天国の瘴気の沙汰
電車が止まりホームから階段で改札口に向かって降りたところで、シャッターと熱気が篭っているだけの閑散とした通路の姿ではない事に気づいた。
煙草の吸殻。投げられた缶。くしゃくしゃの白紙。
人によっては糾弾してくるであう行為が散見している。
「枯れ木も山の賑わい……」
「どうしました?」
「いや……汚いなと思っただけだ。」
「はい、落し物が多いですね。」
補填されるという話を受けて遠慮なく買った往復切符をパラフに渡し、ゲートを通った後に彼女の手から回収して、降り立った俺たちを待ち受けているかつての繁華街へ視線を移した。
しかし雲に覆われた夜空の下。
湿気がたむろする道に明かりは一切なく、バッグのリングにぶら下げていた二つの懐中電灯を手に取る必要があった。
一度地面に降ろし、片方の懐中電灯をパラフに渡す。
……遠くから誰かが革靴を鳴らす音が聞こえ始めた。
「ありがとうございます。」
「紐は腕に通しておけ。よっと……あと、暫くお前はあんまり喋るなよ。」
「はい、わかりました。」
後ろから近づいてくる足音が止まり、喋ることなくこちらを覗くようにして眺めてきているのが布の擦れる音から分かる。
耳を立てながらバッグを背負い、俺は振り向く。
薄手のポロシャツを纏った、身長が2m近くの高さがあり筋骨隆々の男がこちらを見下ろしている。
暗闇の中で黒いマスクをつけているせいで、目元から下の鼻や口が消失しているようにも見えて、かなり不気味だ。
「……なんだ?誰だ?」
大柄な男から少女への直線ルートを遮断するように立つ。
駅に着いたこのタイミングで近距離まで黙って近づく時点で、彼が誰であるのかは予想が出来ていたが……それでも電話越しの注意喚起に従った。
「……貴様か。アクトだな。」
「そっちの名前は?声の偽装なんて誰でも出来るだろ。」
「名刺だ。受け取れ。」
「……もらう。」
光源の少ないとはいえ紙に目を懲らすと、次第に文字が読めるようになる。
緑色のクレジットカードのような名刺には、白い文字でこう書かれていた。
『須藤 ノリアキ』『職業 ウェブライター』『実績・ブログ年間PV5500万達成、ゲーム『登錦の咆哮6・7』シナリオ協力』
登錦の咆哮というのは繁華街を舞台にした時代アクションゲームだ。俺も冬夜と一緒にやった事がある、というよりかなり好きだ。
格ゲーとも無双とも違う絶妙な難易度が、男達の殴り合いと噛み合って人気となりシリーズ化している。
「登錦か……何をやっているんだ?」
「私は過去の抗争の調査と、現代のヤクザとの相違を纏めた。」
「相違?気温が違えば何もかも違うだろ?」
「例えば、だ。今では偽名詐欺と呼ばれる行為は過去、オレオレ詐欺と呼ばれていた。家族関係の情報と勢いでゴリ押す過去との違いとして、インターネットに子供の写真と名前をあげるネットリテラシーの低い対象と、その息子のSNS等の情報をかき集め、電話のみで絶対の信用を得るようになった歴史がある。騙されて絶交すればなお美味しい。」
「……相違というより、変容か。」
「もちろん他にも変化、進化、退化、パターン化、技術化など挙げればキリがない。そういった資料を提供する協力だ。」
老人が外出し、受け子にお金を渡すシーンのことだろう。
……よくアレで騙せると思ったなといった感想を抱いたが、妙に面白く感じるリアリティはこの男の資料によるものなのか。
トウヤの信頼している人間だと考えていいかもしれない。
ただ念の為の確認はしておくべきだと、俺は口を開いた。
「確認だがスドウさんだよな。アンタはトウヤを知っているか?」
「……同人ゲームクリエイター。身体の虚弱性と介護の為に殆ど不登校……これで十分か?それとも、もう少し会話するか?」
「……いや、ありがとう。今夜はよろしく。」
スドウは少し目をつむり、そこまで間を置くことなく俺の知る彼の姿を述べた。
ここまで明瞭に答えてくれるならば彼の性格がひん曲がってないことを前提に先導を任せることができる。
それにこれ以上に警戒を緩める気はない、最低限の自己保身の為に必要だ。
続いて大柄な歩幅で歩いてきて、少し屈んでパラフの方を見る。
「パラフ、このスドウさんとは話していい。」
「はい、分かりました。こんばんは、スドウさん。」
「……余りはしゃいで恨みを買うんじゃねぇぞ?私は子守りをしにきた訳じゃないからな?」
「はい。」
「で、お前、何歳だ?」
「……ごめんなさい、分かりません。」
「……まぁいい、クライアントには見た目年齢で頼むと言われているからな。」
「クライアントって誰だ?」
「お前の友達の事だ。パラフ、だったか。『少女の情報を偽装する際に必要な情報だろう』と前もって伝えてきた。」
「ああ、なるほど。」
そういえば俺の家に置いてきた彼は、今はどうしているだろうか……ふと物思いに耽りながら先見の明に俺は舌を巻く。
少女を見ていた彼は膝を叩いて背中を反らし、革靴の先を暗闇の向こうへ向けた。
「さて、こんなところか。ついてこい。」
「ちなみに、目的地を聞いても?」
「……あー……」
ペン程の太さしかない懐中電灯をつけて俺たちの先を行くスドウ。
暗闇の中ではぐれないようパラフの細い手を掴んで引きながら、半歩の距離だけを開いてついていく。
俺の質問に対し歯切れの悪い彼は、苦悩の末に長い一言で形容した。
「総合型……アンダーアミューズメントパーク……?」
「……ん?」
「いや、忘れてくれ……『ピンキーグラウンド』だ。パクられたくなければ外でこの名前を言わない方がいいが。」
「……分かった。」
「紹介者の名前は?」
「イモリヒメ。」
「それでは名前を。」
「スドウ。」
「……」
彼はアンドロイド越しに誰かと通話を行い、地下への階段を通してもらおうとしていた。
一言にアンドロイドと言っても皮が無い奴で、男性とも女性ともとれない奇妙な骨格が懐中電灯に照らされていた。
「……いらっしゃいませ、スドウ様。ヒメ様にご連絡致します。」
「連れがいる、彼女の舎弟は要らない。」
「分かりました。それでは良き夜をお過ごしくださいませ。」
『こんばんは、いらっしゃいませ。』
「うわっ。」
「アンドロイドが喋りましたね……明るい女性の声で。」
「……胆力あるな、少女。」
『本日は暑い夜の中、この場所にお越しいただきありがとうございます。日付が変わるその時刻、特設ライブハウスにて特別なゲストをお呼びしております。是非お楽しみ下さいませ。』
階段の下から誰かが上がってくる。
黒く薄い布で、豊満な胸を危なっかしく隠している。
……淫靡な格好をしているのはアンドロイドと言われて想像し易い、綺麗で高価な肌を纏った女性型だった。
そして見分ける方法は簡単だ、瞳孔が異常な大きさを誇っている。
「お待たせ致しましたわ。エスコート致します。」
人間と変わらない、湿った声。
マキナ体と同じ技術で作られているのかもしれない。
「アクト、降りるぞ。」
「……子分は要らないんじゃなかったのか?」
「人間が対応すると客引き判定で警察が介入する。だからこそ客はアンドロイドに話しかけなければいけないし、扉を開くのはアンドロイドでなくてはならない。」
「ガバいんだな、そこら辺……」
「客の視線に合わせて動くマネキンもアンドロイドの一種だ。法律で決められている。」
「ふーん……」
しかし、と階段に入りかけた状態で周囲を見渡す。
この土地はテナントビルが立ち並んでおり、住宅街とはまた違う雰囲気と生活感の無い漆黒に染まっていた。
およそ電気が使われていないが、そんな大量な電気を使うことこそ国家への反逆として捜査されるのでは無いだろうか……
それか、反社だからその程度で堕ちて困るものは無いのかもしれないが。
「ふふ、開きますわよ。『ようこそ、いらっしゃいませ』」
階段の先には俺たち四人が立てるスペース部分があり、目の前には赤く錆びている黒い扉があった。
『アンドロイド型番OK、声紋認証OK』
その文字を読み終えた時、アンドロイドのしなやかな手がドアを引いて開き、俺たちを中に入るよう手で促した。
「地中の天国、ピンキーグラウンドへ。」
…………まず見えたのは赤色の敷かれたカーペットと、正面にデカデカと飾られた天井から床までの大きさを誇る絵画。
それが見える程の、沢山の明かり。
天井のソレは円状に床を照らしているが、かけ算で求めた方が早いほどに大量に並んでいた。
中に踏み込みながら観察を続行する。
大きなソファが見え、そこでは男性アンドロイドによりかかる女性がいた。
だが、互いに気にせずにいられるほどの距離がある。
「……広くない?」
「言っただろう、総合型と。」
「聞いたことにしなかったが。」
「言った事実は揺るがない……さて、楕円形のこの部屋には五つの扉があるが、まずはあっちが─────」
彼は今入ってきた扉から見て右の方から説明してくれる。
全ての扉に皮膚の無いアンドロイドが二体ずつ立っている。
『丁半の間』
「パチ、競馬、オートレース、他にも世間の些細な物事に全て賭けれる。タロットから名づけられたAIアナリストをの中から今日の当たりを見つけられれば勝ちだ。」
『陣戦の間』
「ポーカー、麻雀、バカラ、対人戦の賭け事ならここでやれる。一番警備員が詰めていて、最も安全が保証されていて治安が良いと言えるだろう。」
『楽奏の間』
「ストリップにポールダンス……後はバーが設けてある。およそ法律違反のソレだが、確か今日の内容はアクトやパラフが入っても呼び止められない。」
『能天の間』
「美男美女にもてなされる、いわばキャバクラだ。マキナ体やアンドロイドもいて数多の需要が叶うだろう……あと、託児所にもなっているな。」
『破操の間』
「……物騒な名だが、地下数階に渡っての個室が用意されている……あー……テレビやタブレットを操作せず、コールしなければ何も無いし、あー……普通に安めのホテル……か?」
「……言いたいことは分かった。男だけだったら普通に説明出来たか。」
「ああ、レディーの前ではな。」
「……共学の陰キャか?」
「まさか、私は筋肉バカだ。」
軽い説明が続いた後に、彼はスマホを取り出して何かを眺める。
そして俺を見て、扉に視線を移し、何処を勧めるか悩んでいるようだ。
「……私は楽奏の間で酒を嗜むが、どうする。」
「今、ライブは何やってんだ?」
「プロローグだな。確かヒメが連れてくるときは大体ゲストが過去にやった音楽をくぐもらせて流している筈。もしくは適当なDJを呼んでいるかもな。」
またヒメか。
スドウが先ほどから口にしているが、名前だろうか。そして彼が今回、俺たちを乗せてくれた物事はその人物との会合だろう。
相当上の人物だろうし、こういった組織を纏める立場となれば40歳は近くなりそうだ。
ノンアルコールの飲料があると確認していると、パラフは緊張でもしているのか俺に体を寄せてきていた。
体調が悪いという様子もないがとりあえず彼女の体を支え、共にバーへ向かうことにした。
「『メンタルイレイザー』!」
一歩入れば響く低音。
どこから響いているのか分からない音楽は、そよ風のように全身を揉んでいくし脳を直接揺らしているみたいだ。
スドウが指し示す先に、透明感のある設備と寒色の光源があった。
円状に設けられたバーカウンターの中を数人が立ち回っていて、取り囲んでいる客に向かって談笑したり飲料の提供を行っている。二十人と少しが座れそうで、そういったものが蠢く影の向こうにも見える。
……円の形をしたバーは概念としてはいつの間にか受け入れていたが……実物を目にするとなんとも言えない高揚感がある。
予想していた地下ライブハウスの密閉感とは違い、大きなドームに匹敵しそうな天井の高さと、観客が線みたいに立ち並ぶ広さが四方に広がっていた。
RARによって空間を投影しているのだろうけど、演出のレーザーや演算で算出された音の響きは、本当の大きなドームでやるライブより迫力がある。
……いや、おかしい。
バーを設けている範囲は少なくとも現実だろう。
そうとするとステージから弧で囲まれた範囲は本当の人ということになる。
……蠢く人々は何人だ?
ここの動員数、地下にしては些か巨大すぎないだろうか。無駄に広くてポールダンスは見えないだろう……
「うぅ……」
カウンターに向かいながらこの空間のおかしさに気を取られていた俺は、足を掴んでしゃがみこむ少女の声によって想像から戻された。
「おっと。どうしたパラフ……吐きそうなのか?」
「いえ……うぅ、頭が……」
「人酔いでもしたのか。」
「大丈夫です、縛られるみたいに痛いだけで……」
スドウが立ち上がり、インターカムをつけてこちらをチラチラ伺っている男性に向かって歩いていく。
頭痛に対してどうしたら良いのか分からない俺は、壁際の方へ連れていき酔いつぶれた人間から距離を置ける位置に回復体位で横にする。
「連れが体調を悪くしたみたいだ、頭痛に効く薬をくれるか?」
「ウチは薬局じゃないんで。」
「私はヒメの紹介で来た者なのだが。」
「……確認します。」
「コール対応者か能天の奴に伝えろ。子供に使える真っ当な奴を。」
インカムで報告しながら飛び出した男性は、すぐに何かを抱えて戻ってくる。
それを受け取りバーで水を貰ってから、スドウは受け取った物をパラフの前に置いた。
お菓子が詰め込まれたバスケットから錠剤の入った新品の箱を取り出し、一つスドウに向ける。
弱みを見せた時にこそ一番意識して警戒すべきものは、助けの手だ。
血が繋がっていようが目論見が無い理由にはならないのだから、信頼出来る人以外の全てに抱くべきだろう。
「……毒味か?」
「マキナ体じゃ出来ない。」
「しょうがないな……ん……」
呻いているパラフには申し訳ないが、正面で胡座をかいて項垂れるスドウの様子を5分間眺める。
……その間に、トウヤが言っていたことを思い出した。
親切に気を回した上に毒味をしてくれる人間だ、万が一に毒だとしても俺が責任をとるわけないということは分かっているだろうに。
「シャブ玉ではないようだ。依存性は無いだろう。」
「すまん、ありがとう。おい、口を開けろ。」
「はぅ……うぐぅ……」
「体勢を起こした方が飲みやすいだろう。私が支えるから貴様が飲ませろ。」
「あぁ。」
服薬方法を確認し、小さな薬の2錠を縦に積んで摘む。
口を脱力させた分しか開かなかったが、そこにねじ込んで水も突っ込む。
効き目が出るまでじっとしていようということでスドウに予定を聞くと、ゲストのステージが終わるまで時間を潰すつもりらしい。
音楽を追ったりしない俺は、ただライブを聞いているだけで飽きそうだ。
前座も有名な人だったのか大きい拍手が鳴り止むまで相当な時間がかかり、それを越えても少女の苦しみはまだ続いていた。
数人が扉から出ていき沢山の人間がだらだらと入ってくるのを見ると、そろそろ
「薬、効かないな。」
「……だいぶ慣れた気がします。体を起こしても、いいですか……?」
「お前が楽な体勢をしろ。」
「こう……かな……どうでしょう?」
少女はバスケットをひっくり返しその上に腰を下ろして顎を手に当てた。
考えだしそうな格好であるが、それは頭痛を抑える体勢なのか甚だ疑問である。
まぁ、病は気から、だ。
自傷行為でも無ければ止める必要はないとして、スドウに彼女の様子を見てもらいながら味覚センサーを刺激する飲料を取りに行く。
「パラフは何か欲しい飲み物はあるか?」
「……バナナジュースが欲しいです。」
「おう、バナッ……うん!?」
体全体を翻して二度見する。
「いや、私が知る限りそのメニューは無いな。」
すかさずフォローが入り、俺の聞き間違いでは無いこととジュースの有無の確認がとれて手間を省いてくれた。
そのまま彼は「あと私の為にコーラを頼んでくれ」と続ける。
「パラフは?」
「……暖かい牛乳が欲しいです……」
「……いや無いだろ、スドウ?」
「知らないのかアクト。牛乳は酒の悪酔い防止になる。」
「それ、殆ど迷信だろ。」
舌打ちがここまで飛来する。
……コーラを頼んだ彼だが、実際は酒が飲みたいのかもしれない。
「……そうだ。まぁ、そんなおまじない効果も心には重要だ。」
「……あぁなるほど、分かった。」
俺はカウンターの空いた席の横に立ち、バーテンダーに向かって手を挙げて呼びかける。
ライブの合間ということもあり騒々しさに声がかき消されたが、それでも気づいた一人の男性が早足でよってくる。
「はい、ご注文をお伺いします。」
「コーラ2杯、暖かい牛乳。向こうに持っていく。」
「かしこまりました。」
バーテンダーはまず耐熱グラスを用意し、銀の魔法瓶から白い液体を注ぎ込む。
それの過熱が終わるまでの間、椅子に座って待っていると周囲の声がいくつか聞こえる。
「さっきのライブ、とても良かった。貴方もそう思わない?」
「少し感動した。でも次のゲストの方がもっといいMIXをしてくれるさ。」
「そうなの?」
「聞いた話によると、だけどね。」
「返せよ女房をよぉ……アイツも糞だ、俺を捨てて……アマが……」
「フルハウス、スピード。」
「20、1000万。」
「値下げか?」
「一時閉店サービスだ、例の警察共が嗅ぎつけた動きをしてると聞いてな。」
「そうか……1200万。」
「何故だ?」
「無礼講分だ、常連からの感謝だと思え。」
「そうか、チップとしては……少々足りないな。」
「強欲だな。」
「ああああっ、可愛い、可愛いい、可愛い、早くトコにねじ伏せたい、可愛い、可愛い、どうしてそんな悪い奴が近くに、早く救ってお姫様に、お迎え、お迎え……」
うわぁ……
早く帰りたいという願望以外は、靄がかかったようにぼうっとしていた意識が嫌悪に染まった。
ソイツの桃色空間に触れないよう、そこだけ誰もがソーシャルディスタンスを守っている。
不健康な体躯で人目を憚らずに写真に荒い息を吐きつけている……太っているからなんだとは殆ど思わないし、口呼吸の方が楽な人間もよく見るが……公共の場とは言えないもののその執着は隠していてほしい。
対応しているのはアンドロイドだ。二次元的な義体は彼の世界を妨害しないだろう……
「お待たせいたしました、こちらがコーラとホットミルクになります。」
「どうも。」
……なんか太ったヤツから嫌な予感がする。
スドウに一応伝えておくべきだろうか……流石に杞憂かもしれない以上、俺が警戒しておくに留めておこう。
「ミルクの……だれぇ?」
「……」
……ゾッとする。
肌は無いが、RARの姿では全身が鳥肌を立てているだろう。
もはや明らかに不審人物と断定してもいいかもしれないソイツが、わざわざ俺の背中を向いて声を飛ばしてきた。
立ち上がる際の反動によって椅子が軋んだような音も聞こえた。
「……スドウ!おいスドウ、何処だ!」
大声をあげて彼を呼びつける。
振り返らず床を見ると、ステージとは逆の壁に向かう俺の足元はステージの光で照らされていた。
一つだけ、大きな影がある。
「アクト、持ってきてくれたか。」
その一言で彼は牛乳をかっさらい、光源に背中を向けてグラスを煽った。
だが、横から見ると彼は口をつけていない。
「くぅーっ、空きっ腹には牛乳が染みる!」
「お前……あ、こ、コーラと牛乳はゲテモノな組み合わせだろ。」
どもりながらも彼に調子を合わせる。
そして影の興味が薄れることを願った。
「分からない?分からないか……くさやを食べたことはあるか?」
「ねーよ。ってか、お前が前……旅行、に行ったとかの話でしてただろ。」
「貴様はまだお子様だな、大人になるといい。」
「ぬっるい牛乳を人に頼ませといてよく言えるな。」
……影が大きく揺れる。
一度跳んだように見えたソレは、一目散にステージの方へ足音たてながら駆けていった。
振り向いて人混みが波となって掻き分けられているのを確認し、安堵してスドウを見た。
「及第点だ。」
「はぁ……どうも。クソが。」
そこでスドウが何処かの扉を指して託児所と言っていたことを思い出す。
およそ真っ当な人間とは思えないが、欲望に従ってピンキーグラウンドを探しだしたという才能や努力があるのかもしれない……恐怖だ。
顎を支える腕が逆に変わった彼女に、牛乳を与える。
そして俺は少しずつ、スドウは一気にコーラを飲んだ。
「はふ……美味しい……」
「なら良かった。」
少女の頭痛は少し軽くなっているようで、それでも少し辛そうな表情のまま喉を鳴らした。
俺も隣に座り、急いで飲む必要は無いからと言い続ける。
「っと、そろそろ時間だな……」
立ったまま周囲を見渡していたスドウは、スマホの時刻を眺めてステージの方に向いた。
突然の全消灯。
小さく流れていたBGMがすぼんでいき、人々の声も急激に減っていく。
ただバーの冷たい光だけが地下空間を照らしていた。
そこに活気を感じる要素は殆どなく、突然人々が消えてしまったかのような虚無がオリハルをジリジリ焼いた。
外の暗闇と似た状況だ、俺がそう感じると同時に誰かが懐中電灯をつけて天井に向けた。
その周辺の人々はそれに倣い、小刻みに揺れて肩掛けバッグ等の中を探し出す。
しかし、そこで女性の声が響きわたった。
ノイズみたいな音と共に重低音がリズムを刻み始め、ステージの始まりを感じさせる。
「光を消せ、臆病者共が。文明の利器に依存して腑抜けた顔をステージに晒されたくなかったらなぁ……!」
凄みを伴った低い声は観客から苛立ちの声をさざめかせながらも再度、漆黒の空間を呼び戻した。
「……挑発的だ。」
「この声がイモリヒメだ。」
「……MCなのか。」
「いや、何故かゲストの時だけヒメが司会をとる。」
「凄い大きい音……さっきの人とは違って、まるでこの部屋が歌っているみたい……」
「そうか?さっきと比べても音量は余り変わらないと思うが……」
「マキナ体だと少し楽しみにくいか。」
「スドウはこういったライブをよく楽しんだりするのか?」
「いや、私は特に……」
「熱帯夜の中、ご足労どうも。今夜はコイツが欲しかったんだろう、さぁ呼べ!エースと!さぁ!エース!エース!」
女性の声に促されるように、ステージに近い観客から声を出していく。
そして、俺ら以外の殆どの人が重低音に合わせて叫び始める。
「「エース!!エース!!」」
「腹から声出せ!!喉に酒が詰まってんのかアァ!?」
マイクのスイッチが切れる音がする。
しかし、ステージからは女性の声が聞こえる。
「エース!!!エース!!!」
「「エース!!エース!!」」
「カモン!!!」
爆ぜる火柱がコールを歓喜の渦に変化させる。
天井から叩きつけられる複数のスポットライトが交錯するところに、恐らく女性であろう人影が立っていた。
ステージ上の様相はすっかり変わっており、大量の機械と楽器が並んでいる。
これ見よがしに巨大なスピーカーが先程までのリズムに則って揺れはじめ、直線状の人々の髪を靡かせている。
「うっさい!?」
つい吐露した声も鳴り始めたギターの音にかき消され、オリハルの体が共振しているかのようにビリビリ揺れている。
音割れこそしていないが酷い爆音としか感じず、鼓膜が傷つかないギリギリを攻めているとしか考えられない。
「アクト!!」
スドウに肩を叩かれた。
爆音に脳みそを揺らされることに若干の恨みを抱きながら、周囲を確認する。
「あぁ!?……パラフ!?」
「げほっ、おえぇ……」
肘で頭を抑えながら床に倒れ、頭を抑えて痙攣しながら吐いていた。
体の元気がある分、今までで一番悲痛な姿で胃の中身をぶちまけている。
「スドウ!!人!!頼む!!」
「待ってろ!!」
スドウに人を呼んでもらい、照明はステージの方を向いていて床は殆ど視認が出来ない程に光が届いていないため、俺は壁際とはいえステージに向かって近寄ろうと歩き出した人々が近寄らないよう注意を向ける。
「大丈夫か!?お前、ヤバいぞ!?」
「助け、おえぇぇ……助けて、アクト……!頭がぁ、あぁたぁまぁぁ!!あぁぁ!!」
「くそっ、なんだ爆音か!?理由が分からない!!」
これまでの中で一番の苦痛なのだろう、彼女は俺に助けを求めながら泣いていた。
パラフは俺に手を伸ばし、俺はとりあえず握り返す。
歯噛みする。
彼女に何もしてあげられない自分に。
頭痛、吐き気となると風邪だろうか。
しかしこんな突発的に、ここまで震えながら吐く病気は知らない。
「何して欲しい!?些細なことでもいいからさ!?」
「おぇ、おぼぉぇぇ……アクトさん……いて、痛い、痛いいたいいたいぃ……!!」
「……とりあえず、お前の手を握っているからな!?」
……結局、スドウが呼んできた担架に乗せられるまで彼女の手を握りながら元気づけるしかなく、俺は無力を実感しながら後を走ってついていくだけだった。
バッグに入れたタブレットを使う暇もない惨めな俺の姿を、苦しむ彼女はどう捉えたのだろう。
……玄関フロアの6つ目。
入口側の壁と同化していた扉が開かれその先に行く。
客が使うフロアから一転して床は医療施設にあるようやビニール床となり、壁紙は貼られずにコンクリだった。
こんなところだが、医務室はあるのだろうか。
彼女はまだ苦痛に悶えている。