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通り雨が運ぶ歌

作者: 紺野智夏

「通り雨がはこぶ歌」




雨が降ってきた。

ポツン、ポツン、と雨音が聴こえたかと思えば、じきにザーッと屋根を叩き付けはじめる。

お世辞にも新しいとは言えないおんぼろアパートの必死の抵抗も虚しく、天井から雫が落ちてくるのもいつものことだ。予め置かれた、いや…置きっぱなしになったままの古い鍋が、今日も水滴を何かのために貯えてくれる。


梅雨は嫌いじゃない。

それは、外であくせく働く同年代からみたら、頭の調子を疑われても仕方がない感性だとは思うが、ほとんど1日中部屋に篭りきりの僕には関係ないことだった。



僕の眼は所有者の僕に反乱を起こした。

少しずつ僕から光を奪い、今では本当に薄ぼんやりとしか、物を視ることが出来ない。

僕は生きることを半ば投げ出して居た。様子を見に来る母はなんだかんだと僕の世話を妬いてくれたが、それすらも苦痛の種でしかなかった。僕の残り少ない眼の寿命は、僕が大好きな小説や漫画、パソコンやゲームをすることを許してはくれなかったから、僕は毎日ボーッと音楽を聴いていた。点字の教則本は大分前にゴミ箱に捨てたのに、いつのまにか机の上に戻してあった。だけど触れることはない。一人で見るには僕の視力じゃ弱すぎる。


外に出たら泣きたくなるだろう。いずれ見えなくなる景色達に別れを告げるように街を歩けば、受け止めたくない現実が僕押し潰しにかかる。だから僕は此処から出ない。完全に視力が潰えてしまえば、僕はきっと横浜の実家に連れ戻されるだろう。母は今すぐにでもそうしたいはずだ。僕はでも、少しでも長くこの街に居たかった。いや、この部屋に居たかった。



隣の部屋には「有紀さん」という女性が住んでいる。

有紀さんは僕より2つだか3つだか年上で、アルバイトをしながら声楽の教室に通っているらしい。全て母の(というよりご近所さんの)受け売り。

僕はといえば、彼女とは会話どころか、ろくに挨拶をしたこともない。姿すら見たことのないけれど、僕は彼女の好きな歌を知っている。それから、好きなラジオ番組も。おんぼろのアパートの薄っぺらい壁は、生活音を生々しく隣室に伝えた。




雨が上がる気配はない。雨音を聞くのは中々に楽しく、僕は飽きずにいつまでも耳を澄ましていた。


じきに、歌声が聴こえてきた。隣人に、というよりも、雨音に遠慮しているのだろうか、小さな声で、でも確かな声の強さで、有紀さんは歌っていた。

僕が梅雨を愛す理由。

彼女の声は心地よく、僕はジッと目をつむり耳を澄ます。

まるで誘っているかのように、彼女は普段僕が聴いている音楽ばかり選んで歌った。僕は小さな声を彼女の歌声に重ねた。


聴こえていたのかは分からない。僕の声は、彼女の声に比べても小さすぎたし、そんな声をかきけすのに十分な雨音が伴奏をつけていたのも確かだ。


それでもいい。僕の声など届かなくとも、いい。


いつの間にか泣いていた。僕が歌うのを辞めると、偶然か、彼女も歌を止めた。涙が止まらなかった。どうしてだろう、いつもは、こんな風にはならないのに。


彼女の歌声が聴こえてきた。僕の知らない英語の歌。お世辞にも頭が良いとは言えない僕には、彼女の歌う歌が何を言わんとしているのかは分からなかった。分からなかったけど、涙は止めどなく流れた。きっと、きっと前向きな歌だ。彼女が、薄い壁一枚隔てて座る僕のために、選んでくれた歌だ。



おんぼろアパートには感謝しなければいけない。僕は僕を大切にすることにした。外に出よう、雨は止んだ。眩しい太陽の光には、さすがに反抗的な僕の目も降参するしかないだろう。

僕はサングラスを取って、外に出た。そこで初めて、はにかんだ有紀さんの顔を見た。彼女もまた、出掛けるところだったらしい。


「お散歩でしたら、良ければご一緒しませんか?虹が、出てるんです」


有紀さんは僕にそう言った。僕は下を向いて、「足手まといになりますよ。虹が消えてしまう」と、消えそうな声で返した。それでも動じることなく、「それでもいいです。大切なものは目に見えるものだけじゃないわ」と微笑んだ。

僕は負けっぱなしだ。小さく有紀さんにお辞儀をして、隣を歩かせて貰うことにする。



*



僕の世界から光が消えても、有紀は僕の手を引いて暗闇から連れ出してくれるだろう。僕は雨に感謝するだろう。願わくは雨の日も晴れた日も、有紀の眼が映す美しい景色を、僕は有紀の隣で感じていたい。その歌声に耳を澄まして…。


梅雨のじめじめした気分をふっとばしたくて書いたものです。

雨は好きではありませんが、雨音を聞いているのは好きです。不思議なものです。


初稿:2008/5/19

改稿:2009/10/8

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