が食いついてきたのでビックリしたらしい。逆『紅一点』脱却を静かに喜んでいた。入ってみたら、予想以上にダルい部ではあったけれど、先輩は優しくしてくれて、いろんな面白い話を聞かせてくれた。
ひょっとしたらバスケ続けていたよりも楽しいのかもしれない、中学生の自分を否定するわけじゃないけれど、中学からの友達を見ているとそう思う。授業中も睡魔と闘って、ハードな練習に時間は削られる。上下関係もガチガチらしい。青春はこうあるべきとかいうわけじゃないけど、嫌々やってるくらいならドロップアウトしちゃったほうがいいと思う。それで後悔するってわかってたり、でっかい夢があるならしっかり続けたほうがいい。惰性で続けてるようなのが見え見えだと、イラっとする。苦しさの前に膝をついた俺が言えたことじゃないけど。
俺のなかで、思っていたより先輩の存在は大きかったらしい。引退ってことになって、それでも多少遊びには来るけど、毎回いないんだってわかると、なんだかつまらなかった。廊下でバッタリとか図書館で見かけるとか、通学路で会うとかそんなことを期待している。全校朝礼のときは無意識に三年生の列を探している。あまりに女々しくて自分でも引いている。とにかく気持ちがモヤモヤしていた。長い長い迷路の入口に霧のなかで置き去りにされたみたいだ。
いつ晴れるのかと思ってトイレでコーヒーを飲みながらケータイで天気図を見た、台風が来ている。どうせ休校にはならないんだろうと思って、また電源を切ってポケットに入れた。それにしてもどんな目的で莉緒に誘われたのかまったく見当がつかない。すべてはバナナスムージーのためだ。荷物持ちでも長蛇の列でもなんでも我慢してやろう……。
「遼、夢ってどのくらい重要度の高いもんなんだろうね」
店に入って向かい合って座ると、莉緒が開口一番にそんなことを言った。
「今日の目的って、そういう……」
「まあね。わりとマジで悩まされてんだよ、合宿で同じような目にあったお前くらいにしかこんなスピリチュアルなこと言えないって……」
「先輩たちは聞いてくんないの」
「祥子先輩も紗枝先輩もちょっと鈍感っていうか、そもそも相談相手に女子は向かないって遺伝子レベルで決まってんじゃん……、頼むよ、おかわりしていいから聞いて……」
普段なに考えてるか全然周りに悟らせない莉緒がこんなに疲弊を表に出して喋っているのが意外だった。昼休みには気がつかなかったけれど目の下のクマがひどかった。
「いや、俺にいうのもおかしいでしょ、苦手なの知ってるじゃん」
「大丈夫大丈夫そんな怖くないから。合宿のときよりヤバくないから」
今年の部活の合宿は大変な目にあった。改めて思い出したくもない。はこばれてきたミルクコーヒーとフレンチトーストを無表情に口に運びながらどう説明したものか一生懸命考えているんだろう。こんなに美味しくなさそうに甘いものを食べる女子を俺は初めて見た。初秋とはいえ結構肌寒くなってきたこの時期にアイスクリームを頼んだことを少し後悔した。
「なんか、毎晩毎晩おんなじ夢なんだけど微妙に違ってくるっていうか……。標本をね、ずっと見てるだけの夢なんだよ」
「虫の?」
「そう、蝶々」
夢の中で莉緒は博物館なんかで壁に展示されているような夥しい数の蝶の標本で埋め尽くされた部屋に一人で立ち尽くしているのだという。床から壁から天井に至るまで、ガラスの向こうに虫ピンに貫かれた蝶の羽が広がっている。
「標本気持ち悪くて嫌いっていつだったかいってなかったっけ」
「うん、言ったね。死骸が飾られてるって考えたら悪趣味で見てられないって、剥製もダメ」
しかし夢の中では不思議と気持ち悪くなく、食い入るように見つめているらしい。
「そこまでだったらね、全然、怖くないんだけど。蝶の標本を見る夢はモチベーションが下がってる夢だってそこまでは調べられたし、でも総合的にいえば全然違う夢だから」
その標本に埋め尽くされた部屋で、綺麗な標本から痛んでいるもの、うまくできなかったもの、羽が欠けているものまでいろいろな標本を興味深く見ていると、だんだん標本が虫だけじゃなくなってくる。人体の一部が蝶や甲虫と同じように虫ピンで留められている。指、皮膚の一部、耳、目、心臓に血管、さっきまで誰かの体の中に入っていたみたいに瑞々しく、血が滴り、濡れて光っている、それでもまだ気持ち悪さは感じない。むしろさっきまでよりもずっと好奇心をもって見つめてしまうのだという。その、すっかり『ヒト』の標本箱と化した壁を眺めていると、自分の視界に違和感を感じ始める。
「なんか、私が標本にされている、みたいな……」
説明する側も難しいんだろう、しきりに前髪を触りながら視線を泳がせて言葉を探している。
「それって、虫ピンで刺されてるってことでしょ、痛いの」
「いや、痛くはない。でも仰向けにされて壁に留められてるのがしっかりわかる、イメージとしては、キリストの磔刑みたいな感じ……」
俺は宗教画をあまり見ないから詳しいイメージはわかないけど、なんとなくわかる。肩の関節がキツそうだと思った。痛みはないというから、そういう痛さもないんだろう。
「そう、突然、身動きとれなくなってそんなことになってんだよね。でもね、問題はそのあとなんだよ。毎日おんなじ夢見るって言ったでしょ、そこまではいつも一緒」
莉緒はコーヒーをグッと飲み干して眉間にシワを寄せて不機嫌そうにカップを置いた。ソーサーが派手な音を立てる。
「……知らない男に見られてることに気付いたんだよ」
最初にその夢を見たときは、自分が磔にされているのに気付いて軽くパニックになったらしい。身動きがとれないことに焦ってもがくと、腹からも手のひらからも腿からも血が溢れる。痛みがないのに血が流れ出す感覚だけがやたらとリアルだからさらに焦って、目が覚めると、肩で息をして、疲弊しきっていたという。それ以降は、またか……という諦めというか、少し余裕がでてきたのか、無駄にもがくことはせず、静かに様子をみることにした。そうすると、自分以外の誰かが夢の中にいることに気付いた。ガラス板を隔てて、外側に観察者がいる。視界はぼんやりしていて、その姿を認められそうにはない。ただ目の前に立ってじっと観察されている。それだけでも気持ち悪いが、夢に慣れてくるにつれ視界がはっきりしてくると、それが見知らぬ男だと認識できるようになった。そしてその男が標本のように壁にはりつけられた莉緒を、恍惚の表情をうかべて見つめていることもわかるようになった。
「だからさ、なんか標本に反応するタイプの変態に見られてるだけの夢なんだよ」
「めちゃくちゃ怖いじゃん……引くわ……でも俺にはなんにもできないよ?だって夢のなかのことなんて」
「いや、どうも夢のなかだけじゃないみたいなんだわ」
莉緒は黙って両の手のひらを差し出した。ちょうど真ん中あたりに赤い鬱血痕のようなものが広がっている。手の甲にも同じ位置に鬱血痕があった。お腹にも両腿にもあるのだという。
「これって……」
「そうだよ。……なんかムカつくでしょ、気持ち悪いもの見せられて、気持ち悪い奴にいつの間にか見られてて、現実にも介入してくるとか。たぶん生きたままピン刺して、弱って死んでくの見るのが楽しいとか思ってんじゃないかな」
「虫の標本作るときだってさすがに生きたまま刺したりしないでしょ……暴れたら傷がつくし……作ったことないけどさ……。その見てるだけの人に心当たりは」
「ないね」
俺の頭のなかにはひとりだけ、心当たりではないけれど、頼れそうな人が思い浮かんでいた。それが心霊的なものでないとしても、こんなにずっと同じ夢をみるのならば、聞いてみる価値はあるのかもしれない。それに、あの鬱血痕のようなものが不可解すぎる。
それからすぐ、もちろんスムージーもアイスも全部頂いて満足してから、連絡もなくその人の家に二人でおしかけた。高三の二学期だし、あまり学校が好きな人じゃないからすぐ帰ってくることを知っていたし、お姉さんもおばさんも帰りが遅いことを知っている。いつでも会える人だ。
「突然おしかけてすみません、本田先輩……」
「あれ、珍しいね栗原くん、春会って以来、か」
「そうッスね、ちょっと力をお借りしたくて、」
本田先輩はそっち側に明るい人だ。自分では振り回されるだけで迷惑だっていうけれど、俺も比較的霊感がある方らしく、何度か先輩に助けられた。家も近所だし、視る者同士ということで目立たないように仲良くしてくれていた。先輩はなにかがきっかけでずっといじめられていたけれど、俺に影響が及ばないように気をまわしてくれるような優しい人なので、いまでもなにかある度に頼ってしまう。
「すみません、お勉強の邪魔しちゃって……」
「いやいや、大した勉強なんかしてないし、全然いいよ」
先輩は既になにかありそうな感じで、俺の隣に座る莉緒を頑なに見ようとしない。やっぱりなにかそういう系のやつだったか……と思うのと同時に、先輩の手に負えるだろうか不安になってきた。
さっき聞いた一連の話を聞かせ、莉緒の手を見せた。先輩は静かに聞いていたが、手のひらを見せたときは流石にぎょっとしているようだった。
「……なんか、瀬川さん?だっけ、心当たりあるよね」
「……いえ、わからないです」
「……同級生からメールでも手紙でもなんでもいいけど、なんか変なこと言われたんじゃない、」
莉緒の顔がサッと青ざめて、無言で頷いた。
「でも顔も名前もよく知らないし無視したんだよね、結構しつこかったかな」
「はい、そうです……」
「二学期に入ったら嫌がらせみたいになってきたでしょ」
「はい、下駄箱に石がいっぱい詰まってたりとか、帰るときに靴がなかったりとか、」
なんでそれを俺に言わないんだ、そっちの方がどうにか俺でも対処できたのに……。あの話だけでこれだけわかる先輩のほうが怖かった。ときどき視ることがある、としかいわないけれど、たぶん本人が気づいていないだけで結構視えてるに違いない。
「遼くん、そろそろ心当たりあるね」
「えっ、はい……たぶん同じクラスの、長井……」
「それだな、一見真面目そうに見えて結構拗らせちゃってるね」
長井は高校で一緒になっただけのあまり仲がいいわけでもないただのクラスメイトだから性格を知り尽くしているわけでもない。ただ、プライドの高さが時折垣間見える。あまり交流を持ちたがらず、話しかければ人当たりよさそうな仕草をみせるけれど、言葉の端々に相手を見下すような棘があって、近寄りがたい。でも彼なら、告って無視されて、逆ギレみたいなのはすごくイメージしやすい。面倒な人、この一言で片付くような人間だ。
それに、標本というのもかなり納得がいく。彼は虫が大好きで、飼っていた虫が死んでしまうと、標本にしてやって、しまっておくのだと入学当初に話の流れで聞いた。蝶を卵から育てて、綺麗に標本にできるとすごく嬉しいなんていっていた。
「たぶんその人だろうね……『標本にできれば』それで満足する人だと思うから、瀬川さんが標本になったら落ち着くとは思うけど、もう痣できちゃってるしね」
「どうしたら対処できると思いますか……」
「わかんないけど、呪い、に近いかなって思うんだ」
莉緒が息をのんで身を強張らせたのを感じた。
「……丑の刻参りじゃ、姿を見られるだけで失敗らしいけど、もう夢の中で姿はみているんだよね。そうすれば……名前かな。お前の正体を知っている、って、示せたら終わると思うんだ」
俺にはよくわからないけれど、先輩が言うには、名前というのは命の次くらいに大事なものらしい。どんな人もそうだと思うけれど、名前を呼ばれればどうしても体が反応してしまう、体と意識を縛る紐みたいなもんじゃないの、とか話していたような気がする。
「俺はなんかできることありますかね、」
「ないかな、でも心配なら神社行っとけばいいんじゃない。魔除けに、」
帰り際に少し先輩に引き留められた。
「あまり力になれなくてごめんね、でも多分これで大丈夫だから、しばらく近くにいてあげて」
「はい、ありがとうございます……。また、なにかあったら」
「うん、出来るだけないほうがいいけど、いつでも暇だから」
先輩は笑っていた、前よりちょっと明るくなったかもしれない。進学してここから出ていってしまったら、寂しくなるなあと思うと、部活の先輩の顔がチラついた。あの人が勉強しているのを俺は見たことがないけれど、先生が天才とか茶化していたからきっと勉強しなくても大丈夫な頭をしているんだろうと思う。俺は……大丈夫なんだろうか。いまでさえ迷子みたいに不安になって……。
「遼くん、また勝手に不安にならなくていいんだよ、なるようにしかならないからね」
……この人は高校に入る直前の俺にも同じことを言ってくれた。それでやっと踏ん切りがついて、運動部を諦める決心がついたのだった。どう頑張ってもなるようにしかならないのだ。不安だったとしても、どうにかなってしまう。そんなものなのだろう。
「はい、ありがとうございました……、じゃあ、また」
「表情分かりやすすぎ、……頑張ってね」
先輩の家を出て二人で神社に寄っておくことにした。先輩は、素人がやってるもんだしそこまで酷い目には遭わないと思うけど、なんて楽観的なことを言っていたけれど、俺はやっぱり莉緒が心配でならなかった。
「あの人、遼の友達って感じしなかった」
「俺もそう思う」
「遼は先輩がいなくなってからすごく元気ないよね。あの人にしろ、部長にしろ、遼にはああいう人がいてくれないとダメなんだろうね」
後ろから莉緒にそう言われて、本殿までの石段を少し踏み外した。図星だった。
「でもさ、」
思わず振り返ると、思ってたより後ろのほうで、莉緒がこっちをしっかり見据えている。夕日をまともに浴びてちょっと眩しそうにしているので睨まれているのかと思った。
「怖いのはお前だけじゃないんだよ。ちゃんとしろなんて言う権利、わたしにはないけど、与えてもらうばっかじゃダメだよ。いまの遼に、あの人たちへできることがある?」
……ハッとした。俺がそんなことでうだうだしている間、莉緒は誰にもなにも言わないで、悪夢の、長井からの嫌がらせの恐怖に耐えていた。怖かったのは俺だけじゃない、そんなことは分かっていると思っていたけれど、とんだ思い上がりだ。
「なんて言ってもね……でも、お前の沈んだ顔見てんのもう飽きたから」
「……そう……か、うん、ありがと……なんか俺のなかでいま何かが消化された。……早く行こ、暗くなる」
本田先輩だっていつも怖いはずだ。あの人が陰でいじめられているのを俺は近いところで見ていた。今だって学校が違うからよくはわからないけれど、きっと小さな嫌がらせは続いていると思う。たまに会いに行くと喜んでくれるのをいいことに、呆れるほど俺は甘えていたんだな。ここ最近のモヤモヤした気分は自分のせいだったことがわかっただけで、少しよくなった気がする。
「ごめんねなんか、付き合わせといて偉そうに、」
お参りを終えるまで二人して無言でいたけれど、また石段に戻ってきてから莉緒が口を開いた。やっぱり少し不安そうな顔をしているので心配になる。普段表情を表に出さない分、余計に辛そうに見えて、俺もつられて不安になる。
「いや、言ってもらえなかったら俺、気づかなかったかもしれないし、ありがとう。それより、大丈夫そう?」
「うん、よく考えたら、その長井くんのこと無視したことに少し罪悪感があった。こっちでも多少意識しちゃってたから、いけなかったのかもしれない。でもちゃんと断っててもダメだったかもね、もっと早くに遼に言えばよかった……」
「……長井に聞こえるように『瀬川はめっちゃ性格悪いぞ』って言っとけばよかったな」
「遼もいつ同じ目に遭うかわからないから、近くの女子に『栗原は素行が悪いぞ』って言っとくね」
真顔で言われたのでそれが冗談か冗談じゃないのかは判断がつかないが、なんだか大丈夫そうだった。莉緒の中でなにか覚悟ができたような感じがした。
なにかあったら、ショートメールで報告することを約束して今日はこのまま帰ることにした。冷たくなってきた風の中に、金木犀の匂いが溶けていることに今年初めて気がついた。
それから二日後の朝、教室に入ると長井が俺の椅子に座っていた。
「栗原、お前、一組の瀬川と仲良いよな?」
一気に顔がひきつって冷や汗が吹き出すのを感じた。胃が痛い。
「部活は一緒だけどあまり話はしないかな……なんで?」
初めからプライド高そうでかなり苦手だったのに、莉緒の件があって、すごく執念深いことを知ってしまって、もう一秒も会話をしたくなくなった。でも、友達が傷つけられたとかそういうのもあるけれど、逆ギレして癇癪をおこす、その丸出しのガキっぽさが腹立たしくて仕方なかった。なにをしても気が済みそうにない。
「別に、お前に忠告だよ、瀬川だけはやめとけよ。アイツめちゃくちゃ性格悪いぞ」
長井は笑いながら言った。
「え?どういう意味?」
ないがしろにされた腹いせに根も葉もない悪口か。こいつ本当に救いようのない……。腹の底から沸き上がってくる苛立ちを必死に抑えて冷静を保つ。
「付き合ったりすると痛い目見るからな、お前はそういうのと縁遠そうだけど」
「へえ、なんか痛いことされたんだ」
「見ろよこの包帯、切りつけられたんだよアイツに」
長井は手のひらから手首にかけてを包帯で覆っていた。その下は多分切り傷なんかじゃない、赤い、莉緒の手にあったのと同じ痣があるんだと思った。莉緒からは明け方の四時頃、メールが来ていた。一行、『おわったよ』とだけのメールだったが俺は心底安堵した。ついでになにか仕返しでもしたのだろう。
「それって長井がなんか酷いことでもしたんだろ。あいつ全然他人に興味ないから怒ったりしねえよ。それに、付き合ってもらったのも夢なんじゃねえの?全然想像つかない。長井も面白い冗談言うんだな」
長井は苛立ちを隠そうともしないで俺のネクタイを思いきり掴んだが、俺も元運動部、こんな神経質インテリもやし男に負けるほどではない。
「離せよ、手ぇ怪我してんじゃねえのか」
それに一瞬怯んで手を離したのを、今度は俺が長井の胸倉を掴んで椅子から剥がす。
「思い通りにならないからって癇癪おこしてんじゃねえぞ、二度と瀬川に近寄るな」
俺も苛立ちを隠せずに怒鳴ったので、喧嘩と勘違いされて周りの男子に仲裁に入られた。胸倉を乱暴に掴んだことだけ謝って頭を冷やそうとコーヒーを買いに行った。
「遼?」
聞きなれた声に顔を上げると先輩が立っていた。
「部長……ああ……俺、最低ッスよ……」
「今日はまたえらく沈んでると見えるね」
久々に先輩とサシで話せることが嬉しいのもあったけれど、ついカッとなって乱暴なことをした反省を聞いてほしくて、当たり障りのないところだけ選んで喋った。
「……遼、かっこいいじゃん。気に病むことないって、僕はそんなことできないけどさ、代わりに誰かがそうやってガツンとやってくれると心が軽くなるっていうか」
「でも抑えが利かないのは大問題ッスよ、整備不良車野放し状態……」
「ブレーキの調子が悪いってわかってんのとわかってないのとじゃ、運転の心構えはちょっとは変わると思うけど。いんじゃない?そこからで。……コーヒー奢ってあげるから元気出しな」
やっぱり先輩といるとちょっと安心する。莉緒が、俺にはこういう人がいてくれないとダメなんだろうって言ってたけど本当にそうだ。でもいまからでも、先輩が卒業しても大丈夫にならないといけないよな……。
始業のチャイムが鳴って、教室に戻ろうと渡り廊下に出ると、霧状の雨が降っている。天気予報通りだ、しばらくは星も見えない、天文部的には憂鬱な日々を思うと、長いため息を漏らしていた。