9話 ニックネームは。
「俺、ねーちゃんが三年にいるから、だいたい聞いてたけど、ほんまに、オージョー(往生)したで!」
やはり藤本は、あの女子の壁を突破して教室に入ったようだ。
「ワシらは階段をわざわざ1階まで降りて、反対の扉にまわったんじゃ」
「ほーじゃ、ほーじゃ」と『階段遠回り組』が言った。そして、口々に女の壁を乗り切った藤本の勇気をたたえた。
「俺もそうすればよかった」と、藤本が顔を少し赤らめながらボソッと言った。
女子の壁で何があったのか?
ワシの藤本に対する言葉遣いは微妙に気を使っている。他の中学の奴らには、わからないだろうが石田だけは気づいていた。
出来るだけ、自然に聞こえるように、丁寧に、でもあまり媚が他人に見えないよう。(ワシは藤本は恐かったが、そのせいで他の中学の奴に、ばかにされたくないのじゃ)
石田はワシに向かって、しきりに大丈夫か?
というように目配せをしてくる。ワシがいつ、ライオンの尾を踏むかとヒヤヒヤしている。そして、すぐにでも逃げれるように藤本の顔色を用心深くうかがっていた。
ワシは、ひとつの賭にでた。
「『マーくん!』7時40分の電車で来てたろう。僕も徳田駅から乗ったのじゃ。マーくんはどこから乗ったの?」
「湯田村駅」(ワシの乗る徳田駅の一つ前だ)
藤本正輝はそう言った後、すぐに自分がどう呼ばれたか気づいた。そして、右の口元を少しだけあげて笑った。
石田の喉がゴクリと動いた。
賭に勝った。
『マーくん』というのは、藤本の不良の仲間うちだけが使っているニックネームだ。
ワシは、福山の不良どもに名前が知れ渡っている『危ないコイツ』藤本をニックネームで呼べる、ただひとりの一般人になったのだ。
◆◆
担任が入ってきた。初めてのホームルーム。一人一人の簡単な自己紹介。名前、出身中学、あれば趣味など、それから「よろしくお願いします」だ。
「青山 千春です」
ワシは藤本正輝に向けて、そう言った。
***当時の後書き
次回、マンドリンクラブの部室に行きます。
何にもなければですけど……。