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Actress

作者: 仁科悠三

 1


 もう何年前のことになるのか、高森謙一は山形県から上京、東京での大学時代の4年間、池ノ北駅から南側に歩いて20分ほどのアパートに住んでいた。時々単発のアルバイトはするものの、継続的なアルバイトはしておらず、大学のサークルにも所属していなかったので、つるんでいる大学の仲間とマージャンなどをして過ごしたりする日を除けば、大学の授業が終わるとまっすぐ池ノ北に戻るのが普通であった。もちろんつきあっている彼女もいない。あたら青春を浪費していたとしか言いようがない日々であった。

 さすがにそれではあまりにも味気ないので、池ノ北駅を降りてからまっすぐにアパートに戻る気にはなれず、池ノ北の街をうろつくことが多かった。数ある東京の街の中でも池ノ北にはライブハウスなどが増えてきて、賑わいを見せはじめた頃だ。広すぎず、あちこち見て歩くのにもちょうどいい広さだった。陽気がいい季節には駅の近くの芒御殿公園に立ち寄り、のんびり散歩したり、ベンチに座って本を読んだりした。公園で(あわよくば若い娘をナンパして…)という下心があったことも確かである。事実何度か一人で公園のベンチに座っている娘に何らかの口実を作って思い切って話しかけ、隣に座ってあたりさわりのない雑談をしたこともあるが、話が弾まず、再会を約すところまでは行ったことはない。

 そんな中、あれは大学3年生、20歳の時だった。この年、残暑は厳しくなく、9月下旬の芒御殿公園はすでにさわやかだったが、人影は少なかった。午後三時を少し回った頃だったろうか。期待もせず公園の木立の間を目的もなく歩いていると、ベンチで一人の女の子が本を広げているのが目に入った。小柄でショートヘア、黒縁の眼鏡をかけている。黄色と白のストライプのブラウスにジーンズといったいでたちである。どこかあか抜けた雰囲気がある。最初は中学生といっても不思議ではない年頃に見え、通り過ぎようとしたが、近づいてみると高校生以上だろうとわかって思い直し、声をかけてみることにした。

「こんにちわ」と呼びかけると、相手はびっくりした様子もなく本から顔を上げて「こんにちわ」と答える。

「読書の邪魔をしてごめんね。気持ちのいい日だね。隣に座ってもいい?」と聞くと、

「いいですよ、どうぞ」と少し端に寄ってくれた。

 近くで顔を見ると眼鏡の奥の目はきりりとして、知性を感じさせる。まず「何歳?」と聞きたいところだが、いきなり年に関する情報を聞き出すのもはばかられるので、相手に安心感を与えるために最初は自分のことをぽつりぽつりと話す。出身地のこと、通っている大学と専攻のこと、この近くのアパートで独り暮らしをしていること。そして池ノ北が気に入っていて、今日は誰かと話したくなって散策していたということなどを素直に話した。

 後になって思ったことだが、この時は彼女が幼く見えたために、ナンパしようとかいった不純な気持ちはどこかへ行ってしまっていた。それはすなわち、彼女に女としての生々しいものをあまり感じなかったということになるのだが、ずっと年下の「妹」に対するような態度で接したことで、こちらの肩の力が抜け、平常心で相対することが出来た結果、相手に警戒心を起こさせず、会話の続くいい展開をもたらしたのだった。少なくとも気まずいその場限りの出会いではなく、その日以降も続く関係を築くことになったという意味では、これまでのナンパから少し進歩したと言えるかもしれない。

 彼女も警戒心を解いて初対面の謙一に自分のことを率直に語ってくれた。名前は安藤晴美。19歳。池ノ北駅の北側方面にある中央女子大の2年生だという。三重県の四日市から上京し、大学の近くの女子学生だけのアパートに住んでいるとのこと。やはり池ノ北の街が好きで、度々この公園も含めて散策しに来るのだという。

「あたし、昔から子供に見られるんです。いまだに中学生に見られることもあるの。いやになっちゃう」と、晴美はこちらの心を見透かしたように言ったものだ。中学生どころか女子大生だったのだ。そうと知っても晴美があまりにも子供っぽく思えてこの日の謙一はナンパはとうにあきらめ、次回の約束を取り付けて再会につなげようとする気持ちも起きなかった。今日楽しく話が弾んだのはよかった。でもこれっきりでいい、と思っていた。


 2


 時計は4時を回って、太陽もだいぶ傾いてきた。(そろそろ切り上げ時かな)と思っていると晴美のほうから切り出したものだ。

「あの…高森さん?…演劇に興味あります?」

「演劇って、あの…お芝居の?」

「そう。そのお芝居。見たことあります?」

「芝居かあ、そういえば東京に出てきて1、2回友達に切符を押し付けられて見に行ったことがある。座席の数は3、40くらいの本当に小さな劇場だったけど」

「そうそう、そんな演劇、あたしそれをやっているんです」

「大学のサークルで?」

「いえ、大学は関係ないです。一般の小さな劇団です」

「ヘエー、そうなの。意外だなあ。会ったばっかりだけど、とてもそんなアクティブな感じには見えない。失礼だけど」

「そうですよね、演劇なんてもっと外見も行動も目立つ人がやるもんですよね」

「いや、そういうわけでもないと思うけど…。いつからやってるの?」

「大学1年の秋からだから、もう1年です」

「昔から好きだったの?」

「いいえ、まったく。高校の時は美術部でした。学校には演劇部もありましたけど」

 地方から東京に一人出てきた、目立たない地味な女子学生が、なぜ演劇なんかやることになったのだろう。そういう疑問が謙一の顔に出ているのを読み取ったのか晴美は、

「ちょっとしたきっかけなんです。一年前、大学の友達数人と晩ご飯をたべようということで池ノ北の炉端焼きに行ったんです。ええ、もちろんあたしたちは未成年なのでアルコールは飲まずにお茶か何かを飲みながらひたすら食べてました」

「そうなの」

「たまたまあたしたちの隣に相席になったのが、ここ、池ノ北で劇団を主宰している敏子さん、三浦敏子さんという人だったんです」

「いくつくらいの人?なんて聞いちゃっていいのかな」

「今37のはずだからあの時は36ですね。敏子さんの隣に連れの男の人がいて、後から知ったんですけど、その人が川田さんという人で、その人も劇団の人で。劇団の共同主宰者になってて敏子さんと………同居している人だったんです」

「同居って…結婚しているのではでないけど一緒に住んでいるという意味?」

「そう、敏子さんのマンションに転がり込んで暮らしている人」

 あからさまには言わないものの、晴美の言い方からは川田をあまりよく思っていないことが伝わってくる。

「その人の年齢は?」我ながらやけに人の年齢を気にするなあ、と思う。

「敏子さんの3つ年下って聞いてますけど」

「そう。あ、ごめん。話の腰を折っちゃって。話を戻そうか。で、そうか。相席になったその敏子さんに劇団に誘われたんだね?」

「そうなんです。十代の若い劇団員が欲しいって言ってました」

「それで、安藤さんは加わることにした?」

「とんでもない。あたしたちその場にあたしを入れて4人いたんですけど、みんな言葉を濁して…辞退しました」

「そうだよね。突然言われてもね」

「でも、断わられても敏子さんは機嫌も損ねず、気が変わったらよろしくね、ということで、あたしたち全員に連絡先の記載されている名刺をくれたんです。可能性はないと思いながらあたし、帰ってからも名刺は捨てずに取っておいたんです」

「………」

「ひと月くらいたって、その日の講義が終わってアパートに帰る途中、スーパーで夕食の買い物をしている時、ふっと思ったんですよね。刺激的なはずの憧れの東京に出てきて半年経つけど、今の自分は大学とアパートの行き帰りだけだなあって」

 謙一は自分のことを言われているような気がする。

「大学のサークルに入ることは考えなかったの?」

「一応これと思うところはチェックはしてはみたんですけど、どこも都会のお嬢さん方が華やかにやってるって感じで、自分のような田舎者なんか、という気がしてどこにも入る勇気がなくて………結局どこにも」

「そうかなあ。安藤さんのように地方から出てきている人もたくさんいると思うけどなあ」

「そうですよね。でもあたしは、そう思い込んでました」

「それで、敏子さんの名刺を取り出して…連絡したの?」

「そう。さんざん迷った挙句、三日後に覚悟を決めて電話しました」

「電話したんだ。なんて言って電話したの?」

「入るとはもちろん言いませんでした。ただ興味があるので少し話を聞きたいって」

「安藤さんのこと覚えていてくれた?」

「あ、晴美でいいです。あの日の女子大生グループということはすぐに分かったみたいですけど、4人の中のだれかまでは最初思い出せなくて……メガネのというと、ああ、あの学生さんね、って思い出してくれました」

「そう」

「それで、敏子さんのマンションを訪ねることになって、さっそく翌日行ったんです」

「場所は?」

「ここからすぐ。池ノ北駅から歩いて5分ほどのマンションの二階。実はそこが劇団の事務所を兼ねている稽古場でもあったんです」

「敏子さんのマンションというと、共同主宰者の男のひとが同居しているところだよね」

「そうです」

「その人にも会ったの?」

「いえ、その日は仕事に出かけていて留守でした」

「何をしている人なのかな?」

「後で聞いた話なんですけど、ピアノの調律師だそうです。その日は千葉まで出張しているって言ってました」

「そうなんだ。で、結局入団した」

「はい、マンションに行った翌日、そういう返事をしました」

「それまで、演劇には経験も興味もなかったの?」

「そうなんですけど、敏子さんに電話してみようって思った時からの勢いですよね。勢いだけで入団してしまって」

「勢いか。確かにその場の勢いで今まで思いもよらなかった方向に進むっていうことはある」

「それに小さい劇団の劇団員っていうのは役者として舞台に立ってさえいれば良いってもんじゃないんです。設営、衣装、大道具、小道具、広報、切符の販売。なんでもみんなでやらなければならないんです。そういう裏方の仕事なら自分にも出来るかなって思ったりもしました」

「そこに可能性を見つけたか…」

「でも一番大きい理由はね…」

「えっ?」

「劇団に入った理由」

「うん」

「敏子さんに、変な言い方だけど…惚れちゃったの」

「惚れちゃった?」

「ごめんなさい。人間として、女として、先輩として尊敬できる人だと思ったの。この人のことをもっと知りたいって思ったの。演劇がどうのというのではなく」

 晴美が初対面で魅了された敏子という女性はどんな人なのか。興味が湧いてきた。

「そうか。晴美さんは大学生でもあり、今では劇団員でもあるわけだ」

「そうなんです。この状況を一番意外に思っているのが他ならぬあたし自身なんです」

「そうなんだ」と言うしかない。

 晴美の始めた演劇についての長い話もやっと終わりかと思った時、

「実はこの話、本題はこれからなんですけど…」と晴美が言い出したものだ。

「あれ、そうなの」と謙一。

「怒らないで聞いてくださいね」

「どうして僕が怒るの?」

「実はね、あたし、敏子さんから頼まれていることがあって…」

「頼まれてること?」

「そう。はっきり言っちゃいますね。あたしくらいの年齢の若い男の子を劇団に誘って欲しいって頼まれてるの」

「………なるほどね………そうか、飛んで火に入る夏の虫、とはこのことか。だから、のこのこ晴美さんに声をかけた僕に返す刀で目を付けたと」

「そんな、返す刀なんて………でもごめんなさい。はっきり言ってしまえばそういうことです」

「それで演劇に興味あるかどうかというところからスカウトの話を始めた」

「スカウトだなんて。もし興味あるなら、って話です」

「最初に言った通り、人に頼まれて切符を買わされ、仕方なく何回か見に行ったという程度で、観るのも、ましてやるなんて夢にも思ったことはない」

「そうですよね。人様をお誘いするなんて私には無理だとは思っていました」

「そんなに自分を卑下するもんじゃないよ。ただ………」

「ただ?」

「その敏子さんには一度お目にかかってみたい気はする」

「あ、それでもいいですよ。入る入らないは別として、敏子さんと会って損はしません。約束します」

「損はしないか…。じゃあ入団はともかく一度敏子さんとは会ってみようかな」

「ほんとですか?今度の土曜日、明後日ですね、稽古日で集まりのある日ですが、見学者ってことで来てみます?ご都合は?」と畳みかけてくる。

「土曜日は特に用はないけど、いきなりみんなが揃う場か…。寄ってたかって引きずり込まれたらどうしよう、なんて…。まあいいか。まだ入るとは言っていない、という条件でね」

「わかりました。敏子さんには連絡しておきます。稽古は4時からなので、20分前に池ノ北駅での待ち合わせでいいですか?ご案内します」

 この日、晴美に声をかけたことが退屈な大学生活を一変させる体験の始まりとなった。


 3


 その日、3時30分過ぎに池ノ北駅の待ち合わせ場所に行くと、晴美はすでに来て待っていた。

「よかった。来てくれて」と晴美。

「約束した以上はすっぽかしたりしないよ、僕は」と謙一が言うと、

「でも以前、気が変わったのか結局来なかった人もいたんですよ。女の人だったけど」

 その時の苦い体験があるのだろう。晴美は心底ほっとした表情だ。

 晴美に案内されて稽古場に着くまでちょうど5分。20戸ほどだろうか、5階建ての小規模マンションの二階が三浦敏子の住まいも兼ねる劇団の事務所兼稽古場であった。

 稽古場にはすでに2人の劇団関係者がいた。晴美に紹介されたのが、一昨日晴美から散々聞かされていた三浦敏子である。もう一人は同居人の川田であった。敏子は晴美の話だと今年37ということだが、若く見え、若々しく華があって何か人を惹きつけずにはおかない魅力を感じさせる女性であった。年下の若い人たちに対しても上から目線でものを言うことがなく、対等に接してくれると晴美から聞いていたが、単なる冷やかしに終わるかもしれない謙一に対しても、

「高森さんとおっしゃいましたか。今日は来ていただいてありがとうございます。一昨日晴美ちゃんに電話をもらった時から楽しみにしていたんですよ。今日は私たちがどんなことをしているのかしっかりご覧になってくださいね」と声をかけてくれた。

 日頃話すこともない大人の魅力的な女性に声をかけられて謙一はどぎまぎして「はい」と答えるのが精いっぱいだった。

「うちの劇団の名前は紅座くれないざっていうんです。高校生のころから劇団をつくる時はこの名前にしようって決めていたんですよ」

「じゃ、三浦さんは学生のころから演劇を?」

「敏子って呼んで下さいね。そうね、小学校6年の時の学芸会でたまたま主役に選ばれて舞台に立ったんですけど、それから病みつきになって。中学、高校、大学と演劇部一筋」

「大学でも?」

「大学はニューヨークだったけど、そこでも演劇のサークルに入りました。ミュージカルの真似事みたいなこともやったりして………でも、日本人が英語で歌うって難しかった。あたしの力がなかったってことですけど。向こうで演劇、ミュージカル、いっぱい見てきたのが私の肥やしになっているんです」

 ここまで話したところで4時となり、さらに3人が揃い、この日は劇団員のうちの6人が揃った。都合で2人は今日は欠席だという。

 敏子は初めに謙一を劇団員一同に紹介した。

 敏子からは「高森さんは今日は見学ということですが、待望の若い男の子ですから、今日の皆さんの様子を見て、入団してくれるかもしれません。いいところを見せてくださいね」と言われてしまった。謙一にしてみれば、晴美絶賛の敏子に会いに来ただけだからあまり期待はしないでね、という気持ちである。謙一の紹介が済むと当日居合わせた劇団員の自己紹介になる。

 *

「川田雄輔。34歳。独身。以前はほかの劇団にいたんだけど、5年前にそこから紅座に移ってきた。演劇では食べていけないのでピアノの調律の仕事をしている。出張が多く、時々稽古に参加出来ないこともあるが、公演が近づくとあまり仕事を入れないようにしてこっちに力を注ぐことにしている。劇団では敏子さんと一緒に台本作成、演出そして劇団の運営全般を担当している。以上」

 敏子とここで同棲しているという俳優だ。そのことには一言も触れなかった。もっとも、触れるべきことでもないかも知れないが。でも冷やかしの学生だからこんなぞんざいな言い方なのか、みんなに対してもそうなのか、晴美の嫌悪感が少しわかったような気がする。ほかの劇団員も多かれ少なかれそう感じているのだろうか。

 *

「村松玲子と言います。年齢は…フフッ、そうね、敏子さんと由紀ちゃんの中間ぐらいってことで勘弁して。4年前からこの劇団に参加してます。女子高生から老婆までこなせる劇団にとっては器用で重宝な女優ってことになってます。その割には大事にされてないなあ。そんなことないって?そうかなあ。この世界に入るきっかけは人に誘われて何気なく観た紅座の公演で敏子さんの芝居に圧倒されました。当時は都心にある信用金庫に勤めていたんですけど、辞めてこの近くに仕事を見つけて紅座に入りました。入ってみて劇団の運営がこんなに大変なものだと初めて知りました。隣の板崎駅の近くに住んでて、昼は駅の近くのスーパーで働いて、夜は週に数回だけど池ノ北にある友人のスナックを手伝ってます。よかったら飲みに来てね。あ、学生さんだからお金ないか。お安くしてあげるわよ。何?こんなところで商売の宣伝をするなって?ごもっともです。自己紹介おわり」

 年齢はぼかしたものの30くらいだろうか、もう少し若いかもしれない。独身と思われる。話しぶりから、飾らない気さくな性格らしい。背丈は謙一よりも少し低いくらいで女性としては高いほうに属する。体形はややふっくらとしている印象だが肥満というほどでもなく、それなりのスタイルである。昔「グラマー」という言葉があったが、それに近い。顔つきはややエキゾチックな感じで、美人の部類に属する。謙一の好みのタイプと言えるかもしれない。なんといっても彼女の一番の特徴は胸が大きいことだ。謙一はどうしてもそこに目が行ってしまうのを誤魔化すのに苦労した。他の男性劇団員たちは気にならないのだろうか。

 *

「山口裕司です。来年は三十路になります。独身です。紅座には3年前から参加してます。元宿にある会社に勤める会社員です。大学のサークルで演劇にはまりましたが、演劇で食べていけるとは思わなかったので、大学卒業後は普通の会社に就職しました。それでも暇を見つけては芝居を見に行ったりしてました。3年前に紅座の公演を観て、久しぶりに自分も舞台に立ちたくなってサラリーマンとの二足のわらじでやることにしました。もう一つ本音を言うと、不純でごめんなさい、紅座の女優さんたちはみんな美人だなあと思ったことも飛び込んだ理由なんですが。そんなこと初めて聞くって?いや…単に話す機会がなかっただけですよ。何ですか?日常のすっぴん素顔を見せつけられてだまされたって思ってるでしょって?勝手にシナリオを書かないでくださいよ。はい、こんなところです」

 その後の情報だと山口は若手が主人公の芝居では主演男優という位置づけで、若手主演女優の由紀子の相手役になることが多いという。この二人、「役を離れても似合いのカップルだと思います」とは晴美の感想である。

 *

「西由紀子と申します。24歳です。池ノ北駅ビルの婦人服店で働いています。はたちの時に敏子さんに声をかけられて入りました。声をかけてもらったいきさつですが、そのころ私、服飾関係の専門学校を出たばかりで見習い店員で店頭に立っていた時、敏子さんが買い物に来られ、ジャケットを一着お買い上げになりました。そのジャケットは、その期間特別割引対象商品だったのですが、タグにそれを示すシールも張ってなかったので、私はそれに気づかず、通常価格で売ってしまいました。後で店長に叱られ、それから私は接客をしながらお店の前の通路に気を配り、敏子さんが通りかかるのをひたすら待ちました。三週間くらいたってあきらめかけた頃、やっと通りかかった敏子さんを見つけ、お詫びをして差額のお金をお返ししました。自腹を切って用意したお詫びの品もお渡し出来ました。それから一週間ほどして敏子さんが店にお見えになり、私を劇団に誘ってくださったのです。私は演劇には経験も興味もありませんでしたが、敏子さんの言うことならと素直に従いました」

 ここで敏子が口をはさみ、「由紀ちゃんのミスにつけこんで否応なく引きずり込んだわけではありませんよ。この人は華がある、舞台で輝く人だと思ったからお誘いしたんです」

 由紀子も「そうです。無理やり誘われたわけではありません。敏子さんの人柄に惹かれたんです。やってみて舞台に立つのはこんなに楽しいものなんだと知りました。敏子さんは私の別の人生の可能性を開いてくれた恩人です。感謝してます」

 ここにも敏子ファンがいる。みんないろんな動機で参加しているのだ。でも求心力が敏子であるのは間違いない。晴美のことは先日聞いたので改めて聞かなくてもわかるが、一応ここでも短い自己紹介をしてくれた。敏子についてはみんなが揃う前に聞いたこともあり、ごく簡単な話があってその日の出席者の紹介は終わった。

 *

 このほかに今日休んでいるメンバー二人についても敏子は話を聞かせてくれた。

 一人は50歳になる家具職人の沢木徹。池ノ北の外れで工房を開いている。紅座最年長だ。妻と二人暮らしで、大学生の一人息子は京都に住んでいる。敏子のマンションに椅子の修理に来た時、その日がたまたま稽古日で、当日休んだ劇団員のセリフの代読を頼まれ、演劇の面白さに目覚めたという変わり種だ。舞台の大道具の面倒も見てくれている貴重な存在だという。

 もう一人は大村ミツ子という、今年42歳になる女性で、敏子とは昔から付き合いがあるという人だ。紅座創立以来のメンバーで、劇団が出来てから他のメンバーの出入りはあったが、一貫して紅座に在籍して敏子を支え続けている、敏子が片腕と頼む劇団員だ。舞台にも立つこともあるが、ミツ子は劇団の経理を担当しており、公演の衣装や小道具などの準備もミツ子の仕事で、主に裏方で劇団を支えている。結婚しているが、10歳年上の夫が5年前交通事故で寝たきりとなり、現在施設に入居中。池ノ北から二つ先の東板崎駅近くのマンションで独り暮らしをしている。子供はいない。日中は池ノ北のファミレスで働いているという。

 晴美を含めた、女性5人、男性3人の総勢8人が現在の紅座のメンバーである。気になる敏子のさらに詳しい経歴についてはもう少し後にわかることになる。

 このあと紅座はいつものように定例稽古に入った。


 4


 謙一が初めて見学に行った9月半ばは、11月の公演まで残り二か月を切ったところで、まだ本格的な稽古には至っていないが、敏子と川田で書いた台本を全員で通読して、こうしたほうがいいという意見があれば直しながら内容を固めていく作業を行っていた時期であった。

 この日は通読稽古の二回目で、前回の稽古で大量の直しが出たらしく、第二稿が配られるとみんなはまず、初稿と第二稿を見比べ、修正されている部分に目を通した。チェックが終わるといよいよ全員で台本に沿って自分の担当のところを読んでいく。今日欠席しているミツ子には今回は役がついていないが、同じく休んでいる沢木には多くないながらもセリフがある。

「申し訳ありませんが高森さん、沢木さんの代わりに台本、読んでくださいます?」と敏子からいきなり代読を振られる。

「えっ、僕ですか。でも…」としり込みすると、

「いいから、いいから。セリフは少ないから大丈夫」と川田。

 仕方ないので覚悟を決めて、渡された台本の沢木担当部分のセリフを読んだ。でもこれって沢木がこの劇団に引きずり込まれたパターンそのものじゃないか。計画的とは思えないが、あやしい成り行きだと謙一は思った。

 一回目の通読が終わった時「高森さん、初めにしてはとってもよかったんじゃないかしら」と敏子。(そらきた。おだてて入れる算段だな)と思った謙一は「そうですか」と受け流す。

 結局この日は、2回通読稽古し、再びかなりの変更箇所が出て稽古終了となった。時間は8時を回っている。一週間後の土曜日が次回の稽古日だという。

 終了後、謙一を呼び止めた敏子は、「今日はありがとうございました。どう思った?すぐ入団しなさいっては言わないからしばらく様子を見に来てみませんか?」と迫ってくる。傍らで晴美が心配そうな顔で聞いている。

「うちは弱小劇団ですから、お金がありません。年二回の公演も赤字です。だから申し訳ないんですが劇団員の皆さんに給料を出すどころか、逆に月千円の運営費をいただいてます。今年いっぱい高森さんの運営費は免除します。晴美ちゃんが見つけてきてくれたせっかくのご縁をしばらくつなげていてくれません?」

 ここまで言われると、勢いで「わかりました」と言うしかない。

 帰ろうとすると、「このあと何か御用がおあり?」と敏子が聞いてくる。

「いえ、アパートに帰るだけです」

「稽古のあとはねいつも、みんなで軽く一杯やるのよ。お腹も空いたでしょう。あなたは飲めない口?」

「そんなことはないです。好きです。はい」

「よかった。どうぞ加わってくださいな」

 気が付くと、メンバーは誰一人として帰らず、全員でテーブルと椅子を並べ、いそいそと飲み物とつまみの準備をしている。

 全員が席に着くと、未成年のはずの晴美を含めた全員のグラスにビールが注がれるのを待って川田が、

「敏子さん、今日は高森君の歓迎会ってことでいいのかな?」

「いいですね。そうしましょう。ね、高森さん」と敏子は外堀も埋めてしまった。歓迎会をやってもらった以上、もう簡単に逃げるわけにはいかないな、と謙一は思う。

 謙一の両隣りに座ったのは晴美と玲子であった。晴美には失礼だが、まだ青い果実のような晴美と女として今が盛りの玲子に挟まれると年上の女性に興味のある年頃でもあり、謙一はどうしても玲子のほうに目が行くし、話し相手になってしまう。話しながらも玲子の豊満な胸が気になる。男なら当然のことだろう、と謙一は自分を正当化する。

 玲子は謙一にいろいろ聞いてくる。彼女はいるのか、晴美とはどういう仲なのか、アパートの一人暮らしは寂しくないか、食事はどうしているのかなど矢継ぎ早である。別に答えが聞きたいわけではない。新しく加わった若い男の子が珍しいだけだということはわかっている。話題は何でもいいのだ。晴美との関係について問われた時、

「おととい、芒御殿公園で声をかけられて初めて会ったばかりです。今日会うのが二回目です」と脇から口を出して謙一に代わって答えたのは晴美だった。

「あらそう、高森君、もしかして晴美ちゃんをナンパしようと思ったの?」

 違いますよ、とにべもなく答えると晴美には女を感じない、と言っているようで、さすがに悪いと思い、「いやー」と言って言葉を濁す。

「若いんだからナンパ、どんどんおやんなさい」と玲子。

 10時に近づいた頃宴はお開きとなり、この日敏子の後片付けのサポートをする当番の由紀子を残して全員引き上げる。

 晴美はアパートの近くを通っているバスが早々となくなってしまったので歩いて帰るという。30分ほどかかるらしい。いつもは最終バスの時間に合わせて、懇親会を中座するのだが、今夜は自分が連れてきた謙一が初めて参加したこともあって最後までつきあってしまったのだという。謙一は敏子のことや劇団のことをもう少し晴美に聞きたかったので、アパートまで送っていくことを申し出た。最初は形だけ恐縮した晴美だったが、夜道を歩くのは本当は怖かったとみえて喜んで受け入れた。晴美のアパートは駅を挟んで謙一のアパートの反対側なので、晴美を送ってまた駅まで戻ってくると1時間。さらに20分歩いて自分のアパートに着くのは12時近くになっているはずだ。でも、明日は日曜日。出かける予定もなくゆっくり寝ていられるからかまわない。


 5


 夜道を並んで歩きながら晴美に聞いたのはやっぱり敏子のことだった。

「少しは聞いたけど、どういう経歴の人なのかな?」

「あたしも玲子さんからの又聞きでどこまで本当か保証の限りじゃないんですけど、敏子さんの一族はここ池ノ北の昔からの大地主で、そのうちの一軒の家の一人娘だって聞いてます」

「敏子さん、ここの人なんだ」

「なんでも高校のころにお母さんを亡くし、大学はアメリカに留学したっていう話です。大学の名前までは知らないけど」

「そう言ってた………」

「そこを卒業、帰国してから、神奈川のローカルテレビ局のアナウンサーになって、そこを辞めてから女優やタレントのようなことをしてたみたいです」

「道理できれいだと思った」

「27で結婚して、3年後に離婚」

「結婚してたんだ。相手の人は?」

「たしか番組で知り合った大学の先生だったという話」

「へえ、何で離婚しちゃったんだろう?」

「そこまではあたしも知りません」

「バツイチなんだ………」

「離婚したちょうど同じ時期にお父さんが亡くなって、敏子さんは遺産を相続して………」

「遺産?」

「一つはマンション。今敏子さんが住んでて、稽古場のあるあのマンション」

「ああ、あの部屋ね。結構個室もあって広そうな部屋だと思った」

「あの部屋だけではなく、あのマンションの建物丸ごとが敏子さんのものなんです」

「建物全部?ということは」

「そうあのマンションは全室賃貸なんですけど、敏子さんが大家さんなんです」

「そういうことか。いや、大した財産だ」

「あのマンションは駅に近いし、間取りもゆったりしてて管理状態も良いらしいから、多少家賃が高くても常に空室のない優良物件だそうです。だから敏子さん、赤字でも劇団を続けていられるの」

「そうなんだ」

「それともう一つ。池ノ北のアーケード街にある雑居ビルも相続したの。1階に『ボヘミアン』という喫茶店の入っているビルだけど」

「『ボヘミアン』なら知ってる。何回か入ったことがある」

「敏子さんは『ボヘミアン』の経営者、ママさんでもあるの」

「じゃあ、そこで顔を合わせたことがあるかもしれないな」

「そうかも。でも、敏子さん、障害者支援のNPOにも関係してて、結構忙しく飛び回っているから、お店にはたまにしか出ないみたい」

「すごい人だ。じゃあ、その雑居ビルの大家でもあり、ビルの家賃も入ってくる」

「その通り。でもビル管理って結構出費も多いって言ってました。マンションのほうも」

「で、学生時代は演劇部一本でやってきたって本人は言ってたけど、アナウンサーを辞めて芸能界に身を投じてから大分苦労したのかな」

「お酒が入った時なんかにたまに話してくれるんですが、一時は中堅どころの劇団に属したこともあるみたい。そこには才能のある人がいっぱいいて、結局はいい役が付かないまま辞めて、結婚に逃げたって敏子さんは自虐的にいうんですけど」

「なるほど」

「でもやっぱり演劇が忘れられず、一人になって、お金も出来た時………」

「自分の劇団を作ろうと思った」

「そう」

「敏子さん、自分のお金を劇団にいっぱい注ぎ込んでいるんです。あたしたちが出す運営費なんて額が額だから何の足しにもなってないみたいです。もっとも、つぎ込む以上の収入があるみたいで、今のところはうまく回っているようですけど。劇団にとって敏子さんが唯一のパトロンであり、スポンサーなんです」

「そうなのか。ところで、敏子さんとミツ子さんとの関係は?」

「敏子さんがタレントをしていた時、そこの芸能事務所にいたのがミツ子さんだったって聞いてます。専用マネジャーとまではいかないけれど、敏子さんのスケジュール管理なんかもしていたみたい。ミツ子さんのほうが5歳ほど年上だけど、とても仲の良い友人同士に見えます。私の目からはね」

「紅座を立ち上げる時に、敏子さん、専業主婦になっていたミツ子さんに手伝って欲しいって声をかけたっていう話です。でもまさかその2年後、ミツ子さんの旦那さんがあんなことになるなんて、お気の毒………」

 まだ19なのに晴美の情報力はすごい。


 話に夢中になっているうちに、晴美のアパートのそばまで来てしまった。あっという間の30分だった。

「送っていただいてありがとうございました」と晴美が頭を下げる。

「じゃあ、おやすみ」と謙一。背を向けて歩きかけると、

「あの………」と晴美の声。

「何?」と振り向くと、

「いえ………帰り気を付けてください」

「わかった。ありがとう」と言って謙一は歩き出す。もう声は掛からない。

 振り向かなくても、晴美がアパートの中には入らず、別れた場所に留まって見送っているのがわかる。謙一は、晴美の視線を背中に感じながら、来た道を引き返しつつ、もしかして、と思う。

 晴美は「コーヒーでも飲んでいきませんか」って言いたかったのかも知れない。

 でも夜遅く若い女一人の部屋に男の人を上げるのははしたないと思って思いとどまったのか。いや、女子学生専用のアパートだからそもそも男子禁制だったことを思い出したのか。なんだか思わせぶりと言えば思わせぶりだったなあ、と勝手にもてる男の気分を味わいながら謙一は帰途についた。

 帰りの道のりの長かったこと。自分のアパートに着いた頃にはビールの酔いもすっかりさめてしまって、そそくさとベッドにもぐりこんだ。


 6


 結局、見習いという立場ながらも、紅座に参加することになった。アパートから近いこともあって謙一は毎週の稽古日にはほとんど休まずに顔を出し始めた。初めて稽古場に行ったとき、会えなかった沢木徹と大村ミツ子にもその後紹介された。

 謙一の身分は、「研究生」というのか、正規の劇団員ではない微妙なものだったが、敏子をはじめ他の劇団員は特に分け隔てすることなく接してくれた。謙一は稽古終了後の飲み会にも必ず参加した。運営費を払っていない自分がごちそうになってもよいものだろうかとの気持ちにもなったが、みんな温かく接してくれた。今回の秋の公演は謙一は役がないので、同じように役のないミツ子の指示の下、小道具の準備や、台本の改定作業の支援、劇団員への連絡、稽古後の飲み会の準備など、もっぱら、後方支援作業を担当した。これまで全部一人でこなしていたミツ子からは「高森君が手伝ってくれるおかげで、あたし、ずいぶん楽になった。ありがとう」とお礼を言われた。

「いや、そんな」と謙遜しながらも、謙一にしてみれば頼りにされて悪い気はしない。22歳の年の差があり、親の世代と言ってもおかしくないミツ子であったが、30代40代は女盛りと言う。謙一は時々ミツ子に大人の女の色気を感じてドキリとすることもあった。

 11月中旬の公演に向けて、稽古は熱を帯びてきた。10月に入ると台本の通読から立ち稽古に入り、そのころにはみんなセリフをそらんじているようであった。ただ、その時点でも、数は減ったものの台本には修正が加えられていた。11月に入り、本番まで残り1週間となったところで、稽古はほぼ毎日となり、直前の3日間は本番さながらのリハーサルを通しで行い、課題のある場面は繰り返し稽古した。

 いよいよ本番初日。公演は金、土の2日間、金曜は夜のみ、土曜は昼・夜の2公演である。場所は元宿から私鉄で西に20分ほどの車橋駅から歩いて3分ほどのところにある小劇場で座席数は45。3回の公演で1枚三千円の切符を3公演分135枚用意し、関係者に無償で配る20枚を除く115枚を劇団員みんなで売りさばかなければならない。となれば劇団員全員にノルマが課されるのも仕方がない。しかしこれが嫌で劇団を辞めていく劇団員が昔も今も少なくないのだそうだ。謙一も研究生ながら5枚を割り当てられた。大学の友達に無理を言って4枚までは売ったが、残り一枚はしょうがない、自腹となった。販売結果は当日の客席の埋まり具合でわかる。空席の分は売れ残りで誰かの自腹の証だ。

 今回の芝居のすじは、奔放な姉(玲子)とおとなしい妹(由紀子)の姉妹に遊び人の男(川田)が加わった三角関係の話で、それに姉妹の両親(沢木と敏子)の離婚話が絡んでストーリーが展開していく。妹に心を寄せる幼馴染(山口)とその妹(晴美)の登場も話を複雑にしていく。稽古にずーっと立ち会い、劇の全編を暗記できるほど観てきた謙一であったが、この芝居のどこがいいのか最後までさっぱり分からなかった。人間社会の「業」を描いた新しい視点の作品、と川田は言うが、どこが新しいのか謙一には全く理解できなかった。

 とにかく何とか2日間3回の公演を乗り切り、最後の舞台が跳ねた後、沢木の軽トラに大道具、小道具、衣装などの荷物を積み込んで劇場を撤収、稽古場に引き上げてきた時には夜11時を回っていた。さすがに皆くたくたなので、稽古場で軽く「お疲れ様」の乾杯をし、その日は解散した。ミツ子によると、客席の入りは、土曜の夜は悪かったものの、それ以外はまあまあで、全体では70パーセントの入りだったという。30パーセントほどは団員の持ち出しとなったということだ。

 翌日の夜、稽古場で反省会が開かれた。昨日の今日で皆疲れてはいるが、まだ記憶が鮮明なうちに次回に備えて反省点など気がついたことを記録しておくためだ。台本の出来、各人の演技、大道具、小道具、衣装、照明、音響、劇場の選択、切符の販売、観客の反応などを一つ一つ評価する。反省会でも川田の批評は厳しい。自分に対しても他人に対しても。敏子はよかったところをほめる役に徹している。他のメンバーも一通り反省と次回に向けた抱負を語る。反省会の内容を記録するのはミツ子の役目である。エネルギーを使い果たして、反省会がお開きになったのは10時を過ぎていた。この日は懇親会なしで即解散となった。

 次の土曜日に打ち上げが行われた。この時は稽古場ではなく、外部の居酒屋を使うのが恒例である。池ノ北の敏子の幼馴染が店主の『神の池』という店だ。費用は劇団が負担する。ということはほとんど敏子のおごりということだ。

 打ち上げが終わるとそこから2ヵ月間、劇団は休みに入る。この間稽古はない。充電の期間である。みんなは芝居以外の本業(副業か?)に専念する。ただこの間に敏子と川田は次回の公演に向けて、演目のネタ探しを行うのである。


 7


 秋の公演が終わって2週間ほど経った12月の初め、謙一は大学の授業のあと、友人の下宿でのマージャンにつきあって帰ってきたので、池ノ北駅の改札を出た時は午後7時を回っていた。遅くなったし、寒いから今日はバスに乗って帰ろうとバス乗り場へと向かって歩き始めた時、

「高森君じゃない?」と声がかかった。

 振り向いてみると改札に入りかけている村松玲子である。謙一を確認すると改札には入らずに謙一のほうに近寄ってくる。

「大学の帰り?」

「そうです。村松さんも仕事の帰りですか?」

「そう。今日はスーパーのほうはシフトが入ってないけど、スナックの昼と夜の早番だったの」

「へえ、スナックって昼からやってるんですか?」

「ヒマなお年寄りが昼カラオケを歌いに来るのよ。これが結構商売になるの」

「そうですか、お疲れさまでした」

「高森君、晩ご飯まだでしょう?」と玲子。

「はい、アパートへ帰って適当に、って思ってるんですけど」

「じゃあ、あたしと一緒に食べない?」

「………ああ、いいですけど、僕、このあたりのいいお店を知らなくて」

「そうじゃなくて。あたしのアパートで一緒に食べましょうって言ってるの。何か作るから。一人で食べるのって味気なくて。お相伴してよ。あたしのアパートは隣の板崎だって知ってるわよね。簡単に出来るもの…そうだ、鍋でもしましょうよ。板崎の駅前に私が働いているスーパーがあるからそこで材料を買って帰って」

「そうですか………はい…じゃ、お供します」

 ということで、謙一はせっかく出た改札を再び入り直し、玲子と共に隣駅まで電車に乗る。

 板崎駅前のスーパーで鍋の材料を買い整えて向かった玲子のアパートは駅から7、8分の閑静な住宅地の中に建つ3階建てのコンクリート造り。マンションと言ってもよいしっかりした建物であった。全部で12室あるというそのアパートの3階の角部屋が玲子の部屋であった。半畳ほどの玄関の三和土に靴を脱ぐと、すぐ6畳くらいのダイニングキッチン。テーブルには椅子が4脚。正面に窓。その外はおそらくベランダ。左側に引き戸があってそこが寝室だろう。右側にキッチンと洗面所・ユニットバスそしてトイレ。女の一人暮らしには十分だ。

「すぐ支度するからテレビでも見てて」と玲子は着替えもそこそこに鍋の準備に取り掛かる。鍋のいいところは材料を切るだけだということだ。10分もたたないうちに玲子は手際よく支度を整え、具を満載した鍋を載せたカセットコンロに点火する。

 テーブルに謙一を座らせ、コンロを挟んで自分も向かいに座ると、ビールを開けて乾杯する。

「今日は寄せ鍋。鍋が煮えるまでこれ、食べてて」と玲子は言ってマグロの刺身とポテトサラダを並べる。

 そうしているうちに鍋が煮立ってきてそろそろ食べられるようになる。玲子は謙一の器に取り分けながら、

「鍋はやっぱり、一人じゃつまらないわよね。こうして差し向かいもいいし、大勢でにぎやかに食べるのも楽しいよね」

「鍋の時は今日のように誰かを呼ぶんですか?」

「そうね。鍋だから呼ぶというよりも、呼んだから鍋にするってことが多いかな」

「今日のように男の人もよく呼ぶんですか?」

 玲子はにやりと笑って「ズバッと聞くわね。ノーコメント。質問を却下します」

「失礼しました」と謙一。

「それよりどんどん食べて。エビもハマグリも入っているから。あ、ビールいっぱいあるからどんどん飲んでね」と言いながら自分もせっせと食べている。10歳も年上だが、かわいいひとだな、と謙一は思った。


 締めのうどんを食して嵐のような鍋パーティが終わった。腹いっぱいの謙一も「腹ごなしに」と言われてあと片づけを手伝わされ、その後はコーヒータイムになる。

 話題はやはり劇団のことになる。いろんな個性の人がいるが、まずは玲子本人のことだ。

「村松さん、つかぬことをお聞きしますけど…」

「玲子でいいわよ。なんでも聞いて。知ってることならなんでも教えちゃうから」

「じゃあ、玲子さん」名前で呼ぶと二人の距離が縮まったような気がする。

「なあに」

「……玲子さんは敏子さんの舞台を見て紅座に入ったって言ってましたけど…」

「そうよ」

「安定した仕事、信用金庫に勤めてたんですよね」

「ええ。お堅い仕事の代表ね」

「その安定した仕事、収入って言ってもいいと思うけど、それを捨てて、今の世界に飛び込むってちょっと考えられないって思いますけど。勤めは続けながら趣味的に加わるっていうならまだしも」

「当然そう思うわよね、だれでも。敏子さんに会いに行って入団の希望を伝えた時、敏子さんからもそう勧められた。うちの劇団員はお金を出すことはあっても、収入のないところだからって」

「でも、あえて今の生活に飛び込んだ。スーパーやスナックの仕事で生活を支えながら、劇団員をやるという……」

「そう。確かにスーパーやスナックでの稼ぎを合わせてもあの頃の給料には及ばないから、経済的には決して良い選択ではないとあたしも思うけどね」

「そうでしょうね」

「でも、人はお金だけじゃない。あたし、22で信用金庫に入って、それなりにしっかりと仕事はしてきたつもりだけど、毎日毎日窓口で他人の金の出し入ればかりしている生活が少し嫌になってきていた時期だったの。そんな時、敏子さんの舞台に出会ったわけ。初めてやってみたいものが見つかったような気がしてね」

「だからあたし、この世界に飛び込んだことは後悔してないし、演劇中心の今の生活を楽しんでる。最もあたしに役者としての才能があるとは思えないけどね」

「いえいえ、玲子さん、魅力的な女優さんだと思います」

「………それからね………」

「はい?」

「あたし、ほかの人より………見た通り、おっぱいが大きいでしょう」

 いきなり来た。今日も玲子と会った時からなるべく見ないようにしていたが、どうしても男の本能としてちらちら視線が行ってしまっていたのは否定できない。痴漢行為がばれた時のような罪悪感を感じて、「……ああ……」と返事が出来ないでいると、

「高森君も気になるでしょ。やっぱり男よね。あ、咎めているんじゃないわよ。信用金庫時代も、男の人の視線はずいぶん気になった。小さめのブラジャーで締め付けて小さく見せようとしたこともある。苦しくて続かなかったけどね」

「………」

「信用金庫の男性の同僚、上司それにお客さんからも、直接的、間接的にいろんな誘惑があった。でもそれは村松玲子本人を評価してっていうよりもあたしのおっぱいに目がくらんでってことだったのね。あたしはこのおっぱいのおかげで色眼鏡をかけて見られているって思ってた。あたしという人間をまっすぐ見てもらってない。そういう点からも居ずらいなって思ってたの」

「………」

 謙一はなんて答えていいのかわからない。

「同僚で、この人ならってお付き合いをした人がいたんだけど、ホテルに行ったら異様にあたしのおっぱいと戯れるの。ああ、この人もやっぱりほかの男と同じだと思った」

 自分も同じかもしれない、と謙一は思うが、もちろん口には出せない。

「でも今はね。このおっぱいはあたしの個性、あたしの魅力を引き立たせるものって思うことにしたの。スーパーではともかく、スナックでは売り物にして、おかげさまでお客さんを呼び寄せる強力な武器になってます、なんてね」

「重くないですか?」我ながら馬鹿な質問をしたものだ。

「うん、本音を言えば、ちょっと重い」玲子があっけらかんと答える。

 大きなおっぱいで豊満な肉体の女盛りの玲子。その玲子のマンションでふたりきりで差し向かいで話している少しお酒の入った自分。男としてモヤモヤしてこないほうがどうかしている。


 8


 気分を変えるために、次に川田雄輔のことを聞いてみる。

「どうして敏子さんと同棲、あ、同居か、することになったんでしょう?あの二人そんなに釣り合っているとは思えないんですけどねえ」

「まあ、そう見えるわよねえ。敏子さんのほうが年上だし、川田さんって性格というか、もの言いがキツイところがあるからね。あなたもそう思うの?」

「はい、敏子さんは外見も内面も素晴らしい人だと思うんですけど、川田さんのどこが良くて…ってつい思っちゃいます」

「川田さんって、昔、うちなんかとは比べ物にならない大きなメジャーの劇団に居たってことは知ってる?」

「それは誰からか、聞いたことがあります。確かケンカしてそこから飛び出したとか」

「まあ、ケンカと言えばケンカだけど、劇団の幹部メンバーと意見が合わなかったのね」

「でも僕はまだこの世界のことほとんどわかっていないですけど、演劇をやってる人って、みんな個性的だから、つまり、誇り高い自由人だから、そんな衝突よくあるんじゃないですか?」

「たしかにその通り。だからね、高森君」

「はい?」

「たしかに川田さんのもの言いとか行動はあまり人に好かれるものではないけど、演劇に対するセンスとか信念、知識は大したものなのよ」

「そうなんですか」

「あたしたち劇団員はみんな結局ずぶの素人なのよ。本格的にプロとして演劇をかじったことがあるのは敏子さんと川田さんくらいしかいないの。紅座を率いていく敏子さんのそばには力のあるプロの演劇人が必要なのよ。それが川田さんなの。わかる?」

「わかるような気がします。でも…」

「でも?」

「何も一緒に住まなくたって。そう思いませんか」

「うーん。でもそこが敏子さんの敏子さんらしいところでね。あの二人は劇団は別々だったけど昔一緒の舞台にも立ったこともあるらしく、前から知り合いだったらしいの」

{………」

「川田さんが所属の劇団を飛び出した時、住むところが無くなっちゃったのよ、劇団の『社宅』みたいなところに住んでいたから、当然出ていかなければならなくなって」

「それを知った敏子さんが、紅座に誘い、住むところも提供したの。給料は出せないけど、住むところなら提供出来るって」

「本当はあのマンションの別の部屋に住んでもらえればよかったんでしょうけど、その時あのマンションは空室がなくて、とりあえず自分のところに同居してもらったということらしいの」

「そういうことですか。太っ腹ですね、敏子さん」

「その後部屋が空かないまま今に至っているのね。もっともあのマンション、大人気で入居待ちの人が10人近くいるって話も聞いたことがある」

「そうなんですか………本当につかぬことをお聞きしますが…」

「はい?」

「一緒のマンションの一室、一戸か、に暮らしているからにはその、あの二人はそういう関係なんでしょうか?」

「そういうって、どういう?」玲子は分かっていてわざと聞く。

「つまりその……出来てるかっていう」

「フフフ」と玲子は笑い、

「オジサン、オバサン連中ならまだしも、若い高森君でもそんなことが気になるの?」

「玲子さんは気になりませんか?」

「男盛りと女盛りが同じところに暮らしていてそういう関係にならないということは100パーセントありえません。あの二人はちゃんと出来てます。あたしは確信してる」

「そんなに言い切らなくても」

「あ、高森君、いやなんだ、あの二人のそういう関係が」

「敏子さん、あんなに素敵なのに。17歳年下の僕から見ても女を感じさせます」

「あら、言ってくれるわね、悔しいこと………まあ、ところで人のことはいいとして」

「はい?」

「高森君、今つきあっている彼女いるの?」

「いえ………いません」いきなり聞かれる側に回ってドギマギする。

「晴美ちゃんとはそういう関係ではないの?」

「あ、全然違います」

「何もそうはっきり否定しなくても。晴美ちゃんは高森君のこと好きなんじゃないかなってあたしの目からは見えるけど」

「……そうですか?……考えすぎじゃないですか」

「以前は彼女いたの?」

「大学2年の時つきあっていた人はいましたけど」

「何で別れちゃったの?」

「会うたびにどこへ行こうか、何をしようかって考えるのが面倒くさくなって、気がついたら疎遠になってました」

「女の子はね、そんなに毎回いろんなことを期待してくるわけじゃないのよ。いつもと同じように会って、同じようなものを食べても満足なのよ。逢うだけで満足という、重荷にならないデートをすべきだったわね」

「そんなもんですか。一つ勉強しました」

 謙一は壁の時計を見上げてすでに10時半を回っていることがわかると、

「あ、ごめんなさい、もうこんな時間。そろそろ失礼します。玲子さん、今夜はごちそうさまでした」と腰を浮かせかけると、

「高森君、今から帰るのもおっくうじゃない?いっそのこと………泊まってもいいのよ」と玲子。

『玲子のアパートに泊まる』ということが二人にとって何を意味するのかは女性との付き合い経験の少ない謙一にもわかる。謙一は一瞬迷ったが、ここで逃げるのは男ではないと覚悟を決め、玲子の誘惑を受け入れることにした。

 この夜が謙一の初体験と聞いた玲子は、自分が謙一にとって初めての女性となることを『光栄なこと』として喜び、優しく謙一を導いてくれたのだった。


 9


 翌年の4月となり、謙一は大学の4年生になって、最終学年を迎えた。晴美は中央女子大の3年生。新学期から黒縁のメガネをコンタクトレンズに変え、他の劇団員からは「女っぽくなった」と言われている。演技力もメキメキついてきて、紅座には欠かせない若手女優へと成長した、ともっぱらの評判である。

 謙一は入団後7か月が経過し、今年の1月から運営費を支払う身分の「正劇団員」となった。この期間、紅座の新規入団者や退団者はいない。総員9名のままである。先月3月から次の5月の公演へ向けての新しい演目の台本通読が始まり、稽古のたびに台本がブラッシュアップされていく。今度は謙一にも役がついている。デビューの初舞台である。今回、川田は自身には役を割り振らず、演出に専念している。ミツ子は役を割り振られているが出番は多くない。役者としてより裏方中心の立ち位置は変わっていない。ミツ子の下で様々な雑務をこなすという謙一の役割もそのままである。

 桜も散ってしまった4月中旬の土曜日。稽古のあとで例によって飲み会となり、みんなと楽しく語り合っていると、隣に座ったミツ子が謙一に、

「高森君、明日の日曜日、忙しい?」と聞いてくる。

「明日ですか?……特に用はないですが」と答えると

「よかった。手伝ってほしいことがあるの」

ミツ子から劇団の雑用を頼まれるのは珍しいことではない。

「僕でできることであれば何でも。で、どんなことですか?」

「劇団の決算書の集計なんだけど、こんどの火曜日までに敏子さんに提出することになっているのよ。あらかたは出来ているんだけど、どうしても計算が合わなくて困ってるの。外部の目でちょっと見てもらえるかしら。私も月曜日はファミレスの仕事が入ってるから、日中作業ができるのは明日の日曜だけなのよ。その後の会計士さんのチェックのスケジュールも考えるとなんとしても明日中にカタをつけなければならないの」

「わかりました。僕で用が足りるかどうかわかりませんがお手伝いします」

「ありがとう。助かるわ」

「で、何時にどこへ行けばいいですか?ここの稽古場ですか?」と謙一が訊ねると、

「書類一式はウチにあるから、私のマンションに来てくれない?あとで地図を書きます」

「わかりました。何時に伺えばいいですか?」

「そうねえ、午後1時。そうだ、お昼を準備しておくから、12時半に来てちょうだい」

「わかりました」

これまで様々な劇団の雑用をこなすミツ子の手助けをしてきたが、マンションに呼ばれるのは初めてである。飲み会が終わって帰り際に渡された手書きの地図によると、ミツ子のマンションは池ノ北駅から二つ目東板崎駅の北口側、駅から徒歩10分ほどの住宅街の中にあるようだ。謙一のアパートからだと徒歩と電車で1時間もかからない距離だ。


 翌日の日曜日、暖かい春の陽気で晴れ上がっている。12時半きっかりにミツ子のマンションのドアのチャイムを押す。5階建てのまだ新しいマンションの4階、405号室だ。「ハーイ」と声がしてドアが開き、ミツ子が顔を出す。

「いらっしゃい。入って」

「お邪魔します」と謙一は玄関で靴を脱いで中に入る。

 今日のミツ子は稽古場での実務的な服装ではなく、フリルのついた白いブラウスに、ブルーのチェック柄のスカートといった春らしい明るい装いだ。いつもにも増して若く見える。30代と言っても通りそうだ。謙一はミツ子に玲子とは違う「成熟した大人の色気」を感じる。

 玄関から続いている短い廊下を通ってリビングルームに案内される。16畳くらいだろうか。小さめのダイニングテーブルに椅子が4脚、ソファとテレビそして飾り食器棚だけのすっきりとした部屋だ。2DKくらいの広さのマンションと見た。

「ソファに掛けてちょっと待っててくださいね。お昼の支度は出来てるから」

「わかりました」と窓のほうに歩いて行き、外の景色を眺める。このマンションは高台に建っており、部屋は4階でもあるので見晴らしはいい。今歩いてきた駅からの道を目で辿ってみる。駅の場所はビルが固まっているのでわかる。

「お待たせしました。テーブルにどうぞ」とミツ子から声がかかる。

「はい。ありがとうございます」と答えてミツ子と差し向かいでテーブルに着く。

 ランチのメニューはカルボナーラのスパゲッティ、コーンスープ、野菜サラダだ。

「こんなものでお口に合うかしら」とミツ子。

「ごちそうですね。スパゲッティ大好きです」

「お代わりありますよ。いっぱい食べてね。どうぞ召し上がれ」

「ありがとうございます。いただきます」

 謙一は早速、カルボナーラにかぶりつく。ミツ子も時々謙一のほうを見ながらうれしそうにカルボナーラをフォークに巻いて口に運んでいる。

 お世辞抜きでおいしかったし、朝飯も食べていないのでお腹が空いていたこともあって、謙一はカルボナーラとコーンスープをお代わりしてミツ子を喜ばせた。

 食後のお茶をいただき、作業に取り掛かれるようになったのはあと少しで1時半という頃だった。

 ミツ子は食事の洗い物を済ませ、ダイニングテーブルに、作成中の決算資料を広げる。

「敏子さんが所有しているマンションと雑居ビルの会計については敏子さんが代表の不動産管理会社を作っていて、その毎月の経理作業や期末の決算作業は会計士に任せているのよ」

「そうなんですか。敏子さんは自分の不動産の管理会社の社長さんなんですか」

「形だけですけどね」

「なるほど」

「でも劇団、紅座は、自分個人だけのことではないので別の会社組織にしてるの」

「株式会社紅座?」

「そう、やはり敏子さんが代表で、他に役員として川田さんと…私が入ってます」

「紅座の経理・決算関係の作業は私が担当しています。ご存じですよね」

「はい、いつもお世話になってます」

「実際の作業は私がやって、税務署への提出書類も作って、最後の確認だけ他の会社を見てもらっている会計士さんにお願いしてます。そういう流れ」

「わかりました」

「ちょっと前置きの説明が長くなっちゃったけど、本題に入りましょうか」

「劇団の決算期は3月末で、どっちみち毎年赤字なんだけど、期末時点での銀行口座の残高と手元の金銭出納帳の数字が合わないのよ。私も老眼になってきたのか、細かい数字を見ると目がチカチカしてきて見るのがつらくて」

「ミツ子さんまだ若いのに」

「もう中年よ。近いうちに老眼鏡を買おうかなって思ってます」

「わかりました。何が合わない原因かを見つければいいんですね」

「そういうこと。お願いできる?」

 謙一はミツ子から出納帳と領収証などの証票を受け取り、不明のところはその都度ミツ子に確認しながら照合作業を進めていく。レシートなどの証票原票はノートに科目ごとにきれいに張り付けられている。40分ほどで一通りチェックが終わったが、結果はミツ子が行った時と一緒で変わらない。期待して謙一の作業を見守っていたミツ子もがっかりして、とりあえず一休みのお茶を淹れてくれる。

 銀行口座の入出金はある程度まとめて行うことが多いので、出納帳の1行1行と必ずしも対応していないところにチェックの難しさがある。

 二回目の確認作業を最新の注意をもって進めていく。1回目より時間をかけて慎重に進めたが結果は変わらなかった。

「ごめんなさい。もうこれ以上………」とミツ子が言いかけるのを遮り、

「ちょっとやり方を変えましょう」と謙一。

「変えるって?」ミツ子が聞く。

「レシートの、金額だけじゃなくて全体を見ましょうか」

 謙一はレシート1枚1枚について、日付や品物などの情報を一つ一つミツ子に確認していく。1時間以上かけて行った3回目のチェックで3枚の疑惑のレシートが見つかった。

 1枚目は日付が昨年の3月のもの。普通に考えれば今回の決算期が始まる前のものだから対象外のはずだ。何のレシートだったかミツ子は必死に思い出そうとしていたが、

「あ、わかりました。稽古場の備品を購入したんですが、昨年の決算に入れようと駆け込みで買ったんです。決算には入れたんですけど、レシートは紛失してしまって。さんざん探したんですが……こんなところに紛れてたんだ。これは除外していいものです」とミツ子。

 2枚目は8月に池ノ北で丸型蛍光灯を買ったレシートだ。確か稽古場の蛍光灯は直管型だけで、丸形はなかったはずだと言うと、

「そうそう、これは稽古場のではなく敏子さんの部屋の蛍光灯ですね。買い物を頼まれて買ったんです。敏子さん個人の支払いだからこれは敏子さんにお返しするものですね」

 3枚目は10月の東板崎のスーパーでの買い物だ。金額はわずかだが品名は野菜となっている。

「これは劇団の飲み会の時かなんかの買い物ですか?」と聞くと、ミツ子は首をかしげて、

「そうねえ、劇団関係の飲食物は池ノ北で買うことにしてるけど、他の買い物のついでに東板崎で買うこともないとは言い切れないし………これはたぶんあたしの買い物かも知れない……それに違いありません」とミツ子。

「この3枚を出納帳から除外すると、金額は銀行口座とピタリと合いますね」

「よかった。ありがとう、高森君。助かりました」とミツ子は大喜びだ。


 10


 時計を見ると夕方5時半を回っている。

「あら、もうこんな時間。ずいぶん時間を取らせちゃったわね。高森君、せっかくだから晩ご飯も食べて行って」

「いえ、お昼もごちそうになったし、夕飯もなんてとんでもないです」

「何言ってるの、ご飯をごちそうするくらいでは済まないほど今日はお世話になったんですから、ぜひ食べて行って。あり合わせで何もないけど」

「そうですか。じゃあ、すみません、お言葉に甘えてごちそうになります」

 お昼を食べてから5時間近く経って、実はお腹も空いてきたところだ。

「悩みが解決して気が軽くなったから、あたし、ビールでも飲みたい気分。つきあってね」

「わかりました」

 謙一がテレビを見ている30分くらいの間でミツ子は夕食の支度を整えた。

 アジの干物に豚肉の生姜焼き、野菜サラダに漬物。飾らない家庭料理だ。

「こんなものしかなくて申し訳ないけど、いっぱい食べてね。ビールを飲んでいる間にご飯が炊きあがるから」とミツ子。まずビールで乾杯する。

「今日は本当にありがとう。助かりました。高森君って優秀ね。なんでも出来る」

 アルコールが回るにつれて会話が弾む。

「ミツ子さんは敏子さんとは古くからのおつき合いだと聞きましたが」

「そうなの。敏子さんが一時タレントの仕事をしていた時所属していた事務所で、私は働いていたの。敏子さんとは気が合って仲良くしてました。それ以来、私が結婚してからも、敏子さんが結婚し離婚をしてからもお付き合いは続いていて、敏子さんが紅座を立ち上げる時に声をかけてもらったというわけ。私は舞台に立つよりも裏方のほうが性に合ってるのよ」

 若いころ芸能事務所で働いていた、それでミツ子もあか抜けて見えるわけだ、と謙一は納得した。

 ミツ子の口も軽くなる。謙一がミツ子の夫のことを訊ねると、素直に答えてくれた。

「あたしが28の時、今の主人と結婚しました。結婚した時、主人は38。10歳も年上だったんですよ。主人の仕事ですか?元宿で小さなイタリアンレストランをやってました。小さいけれど味がいいという評判で結構繁盛していました。あたし、独身時代、事務所の同僚とよくそこにランチに行ってました」

 ミツ子の夫はオーナーシェフだったのか。

「そこで知り合ってゴールイン?」

「そう。あたしは仕事を辞めてレストランを手伝うって言ったんですけど、夫婦が1日中一緒にいるのは好きじゃない、仕事をしたいなら今の仕事を続けろっていうので、子供が出来るまでのつもりで芸能事務所の仕事を続けました」

「でも、子供は出来ないまま、32で仕事を辞め、専業主婦になりました。10年前です。専業主婦は退屈だってわかって時々パートの仕事もしてたんですけど、7年前に敏子さんから劇団を立ち上げるから手伝ってほしいって話があって喜んで参加しました。お金にはなりませんけどね」

「あ、主人のことでしたね。おかげさまでレストランは順調で、何度かマスコミの取材も受けたことがあるんですよ」

「それはスゴイ」

「5年前の深夜でした。仕事から帰ってくる主人の車に大型トラックがぶつかって。あ、当時はレストランから車で20分ほどのマンションに住んでいたんです」

「交通事故ですか………」

「相手の一方的な不注意で、トラックがセンターラインを越えて主人の車にぶつかってきたそうです。命は助かりましたけど、寝たきりの体になりました。退院した後は家で介護しようと思ったんですけど、大変だから無理をしないで施設のお世話になりなさいって周りの人に強く勧められてそうしました。たまたまですが、劇団のある池ノ北にも近いところに施設が見つかりました。池ノ北を過ぎて3駅ほど行ったところにあります」

「それでここに引っ越して来たんですか?」

「そうです。もっと施設の近くで探したんですが、適当な物件が見つからなくて」

「ぶつかった相手のトラックは大きな運送会社でしたので多額の補償金が出て、保険もありましたので、マンションの住み替えは楽に出来ました。贅沢しなければ、私たちが一生なんとか暮らしていく程度のお金も残りました。今は週に1、2回面会に行ってます」

「相手方のトラックの運転手さんは40代くらいの人で軽傷で済んだのですが、主人は、首にならなかったろうかって相手のことを心配してました。そういう人なんです」

 素晴らしい夫婦だなあと謙一は思った。

 つい話し込んでしまったため、食事に時間がかかり、片づけを終えたミツ子が入れてくれたお茶を飲み終わるころには夜8時をとうに過ぎていた。

「今日はほんとに助かりました。おかげさまで宿題が片付いてほっとしてます」

「いえいえ、あれしき。大したお役にも立ててないと思いますけど」

「とんでもない。高森君、大活躍でした。今日はあたしのことだけ一方的に聞いてもらったけど、今度、高森君のこともいろいろ聞きたいわ」

「僕のことなんて…つまらない平凡な学生です。特にお話しするようなことなんて…」

「そこなのよ。飾らない人柄で能力も高いのに偉ぶらない。お願いする劇団の仕事もいやな顔一つせずなんでも気持ちよくやってくれるし…。あたし、前から高森君のファンだったけど、今日から大ファンになっちゃった」

「ファンだなんてそんな」と言いながらも、ミツ子に褒められて謙一の心は妖しく高まる。

これまで一緒に作業することが多く、二人の間には特別な親しみ…いや親しみ以上のものが醸成されている。機は熟していた。

 ミツ子は手を伸ばしてテーブル越しに謙一の手を両手で包み込み、謙一の目を見つめる。

「………うそじゃない………」と謙一を見つめるミツ子の目は真剣だ。

 二人は無言で見つめ合い、しばらくそのままの状態を保っていたが、謙一は強く握りしめてくるミツ子の掌の温かみにミツ子がこの瞬間に望んでいることを感じ取って、それに応えるべく何かに突き動かされように夢中で立ち上がり、テーブルを回り込んでミツ子のそばへ行く。

 ミツ子も椅子から立ち上がって謙一と接近して向かい合う形になる。

 謙一はミツ子を抱きしめて、

「僕も今夜、ミツ子さんの大ファンになりました。ミツ子さん、とってもセクシーです」とささやく。

 この『セクシー』という言葉が二人の間の最後の垣根を取り払った。

 「うれしい………高森君………」とミツ子は強く抱き返して謙一の抱擁に応える。

 こうして謙一とミツ子はこの夜、男と女の関係になった。

 事が終わって、冷静さが戻った時、謙一は、

「ご主人に………申し訳ないことをしました」とつぶやいたところ、ミツ子は、

「いいえ、それは違います」ときっぱりと言ったものだ。

「主人はかえって喜んでくれると思います。体の自由が利かない自分に代わって女盛りの妻を慰めてくれたあなたに対して感謝するはずです。だから私も少しも後ろめたいことはないし、後悔もありません。気にしないで高森君。ありがとう」と。

 この日の夜、謙一がミツ子のマンションを後にしたのは11時を回った頃だった。


 11


 5月の春の公演(謙一にとってはデビュー公演)が終わって間もなく、謙一の就職が内定した。大手食品メーカーで、本社は札幌にある。配属も北海道になることは確実、と会社からは言われている。このまま紅座の劇団員を続けることは難しい、と敏子に報告すると、

「活動は出来なくても『名誉劇団員』みたいな形で籍を残すことは出来るのよ。どう?」と聞かれたが、謙一は、

「名誉何とかっていうのは、功績のあった人が功成り名遂げて就くものでしょう。僕のような、何もしていないぺーぺーがなるものではありません」と辞退し、来年3月末の退団が決まった。

「じゃあ、11月の公演を卒業公演だと思ってしっかり取り組んでね」と敏子に言われ、

「わかりました。有終の美を飾ります」ということになった。

 他の劇団員たちも謙一の退団を残念がり、来年3月には盛大に謙一の送別会をやることが早々と決定した。会場はもちろん『神の池』の予定だ。

 晴美はひときわ残念がった。もちろん自分が誘って入団させたからということもある。晴美と言えば以前玲子から、晴美は謙一のことが好きなんじゃないか、と言われたことがある。しかし、謙一から見る限り、そうは見えないし、そんな素振りもない。昨年秋に芒御殿公園で始めて出会ったころから二人の仲は何も変わっていない、と思う。ただ、メガネ女子だったあのころから比べると晴美に多少女っぽさを感じるようになったと言えないこともないが、あくまで『劇団の仲間』の一人に過ぎない。特別な仲になろうというつもりも謙一には特にない。玲子、ミツ子といった年上の女性たちとは特別な関係になったというのに。

 実は晴美は謙一のアパートに一度遊びに来たことがある。就職が決まった直後の初夏の事である。昼過ぎに訪ねてきて、二人でコーヒーを飲みながら晴美が手土産で買ってきたケーキを食べ、音楽を聴いた。夕暮れになって池ノ北に出て、居酒屋で食事をして別れた。それだけである。玲子やミツ子とのことがあった後のことでもあり、年齢的には一番自然な組み合わせてあったにも関わらず、謙一の気持は晴美に向いていなかった。当然二人の仲は進展せず、劇団員仲間の関係にとどまり続けた。しかし後年、晴美がどんな気持ちで謙一のアパートを訪れたのだろうと思い返してみた時、謙一は晴美に申し訳なかったという気がした。もう少し晴美に関心を払ってもよかったのではないかと。

 大学を卒業して池ノ北を去るまでの間、ミツ子のマンショをあの後も定期的に訪ね、二人だけの夜を過ごした。しかし、二人ともミツ子の夫への遠慮もあってか謙一がミツ子のマンションに泊まることはなかった。けれども謙一が池ノ北を去る日が迫っていた最後の二人だけの逢瀬の夜、二人の間には「今夜は泊まる」という暗黙の合意が出来ていた。女性劇団員の中で恋愛と言っていい感情を通わせ合ったのが、年齢の釣り合う晴美でもなく、美しい由起子でもなく、豊満な玲子でも華やかな敏子でもなくて22歳も年上のミツ子だったのはどうしてなのか。女性との経験が少なかった当時の謙一にはわからなかったが、後年振り返ってみると、第三者が客観的に見る「釣り合い」よりも、当事者間の内面的な「相性」のほうが女と男の間には重要なのではないかと思い当たるに至った。ミツ子に対してはよろいを脱ぎ捨てた素の自分で接することが出来た。母性に包まれた居心地の良さを感じ、心が休まり甘えることが出来た。謙一にとってミツ子は母親であり、姉であり、同時に性愛の相手をも兼ね備える存在だったと言ってもいいのかもしれない。二人の関係を他の劇団員には知られないように細心の注意を払ってきたつもりであった。しかし、ミツ子とのつき合いが長く、勘の鋭い敏子は何か感じているかもしれないとミツ子は思っていた。何か感じるところがあっても敏子は何も言ってこない人である。もし気づいたとしても知らないふりをして密かにミツ子の「恋愛」を見守り、応援するに違いない、そうミツ子は思っている。「ときめき」がなくなったら人生つまらない。しかし、この1年に満たない「密かな関係」も終わる時が来た。二人は謙一が池ノ北を旅立つ3月末での別れをキッパリと受け入れた。いつまでも続けていられる関係ではない、世間から見れば異常な男女関係だということはお互いわかっている。

 玲子からは同じく3月、1年3か月ぶりにアパートへ招待され、二人だけの送別会の夜という、謙一の初体験のあの時以来の「玲子のもてなし」を受けた。ベッドの中で前回の初めての時より男としての体験をつみ重ねた謙一の「成長」を玲子は感じ取った。謙一の相手は誰だろうか、と玲子は思いを巡らす。特定の相手か、不特定の女性か。劇団内に限定して考えてみると、敏子と由紀子は相手がいるから除外していいだろう。やはり晴美ということになる。しかし女はそういう経験をすると知らず知らず潤いのようなものが醸し出されるはずだが、晴美はいまだ固いつぼみのままだ。そうすると残るはミツ子ということになる。しかし謙一とミツ子は20以上の年の差がある。ちょっと考えにくい。しかし、謙一はミツ子の担当する劇団の雑用をよく手伝い、一緒に行動することが多い。改めて注目してみると二人の仲はとても親密に見える。ここまで考えを進めたところで、玲子は謙一の相手はおそらくミツ子であろうと確信する。年の差があると言ってもミツ子はまだ40代前半、充分に女盛りだ。寝たきりのご主人に代わってミツ子を慰めてくれる男性があってもおかしくはない。おそらく謙一が池ノ北にいる時だけの短い一時の「交際」である。「不倫」などという俗な言葉で片付けられるものではない。誰が二人を非難出来ようか。ここは自分の胸一つに納め、知らないふりを決め込む一手だ、と玲子は思った。

 謙一という退団者がある一方で、敏子が『ボヘミアン』でリクルートした、地元、英生大学1年の男子学生、清水正彦が「研究生」という立場で11月の公演終了後から紅座に加わることになった。紅座としては1年ぶりの新人ということで期待が高まる。謙一としても自分が抜けた穴を何とか埋めてほしいと願うばかりだ。


 秋の公演では川田は謙一にいい役を割り振ってくれた。主演男優に次ぐ重要な役である。謙一にとっては卒業公演であることから気を遣ってくれたのであろう。もっとも、謙一にとっては有難迷惑と言えないこともない。セリフも多く、覚えるのが大変である。またその分稽古場での川田のダメ出しも強烈である。「やめちまえ!」と暴言を投げつけられたこともある。しかし耐え抜いて本番の舞台に立った。

 無事に秋の公演も終わり、打ち上げも終わった。この時の打ち上げは謙一の送別会の「予告編」ということになった。次回の公演に向けて準備を始める頃には、「研究生」の清水がミツ子のもとで雑用を担ってくれるはずだ。

 紅座の1年半の間で、謙一は劇団員のみんなと仲良くさせてもらったと思っている。川田とは演劇上の付き合いだけだったが、演劇に対する厳しさが人に敬遠されるほどの姿勢に出ているのだと思えば、当初感じたとっつきにくさはあまり感じられなくなった。沢木、山口そして由紀子とも仲良くさせてもらったが、個人的な付き合いを深めるまでには至らなかった。

 一度、大道具制作の手伝いに沢木の工房を訪ねたことがある。池ノ北駅から線路に沿って西に1キロほど行くとそこが沢木の住まいである。80坪ほどの敷地に、こじんまりとした一戸建ての自宅、その隣に同じくらいの大きさのプレハブの工房が建っている。工房の中に入ると様々な木工機械が置かれていて、製作途中だろうか、いろんな形の椅子やテーブルが完成を待っている。その日は沢木の妻の裕子にも会うことが出来た。大道具作りの作業が一段落した後、遅めの昼食を準備してくれ、3人で食卓を囲んだ。沢木と中学の同級生だったという裕子は大学生の子供がいるとは思えないほど若々しく見え、謙一に気さくに話しかけてくれた。

 山口は学生時代から演劇に染まっていたという経歴が本当かと思えるくらい普段は物静かな青年だが、ひとたび芝居モードになると人が変わって、「新劇役者」に変身する。見習おうと思ってもいまだに演技に対する「照れ」もあってとても謙一には真似出来ない。山口の実力は全員が認めるところである。稽古のあとの飲み会で話した時、自分は新潟の造り酒屋の次男だが、何の皮肉かアルコールが全くダメなので、こうして酒席でもお茶を飲んでいる。兄が家業を継いでいるが、自分は親不孝息子だ、と打ち明けられたことがある。

 謙一にとって由紀子はまぶしく、いまだに真正面から由紀子を正視することが出来ない。清純な美しさと花開いた娘盛りの女の匂いが全身から発散し、圧倒される。しかし、演技力は発展途上。再三、川田からダメを押されることもあり、「はい」と素直に受け入れる謙虚さが好もしい。敏子が見抜いたように、由紀子には女優として必要な「華」があることは謙一にもわかる。

 謙一にとっては最後となる秋の公演の本番を数日後に控えたある日、稽古の合間を縫って外に夕食を食べに行くことになったのだが、たまたまその日は山口と由紀子、それにどうした成り行きか謙一が加わった3人で食事に行くことになった。謙一は自分は邪魔だろうと思い、二人で行ってきてくださいと辞退したのだが、どうしても一緒に行こうと二人に誘われ、池ノ北駅近くの中華料理店で同席したことがある。二人は時々この店に来ているらしく、注文はすぐ決まったが、謙一が決めかねていると、由紀子が自分が頼んだメニューを指し、「これ、おいしいのよ。たまには他の物を頼もうと思うんだけど、つい、いつもこれにしちゃうの」と言ってくれたので、「じゃ、僕もそれにします」と同じものを注文することになった。料理が出てくるまでの短い間、3人で何を話したか覚えていない。由紀子と同席したというだけで舞い上がっていた。山口と由紀子の間にはほのぼのとした空気が流れ、噂通り、似合いのカップルだと思ったものだ。この時の勘定は山口が持ってくれた。その後、この二人が結婚するところまで行ったかどうかは、そのあと就職と同時に東京を離れてしまった謙一には知る由もない。

 3月の大学卒業の時期を迎え、札幌へ旅立つ一週間前、『神の池』で謙一の送別会の「本編」が開かれ、劇団員は誰一人欠けることなく全員が参加してくれ、名残を惜しんでくれた。劇団の仲間との人に言えること、言えないことの様々な関わりを通して人間を鍛えてもらった。1年半前の芒御殿公園で晴美に会わなかったら、声をかけなかったら、平々凡々としたつまらない学生生活を送ってしまっていただろうと思うとみんなに「輝ける1年半をありがとう」と感謝したくなる。

 *

 劇団時代のミツ子や玲子の影響かどうかは知らないが、謙一がその後つきあった女性は年上が多かったように思う。三十の時社内結婚した妻も三つ年上だ。社会人になって20年ほど経ったころだろうか、二人の子供もまだ幼かったころ、テレビドラマに脇役として出演している晴美の姿を見つけて驚いたものだ。それからずーっと注目しているが、晴美は実力派のバイプレーヤーとして、高い評価を得ているらしく、その後も息の長い役者生活を続けている。映画にも出演しているらしい。

「昔の知り合いが有名になってテレビに出ているよ」と触れ回りたいところだが、会社の連中にも、妻にも学生時代に演劇をかじっていたことは内緒にしてある。晴美への応援は心の中で密かに声援を送るばかりである。当時玲子から「晴美ちゃんは高森君に好意を持っているんじゃない」と言われたことを思い出し、少し誇らしげになる。それなら一回抱いてやればよかった、などとあさましい考えが頭をよぎった。

 さらにびっくりしたことには、どこかの新聞の芸能欄だったか、晴美のマネージャーが三浦敏子という名前だと書かれていたことだ。ということは紅座はもう無くなったのだろうか。最も女優らしくなかった晴美がプロとなって活躍し、女優そのものだった敏子がスタッフとしてその支援に回っている。人生とは面白いものだ。

 謙一も中年と呼ばれる年齢になり、仕事では北海道のほかに仙台、大阪と転勤を重ねた。出張で東京に来る機会はあったが、あわただしく仕事を片づけて戻るだけで、池ノ北方面にはあれ以来足を踏み入れていない。演劇にも紅座を去ってからは観ることも含めてすっかり遠ざかっている。今度東京に行く機会があったら、時間を作って、自分が住んでいたアパート、稽古場、玲子のアパート、ミツ子のマンションといったあの懐かしいあたりを散策してみようと思っている。

(了)


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