その9
しばらくすると所長が研究室に到着した。喜びで興奮を抑えきれない様子であった。
「やりおったか。やはり食いおったな。思った通りだ。これがラプト人の正体よ。」
イナンナとベルズブの遺骸がところどこに散乱したこの凄惨な現場に全く動ずることなく、所長は言い放った。
「連中が我々を見るときの、あのおぞましい目つき。わしはとうの昔に気づいておったのだ。連中はいつか必ず我々に牙をむくとな。奴らの生命に対する異常な執着を見ればわかるだろう。あれは捕食者の思考だ。他の種をむさぼり食うことしか頭にないのだ。普段は平静を保っていても多少のストレスが加われば理性のタガなどすぐに外れて本性を現すと思っておった。実際、この状況をみればわしの考えが証明されたというものだ。シミュレーションは大成功だ。」
所長はそこにルスがいることなどまるで問題ではないかのように独り言ちた。
「このシミュレーション結果を枢機院につきつけてやれば連中も考えを改めるだろうよ。うむ。思った通りだ。いや、ルス、実にご苦労だった。見事な結果を導き出してくれたものだ。これでラプトの侵略も止む。君は我が同胞の英雄だ。それに煩わしい連中も消え去ってくれた。素晴らしい働きだ。」
煩わしい連中とはイナンナとベルズブのことである。
イナンナは所長に愛想を尽かされた後もしつこく迫って関係の修復をはかり、挙げ句の果てには脅迫まがいのこともしたそうだ。
ベルズブはゴイム収集の趣味仲間である所長のコレクションについて随分周囲の人間に漏らしてしまったらしい。
悪気はなかったのだろうがゴイム収集が違法であるという認識はもっと高めておくべきだった。
「ルス。君の処遇はすでに考えてある。親友や後輩を犠牲にしてまでこのプロジェクトに尽くしてくれた。わしにできる最大限の礼をさせてもらう。さてと、わしは保安部の連中に話をしてこにゃならん。しばらくこの部屋に残って現場の保存に努めててくれ。まあ何もするなと言うことだよ。」
そう言い残すと所長はさっさと部屋を出て行ってしまった。
ルスはもう一度部屋を見渡してみた。
イナンナとベルズブだった残骸と、動かなくなったコアトル。
モニター上では放置しておいたゴイムが、自らが発明した動力源を備えた乗り物に乗って戦争をしている。
今までに無い大規模な戦争らしい。
先ほどイナンナが区画内の時間を早めておいたせいで、むこうでは時間がだいぶ過ぎていってしまったようだ。
しかしもはやルスにはなんら関心の無いことであった。
ゴイム達は言いつけ通りに互いに争い、いつしか自滅するであろう。
区画には知性を持たない小動物がはびこり、次のシミュレーションが行われるまで放置されるに違いない。
そしてその際に区画地表は質量弾で一掃される。無に帰すこととなるのだ。
大量のゴイムが死んでいく様子が見て取れる。彼らもルス達と変わらぬ生物である。
しかしルスには彼らの生命が失われていくという実感などまるで感じない。
彼らはモニター上の住人でしかなくシミュレーションに必要な道具でしかないからである。
それはイナンナやベルズブにも言えることであった。
この計画について所長から提案を受けた際も、今現実に死んだ彼らを見てもルスが二人の死について想うことはなかった。
彼らが死んで当然のことをしたとは思わない。
人間生きていればその程度のトラブルは引き起こすものだろう。そういう問題ではなく、彼らの生死自体がどうでも良かった。
彼らだけではない。他のどのような人間に対してもルスはそのように感じていた。
これはルスだけに限ったことではないだろう。我々の種の誰しもが他の生命なんぞに興味はないのだ。
人口は枢機院により厳格に制御され、生殖することも子を持つことも自分たちで行うことは無くなったこの世界ではそれが当然のことかもしれない。
他者は全て何らかの道具に過ぎないのだ。
そのような感覚を持つルスにコアトルの行為は実に生々しい生命の輝きを見せてくれた。
ルスはコアトルとの思い出を踏まえながら、彼の生命に対する賛辞の言葉を思い出しながら、いま彼の死を深く悼んだ。
それは言語化されないような抽象的な感情ではあったが、ルスの感情を大いに揺さぶっていた。
コアトルが語った生命の深淵とやらの片鱗をルスも直観しかけていたのかもしれない。